2016年9月30日金曜日

【記事抜粋】<「俳句新空間」第6号>「21世紀俳句選集」を編むにあたって   ――「21世紀俳句選集」巻頭言―― 筑紫磐井 



角川書店「俳句」の〈結社の時代〉キャンペーン(平成二年七月~平成六年七月)の終焉後、その後始末のように行われた企画が角川書店の『現代秀句選集』(平成一〇年九月刊)の別冊刊行であった。百歳から二十一歳まで――河合未光から大高翔まで――の五四二人の作家の十句が掲載されている。十句というのは少ないように見えるが、編集後記によれば、許六・去来の『俳諧問答』に「先師(芭蕉)、凡兆に告げて曰く、一世のうち秀逸の句三・五あらん人は、作者なり。十句に及ばん人は名人なり」とある言葉によったものであり、十分な句数であるという。十句を超える名句が一人にあるはずがないという認識であったらしい。この編集には鈴木豊一氏が関与していたと記憶している。

さらにその十年後、『平成秀句選集』(平成一九年六月刊)が出されている。一〇一歳から二三歳まで――沢井我来から神野紗希まで――の五〇六人の作家の十句が掲載されている。人によっては昭和と平成併せて、二十句が掲載されることになり大盤振る舞いと言う批判もあろうが、まとまった名句選という意味は変わりない。

例えば特定の作家ならば、出版社や協会から出されているシリーズで探ることは出来るが、ある時代の名句選というのはなかなか眺めることが難しいに違いない。特に限られた作家ではなくて、その時代全体をうかがう資料はなかなかに得難いものである。ここ以外に時代の名句はないはずだからである(『現代秀句選集』は、初回だけあって、物故作家の名句も収録していたからますますその感じが強い)。

実はこの選集の影響を受けたのが、現代俳句協会の『昭和俳句作品年表(戦前・戦中篇)』(平成二六年九月刊)ではないかと私は思っている。ただ、何と言っても現代俳句からみれば〈戦前・戦中俳句〉は余りにも遠い。現代俳句協会が、この続編として昭和二一年から四五年までの戦後篇を意図しているらしい方に私は関心がある(この直後が、『現代秀句選集』にうまく繋がるはずだからである)。しかし、果たして続編はいつできあがるであろうか。特に、俳句史観の対立するこの時代の作品の整理は、難航が必至であるような気がする。現に、平成二七年時点においても、
  原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太 
  白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ  古沢太穂

といった社会性俳句時代を代表する作品に対する協会関係者の評価は完全に二つに割れており、一つの歴史の結果を導くことは極めて難しい状態にあると考えられるのである。協会関係者の虚心坦懐な議論による実りある成果を期待したいと思う。

     *    *

さて偶然にも角川の二つの選集『現代秀句選集』『平成秀句選集』の総論を私が書かせていただいている。その意味ではこの十年ごとの選集は気になる企画であった。年数からすれば、今年そろそろ次の企画があっておかしくないが、余り聞こえてこないようである。結社誌も総合誌も、もはやそうしたエネルギーを撒き散らす時代ではなくなってきたのかも知れない。

 そこで、超結社の作者の集うこの「俳句新空間」で同じ企画を試行してみることとした。21世紀となって既に一六年、平成という元号が今後どのように続くのか分からないが、21世紀という基準で切ってみてもいいだろう。特にこの十五年間で登場してきた作者にはそうしたきっかけが必要であると思う。

 とはいえ、角川書店の五〇〇人近くの壮大な企画に比べて、「俳句新空間」でできるのは三〇人余の小さな企画である。しかし、そうした企画が成り立ちえるのかどうかは、他の雑誌がやらない以上やって非難されるべき筋合いはない。非難する前に、できるものなら非難する者は自らやってみればいいからである。これがとてつもなく難しいことは体験してみてわかるはずである。

題して「21世紀俳句選集」。小さな穴から、21世紀の広大な天空がうかがえれば幸いである。秦夕美から川嶋健佑までの世代を堪能していただきたい。


※詳しくは「俳句新空間」第6号をお読み下さい。







●訂正

「俳句新空間」第6号「春興帖」P30水岩瞳作品を訂正します。


永き日のタカアシガニの一歩か 
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永き日のタカアシガニの一歩かな

※関連 <大井恒行 日々彼是>においても「俳句新空間第6号」の記事あり 》読む

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