2022年11月25日金曜日

ほたる通信 Ⅲ(28)  ふけとしこ

       捩れる度に

紅葉や蹄の跡に溜まる雨

鰯雲救急搬送口が開き

唐辛子捩れる度に辛くなる

ドラキュラの欲しがりさうな冬林檎

冬麗や斑模様の虫の翅


・・・

 某月某日。句会の場。

「昆虫食の自動販売機があったわ」

「え? どこに?」

「すぐそこ、橋の所」

 帰り道皆でぞろぞろと見に行った。

「ウワッ!」

 販売機にはもろ昆虫達の絵が描かれていて〈サプライズお土産にいかがですか〉との大書も。

「ちょっとリアル過ぎない?」

「全くねえ」

「誰か買ってみる?」

「ワタクシ遠慮させていただきますわ」

 ということでその場を離れたのだった。

 昆虫食のことをよく聞くようになった。遠くない未来、食糧難の日々がやってくる。そうなれば昆虫も食糧として重要になってくる。いわゆるゲテモノ食いではなく、切実なこととして、ということである。

 しかし、考えてみれば

  ざざむしの佃煮ついに届きたる  山尾玉藻

  ざわざわと蝗の袋盛上がる    矢島渚男

のように句にも詠まれているし、歳時記にも記載されている。

 この例のようにザザムシやイナゴが有名で、昔から、焼いたり煎ったり佃煮にしたりして食べられてきたのである。

 どこかのお年寄りのグループが、蜂の子を捕りに行くのだと準備をしているのをテレビで見たこともあった。この時の蜂の子はクロスズメバチの幼虫のことで、アシナガバチなどとは大きさが違う、旨いし食べ応えもあると皆張り切っていた。土中にある蜂の巣を引き出して幼虫を掴みだしていた。何しろ相手は蜂である。編集の後に流される映像を観ている方は気楽なものだが、取材陣はさぞかし戦々恐々、大変だっただろうと、少々同情もした。

 昆虫食とは成虫のみならず、幼虫も含めてのことであろう。今は専ら珍味としての扱いだが、かつては食料として採っていたのが本当のところだと思う。

 過去にそうだったように、人も獣も飢えで死ぬ思いをしていれば、草だろうが木だろうが茸だろうが、食べられそうなものは片っ端から食べるだろう。

 そんな日が近いのだろうか。

(2022・11)


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