それでは早速眠たい羊に付き合って夢の遠近を彷徨ってみたいと思います。
意地悪のふつと愉しき辛夷の芽
蟻地獄暴いてよりを気の合うて
こういうのはたまりません。人間の本質に必然的に在る部分です。それを認めたくない人もいるようですが、私だけじゃなくてyouもねという目配せに、さもありなんです。意地悪の内容は言うほどのことでもない。蟻地獄だって一人で暴くより二人の方が二倍楽しい。そして全ては忘れ去られてしまうけれど、また何時でもこの感覚は戻ってくる。こんなところをさりげなく見せてくれるふけとしこ俳句に魅かれます。
桃咲いて柩の中といふところ
柩のなかに入ったことはありませんが、桃の花咲いてとあらば、花盛りのシャングリラを連想させるところが皮肉っぽくて面白い。<百姓に今夜も桃の花盛り・永田耕衣>が浮かびます。ふけさんの俳句とエッセイそして、ふけさんの弟さんの詩的な写真とのコラボによる『草あそび』と言う一集が手元にあります。「桃の花」の章に大伴家持の一首<春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ>を挙げて、初めて詩歌の桃の花に出会った小学生のころを回想しています。それから幾星霜、<桃の花死んでいることもう忘れ・鳴戸奈菜><人間へ塩振るあそび桃の花・あざ蓉子>を挙げて、あちら側の人の句とも読めるとか、だんだん桃が不思議な花に思えてきたとしています。エッセイにもあるように、桃の実ともなれば、曰く因縁付きの壮大な物語を伴うことにもなる
ろうし、それらがないまぜとなっての「桃咲いて柩の中といふところ」なのでしょう。なかなか真髄を突いているではありませんか。
桃の雫泉下覗いてきたやうに
桃の夜の遠縁といふ苦きもの
桃の実にも触れておきたいです。西東三鬼の「夜の桃」にも通ずるエロスと、タナトス(伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰る際に投げつけたのが桃の実)、の絡みが味わい深いです。子孫繁栄の象徴である桃の実にも拘らず、家族の延長にある遠縁との関係は微妙で複雑なものです。桃の実の甘美さを「苦きもの」とは言い得ているではありませんか。家族、絆と迫られるほど引いてしまいそうです私。
向日葵の首打つ雨となりにけり
電池消耗ひまはりの沈むとき
<ロダンの首泰山木は花えたり・角川源義>を思い起こさせる「向日葵の首打つ」と言う措辞に、ダイナミックな向日葵を思い描きます。一方、「ひまはり」に対しては電池消耗という静けさを伴ってゆっくりと日の沈んでゆく様を描いています。漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字、古語に口語と日本語の奥行の深さと広さに思いを致すところです。
黒蟻の死よ首折つて腰折つて
黒蟻の亡骸を克明に描写してをり、「首折つて腰折つて」はすごみさえ感じさせます。前句集『インコに肩を』の中に<ぎくしやくと死んでゐたりし冬の蜂>があり、これとても死骸を間近に凝視しています。村上鬼城の有名句<冬蜂の死に所なく歩きけり>について、ふけさんは、「死に所なく」の措辞がこの句の眼目であり、一番嫌いなのもこの措辞だとしているのを目にしたことがあり、とても衝撃を受けたのを覚えています。「首折つて腰折つて」「ぎくしやくと死んで」がふけさんのものへの迫り方、捉え方なんだと納得いたしました。
春昼のひんやりとある眼の模型
枕からことばぞろぞろ春の夜
子規さんの<毎年よ彼岸の入りに寒いのは>に通ずるようです。「眼の模型」と言う言葉にドキッとさせられます。地球儀ほどのバカでかい「眼の模型」に射すくめられて、自分が小人のようにも思えてきます。心もとないひんやりした春昼の気分を独特な表現を用いて一句にしてあります。第二句集『真鍮』には<歯の模型並べて春の過ぎゆけり>と言う句もあります。春埃を被った模型に何となく眼がゆくのが春と言う季節でしょう。眠ろうと布団に入ったとたんに、言葉がつぎつぎと頭に浮かんでくることがたまにあります。言葉たちが枕から出て来るなどと気付く人はいないでしょう。眠たい羊から借りた枕かも知れませんね。
若布刈鎌やつてみるかと渡さるる
夏はじめ研ぎより戻る裁鋏
海の日の海より青き布を裁ち
船中に使ふ俎板冬かもめ
「毛虫のふけ」とは周知のことで充分納得していますが、私はもう一つ献上したい渾名があります。「刃物のふけ」です。<刈り捨ててあり黄菖蒲もぎしぎしも 『インコに肩を』><和紙裁つて夜を長きと思ひけり・疲れたるペーパーナイフ春の雷・鎌の刃も菖蒲も雫してをりぬ 『鎌の刃』より>第一句集からずっとふけさんは「切れ者」だったのです。
敗戦日吊られて動くものばかり
冬深し生きる限りを皿汚し
「吊られて動く」は「釣られて動く」であり、「連られて動く」でしょう。戦時中は吊られている者ばかりだったのだろうなあ。今はどうか?「生きる限りを皿汚し」て生き続けるしかありません。人類の普遍的原罪を云い留めてあり、仕方ないねぇ、でも「冬深し」には待春の思いがありそうです。「冬深し」と言う季語のぼんやりとした輪郭が実体をもって現れた瞬間ではなかったでしょうか。
襖外すおそらく父の指紋だらけ
万華鏡へ入れてみようかこの金魚
箱庭の二人心中でもしさう
蛤になる気の失せて浜雀
木の芽寒箸を入れれば濁るもの
最後に、付箋を付けた句をランダムに挙げておきます。父の指紋だらけの襖、そうでしょうとも。母の指紋なんぞ一つもないのです。「おそらく」が効果的で、リアリティが増します。万華鏡に金魚を入れるなんて、是非是非やってみたい。きっと見たこともないほど豪奢な絵になるでしょう。箱庭とは一種の異界です。わざわざ箱庭で心中でもしそうな二人にクエスチョンマーク10個付けたい。「心中でもしさう」と少し離れた表現に真実味があります。「雀蛤になる」と言う季語に対して、その気も失せてしまった浜辺の元気な雀だそうです。諧謔ですね。
感染症に恐れおののく日々です。身を小さく小さくしているうちに気持ちまで小さく固まってしまいそうです。『眠たい羊』に導かれて山野や郊外を散策させてもらえたことに深謝いたします。
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