2022年4月29日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(10)

  第45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

 11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【筑紫回答】

(2―2)前衛について(まず前史としての新興俳句から) 

 新興俳句について言えば例えばこんな批判があります(「馬酔木」令和3年10月号の100周年特集)。

  今井聖氏は、現代俳句協会の『新興俳句アンソロジー・なにが新しかったか』について、「新興俳句」の中に、秋桜子、楸邨、波郷を含めていることを批判しています。「虚子が秋桜子の主観よりも素十の客観写生の方に組みしたのが「ホトトギス」離脱のきっかけとなったのであるから秋桜子は「新興俳句」の初動を担ったとまずは考え、ならばそこに所属した俳人も「新興俳句」の俳人として考えてもいいという理屈である」と解説し、これに対し高野ムツオ・神野紗希の集中での発言につき「二人の論旨の展開はかなり強引に感じられる」と裁断しています。

 坂口昌弘氏は「秋桜子と「馬酔木」の系譜は新興俳句に括ってはいけない」という長い題で、「「『現代俳句大辞典』では「新興俳句」について「「『ホトトギス』から『馬酔木』の独立したことに伴い新しい俳句運動が起こり、これを新興俳句(金子杜鵑花の命名という)と呼んだことに由来する」「秋桜子が無季俳句批判を行い新興俳句運動から離脱したとされている」と筑紫磐井は書く、川名大は『戦争と俳句』で「馬酔木」を新興俳句誌としている、しかし秋桜子が新興俳句運動を始めたことやその運動から離脱したという事実は全くない。」と述べます。

 しかし彼らが言っている「新興俳句」とは何なのでしょうか。どうやって発生し、どういう意味を持って使われたかを吟味することもなく、無季俳句批判を行った秋櫻子だから新興俳句ではないというのか明らかでありません。

       *

 このようなことになるのは新興俳句には確とした意味がなかったいということにあります。新興とは何なのでしょうか。

 新興とは近代になって多く用いられた言葉で、比較的多義的に使われているようです(この構造の用法は法「興」寺とか元「興」寺とか飛鳥時代には用いられていますが)

 明治時代の古い用例は、新興国とか新興階級として登場するようです(ブルンチュリー『国家論』明治22年)。面白いのは、社会運動家の山川均が新興階級を「滅亡階級と新興階級」と対比していることです(山川均『井の底から見た日本』大正13年)。新興階級をこのように定義することは目から鱗が落ちる思いです。そうです、新興でないものは滅びると考えるべきなのです。

 文学関係の用例を見てみましょう。明治・大正時代の日本文学史を見ると、新興文学という言葉が偶然出てきますが、その最初は意外なことに鎌倉時代文学(平家物語や五山文学)をさしているようです。確かに公家の時代から、武家の時代になって大きく文学は変わりましたから新興という言い方もあり得たでしょうからなるほどと納得しますが、この新興文学は新興俳句とはあまり関係ないようです。

 その意味で明治時代に最初に登場する新興文学は、自然主義文学及びそれ以降の新しい文学をさしていたようです(片上伸『生の要求と文学』 大正2年)。これは時代区分というよりは、ちゃんとしたサブスタンスのある文学分類でした。このことからも、今日の我々からはあまり実感できませんが、自然主義という文学思想がいかに近代日本に大きな影響を与えたかがわかります。しかしこの新興文学も新興俳句とはあまり関係ないようです(むしろ新傾向俳句とは関係があるかもしれません)。

 第二の新興文学は第一次世界大戦の直後(あるいはその末期)に登場して使われるようになります。既存の秩序が破壊され、大衆が文学活動の中心に踊りだしてきた時代です。これは余りサブスタンスがある用語ではなく、まさに第一次大戦後文学と同様で、当時噴出した様々な雑多な文学傾向を包含していました。当然ロシア革命後に盛り上がってプロレタリア文学も含まれます。これはすべてではありませんが、新興俳句にそれなりの影響を与えていると思います。

 たとえば、大正6年には「新興文芸叢書」というシリーズが出、大正11年には「新興文学」という雑誌が出ています。特に第一次世界大戦後の世界的な風潮の中で現れた「新興文学」は、ダダイズム、プロレタリア派、表現主義、モダニズムなど雑多な運動が寄り集まったもので、その影響も大きかったと思います。

 しかし、致命的な影響を与えたのは関東大震災でした。第三の新興文学です。関東大震災の直後、復興・再興、そして新興という言葉が生まれています。もちろん、復興・再興と新興では微妙にニュアンスが違ってきます。

 「復興」では、物理的な建設の意味が強いです。使われるときは大体、「帝都復興」のような意味で使われますから都市の再建築という意味です。

 これに対して「新興」は社会的システムの再建築・創造の意味が多く、新興勢力、新興都市、新興工業、新興産業などと使われます。昭和7年の新興満州国(このほかにも独逸、露西亜、支那にも新興の名が冠せられます。イギリスやアメリカで言われない点が特徴的です)はその最たるものです。

 しかし、新興の場合は物理的な建造より幅広く、精神活動にまでさらに拡大されます。[精神的な新興]の例を年を追って紹介します。様々な著作のタイトルに上がっているものから選びました。まさに「新興ブーム」といってよいでしょう。


大正13年:人と芸術社『新興戯曲叢書』

大正13年:教育の世紀社『新興芸術と新教育』

大正13年:新興社『新興獨逸文學叢書』

大正14年:田中五呂八『新興川柳詩集』

大正14年:新興教育(「日本及日本人」)

大正14年:中央美術社『新興芸術の烽火』

昭和2年:新興詩人(「文藝」)1927

昭和3年:平凡社『新興文学全集』

昭和3年:新興科學社『新興科学の旗のもとに』

昭和4年:河東碧梧桐『新興俳句への道』

昭和4年:「新興短歌集」(改造社『現代短歌全集』) 

昭和4年:美術社『新興版画選』

昭和5年:新潮社『新興芸術派叢書』(小説)

昭和5年:短歌月刊編集局『新興歌人叢書』

昭和5年:木星社書院『訳註新興文学叢書』

昭和5年:新興建築(「建築画報」) 

昭和6年:刀江書院『新興芸術研究』

昭和7年:理想社『新興哲学叢書』

昭和7年:新興写真(『写真の構図』)

昭和9年:新興仏教(「現代仏教」)


 この中で最もよく知られているのは「新興芸術派」です。新感覚派の後に生まれ、川端康成や吉行エイスケ等のモダニズム文学を生みました。

 一方俳人にとって気にかかるのが碧梧桐「新興俳句への道」で「新興俳句」という言葉が最も早く使われていますが、碧梧桐によれば、出版社(春秋社)によってつけられた名前で、本当は「短詩への道」とつける予定であったと書かれているので、新興の流れからは外しておいた方がいいようです。短詩型文学においては「新興川柳」が先陣を切っており、「新興」のさきがけの名誉を獲得しています。

 こうして短詩型においても次々と新興は生まれました。しかしこの文脈において新興とは、関東大震災の瓦礫の中で立ち直ろうとする一種のキャッチフレーズであったわけで、高邁な理想があったわけではないでしょう。それぞれのジャンルで、新興●●が生まれた時、それぞれのジャンルの理念、歴史を踏まえて皆の潜在意識の中にあった欲望が投影されたものとなりました。それは使われた時期、年によっても、あるいは個人によってもコンセンサスがあったわけではありません。今日の新興は明日の新興ではなかったのです。

        *

 「新興俳句」についてみるとこんなことが言えるようです。

 昭和9年頃までは新興俳句はまず自由律俳句で使われていたようです。

 俳壇一般に普及したのは昭和10年になってからのようです。特に注目したいのは、馬酔木の新鋭加藤楸邨の評論で、「新興俳句批判(定型陣より)」(俳句研究昭和10年3月号)、「新興俳句の将来と表現」(俳句研究同4月号)、「新興俳句運動の誤謬」(馬酔木同10月号)、「新興俳句の風貌」(馬酔木昭和11年1月号)と新興俳句の論争は一手に加藤楸邨が引き受けていることです。それも決して新興俳句に対する全面的な批判ではありません。最も特徴的なのが「新興俳句の風貌」で、ここで楸邨は新興俳句作家として9名を上げ作品を紹介しているが、その筆頭に水原秋桜子と山口誓子をあげているのです!

 面白いのは昭和11年で、この年刊行された単行本の宮田戌子編『新興俳句展望』で「新興俳句結社の展望」(藤田初巳)と「新興俳句反対諸派」(古家榧子)が載っていますが、「新興俳句結社の展望」ではその筆頭に「馬酔木」が、「新興俳句反対諸派」ではアンチ新興俳句の「新花鳥諷詠派」として秋桜子と誓子を上げています。一冊の本の中でのこの混乱が、新興俳句をめぐる当時の混乱を如実に示しているようです。これには昭和11年の秋櫻子の無季俳句批判の影響があるようです。

 つまり昭和10年に水原秋桜子も馬酔木も間違いなく新興俳句でした。昭和11年から次第に怪しくなって行くきます。これさえ分れば、今井・坂口の批判御問題はわかるはずです。

 付記すれば、今井・坂口氏は様々な人々の回顧録を引用しているようですが、回顧録は個人があとづけで歴史を解釈しているものです。もちろん、回顧者の頭の中にある記憶ですから貴重であることは違いありませんが、これの使い方には一種特別な配慮が必要です。つまり、事実そのものを語っているのではなく、事実を踏まえた新しい歴史であるのです。

(続く)

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