★ 敬称のつけ方、略し方。
先生とくんちゃんさんし暖かし 吟
「和田悟朗先生」と「津田清子さん」をそのように呼ばねばならない現実的な関係は一応終わったような気がする。お亡くなりになって半年を超えたまたそれに近くなったが、心の中での哀惜や敬意はますます強くなってゆく。しかし、けっきょくどのような作品世界に生きた人たちだったのか、ということへの関心が高まり、全ての人に平等に残された句や文章などから、読み込んでゆく作業以外に、追悼の気持ちは活かせない。かりに自分の場合だってそうなるだろう、と思う。さんざん思いあぐねて気が済んだので、以後本文では、敬称を略させていただく。
1】 和田悟朗追悼シンポジウム現俳協関西青年部主催《HAIKU sparks kANSAI》
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過日、現代俳句協会関西支部の青年部の勉強会で、和田悟朗追善のシンポジウムがおこなわれた。いずれ詳しい報告は出るはずなので、また、内容の細かなところを忘れてしまったので、あまり正確に記することができないが、忘れぬうちに寸感だけでも書いておく。
現俳協関西青年部主催《HAIKU sparks kANSAI》
二〇一五年八月九日・ 神戸三宮 サンセンタープラザ。
〈総合司会―三木基史〉。
〈基調報告―野口裕〉。
〈パネラー ―曾根毅、岡村知昭、仮屋賢一〉。
(なおテキストは、刊行されたばかりの『和田悟朗全句集』、久保純夫 藤川游子編著。2015年6月刊行・飯塚書店)。個性的な人たちのユニークで清新な報告だった。
全著作を解説していった野口裕は私よりは若いが、すでに中年熟年であり青年とは言えない。和田悟朗とともに運営してきた「もとの会」の司会と句会報の発行者であった。
岡村知昭、曾根毅は四十代の青年部員、関西の俳句の新進であり故人と面識がある。最年少は仮屋賢一は二十三歳の理工系の大学院生。句集によって初めて知ったという。岡村も曾根も故人とは多少の面識がるが、仮屋賢一のみは、この句集で初めて読んだ、というまったく初体験の二十三歳の大学院生である。
他の人たちを差し置くようだが、今回はこの青年の発言が一番あとまで響いていた。
といっても内容はほとんど忘れている。だいたい、彼はレジュメも作ってきていない。しかし、それもふくめて物怖じしたところがない。自分のその時の感性が捉えたものを、素早く構成して壇上でしゃべっている。知らないことが一番大きな武器であるような幸せな時期に和田悟朗と出会ったことが、幸せだったと将来思って欲しいものである。
科学者であった故人は、俳句とは全く関係ない教育雑誌に文章をよせていることもあり、そういう文章を紹介してくる着想もなかなか才気がある。俳句界をとびだしてみることが、大事である。俳句の縁は特権的な俳句空間にだけではない。どこにでも生じうる。
彼は、悟朗お得意の科学用語を取り込んだ句をとりあげた。
死ぬときは水素結合ゆるむなり 『疾走』・・・ 『和田悟朗全句集 』 P050
について、エントロピー的増大というはやりの科学用語で、死の考え方にはいろいろいろあることを指摘してゆくあたり、聴衆の意表をついていて面白かった。
が、そこまでなら、当今はやっている言葉で、現在流通している時代感覚と結びつけたことでおわるだろう。
私の知る和田悟朗は、観念力や知性の大事さを知っているとともに、経験を大事にした人である。科学者としても生活者としても思考のあとには案外経験の残滓が感じとられる。読者がそれを酌み上げるときにはやはり、それぞれの人生や人性への向かい方やその相対化の方法が決め手になる。経験の内面化と、俳句とは何かという思索を経てきている言葉は、ホトトギス系とはちがうみいつじで平明化に向かってはいるが、そう単純なできあがりではなく、したがって単純には読みほぐせない。
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「水素結合」でいえば、私が覚えている俳句がもうひとつある。
蛋白質アミノ酸水素結合、よくやった 悟朗『疾走以後』(『・・全句集』p508)
これは、今回全句集で読んだもので、初出は記入されていないが時期的に最晩年のものだろう。
句読点のところで、もう十七音になってしまい、取ってつけたように「よくやった」とある。なかなかの問題作だと思う。二つの次元のドラマが、交錯する。五/五/七/五の音数の並び方であるために、定型感はむしろリズミカルである。
生化学的には、蛋白質を立体的に作り上げるためにも水素分子の働きが大きい、と私にはその程度しかわからないが、ともかく水のさらに細かい分子のミクロの世界での重要なはたらきによって生命が支えられている、というドラマと、これが人間の死の心といかに関わってくるという次元のドラマ・・和田悟朗の俳句が伝えているのは、そういうものである。すると、この「よくやった」という、掛け声は言い方は随分大きく広くなるのだ。この句の場合、死を予感している人が、研究者時代の実験を回想して、「昔はよくこういう実験をあkもしないでよくやったなあ」と懐しんでいるともとれる。実験の成功の結果全体によくやったとねぎっらている。という平凡なよさを味わうことができる。
その時同時に、作者は、生命誕生の機微に触れるというドラマティックなところに感動しているのである。感情移入もここまでくると佳境に入っている。いろんな場面が立ち上がる。
この時期の生活はほとんどベッドや車椅子だから、身体感覚や五感のよく動く部分に触れてくるものがおおい。
同時に、このいいっぱなし、つぶやき、回想的雰囲気がつきまとうこと、それを盛り込むのはキチンとした五七五ではなく、字余り、自由律、にむかっている。スタイルにも発想にも作為がだんだんなくなり、このようにして彼は生命体としての終わりを迎えたのである。
こういう晩年の傾向を、いいとか悪いとか品定めをしたり篩にかけたりするのではなく、こういうふうに終わった和田悟朗が、やっぱり型破りに悟朗をとらえようとする世代の人の中に浸透しなければならないのである。
いずれも、過度の思い入れがなく、思い入れのある(ありすぎる)身にとっては、却って聞きやすかった。意表をついた人選のパネリングであったが、反面、聴衆の方がかしこまっていて、意表をついた質問はなかった、というのが正直な感想。企画のさしあたっての成功とも言える。
これに懲りずに青年部はもっと跳ね上がって、どんどん和田悟朗その人の先達の業績に食い込んでください。
「和田悟朗」の最晩年は、自分の方向のとりかたで、ベクトルが分裂して、大きな迷いの生じた時期だったのではないだろうか?というのが私の漠然とした思いである。しかしそれもまた、「ゴロウ先生」の表現姿勢の帰結である。そして、私たちはどういう形で悟朗追悼を完遂すればいいのだろうか?という自問が残されてくる。
あとからの懇親会では、「もっと思い出話を、また「和田さんがどの句をどういうふうに評され添削されたかと知りたかった」、という人もいて(なるほ ど、と私はその気持ちがわかったがそれはまた適任者がいるだろう)、先人を追うこともそれぞれの意味合いが違うことを感じた日でもあった。追善の学習会という設定であるから、少々硬くなっても基本的なことは述べられていたから、和田悟朗理解はこのように始まった。
2】 『和田悟朗全句集』への雑感と絶筆への感慨
それは、それとして、
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刊行されたばかりの『和田悟朗全句集』(二〇一五年六月飯塚書店)。(久保純夫、藤川游子編著)とある。栞は、寺井谷子、大井恒行、妹尾健、橋本輝久、高岡修。四ッ谷龍。
栞メンバーが、作家を敬愛した人たちであることはよくわかる、が、パネラーメンバーと栞の執筆者とは、キャラクターが大分違う、そこが面白い。最初の読者を旧世代のメンバーでまとめるならば、私は外側から入っていった者であるからそういう大それたことは言わないが、従来のもっともしたしかった「白燕」からのメンバーや「風来」メンバーのひとりふたりが何らかの形で関与したほうがよかったかとも思う。
それから、多少気になったのは、収録作品群には、「風来」最後の20号記念号に載った「新作十句」はここに入っていない、また詳しくあたる暇がないが、今年はじめの「俳句界」三月号に出た二十一句も顧慮されていない、と野口裕が会場で指摘した。一部は「風来」二〇号に新作十句として掲載されている。早く出そうとして間に合わなかったのだろうし、とくに強い批判で言っているのではないのだが、私には、全句集を読んだ時の一抹の不全感がそのようにあとを曳く。
ともかく、しかし、ここには、十二冊の句集、と句集以後しにいたるまでの悟朗がなした俳句の大半の作品が収められている。後世にとってはたいそう便利だ。
現実には、刊行されているのは第十一句集までなのだが、この『疾走』四百余句(平成二十三年初頭から最新平成二十六年まで)を第十二句集としている。その未完句集以後のものを《『疾走』以後》とあり三十句の収録されている。
年表は二十号巻末のものから取られているが、私の好きな最晩年のもの、和田悟朗が獲得した型であるがしみじみとしたこの句は全句集には収録されていない。
久保、藤川お二人でやってくださったのはたいへんご苦労な大事業である。真心こもった編集ぶり、索引の充実ぶりを評価したい。
しかし、そういう欠落もある、ということを頭において我々はこれを読んでゆけばいいと思う。
それから、これは、当日の方々には責任をあすけることができない私だけの感慨なのであるが、私にある苦い寂しさは、攝津幸彦を追慕して読み込んだときのやわらかな感興とは、やや違うような気もするが、謙虚にこのことを踏まえ、父のような暖かさを持つ作家のそれだけではない「戦後俳人の屈折」を読んでゆこうと思っている。
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絶筆 平成二十九年二月十九日。
薄味の東海道の海しじみ汁 悟朗
逝去が二月二十三日なので、最後に発見されたメモ書きなのだろう。これが、久保,藤川両氏の見た悟朗最後の句であると思うと、私には、またそれなりの感慨がある。
これは、どう言う取り方したらいい俳句なのだろう。
「薄味のしじみ汁」と、字余りの「東海道の海」がどういうつながりを持つ配合だったのかは不明で、これから完成されようとする未完成の、いはば「俳句」になる途中のものではないか。あるいは形式としては、自由律俳句と考えたらいい。
「薄味の」感覚は濃口の料理よりも和田悟朗にふさわしい。しかし、もっと言葉になろうとして隠し味を入れようとしていたかもしれない。こういう途中を書きとどめたのだろう。
また、私のプリンシプルに照らせば字余りなどはそう悪いことではない。ただ、自覚的に定型を崩さす、俳句が叙情的にながれることを退けてきたはずの和田悟朗が、最後の句をこういうかたちで締めくくったことに感慨を持つ。「絶筆」がこういう形ででてきたとは。この「東海道の海」はあるいはこれで完成されているとしたら、しじみ汁を食しながら、東海道の海の塩味はうすいなあ、しみじみと味わっている、という妙に平安なのんびりした、あるいは永田耕衣晩年のような禅的解脱した感もある。まあ、それも「ゴロウ先生」らしいところである。
あるいは、ここは「東海道の夢」の言い違いかもしれない、と勝手なことを考える。
というのは、
夢として東海道の吾亦紅 悟朗
がその少し前にあり、 また、最新作には、
虹立ちぬ少年で青年で成人でありしかな 悟朗『疾走』《Ⅴ 炭酸水》
蛋白質アミノ酸水素結合、よくやった 悟朗 『疾走以後』(『・・全句集』p0508)
など大幅な字余りの句がある。すでに、作者は、「薄味の東海道の海しじみ汁」とつぶやいて、東京と生駒を往還した時期の記が明滅している夢のような季節を反芻している、省略したり言い回しをこねたりする気力の減退、構成を考える気力が弱ってきたとも思える。いやそういう作為の意味がなくなったのかもしれない。ここはまず、東海道の海近くでとれた「薄味」の「しじみ汁」を飲んだつもりになるのがいい。
人生の晩年に発する言葉には一字一句に至るまでイミのないことはないともいえるし、それがどうした、と言われそうで、そこにあんまり強い意味をあたえても仕方がない、とも言える。
その句ができるときには、我々の立ち入れないその人の固有の時間が走馬灯のように廻っているからである。
多時間の林を抜けて春の海 悟朗
『人間律』(平成十七年八月・ふらんす堂)・『全句集』 p443
この句の理解もまた一筋縄ではゆかぬのだが、しじみ汁を飲んでいる和田悟朗が、小津いう時間の世界にいたのだおるかと考え始めたら、よがあけてしまいそうである。
それぞれに固有の時間があるというふしぎ・・。ひとりの人間自体にも、一律でははかれない流れがありそうだ。さて、『和田悟朗全句集』を読むとはどういうことなのだろうか?
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