(前略)
俳句賞選考手続きはどうあるべきか
確かに、各地で俳句大賞はいろいろあるが問題は二つあると思われる。一つは賞の性格を新人賞とするのか、世代を超えた本格的な俳句賞とするのかということ。もう一つは、賞の選考手続きをどのようにするのかということである。
前者は、主催者が決めることであり、今回はどうやら新人を排除しないが本格的な俳句賞でありたいということになったようだ。悩ましいのは第二の点であり、各地で俳句大賞はいろいろあるが選考手続きは、選考委員が選んだ点数を順次並べ足切りをし、最後の数編を決戦投票で決めるというものが多い。結果的に世の中の俳句賞では、選考委員がこれぞと選んだユニークな作品は選考委員同士が足を引っ張り合い落され、平均的な作品が残ることが多いという。そうしたことが、「姨捨俳句大賞」の反省らしい。だから選考委員全員が今回の方式には納得した。
ただここに至るまでには経緯があり、右に述べた結論となるまでに私も、最終選考の段階では自分の推薦句集は推さないこと、他の選考委員が選んだ候補から受賞候補を推したらどうかと提案した。自分のイチオシ句集を、他の二人に共感を得てもらい、自分抜きで受賞作品を決定してもらえるように力説すべきと考えたのである。変な方式であるが、毎年松山でやっている俳句甲子園をモデルに考えたものだ。ディベートで他を説得できないような選考では困ると考えたからである。残念ながらこの方式は却下されたがどこかでやって貰いたいものだ。
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受賞作品及び候補作品について一言も触れないのはさびしいので、若干極私的感想を述べたい。
深き深き森を抜けきて黒ビール
白菫かたまり咲くをけふの糧杉山の受賞作だが、自ら自選句に選んでいない。しかし、審査段階の杉山への批判(杉山の作風は若い作家に模倣されやすいのではないか)を聞きながら、意味を超えたこうした句にこそ時代に先がけた、ナンセンスではない、「アンチ・センス」の深みがあるように感じた。決して摸倣のしようのない杉山独自の世界があるのである。
椿屋の落選作だが私だけでなく仲も共感したようである。ヤクルトレディとはヤクルトを配達するおばさんだろうが「ヤクルトレディ」という言い方に日本語特有の不遜さと違和感があると思う、作者もそれを感じたようだ。しかもヤクルトレディがアジア系の女性であるということに心を動かされる作者にさらに共感する。いずれ、建設現場、介護のヘルパーなど日本中にそうした外国人が溢れるであろう時代を、批判はしないがややさびしい思いで眺める思慮深さがある。新しい社会性が若い作家の中に兆している。
ヤクルトレディ祖国を少し語る秋
※詳しくは「俳句四季」10月号をお読み下さい。
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