2013年10月4日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 89. 山は雪手足をつかぬみどり児に / 北川美美


89.山は雪手足をつかぬみどり児に

前句<擂粉木の素の香は冬の奥武蔵>を受けて里山の暮しを想像する句である。

まだ歩くことのできない乳呑児と窓の外の雪が降っていると思える山、あるいは冠雪山との遠近の景がみえる。山深い村落に暮らす人々の冬の暮しを想像するのである。

技法的には「は」を使用することの意味が大きいだろう。三橋敏雄の句の特徴として「は」の使用が印象深いのである。

腿高きグレコは女白き雷>の項(詩客2011年05月20日号)で少し触れたこの「は」の使用について考察してみたい。

『まぼろしの鱶』
出征ぞ子供ら犬歓べり
塩座して帯びゆく放射能
世界中一本杉の中
雪子供つくらぬ蜂窩窟
金鉱なき山山音楽命ぜられ
抛(なげうつ)るべき石探され父祖の磧(かわら)

『鷓鴣』
老い皺を撫づれば浪かわれ
木木痛し恋しき松松落葉
くりかへす花火あかりや屋根江戸
おほぞらお我鳥(わどり)汝鳥(などり)もろびとよ
鳴いてくる小鳥すずめ紅の花 
『疊の上』
井戸母うつばり父みな名無し
棒杭のあたま平ㇻ朝曇
胸高に牡丹木となりにけり
切花死花にして夏ゆふべ
山山の傷は縦傷夏来る
両の眼の玉飴玉盛夏過ぐ
あやまちくりかへします秋の暮
行くさ来さ中山道は北颪
飯粒籾米よりものどかなる
秋の日別に落ちたり撥釣瓶
永遠に兄貴戰死おとうとも
すゑずゑの石卵形冬ひでり
生死の算用数字世さくら
おぼろ晝はかすみの目さすらひ
旱星山山みなせりあがり
日盛の火見櫓の鐘
夏池の底なる泥けむり

『巡禮』
手をあげて此世の友来りけり 
『長濤』
表札三橋敏雄留守の梅
又の名のわれ雉尾や雉の聲
ふるさとや多汗の乳母の名お福
字(あざ)の名駒をいただき春の雲
この鈴馬居ずなりし馬の鈴
あの家の中老女や春げしき
酒臭きわれ瓜なり朝ぐもり
地(つち)もと天なり秋の蟬の穴
待遠しき俳句我や四季の國
エノケン笑へりこの夜われも笑ふ
はるばると天錨をはこぶなり
前あしかひなの眞神立ちあがる
臼に雪は庇をのめり出る
みちのく木木をかをりや雪の果
しづかなる枯蘆騒(かれあしざゐ)刈りゐたり
萬愚節師の忌の墓遥かにて
しずかなり一家の壁の剥落

『しだらでん』
尋常の死冬に在り奥座敷
夏港を出でて歸りたし
衣食住付船乗あほうどり
石段のはじめ地べた秋祭り
太陽いつもまんまる秋暑し
たましひ先を行くなり秋の空
約八十瓩(キロ)の猪迷惑狭庭に来
手さぐりに肌(はだへ)廣し虎落笛
待針のつまみの花母の花
搖籠止まりやすけれ百舌鳥
一日の果て百年秋の暮
家ごとに干す夜具蒲団ここ御國
足もと土に非ざり初飛行
彼岸會やここらバードサンクチュアリ
知合の神樣無し独活の花
手の内に三つ止めて栗拾
一抹の濕(しめ)り日照雨(そばへ)冬ざくら
土に隠れて深し冬日向
産み捨てのはららご散り四海波
足奪(と)る何の荊棘線(ばらせん)基督よ
梟やひとつ火の氣誰が煙草
梟や男キャーと叫ばざる
若菜野やうなじ垂らす摘みがてに
廣しいづれつがひの春の晝
満月の裏くらやみ魂祭
皆置かれて泰(やす)し秋風裡
俳諧四季に雑さて年新た
晩年に刊行された「しだらでん」に於いての「は」の使用は28句と最多である。

遡ると敏雄には「は」の使用について戦時下において「も」に改めたという記録がある。

出征ぞ子供ら犬も歓べり (『太古』)
出征ぞ子供ら犬は歓べり (『まぼろしの鱶』)(『靑の中』)
『太古』発表当時(昭和16年)、時勢を配慮して手直しをしたものを後に原形に戻したと考えられている。「も」であれば、全ての人々が喜び、「は」であれば「子供ら犬は」以外の人は喜んでいないことになる。

晩年になるほど「は」の使用されている句を収録しているのは、自己主張を意図する傾向にあるとも解せるが、「は」との使用に敏雄は終生こだわりを持ちつづけたとも言えるだろう。

係助詞の「は」は単なる強調というだけでないことが歴史的な俳諧文法解説からわかる。
「は」と「も」とは本居宣長の所詮第一弾の係辞ではその陳述に対する勢力は甲乙ないものである。二者の差異は他と区別する下心があり、之を提示して判別作用をあらわし理解を要求するものであり、「も」は他の包容する下心があり、含蓄的で感情に訴えるものである。普通の文章では「は」が甚だ頻繁に用いられ盛んに主格の語に附くことにより、主格を示す助詞とまで誤り認められたものである。俳諧においても「は」の用いられることが多く、やはり「も」よりも優勢であるように見えるけれど、実地に就いて精査すると必ずしもそうでは無いのである。
『俳諧文法概論』山田孝雄
上記の山田孝雄文法論を資料とし国文学者の小林祥次郎氏から更なる補足解説を頂いた。

解りやすい例としは、「おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈に行きました。おばあさんは川へ洗濯に行きました。」この例から解るのは、「が」が未知の情報に用い、「は」は既知の情報に用いる。しかし、この例の「は」が特に取り上げる方法とも見られ「も」と対比するものと考えられる。「あいつは体はツヨイ」というのは「頭がヨワイ」ということを、「あいつは体もヨワイ」というのは「頭もヨワイ」ということを暗に表わそうとしている。
なるほどわかりやすい。

単に強調ということではなく裏の意味を示す。

上掲句に戻ろう。上五<山は雪>の意図することは、おそらくつづく中七下五の作者の視点位置との対比である。例えば<山は雪>であれば「里は風」あるいは「雨」かもしれない。遠景の「山」に雪が降り寒々しい風景であるが、近景の<みどり児>のいるおそらく「里」では雪ではないが厳しい冬の低温感が伝わる。

それは同時に里の生活が冬の間、閉ざされたものであることを想像させる。「手足をつかぬ」という意味が嬰児の意志でもあるように手足をついて這うことすらも拒むというように読め、抱かれている、あるいは背負われている風景を想像する。その陰に男達は町へ出稼ぎに行き、家の中には女と子供だけが残されるというムラの風景をも読み取ることができるのだ。

戦後の社会情勢を孕む風景。戦後リアリズムといわれた土門拳の『筑豊の子供たち』(1960)のドキュメンタリー写真を思い浮かべる。


現実の社会を見ようとする昭和30年代後半から40年代当時の動きも『眞神』には多いに影響しているだろう。

敏雄の「は」は、「や」「かな」の詠嘆の技法と隔て、その裏にあるあ風景をも含む「は」であると解せる。



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