21.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki
筑紫:何も文学論に無理に当てはめる必要はないでしょう。なぜなら我々が扱っている575という作品は文学【注】であるかどうかは解らないからです。
大学で体系的に文学を学ぶ堀下さんなどと違って、私の詩学入門は『歌経標式』や『文心彫龍』等の極めていい加減な本ですが、それだけに自分なりの考え方をまとめるにはいい教科書でした。いい加減はいい加減なりに核心を突きます。その根底思想は、文学などはなく、ジャンルが先にあるというものです。
明治初年に西欧から導入した「文学」という概念を、それを遡ること三~四百年の俳句ないし俳諧に適用するのはどことなくおかしいようです。明治二十年代に帝国大学に入学した夏目漱石に、父が大学に入って何をするのか、と聞いたので、漱石が「文学(ご承知の通り漱石は英文学専攻です)だ」と得意げに答えると、父親が「何、軍学?」と答えたという有名な話があります。これは父親が迂闊なのではなくて、父親のような人間ばかりがいる、ちょっと前まで江戸と呼ばれていた東京で、「文学」と言って通じると思っていた漱石の方が迂闊なのでした。
このような時代混乱・時代錯誤は、最近俳文学者の堀切実氏と論争して浮き彫りになっているところです。私が、俳句で「伝統」ということばが生まれたのは(子規以前にはなく)せいぜい虚子からであり、それを遡って芭蕉にまで「伝統」を使うのはおかしい、それなら「正風」「道統」というのがいいところではないか、といったのに対し、堀切氏が岩波の「文学」で堂々と反論されたことがあります。もちろん、堀切氏が間違っているとする論拠は、私の『戦後俳句の探求』をご覧になればよくお分かりの通りです。こと程左様に「文学」「伝統」などの言葉が怪しげであることは知らねばならないでしょう。
『定型詩学の原理』で指摘しておいたのですが、「文学」が今日の意味で用いられたのはそう古いことではなく、フランスの『百科全書』、カントの批判哲学、ヘーゲルの芸術論においても「文学」はまだ登場しません(これらにおいても偶然かも知れませんが、『文心彫龍』同様言葉の芸術の前にジャンルがあると述べているように解釈しました)。この時代以前は、文学はまだ「文字」の意味に近いものであったようです。「文学」に代わって芸術論でいわゆる文学作品の考察の際盛んに論じられたのは、実は「詩」でした。アリストテレスの『詩学』以来の伝統のあるこの概念に立って、俳句は詩であるか、と問うことは意味があると思いますが、俳句は文学であるかはあまり適切な質問とは言えないと思います(その割には最近、詩は滅亡したと詩人自身が言っているようですが。これは皮肉)。
だから我々は「文学」から解放されて、「定型詩」を考えるべきでしょう。ご質問の、<日本の俳句の世界ではまったく浸透していない>というのは事実でしょうが、そもそも浸透すべき環境にあるのかどうかは、上の理由からよく考えてみるべきでしょう。「俳句は文学ではない」(波郷)、「俳句は無名がいい」(龍太)「滑稽・挨拶・即興」(健吉)は俳人の血肉になっている思想だからです。
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その時見えてくるのは「テクスト」です。これはバルトの指摘する前から自明の理なのです。万葉集が文学であるか、詩であるかを論ずる以前に「万葉集」というテクストは存在しているからです。こうしたテクスト論は、バルトのテクスト論と同じと言うべきか、全然別と言うべきか、むしろお伺いしたいと思います。
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次に作者がいるかどうかと言えば、定型詩学では、「作者」は存在せず、「編集者」が存在するというのが鉄則です。「テクスト」には作者は不要であり、編集者こそが不可欠だからです。だから、バルトが言う「作者の死」は余り意味がなく(存在しないものは死にようがないからです)、「作者の不在」こそが普遍的真理ということになります。こうした作者論も、バルトの作者論と同じと言うべきか、全然別と言うべきか、お伺いしたいと思います。
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『万葉集』で多分間違いないのは、大伴家持という編集者がいたことであり、しかし額田王という作者は存在しなかったかも知れません。額田王はまだしも、有間皇子や大津皇子は間違いなく(歌人としては)存在しなかった、古代人の感傷の対象にすぎないといえます。こういう人が、こういう状況にあれば、こういう歌を詠むであろうという願望にすぎません。編集者の意図した作品の焦点が作者なのです。時には、編集者と作者は一致するかも知れませんが(大伴家持。それでも作者の全貌を見せてはいない)、あるいはしないかも知れません、また編集者が観念で創り出した作者(有間皇子や大津皇子)もいるわけです。
もちろん、堀下さんが話題とされた相馬遷子ともなると、近現代の作家ですから余程「文学」の「作者」に近くなりますが、それでも定型詩である以上、句集や馬酔木投稿欄というテクストを通してみているわけで、編集者の一面をやはり残していると思います。遷子は自己演出しているのです。
これに対して批評家が出来ることは、作者の生身を探求することではなく、テクストを通して合理的解釈を作ることです。それが批評であると思います。ただ、相馬遷子のように埋もれた作家になると、世間は遷子のテクストを作ることにすら怠慢であり、個々の批評家自身が埋もれたテクストを探索するという余計な作業をする必要があります。なぜなら、相馬遷子全集ですら不完全きわまりなく、相馬遷子の全貌を浮かび上がらせるものではないからです。これは、我々の研究書『相馬遷子 佐久の星』を読めばよく分かる通りです。だから「調べる」とは、テクスト周辺作業に過ぎません。しかし貴重な作業ではあります。相馬遷子がどのようにして生まれたか、どの様に成長したか、どのように絶望したかを知りたくて調べたといいましたが、何も遷子その人、そのものを科学的に知ろうとするわけではなく、そうした論拠となる作品(テクスト)を追求したというべきであったかもしれません。なにせ、遷子が馬酔木で初めて詠んだ俳句は、我々の『相馬遷子 佐久の星』が出るまで誰も知らなかったのですから。俳句の場合テクストとは、1句である場合もあるでしょうが、テクスト群である可能性もあります。人によって読むべきテクストが確定していない、その状況で批評するのです。不確定なテクストの解釈は、文学論とも、バルト流のテクスト論とも違うかもしれません。
その意味で、我々の行う俳句の批評とは想像であり、壮大な創造でもあります。無から有を作る作業であるといえます。
【注】「文学」とこともなく言いましたが、そもそも「文学」はどこに存在しているのでしょうか。日本文学、アメリカ文学、フランス文学、中国文学に共通する「文学」は果たして存在しているのでしょうか。「世界文学」という概念が、唱えられたようですが、これも新しいものです。
少なくともこのコラムにもっともみじかな定型詩で見れば、日本の定型詩、アメリカの定型詩、フランスの定型詩、中国の定型詩と並べた時の、共通項である「定型詩」は存在しません。個々の定型詩が存在するばかりなのです。
更に言ってしまえば、日本の定型詩は、日本語の文法[辞]と日本語の辞書(単語体系)[詞]からできており、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。
拙著『戦後俳句の探求』で日本の定型詩から「辞の詩学」を摘出しましたが、これは助詞・助動詞の詩学であり、これが日本の詩歌の大きな特色をなしているという主張です。これが他の定型詩との関係でも、特に日本の詩歌と中国の詩歌の根本的な違いを生みます。なぜなら中国語に助詞・助動詞は存在せず(極めて乱暴な言い方で正確ではありませんが、輪郭を理解するために一応こう言っておきましょう)、中国の定型詩に「辞の詩学」はないからです(もちろん別の詩学が存在するとは想像されます)。
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
このような言語原理の詩歌は中国では生まれません。典型的な「辞の詩学」の定型詩だからです。
俳句という概念を確立したのは子規なので、子規以前に「俳句」の伝統がないのは当たり前ですね。伝統という言葉に注意が必要なのはよいとして、では子規以前の「伝統」は無意味なのか、子規以後の「伝統」は、あるいは定型詩なる「伝統」は正しいのか、はまったく別の話。「文学」であるかどうかに学術的な定義が確立しているのかどうかは知らないが、重要なのは筆者が「文学」と捉えているかどうか。そこから始めてはいかがだろうか。
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