平成最後の期間であるだけに今年前半は平成俳句の回顧が多くの雑誌で続いた。平成の次の元号も四月に決まり新しい時代が動き出した感じもする。しかし、新しい俳句は古い俳句を乗り越えて生まれるものであろう。昨年「未来俳句のためのフォーラム」(十一月十七日津田塾大学千駄ヶ谷キャンパス)が開催されたが、その時パネラーで一番若い福田若之(平成三年生まれ)が「俳句甲子園・芝不器男新人賞・新撰21はすでに前世代の成果」と洩らしていたのが印象的であった。
さて古い話になるが、平成が始まる直前に、中村草田男(昭和五八年)と山本健吉(六三年)が亡くなっていたことを思いだす。この二人を乗り越えて平成が始まったと言うことになるだろうか。そこで私は平成を代表する二つの事件を掲げてみたいと思う。
「結社の時代」(俳句上達法)の登場
(中略)
「切れ」の発見
結社の時代――俳句上達法の時代――の後、復本一郎の『俳句と川柳』(平成十一年講談社)が大きな話題となった。復本は俳句と川柳を論じながらその差異の一つを「切れ」だと述べる。俳句には切れがあり、川柳にはないのだとする。ずいぶん乱暴な発言で、川柳人からはかなりの反発を受けたが、逆に俳人による切れの過大評価が始まるようになる。
もともと切字は発句(五七五)と脇句(七七)を切断するための辞であるが、式目の発達する中で十八種の切字などが提唱されるようになり、一種の職人世界の伝承秘技となって行く。実際近代俳句となってからは、実作者としての子規も虚子も切字を無視している。
ところが、俳句上達法が盛大に行われて行く中で、この発句と脇句の関係を定めた「切字」が尊重され、さらに一句(五七五)の中にも「切れ」が必要だという主張が始まるようになる。これは上述の復本の著作の大きな功績と言えるだろう。いまや、多くの専門俳人にとって「切れ」はトラウマとなっており、総合誌でも毎年一回は「切れ」の特集が組まれている。近いところでは「俳句」三十年七月号でシンポジウム「現代の俳句にとって切れ字・切れは必要か」(宇多喜代子・長谷川櫂・大串章・黛まどか(司会)復本一郎)を掲載している。この顔ぶれと発言を見れば、現代俳句の切れの所在がわかるはずである。
ただ私には「切れ」の尊重・絶対視には、結社の時代・俳句上達法に通じるやや退嬰した文学の傾向があるような気がしてならない。芭蕉も草田男も論じていない「切れ」に果たして文学の大問題が横たわっているのだろうか。どこに「文学」上達法や「文章」の切れ方が論じられている世界があるだろうか。復本はその後『三省堂名歌名句辞典』(平成十六年)で古今の名句すべてに季語・切字と併せて「切れ」を示す壮大な実験を行おうとしたが挫折した。それ程切れには統一的な規定が困難だったのだ。
朝日俳壇の新選者となった高山れおなは、いろいろな会合で評論集『切字と切れ』の近刊予告をしている。高山はかつて「なぜ二〇〇〇年代の今、切れ論議がこんなに盛り上がるのか誰も答えてくれていない」(「豈―weekly―」)というやや悪意ある発言をしていたが、今回は自らその答を出してくれるに違いない。期待するとともに、益もないものであれば早々に終末宣言をして欲しいものと思う(「花鳥諷詠」のように作家の断固たる信念として主張する分には構わないが、善良な初心者に、俳句とはこういうものだという誤解を与えるのはよろしくないと思う)。
* *
さて、冒頭に戻り、「令和の俳句」があるとしたら、それは「平成の俳句」の反省――結社の時代・俳句上達法に懐疑を持つこと、誰にも見えない「切れ」などではなく目に見える理念にして議論・批評することではないかと思う。新表現とは屍を乗り越えて生まれるものだが、草田男と健吉が懐かしくなるのは、果たして二人が乗り越えられたかどうか疑問だからである。昭和俳句に対するノスタルジーばかりではないのである。
※詳しくは「俳句四季」6月号をお読み下さい。
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