2016年4月1日金曜日

【短詩時評 16号車】中澤系を〈理解〉しない-圧縮ファイル『uta0001.txt』を解凍することの困難-  柳本々々



 地獄はここにある、とアレックスは言っていた。
 地獄は頭のなかにある。だから逃れられないものだ、と。

  (伊藤計劃『虐殺器官』ハヤカワ文庫、2014年)

 「おまえの進む先に終着駅(ターミナル)は無い。どこまで行っても、いくつ屍を乗り越えようと…救いのない未来…」
  (『Metal Gear Solid』コナミ、1998年)

  理解する必要はないと出発の前にバスガイドが言ったじゃない  中澤系
  (中澤系『中澤系歌集 uta0001.txt』双風舎、2015年)

 別様の可能性から疎外されるとは、未来が現在になってしまうことです。未来は可能性のプールですが、現在になって一つの現実に縮減されてしまいます。……
 あり得たかもしれない現実──ルーマンのいう未来的現実──が現在的現実に縮減されてしまうことを、実感せざるを得ない出来事に向き合えば、誰でも疎外論的になります。……それが誰一人例外なく、人間の実存だということなのです。

  (宮台真司「規範の三層構造論・人称図式論」『システムの社会理論 宮台真司初期思考集成』勁草書房、2010年)

 旧思想を破壊して新思想を注文するの考にてしたがって用語は雅語俗語漢語洋語必要次第用うる積りに候。
  (正岡子規「六たび歌よみに與ふる書」『歌よみに與ふる書』明治31年)


中澤系さんの歌集『uta0001.txt』(双風舎、2015年)を読んでいると、中澤さんは〈漢語〉のひとだったんじゃないかと思うことがあるんです。中澤系さんの歌集のひとつの特徴に、独自の〈漢語〉の使用から生成される特殊な磁場のありようがあったんじゃないかと。たとえば次のような歌。

  現実という語に甘い糖蜜がべっとりとなすりつけられている  中澤系

  かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ  〃

  じゃあぼくの手の中にあるこの意味ときみの意味とを比べてみよう  〃

  終わらない日常という先端を丸めた鉄条網の真中で  〃

糖蜜がべっとりとなすりつけられた「現実」、唾液まみれにされる「解釈」、手の中にある「意味」、鉄条網として丸められた「日常」。

概念をモノ化する感覚でそこでは漢語が使われているのだけれど、概念はモノではないので読み手はここで〈ひっかかる〉と思うんです。これはどういうことなんだろう、この漢語はどう〈ひらいたら〉いいんだろう、と。

だから、こんなふうにも言えるのではないか。中澤系さんの短歌には〈漢語〉=〈概念〉がひとつひとつ解凍されないままに埋め込まれていてそれをわたしたちが直ちに解凍=理解することは〈困難〉なのだと。

たとえばこの歌をみてください。

  作為することの困難さなのだと言った、ぼくには聞こえなかった  中澤系

わたしはこの歌をめぐる〈困難〉は、「作為」という〈ひらかれる〉ことのなかった漢語にあるんじゃないかと思うんです。この歌では「作為」以外はすべてひらたい(わかりやすい)構文です。「~することの困難さなのだと言った、ぼくには聞こえなかった」という小説の決まり文句的なフレーズのなかにただひとつ「作為」という漢語が内蔵されたことによってこの歌は圧縮され、解凍することが〈困難〉になっているのではないかと思うのです。

こんなふうな、ひらたい構文のなかに核(コア)となるような圧縮された漢語が埋め込まれる構造が中澤さんの短歌にはよくみられるように思うのです。たとえばそれは中澤さんのよく引かれる有名なこの歌にもいえるのではないかと思います。

  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

電車のアナウンスでよく言われるのは、「快速電車が通過します。黄色い線の内側までお下がりください」ですよね。ところがこの歌のインパクトはその定型フレーズに〈理解〉という漢語=概念を持ち込んだところだと思うんです。この「理解」さえなければ、ひらたい歌になるところを「理解」を埋め込むことによってその〈ひらたさ〉が解凍できない複雑さを生んでいく。

たとえば『大辞林』で「理解」を引くと、「物事のしくみや状況、また、その意味するところなどを論理によって判断しわかること。納得すること。のみこむこと。」と出てくるんですが、この「納得すること。のみこむこと。」というのが大事です。

「理解」というのは実は〈納得〉のことなので、ひとりひとりで〈異なる〉ものなんです。誰かに理解を求めた場合、理解できるひと/理解できないひと/理解するひと/理解しないひと/理解したくないひと/理解しようとしないひと/理解していないけれど理解しているふりをしているひと/理解しているけれどできないふりをしているひと、などさまざまな〈理解の位相〉が生まれてきてしまうんです。

だからこの歌は〈おかしい〉んです。「下がらせたい」だけなら使ってはいけない言葉「理解」を使っているから。そのことで《下がれなくなる》ひとが出て来る歌だと思うんですよ。

「理解できない人は下がって」とわざわざ言うんなら、「黄色い線の内側に下がって」という〈指示〉でいい。でもそこに「理解」という〈漢語=概念〉を入れてしまうと、〈動物的〉に反応できなくなってしまうんです。「下がって」といわれても「理解」という概念をいれられたせいで〈動物的〉に〈反射〉できなくなってしまう。「納得すること。のみこむこと」が条件反射的にできないから。

つまり、漢語=概念を導入することによって定型フレーズの次元そのものを変えていると思うんですね。根っこから。

ドゥルーズが「もしひとつの概念が、それに先行するものよりも「よい」ものだとしたらそれは、あらたな変化を、いまだ知られていない共鳴を理解させるからであり、奇妙な切断をなし、その上を飛ぶ出来事を呼びおこすからである」と述べていましたが、中澤系さんの「理解」という〈漢語=概念〉は、「あらたな変化」を、「いまだ知られていない共鳴」を、「奇妙な切断」を、「その上を飛ぶ出来事」を呼び起こすものでもあると思うんです、ポジティヴには。

でもネガティヴにはその「奇妙な切断」を「理解」の導入によって起こしてしまったせいで〈終わり〉というか〈果て〉がなくなってしまっているとも思うんです。

伊藤計劃さんが小説『虐殺器官』において「戦場とは…命に関わる傷や不具に連なる傷を負ってなお、平然と撃ち合うことのできる者たちの間に生まれる、グロテスクな関係性そのもののことだった。脳のある状態が描き出す地図のことだった」と〈脳の地獄〉を描いていましたが、実はこれはこの歌にも「理解」にもいえることなのではないかと思うんです。「理解」とは〈脳の地獄〉のことであり、そのことによってひとが〈終わり〉を失うものでもあるのだと。「脳」内に果てがないように、「理解」にも果てがないから。

その果てのなさをまだ解凍される前の漢語=概念を核にして歌を形成していたのが中澤系さんの短歌だったんじゃないかなとも思うんです。漢語によって縮減された誰にも解凍できない歌。

漢語はひらがなとは違って〈圧縮〉されたもので漢語を理解するためには〈ひらがな〉への〈解凍〉が必要なわけです。だからふだんと少しだけ文脈(コード)の違う使い方がなされるだけで、わたしたちの思考の手数は増して、解読が減速してしまう。

でも中澤さんの歌はその漢語=概念をできるだけありふれた定型フレーズのなかに埋め込んでくる。ここには〈決まりきっていて加速した動物的世界〉と〈漢語=概念による減速された非動物的世界〉の平行があるように思うんです。漢語=概念によって〈ズレ〉てゆく〈裂け目〉がそこにはある。そしてその漢語は独自のルビによってさらに〈ズレ〉てゆく。

  キャンディーのいくつか平行世界(パラレル)ではたぶんつまみ上げられなかったほうの  中澤系

  ぎんいろの保育器(インキュベーター)その外は世界それでも世界を待とう  〃

  生体解剖(ヴィヴィセクション)されるだれもが手の中に小さなメスをもつ雑踏で  〃

中澤さんの短歌にはこんなふうに漢語にカタカナのルビを振った歌が散見されるけれど(たとえばこの歌集の第Ⅰ部タイトルも「糖衣(シュガーコート)」である)、それもある意味では、圧縮した漢語をみずから〈カタカナ〉に逸らす枠組みを押し当てることで読み手に安易にデコード(解凍)させないためのコード化(エンコーディング)だったようにも思うのです。

読み手はまず「平行世界」という漢語=音素を眼で見て、そこに「もうひとつのせかい」というひらたい記号内容を充填するのではなく、「パラレル」という読み手がまだ所持していないかもしれない別の文化体系への解凍=接続を示唆する。

その接続先はゲームの世界かもしれないし、SF小説の世界かもしれないし、アニメの世界かもしれない。私は中澤系さんの歌集を読んでいると〈遺伝子=クローン〉をテーマにしたステルスゲームの『メタルギア』シリーズや「虐殺」を司る人間の「器官」をめぐる伊藤計劃さんの小説を思い出すんですが、たとえば伊藤計劃さんの『ハーモニー』では、「大災禍(ザ・メイルストロム)」「生命主義(ライフイズム)」「医療合意共同体(メディカル・コンセンサス)」「生府(ヴァイガント)」などの独特な漢語とルビが結託した語感があるシーンを生んでいます。

そうした独特な漢語の使用によって歌を特殊にパッケージングし安易に漢語を解凍させないようにする。おまえのコードは、解凍方法は、それでいいのか、それがおまえの〈理解〉なのかと問いかけてくる。いや、むしろ、最初は〈理解させない〉かたちで、いったん「下が」らせる。そういうコードへの言及(メタ・コード)が中澤系さんの短歌にはあったのではないか。漢語をとおしての。頭のなかにあるコード=パターンを読み手に認識させること。

 しかし、アレックスはそうじゃないと言って自分の頭を指差した。
 「地獄はここにあります。頭のなか、脳みそのなかに。大脳皮質の襞(ひだ)のパターンに。目の前の風景は地獄なんかじゃない。逃れられますからね」

  (伊藤計劃『虐殺器官』ハヤカワ文庫、2014年)

漢語とは、圧縮され、縮減された、解凍できない〈平行世界〉のありようだったのではないかと思うのです。そしてその核をひらたい解凍された構文のなかに投げ込むことによって、縮減装置を内在させた短歌を中澤さんはつくりつづけた。そしてその漢語はどんどん加速して漢語と漢語自体が粘着し、漢語でない場所にさえたどり着こうとしていた。

  キャラメル・フラペチーノ飲み干す人濃度飲み干す人をつくづくと見た  中澤系

「人濃度」という〈ぎっちり〉と〈ねっちゃり〉と接着した〈漢語〉。ここにはもう縮減しすぎてそれが熔解していく風景さえみえるような気がするんです。

そしてその風景を『uta0001.txt』という圧縮された風景からみている「わたくし」もまた中澤さんの短歌においては、縮減された・解凍しようのない漢語でコード化されるのです。「類的」に。〈個的〉には〈理解〉することのできなかったホームを出たあとで。

  類的な存在としてわたくしはパスケースから定期を出した  中澤系





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