俳句と現代美術に共通するもの
今年(2018年)の九月から、一年か二年の予定でロンドンに家族で引っ越してきた。その滞在の間、「英国Haiku便り」として短文を綴り、英国の地から俳句や日本文化を見直すいい機会にできれば、と思っている。
Haikuはこちらでも知名度が高い。今のところロンドンで出会った中では(出身国もさまざま)、過半の人がHaikuを知っている印象だ。決められたリズムがあることを知っている人も少なからずいるが、それが五と七と五であると正確に答えられた人は未だにいなくて、「七・四・七のリズムよね」みたいな答えが返ってくるのはちょっと面白い。
ロンドンの街中の小さな書店で、『Love Haiku』という、イギリス人が日本人の俳句を編纂した本を買ってみた。前文に、日本語は「精妙さ」や「ほのめかし」の力に強く依拠しているのに対し、英語や「明晰さ」や「正確さ」に依拠している、とあった。同感だが、それゆえに、俳句は日本語の持つ独特の質感から大きな力を貰っている、という印象が僕には拭えない。Haikuがどれだけワールドワイドになっても、それはやはり本質的には日本語の文学なのだ、と思える。あるいは少なくとも、書き言葉としての日本語が持つ独特の物質性に、俳句は深く依存しているのだ、と感じる。
ところで、ロンドンに僕が来たのは、英国王立芸術大学(Royal College of Art)というところで学ぶためだ。この年齢で大学院の学生、というと日本ではだいぶ珍しいように思われるが、こちらに来てみると、学生と言えど年齢も二十代から六十代あたりまでまんべんなく分布し、国籍も職歴も本当にさまざま。現役の建築家、ファッションデザイナー、写真家、などがある程度の実績を積んで、さらに自分のテーマを深めるために大学で学ぶ、ということが当たり前のように行われている。そのように多様で前向きな人々の生き方を受け止める社会の大きな包容力は、率直に羨ましいと感じた。
そんなアーティストやデザイナーたちに、僕は日本から来た「Haiku Poet」であると自己紹介し、なのでHaikuのこともよく話している。ある日、そんな人々を前に、二十世紀の俳句史を振り返りながら、「僕は、俳句にとって可能なあらゆる実験は、二十世紀の間に終わったと思っています」ということを語ってみた。すると一人がぽそりと呟いた。
「美術と同じなのね」
なるほど、その意味では俳句も美術も今は同じ地平に立つのか、と妙に腑に落ちた。それでも、彼らがなおも自分の表現を見つけようと真摯に取り組む姿には、心を打たれる。似たような条件にあるという意味で、彼らが作り出そうとする現代美術の潮流から俳句が学べるものもあるのでは、と思っている。
(『海原』2018年12月号より転載)
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