山口優夢(やまぐち ゆうむ)さんとは、2009年に大変な話題となった新人発掘のアンソロジー『新撰21』(邑書林)のひとりで私も御一緒させていただいた。
優夢さんは、2003年の第6回俳句甲子園個人最優秀賞受賞や2010年の第56回角川俳句賞受賞など既に確固たる俳人の地位と名声を得ている若手俳人のひとりだ。
帯文を記して置く。
先に『抒情なき世代』という評論集を出している山口優夢だが、自身はその世代に包括されると思っていないかのような書き振りで対峙している。しかし、山口の句さえ既に私共が考えてきた“抒情”とある処では完全に訣別し、変貌し、食み出し始めている。こんな処に詩因があったかと思うこと屢々。旧態然とした抒情では括れない、私など逆立ちしても書き得なかった世界を難無く書き留めているのだ。(中原道夫)
小鳥来る三億年の地層かな
第6回俳句甲子園個人最優秀賞受賞(2003年)の俳句は、優れた秀作であることは周知のことだろう。
「小鳥来る」の秋の季語を三億年という膨大な歳月の地層を組み合わせることで季節がめぐりめぐって三億年の地層を堆積していく時間の間も「小鳥来る」という自然の営みが絶え間なく紡がれていることを意識化してくれている。
本当に若くして俳句に愛されている俳人のひとりだ。
それは、俳句の形式に落とし込むコツとでもいいましょうか。兎にも角にも巧い。
淡雪や博物館に美しい骨
淡雪が音もなく降りし切るのに気付く。そっと眼をやった外界には、雪が降り始めていたのだろうか。博物館の中にいることで意識の外にあった淡雪が硝子越しに足早に降っているのだ。それも一瞥の一瞬のことでまた博物館のガラスケースに収められた美しい骨に魅入られる。俳句という身近な制約の中でここまで的確な言葉の組み合わせ、取り合わせがなされていることこそ俳句に愛されているということなのだろう。
「鳴り出して電話になりぬ春の闇」「戦争の次は花見のニュースなり」「大広間へと手花火を取りに行く」といった日常の事象や所作にいたるまで俳句化されて秀句が量産されている。はっと俳句の面白味に驚かされていくのが、心地よい。
銀杏や二十歳は笑はれてばかり
また若くして俳句に愛されていることで青春詠にも顕著に飾る事無く自己を投影していることも見所だ。銀杏(ぎんなん)は、秋の食べ物としても知られていますよね。ほろ苦い風味と晩秋の季節を織り交ぜながらも二十歳の自己を笑われてばかりとほろ苦さもお道化て見せる。快闊な好青年ぶりがうかがえる。「未来おそろしおでんの玉子つかみがたし」「秋雨を見てゐるコインランドリー」「夏風邪のからだすみずみまで夕焼」「ぶらんこをくしやくしやにして遊ぶなり」「梅日和近所の映るワイドショー」「卒業や二人で運ぶ洗濯機」「野遊びのつづきのやうに結婚す」など爽やかな青春詠から大人びていく人間的な成長過程の歩みを俳句に愛されながら突き進んでいる。
月の出の商店街の桜餅
心臓はひかりを知らず雪解川
問診は祭のことに及びけり
投函のたびにポストへ光入る
物に語らせることの巧みさも。真実を踏まえて俳句化することの出来る力量も。お医者さんとの問診のやり取りが、祭りに及ぶところの面白味も。日常の所作のなかにあるポストの投函に光を見出すことも。俳句ひとつひとつに俳句に愛さているんだなと感じられるほど面白い俳句が沢山ある。若くして俳人として華々しく確固たる俳句の形式を確立されていて、その俳句が賞賛を得ている。その俳句に愛されていることに飽くことなく我が道をいくことが、これからも俳句に愛される俳人の道のりなのかもしれない。
他にも共鳴句をいただきます。素晴らしい俳句の数々をありがとうございます。
あぢさゐはすべて残像ではないか
火に触れしものは火になる敗戦日
芝居小屋からうつくしき火事になる
雨は芙蓉をやさしき指のごと伝ふ
眼球のごとく濡れたる花氷
鍵束のごとく冷えたるすすきかな
冬帽子星に遠近ありにけり
しらうをも市場も濡れてゐたりけり