2016年8月26日金曜日

【短詩時評 第25惑星】川合大祐×柳本々々 幼年期の終わりに-『スロー・リバー』を読む-


【1、わたしは言った。「わたしの名前は、S・F(センリュウ・フィクション)」】


   ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む  川合大祐
    (『スロー・リバー』あざみエージェント、2016年)

  照明をつけるのは、開けた場所に足を踏み出すのに似ていた。「わたしの名前は」風に向かって、海に流れてゆく川に向かって、わたしは言った。「フランシス・ロリエン・ヴァン・デ・エスト。わたしはここに住んでいる」
  これから一生、わたしは川のほとりで暮らしていこう。ちゃんと人の目に見えるところで。
   (ニコラ・グリフィス、幹遙子訳『スロー・リバー』ハヤカワ文庫、1998年)

柳本々々(以下、柳) こんばんは、やぎもともともとです。先日、川合大祐さんの川柳句集『スロー・リバー』(あざみエージェント、2016年)が出版されました。この句集は読んでみるとわかるんですが、テーマがさまざまに仕掛けられていて、読むひとによってそのつど異なる面を取り出せる句集になっているんじゃないかと思うんですね。でもそれでいてひとつの句集を貫く通奏低音があるようにも思う。そこで今回は川合大祐さんをゲストにお招きして今回の句集のいくつかのテーマや句集をめぐる大きな枠組みをお話してみようと思います。川合さん、よろしくお願いします。

川合大祐(以下、川) よろしくお願いします。


 まずこの句集のタイトルの『スロー・リバー』なんですが、これはニコラ・グリフィスのSF小説『スロー・リバー』からそのまま取られているんですよね。で、この句集は章立ても全部SF小説のタイトルから取られている。記号が主な第一章の章タイトル「猫のゆりかご」はカート・ヴォネガットJrから、サブカルチャーが主な第二章タイトル「まだ人間じゃない」はフィリップ・K・ディックから、最後の第三章タイトル「幼年期の終わり」はアーサー・C・クラークから。

あのう、『スロー・リバー』って決してメジャーなSF小説ではないと思うんですよ。むしろ『幼年期の終わり』や『猫のゆりかご』の方が有名なんじゃないかなとは思うんですが。でも川合さんはこのSF小説を句集のタイトルにとられた。これはどういう理由があるんでしょうか。

 そうなんですよね。割とマイナーな方です。単純に、響きが良かった(笑)。川柳の「川」と、自分が川合だから、っていう単純な理由です。

 なるほど。まずそういう形式的な理由があった。それでもこの小説の枠組みと句集の内容が呼応するところとかってあるんですか。ちなみにグリフィスの『スロー・リバー』の解説で評論家の小谷真理さんがこの小説の「どのジャンルにもフィットしない、のびのびとした自由闊達さ」を指摘されていて、ちょっとこの句集のジャンルの混淆した感じに似ているなと思ったんですが。

 強引にこじつけると、主人公の成長物語なんですね。僕も、陳腐な言い方ですが、少しは川柳を通して成長できたかな、って思ったので。まあ、してないんですが。

 たしかにこの句集っていろいろなものが吸収されてひとつのかたちにまとまっている気がするんですよね。方向性がひとつというよりは、幾層か束ねられてそれがあるひとつの地点にまとめられているというか。ちょっと「川」みたいな感じではあるけれど。

 たぶん、それ、僕がほどほど広くて、ごく浅いアンテナを張っているからかも。広く浅くでもなく、どちらかといえば狭い(笑)。

 章タイトルもすべてSF小説からとられているんですよね。このSF的枠組みがこの句集との関わりにおいて大きかった感じでしょうか。

 SFが書きたかったんですね。青春時代SFばっかり読んでたから。もっとさかのぼれば、藤子不二雄で育ちましたし。

 もともとSFの志向性があったんですね。

 で、SFって、型はないようなあるようなじゃないですか。その辺、川柳と似てるのかなって。

 うん、箱庭というか設定的なものの違いはあるけれど、じぶんで拡張していくことができるジャンルかもしれませんね。なんていうか、なにを出されても、うーん、SFかも、とか、うーん、川柳かも、っていう、ジャンルの伸縮力の強さみたいなのはありますよね、どちらも。

 で、どちらも外から見ると誤解されやすいという。川柳と言えばサラ川? とか、SFと言えば光線銃打ってんでしょ? みたいな。

 光線銃ね(笑)。誤解も共通点としてあると。でもたぶん川柳とSFっていうと、えっ川柳とSFが似てるの? って思うひともいるとおもうんだけれど(ちなみに川柳とSFの類似については小津夜景さんが指摘されていました)、川合さんの川柳観としてはそういうところがあるというわけですよね。

 そうですね。SFのSは川柳のS。川柳・フィクションかもしれない。

 ああそれはいいですね。川柳フィクションのSF。


【2、ボコノンは言った。「あなたは誰かの素数です」】


   中八がそんなに憎いかさあ殺せ  川合大祐

  ボコノンは言う。「今日わたしはブルガリアの文部大臣になる。明日わたしはトロイのヘレンになるだろう」彼の言わんとするところは、水晶のように明晰である。わたしたちはみんな、自分自身でなければならない ということだ。 
   (カート・ヴォネガット・ジュニア、伊藤典夫訳『猫のゆりかご』ハヤカワ文庫、1979年)

 でも「川柳はフィクションでいい」って思えたのは割と最近だった気がします。

 あ、そうなんですか。けっこう無意識の縛りが大きいジャンルでもあるのかな。

 数年前まで、情念むき出し、どろどろの私小説ぽいのしか書いてなかったような気がします。「中八」の句は割と例外的です。

 「中八がそんなに憎いかさあ殺せ」の句でじゃあなにか少しじぶんのなかの違った部分に気が付いたりしたっていうのもあるんでしょうか。あの句は丸山進さんがご自身のブログ『あほうどり』でとりあげておられるのをみて、それでわたしも知ったんですよ。

あの句は私小説的にも読めるし、メタ言語としても読めますよね。「中八」と言いながら、実際に八音の「中八」の句をつくる。でもそれが川柳として機能して実際殺意が起きるなら、「中八」でも機能してしまっていることになる。なにかそういうぐるぐるしたクレタ人の嘘的パラドックスの状況。そういうふうに、言葉が言葉を志向している。私小説をつきぬけたところに思いがけなくメタ言語がでてきたのかな。

 矛盾したことを言うようですが川柳を始めた時、「自己消滅」ってものにもの凄く惹かれていたんです。ウロボロスじゃないけど、自分で自分を喰って消える、みたいな。だからそういう意味での私小説は指向していたかもしれませんね。ただ、その方法論がわからなかった。教えてくれる人もいなかったし。それで、ラテンアメリカ系のメタ的なものを導入したのが、あの句だったと思います。ただ、あんなに評価されるとは思わなかったんです。

私小説って、実はメタなんですよね。そのことに気付いたのが「川柳スープレックス」に参加したり、もともとさんのブログを読んだりし始めてから、なのかな。あ、違った。まず、短歌に浮気したんですよ。穂村弘さんや笹公人さんを読んで、「短歌って、ここまでできるんだ、いいなあ」って。

 短歌の迂回ですね。私小説のモードがメタフィクションにつながるって太宰治みたいだけれど。

 でも、川柳でも、結構できることに気付いてしまった。

 ああなるほど。でもそれは短歌をとおしてきづいたんですね。中八が悪いかっていっても殺されなかったってことでもあるのかな。象徴的には。

 だって笑いますよ。短歌に行ったら、飯島章友さんがいて、「川柳やってるんですか?」ですから。

 みてるひとはみていたってことでもあるんですね。あとそういう川合さんにとってコミュニティができたってのも大きいんですね。なんていうかな、コミュニティって議論の場になるから、意見がかわせますよね。そうすると、また新しい価値観が承認されたりする。ああ、ありなのかもなっておもえる。わたしも始発は飯島さんの存在がとても大きいんですが。

 飯島さんが作ったコミュニティで、本当変わりました。もちろん、本来所属していた「川柳の仲間 旬」がなければ、比喩でなく、生きてなかったですね。

 生の力は「旬」に、〈外〉への力は飯島さんがもっていたってことですね。

ただその「中八」の句に強く反応した方がいたってことは事実ではあるんですよね。そうすると川合さんにあっここらへんに〈外〉はあるのかとそういう言語に対する意識みたいなのがでてくるとか。
「中八」と言えば私ちょっとおもったんですが、この句集って数への意識がおおいんですね。

 ああ、数は確かに。

 たとえば、

   五・七・五きみも誰かの素数です  川合大祐
 
   ソシュール忌五は1であり七は2で  〃

こういう数への意識ってメタフィクション的な感性とも並行している気がするし、SF的な気もします。SFっていうのは、たえず数の観測というか距離や人間の数、エネルギーの数値などへの偏愛でもあるような気がするから。雑駁だけれど。ただ萩尾望都の『11人いる!』はそうかな。SFと数のかんけい。クラークの『2001年宇宙の旅』とか。『2010年宇宙の旅』『2061年宇宙の旅』『3001年終局への旅』と数字が変化する。

 SFは数の文学ですよね。円城塔さんなんかもそうですよね。

 ああほんとそうですね。そうか数の文学なのか。村上春樹の数の偏愛もその意味でSF的側面があるのかもしれませんね。そうすると定型っていう音数律もSF文学的なのかもしれない(笑)

 575ってもの自体が、数に呪縛されている印象というか。

 うんそうですね、数へのたえざる意識ですよね。定型が喚起するのは。

 川柳も数の文学だと思うんですよ。数に呪われた文芸。そもそも、17音っていうのが、頭がおかしい(笑)。

 数への執着なんですよね。偏愛というか。

   山一つ増えてもたぶんわからない  川合大祐

この句は中八とちょっと似てますね。

 山一つはね、伊那谷に住んでるとそんな感じなんですよ。

 長野を数でとらえたわけですよね。しかも「中八」みたいに《ちょっと》増える。「忌日」というタームもこの句集に多いんだけど、たとえば、

   瓶詰の天国ならぶ忌忌忌忌忌  川合大祐

やっぱり忌が増えますよね(笑)。忌が数になってしまう(笑)。夢野久作がモチーフになってる句だと思うんだけど。

 あれは、なんで忌忌忌忌忌だったんだろう。無意識の領域ですね。

 基本的にこの句集では数が増えるんでしょうかね。

   攻めて来る一万人のゴレンジャー  川合大祐
   「「「「「「「「蚊」」」」」」」」  〃
   たとえば三十一文字の定型をこれは川柳ですと言い張る  〃

一万人のゴレンジャー増殖とか記号も増えるでしょ。あと文字数も。31文字になったり「「「「「「とか。ふえてますね(笑)。第一章はこんなふうな独特な記号の使われ方がする句が多いんだけれど。

 数と言えば、この句集の三部構成って言うのは、横溝正史的かもしれない。三人殺されるみたいな。『犬神家の一族』にしても『獄門島』にしても、三回殺人事件が起こるわけですよね。この3、が子供のころから染みついているのかもしれない。あと、5・7・5って三部構成だし。

 3って童話や昔話でもマジックナンバーですね

 動的な数ですね。3人いれば政治が生まれる。

 欲望の力学ともいえますよね。3人いれば欲望が転移するから。漱石『こころ』とか。

 そもそも、川柳って欲望が転移するプロセスなんじゃないかと。好きな言葉じゃないんだけれど、「穿ち」ありますよね。あれって、自他の欲望に線を引く/混然とさせる行為なんじゃないかと。自分のまなざしと他者の眼差しが交錯する地点というか。

 はあ、なるほど。穿ちってふだん見えないポイントをつくことなので他者の視線を先取りしているところはありますね。ですからそこに欲望の線が走ることはあるような気がする。つまり、穿つってことは、他者の欲望を先取りして、こうなんだろ、こうみてほしいんだよなを組織化する行為かもしれないその意味では相手の欲望が転移してるわけですよね。その意味ではある意味、ちょっと病的もであるかもしれない。

 でもたぶん、一般の川柳の穿ちって、自分を「穿って」ない。そこに苛ついてた時期もあります。だからさあ殺せとか言ったんでしょうね。

【3、イアン・ベストが言った。「ムーミンの下顎骨だ」】


   そうこれはムーミンですね下顎骨  川合大祐

  「今日はすばらしい日だ」イアン・ベストが言った。
  「ああ」エド・ガントロはうなずいた。「あらゆる無力なる者のために、崇高な、そして効果的な一撃が加えられた大事な日だ。 “それは生きているんだ” と言ってやれたんだ」
 
   (フィリップ・K・ディック、浅倉久志訳「まだ人間じゃない」『まだ人間じゃない』ハヤカワ文庫、2008年)
 「殺せ」で思い出したんですが、川合さんの句集の第二章ではサブカルチャーがふんだんに羅列的に引用されますが、わりとみんな瀕死ですね。

   この列は島耕作の社葬だな  川合大祐 
   東京の初夏にブローティガン 生きよ  〃 
   日本の戦争としてガンタンク  〃 
   ニーチェからクウガに至る一世紀  〃

ムーミンの下顎骨とか、島耕作の社葬。だいたいみんな瀕死な感じをうけます。日本の戦争としてガンタンクも、ガンタンクが古びた旧式の遺物のような感触をうける。

 死にかけてますね(笑)。ていうか死んでるか(笑)。何でだろう。「死にたくないな」って強く思ってるからかも。ガンタンクは死にますからね(笑)

 たしかにガンタンクに乗りたくないなってのはあるかもしれない。接近戦されたらおわりだっていう。こんなモビルスーツに乗りたくないよっていう。ただ戦争っていうのはガンタンクに乗ることなのかもしれませんね。だからなんていうかな、サブカルチャーがいきいきしてないんですよねこれは。なんだろう。ふつうサブカルチャーを愛おしんだり、愛でたりするような気がするけれど。せっかく取り入れるなら。「ニーチェからクウガ」の句も仮面ライダーを哲学的系譜におきながらも、ニーチェの永劫回帰が一世紀という有限の時間にとじこめられてしまう気がする。ここにかえって〈いきいきさせないサブカルチャー〉の新鮮さみたいなものがあるような気がする。ある意味では共有できそうな記憶をあえて共有しないともいうのかな。

 どっちかというと、サブカルって「死」なんですよ。僕の中では。昔、テレビって「死ぬ」ものだったんですよ。ビデオとか、もちろんYouTubeとかない時代。

 二度とみられない感覚ですか。

 ですね。再放送が奇蹟的な「復活」だったというか。

 二度とみられないっていうことはほんとうにキャラクターが死ぬ感じか。

 だから現在のサブカルの「死ななさ」に違和感ありますね。

 あそうか、もしかしたらそういうメディアの〈進化〉とゾンビが流行りはじめたのは理由があるのかもしれませんね。メディアが発達すると〈死なないキャラクター〉が繁殖する。だからこの句集に「退化」ってことばが入ってくるのは興味深い。

   ジャイアンに退化するのはのび太たち  川合大祐

 そういや、ゾンビ句はひとつもないですね。

 ゾンビはいないですね。まあでもゾンビは「さあ殺せ」とはいわないから。「さあ殺せ」といえるひとは、死んだらおわりだと思えるひとだけですよね。

 たしかに(笑)


【4、人類の最後の一人は答えた。「祈っているよ、」】


   だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、  川合大祐

  記憶にとっては、未来も過去も同一のものだ。だから人類は、いまから何千年も前、不安と恐怖のもやの奥にオーヴァーロードの歪んだイメージを目撃したのだろう。
  「ああ、やっとわかりました」人類の最後の一人は答えた。 
   (クラーク、池田真紀子訳『幼年期の終わり』、光文社古典新訳文庫、2007年

 ゾンビの話が出ましたが、ちょっと第三章の話をすると、そういう意味では「東京の肉」の句はゾンビ的なんですかね。花くまゆうさくさんの『東京ゾンビ』というマンガもあるけれど。

   東京の人はまさしく肉である  川合大祐
でもそういう句でもないような気もするなあ。

 あれはゾンビではないですね。

 たとえば、

   凄絶な死に方をするビフィズス菌  川合大祐

「ビフィズス菌」が「凄絶」に「死」ぬ一方で「東京の人」には死が与えられない感じがする。「肉」には死がたぶんない。「肉」ってふしぎな言い方ですね。痛み/傷みとかもないし。それにこの句がふしぎなのが、さいしょに「人」っていってるんですよね。そこからつないでいく。ある意味で、「人」であり「肉」なんです。そういう分化そのもの。「脊髄のある水母」のようなものなのかなあそう考えると。

   例外はある脊髄のある水母  川合大祐

 「肉」は、諸星大二郎『孔子暗黒伝』に出てくる肉のかたまりですね。今思いついたけど。

 諸星大二郎さんのひとや肉の描き方って独特だけれどどういうかんじなんでしょうか。

 肉が肉として機能しない絵ですね。少なくとも、まったく美味しそうではない。

 「肉」の句って諸星句って思うとなんかちょっとわかる気がしますね。なんだろう、風刺でも批判でもなくて。意味のない肉というか。

 そのへん、死への欲動と、矛盾しない形で生への欲望がありますね。実は二億年後ののび太の句も、諸星大二郎『暗黒神話』がベースだったりします。

   二億年後の夕焼けに立つのび太  川合大祐

 諸星大二郎マンガは意味がありげで基本的になにもないのが魅力なんじゃないかと思うときがあって。諸星大二郎さん、ボルヘスすきそうだから、じゃあ「フシギな短詩」の川合大祐さんの回ののび太解釈はあれでもよかったのかな(笑)。諸星大二郎とのび太ってちょっと結びつかないところがおもしろいですね。のび太が生死に対してどう思っているかはいつも興味があるかな。ああいう多様な時間軸が導入されてしまった人間の死生観って。

 のび太の人生って、確かにどこにあるのかわかりませんよね。初めから、ジャイ子と結婚して不幸になるか、しずちゃんと幸せになるのか、人生が分裂している。しかもパラレルワールドに落とし込まれるわけでもない。

 ちょっと今回の話のまとめというか、この句集のまとめに入ると、記号の第一章があって、サブカルの第二章がある。第三章はなんでしょう。でもお話をうかがっているとどこかで第一章と第二章がひそかなかたちで転移されてるのが第三章ともいえるのかもしれませんね。さっきの話じゃないけれど。3という数字が出てきたときに欲望が転移する。でもそこに〈外〉も生まれてくる。

 第三章は、やっとはじまった人生ですかね。うあ、青春出版社文庫みたいなこと言ってるよ。

 ああそれで三章のタイトルが「幼年期の終わり」なんですね。

 この歳で(笑)。

 だからこの句集の最後の句は「だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、」って読点で最後おわっているのかな。

 それはおそらく無意識の選択だったけど、正解ですね。藤岡弘、みたいな。

 ただ「幼年期の終り」って人類が新しいモードへ移行することだから、歳は関係ないですよね。オールドタイプがニュータイプになるというか。意識の問題かな。その意味で、意識と無意識のあわいにある読点でおわったのはきょうみぶかい。藤岡弘、さんももしかしたらSF的な存在なのかもしれない。

 おわってないんですね。自分の中で。今気付いたけど。

 考えてみると、読点は〈移行〉そのものですからね。

 どこへ移行するのか、という点で、川の流れで、リバーなのかもしれない。自分にとって、『スロー・リバー』のタイトル、やっぱり、必然だったかもしれないです。

 たえざる移行、ですよね。その意味では「ゆく川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」の鴨長明も「きみは同じ川には二度入れない」のヘラクレイトスも『リバーズ・エッジ』の岡崎京子もいるかもしれない。川は比喩としてはたくましいですよね。生死を包含する。

それではいつまでも循環しつづける川(リバー)としてのタイトルに戻ってきたところで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

 ありがとうございました。


【川合大祐さんのプロフィール】

  • 1974年長野県生まれ。2001年より「川柳の仲間 旬」に所属。ブログ「川柳スープレックス」共同執筆。

【川合大祐さんの自選句五句】


だからこの句のメタファーに気付いてよ 
れびしいと云う感情がれびしくて 
ロボットに神は死んだか問うのび太 
聖痕のない豆腐だな信じない 
連想で賽の河原に辿り着く


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