2016年7月22日金曜日

【抜粋「俳句四季」8月号】俳壇観測 連載163回/社会性をめぐる若い世代(続)――北大路翼と椿屋実梛を対比して  /筑紫磐井



(前略)

●椿屋実梛『ワンルーム白書』(二〇一五年九月邑書林刊)

昭和五四年生まれの三七歳、北大路と一歳違いだ。一二歳から俳句をはじめ、平成一七年に「河」に入会、「河」の賞をいくつも受賞して、平成二七年退会、無所属。掲出の句集を刊行したというが詳細は分からない。
東京で一人暮らしをする女性の詠んだ俳句ということだが、どこまで本当でどこまでフィクションかはわからない。明らかにナルシズムの香りが強く、全部が本当と信ずる必要はない。心象が特徴的で、作者の行動はほとんど現われない。

東京に失語のやうに生きて冬
冬薔薇腐食してゆく思想あり
ヤクルトレディ祖国を少し語る秋
ふらここや私はわたしの遺失物
秋葉原連続通り魔事件
青年の蛇がナイフとなり叫ぶ
天高しわたしが神を喪くした日
原子炉にダリの時計のかぎろへる
死す魚の上にしづかに斑雪降る
花夕焼ひとは記憶の影であり
3・11忌ホースより水溢れけり
すごろくやおのれの未来おそろしき
ハロウィンや宗教セミナーに誘はるる
美しき明日も語れず卒業す
冬銀河ここに私といふ荷物
綿虫や膨張しゆく宇宙あり

むしろそこからは、作者が暮らしている東京のワンルームマンションの生活が匂えばよいのだ。作者自身の生活と、それを超えた大きな社会の事件(地震や、殺人事件など)、そしてそれらをさらに包含する著者の思想や情緒というものが浮かび上がってくる。

 その意味では椿屋は北大路と対極の位置にあるようだ――腐臭漂う危険な歌舞伎町と安全・清潔な(杉並あたりの)高級ワンルームマンション。それぞれエロティシズムとナルシズム、必要以上の露悪と過剰な演技を媒介とし、彼ら・彼女らが生きている社会と向き合っていることになるのである。

 それらを考えると、私は、前回紹介した関悦史、今回の北大路翼、椿屋実梛を「新しい社会性俳句」とみなしてもよいのではないかと思う。ただその社会性とは、かつての社会性俳句と違って、イデオロギー的であることも、政治闘争的であることも、理論的であることも必要ない。作者が社会と紛れることができない――表に現れるか、潜在化するかを問わず、社会を離れてありえない存在だということが「新しい社会性俳句」の存在根拠である。我々がとりまかれている、災害、戦争、テロ、高齢化、貧困、詐欺、公約違反、情報流出、人格分裂、DV、性犯罪などの薄められた毒のような不安が21世紀には始まっている。

 (一言付言すれば、同世代であることもあり、例えば異性に対する感覚が〈B型の男くぢらのごと怒る〉〈蛞蝓のやうな男に好かれをり〉のように屈折している点で二人は似ていなくはないが、やはり〈そのむかし人魚でありし裸身かな〉〈麦とろやわたくしサイズの日々がある〉の自己陶酔は、北大路には決してなく椿屋の本質だと思う。)



2 件のコメント:

  1. つまらない解釈ですね。

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    1. bigboykazu0328様

      俳句新空間の編集、運営を行っている北川美美と申します。コメント拝見いたしました。

      こちらの記事だけではよく分らないかもしれないので新たに【抜粋「俳句四季」7・8月号】 <俳壇観測162回 関悦史の独自性―――震災・社会性をめぐる若い世代> <俳壇観測163回 社会性をめぐる若世代(続)―北大路翼と椿屋実梛を対比して> 筑紫磐井
      としてこの記事のさらなる続きが掲載されました。どうぞ新しい記事もご覧くださいませ。http://sengohaiku.blogspot.jp/2016/08/haikushiki.html

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