2016年12月9日金曜日

びーぐる33号  中庸という強かさ / 竹岡一郎



加藤静夫の第二句集「中略」(平成二十八年五月、ふらんす堂)を読む。あとがきには句集名の理由が記されている。「何事も中庸を旨とする性格のせいか、第一句集『中肉中背』同様、「中」の字の付く言葉に惹かれたのかもしれない。」彼は「鷹」という伝統結社に属していながら、その極めて特異な句風は結社の枠を悠々と超えている感がある。彼の第一句集に、忘れられない句がある。

乗り換へて乗り換へて太宰忌のふたり
どこまでも電車を乗り換え、ひたすら遠くへ行こうとする二人は「太宰忌」という季語によって、駆け落ちの二人であり、果ては心中の危険性を孕んでいると読める。同じ太宰治の忌でも「桜桃忌」なら甘くなる。「太宰忌」という、桜桃忌に比べれば遥かに生な言葉によって、乗り換える度にうらぶれてゆく街並や、駆け落ちする二人の煤けた表情などが浮かび上がる。「乗り換えて」のリフレインによって、螺旋を描きながら落ちてゆく二人の人生までもが見えるような気がする。この句を読んだとき、久保田万太郎を思った。

今回の句集は、以前篇、以後篇に分かれていて、あとがきを読むと、大震災以前、以後という区分だとわかる。「以前・以後とはいえ〈流されてゆくくちなはもいもうとも〉のように津波を想起させながら、実は震災以前の作という句もある。」と、あとがきにあるが、この「くちなは」の句に、特に震災も津波も思わなかった。むしろこの句は蛇という地祇に属するものと妹という地祇の力を宿すものが共に流されてゆく、哀惜を漂わせる句として読める。ただこの場合、蛇と妹を流す主体も地祇的な力なのだ。以前篇の中で、震災を予期させる句と言えば、

潮の香のまがまがしくも昼寝覚
昼寝という一旦死ぬ行為により、あの世の領域に入った作者が、津波の未来を垣間見る。その禍々しさが、此の世に帰る時、鼻孔に残ったのだろう。海の近くで昼寝しているのだろうから、潮の香は現実だが、その現実と重なって、未来の禍々しさが香るのだ。

亜米利加の傘下にありぬ猫の子も 
蛇衣を脱ぐ痛くない放射能 
梅雨菌多数決にて国滅ぶ 
原発の最期看取るは雪女

これらの句の、皮肉でありながらも何処かのんびりした観は、作者があくまでも個人として時流に接しているからだろう。国を背負う訳でも、正義を振りかざす訳でもない。どこの陣営に属しているのでもない、市井の一個人としての中庸なる感慨だ。(いわゆる正義に対して絶望している者は、このような感慨を好ましいと思うだろうし、未だ正義を信ずる向きは物足りないと思うかもしれぬ。そこは好みの問題に過ぎない。)だからこそ逆に個人としての密やかな慎ましい感慨は、国を詠ったものよりも却って心に響く。

米はまだある鶏頭は咲いてゐる
 
今日のぶん明日のぶんの目刺かな 
春キャベツざくざくからうじて中流 
生姜湯や下着かなしき駱駝色
こういう感慨はひどく愛おしいものに思える。これらは人間の基本であり、この辺りを如何にクリアするかのみに大勢の一生は過ぎる。そして、それだけで良い、と作者は思っているだろうし、確かにその通りだ。(その先は、人間を超え運命を無くそうとする意志によってしか進み得ない。)掲句のような立脚点から国を詠い時代を詠うなら、先に挙げた「亜米利加」以下四句の句群のように中庸なるものとならざるを得ない。だが、その中庸さは密かな強かさを含んでいるだろう。

寒くて寒くてこころだんだん立方体 
幸せか蒲団から足が出てゐる
この二句など見事なものだと思う。飢え、そして寒さほど心身にこたえるものは無い。一句目は「立方体」という語により、心のみならず体の悴みと硬さをも見せている。二句目はその反対で「蒲団」という冬の季語から足が出ている余裕を「幸せか」と投げかけることにより、実は人間の幸せとはそのようなものだと看破している。つまり、幸せとは単に「不幸でない」というだけの状態だ。

冬たんぽぽ本気になればすごい我
冬たんぽぽは作者の謙遜した自画像であろう。「俺はまだ本気出してないだけ」という漫画があった。「私、脱ぐとすごいんです」というコマーシャルもあった。そんな懐かしい流行語を踏まえて、しかし冬たんぽぽという事象自体が既に凄いと言えば凄いのだ。本来春に咲くはずのたんぽぽが冬に咲いている。それはたんぽぽの気合だ。根は地上からでは想像できないほど深く真っ直ぐに伸びている。その根の深さがあってこその、冬に咲く気合である。そこは鷹という伝統結社で何十年か特異な句風を保ち続けた自負でもあろう。冬のたんぽぽであるから地味であるが、既にずっと本気は出している。

アスパラガス茹でるやさしさにも限界 
すでに女は裸になつてゐた「つづく」 
暖炉燃ゆ女に言はせれば空論 
ポインセチア(中略)泣いてゐる女 
繭玉や肌合はせればわかること 
下闇の女には触角がある 
女の手冷たし何を食はせても

性愛を喧伝的に詠うのは、簡単だ。感情を露骨に詠うだけで良い。性器の名称の一つでも出せば一層たやすい。作者は決してそれをしない。性愛を行為ではなく、生き方が如実に出る瞬間と捉えているからだろう。一句目は「茹でる」という行為が恋愛関係を暗示し、アスパラガスは作者自身の暗喩でもある。わがままな女の可愛さが目に見えるようだ。「限界」とは反語で、無限に優しくなれる筈の作者である。二句目は風俗小説のようでありながら、「つづく」に男の側の或る逡巡が見て取れる。「つづく」として逃げてしまいたい気持である。三句目は男の永遠の幼児性(「空論」から推量するなら、正義にまつわる意見だろう)を女が看破しているのだが、同時に女は男にとっての暖炉でもある。四句目は句集の題になっている集中の白眉であり、この(中略)に、市井のありとあらゆる恋物語が入れられる。市井の、と限定されるのは季語ゆえだ。イベントとしてのクリスマスを想起させるポインセチアに、掃いて捨てる程どこにでもあるような、しかし当人たちにとってはかけがえのない恋愛が見て取れる。たとえイベントに過ぎずとも、折角のクリスマスに泣く女は、傍から見ても、もう可哀想でどうしようもない。五句目は繭玉に、胎児の形で眠るような女の姿態が、或いは同衾の閉じた様が浮かび、千の言葉より分り合える性愛の交感が示される。六句目、木下闇という昼の樹下が作る闇は、いわば白昼の異界であり、そこに立つ女の触角は作者のような(恐らくフェミニストの)男を探り当てる為のものか。或いは「触角」という語に、女性特有の皮膚感覚(三句目で男の空論を見抜くような感覚)を表現しているか。七句目は女の一見そっけない様が示される。だが、昔から言われることに「手の冷たい人は心が温かい」。それが嘘か真かは知らぬが、真であると信じたくて、色々食わせてみる。これは単に食べ物を食わせるというだけではなく、女の喜びそうな事を色々としてみる意もあろう。

泉に掌(て)そして手首や事実婚 
どうしても泉から手が抜けぬなり
下五の「事実婚」が絶妙で、俗すれすれで詩情を醸しているのは「事実婚」という、まず詩には用いられない語であったりもする。「ロードーモンダイ(労働問題)って詩的な響きだね」と西脇順三郎は言った。この二句は同頁にあって、作者を捉えて止まぬ泉としての女を韜晦的に称えている。二句目だけ読んでも、泉の神は大抵女性であることを思うなら、清らかなそして尽きせぬ神話性とでもいうべき女人性は伝わってくる。

一切の責任は香水にある
この句など巧みさが見えすぎるきらいはあるのだが、香水の本意をこれほどあからさまに示した句も思い浮かばない。何故なら、香水とは惑わしの道具でもあり、いわば俗の極みだからだ。この句の強さは言い切るようなリズムにある。

ゆふざくら六時前とはいい時間
夕桜がいかにも美しい。中庸なる勤め人の一日の仕事を、桜はさりげなく荘厳している。勤めたことのある者なら、定時少し過ぎたあたりで帰れる喜びはわかるだろう。今日も一日頑張ったという疲れと、さてこれからは自由な時間という喜びがある。尤も、これはある一定の年齢以上の感慨であり、働けば働いただけの報酬があった良き時代の風景だろう。鷹主宰・小川軽舟は、「鷹」平成二十三年七月号の「秀句の風景」にこう評している。

「これは職を退いた元サラリーマンの感慨だろう。勤めていればちょうど会社の退け時だが、仕事の疲れも出る。若い時分ならいざしらず、さあ夜を楽しもうという気にはならぬ。

別に何をする訳でもない。そろそろ風呂に入って飯でも食うかという時間。春宵一刻値千金などと気負うこともない。「いい時間」という口語がなじむ一句だ。」

小川軽舟は作者の現在から元サラリーマンと解釈しているが、現職の勤め人と解釈しても充分鑑賞できる。日本のサラリーマンのささやかな理想に、日本の花である桜が寄り添っているのだ。そしてサラリーマンという中庸を過ごしてきた作者が目を向けるのは、同じ穏やかな境遇の者だけではない。

半玉の手を逃れ来し子猫かな 
スワヒリ語らし風邪薬欲しいらし 
あしたから店に出る子や半仙戯 
葱の香の強き温泉芸者かな
一句目、子猫はあっという間に成猫となり、半玉はやがて酸いも辛いも噛み分けて、一人前の芸妓となるだろう。ならば、「子猫」は半玉のあどけなさを象徴するか。子猫の逃れる様は半玉からあどけなさが失われてゆく様につながろう。二句目、スワヒリ語はアフリカ東岸部で広く使われる言葉だから、黒人が冬の日本の薬局に居るのだ。冬の無い国からやって来た黒人が、言葉のわからない日本で寒さに襲われて風邪を引いている。気の毒だ、と作者は思っているが、双方とも言葉が分らないので、手を差し伸べるのも中々難しいところだ。それでも相手の身振り手振りから風邪薬が欲しいらしいとまではわかる。三句目は今らしくない気もする。明日から店に出る子の年齢は、半仙戯(ブランコ)から察しが付く。奉公に出るのだろうか。だとすれば、これは作者の記憶の中の子、戦後、昭和二十年代から三十年代の情景ではあるまいか。四句目の温泉芸者も同様の懐古的な印象を受ける。今挙げた境遇の者達に作者の目が向けられる様、それは正義をかざすのでも同情しすぎるのでもなく、高みから冷たく観察するのでもない。同一の地平に、少し離れたところで、只哀しみの目で以って見ている。その目の原点は次の句に示されていよう。

セーターの袖てかてかす昭和とは
昭和の戦後の子供とは、まさにこんな風であった。少なくとも、下町の子はこうだった。「三丁目の夕日」にクローズアップされるような良い事づくめの時代ではなかった。普通に差別があり、暴力があり、町は汚かった。混沌が混沌のまま何の疑問もなく受け入れられ、先延ばしにされた。(その代償は、作者が〈鉄筋の劣化ひそかや寒月下〉と集中で詠った如し。)当時は一寸お洒落な物だったセーターの袖が、絶えず拭われる鼻水でテカテカしていた時代。その時代を多くの者が懐かしむのは、高度成長期で希望にあふれていたからでも共同体の連帯が強かったからでもないと思う。希望だの連帯だのは後から文化人がくっつけた見栄えの良い理由であり、本当は戦後の復興の傍らで、庶民の間では混沌が混沌のまま、誰にも裁かれず安んじていたからではないか。ここに作者の中庸の原点があるなら、その中庸は実に強かなものだ。

一重瞼だからこんなに暑いのか
一寸説明しがたい諧謔である。妙に納得も出来る。季語は自分である、とは小川軽舟の言だが、その言を以って言い換えるなら、一重瞼だからこんなに自分なのかともいえるし、また時候という個人とは無関係なものを、作者から生ずるものとみなす荒業でもある。

先祖代々地球に棲んで時々風邪 
父はいま海市の路上生活者 
土砂に突き刺す藜の杖やそれが墓 
死にたいと云うて南京豆ぽりぽり
一句目では、国や民族を超えた視点が簡潔に展開される。その苦難は時々風邪を引くくらいのものだという開き直りが地味であると同時に豪壮だ。二句目、父は亡霊なのか。道端で暮らしていても大して困っている様子ではない。それは父のいる処が海市であるからで、旋回する火の輪の如くこの世は幻であるが、今や全くの幻に、恐らくは幻と認識しつつ安住している父は作者以上に強かであろう。三句目は一般的には犬猫や鳥の墓だろうが、一概にそうとも言えないのはアカザの杖が足腰を守ると言われて老人に愛好されるからだ。(実利としては、ひどく軽くてしかも丈夫なので愛好される。)このアカザの杖を突き刺すことにより、その杖の主の姿を思い浮かべてしまう。ドシャ、と乱暴な突き放したリズムからは老人の性格や動作が浮かび上がる。頑強で因業な老人である。そうなると、下五の置き方はかなり衝撃的だ。まるで身寄り無く行き倒れた老人が埋まり、その遺品である杖がそのまま墓とされたようにも読める。このような乱暴な生と死の「健康さ」(健康、という言葉を思わず使いたくなるほどの強かさ)は、中上健次の書く小説の人物に通じるところがある。四句目の「健康さ」は一目瞭然である。南京豆を矢継ぎ早に食っているから決して自殺しないというわけでもないが、そういう者は意外にあっさりと、南京豆でもつまむように死ぬかもしれぬ。南京豆を食べるのは女であろう。男では絵にならない。呑気に「死にたい」と言う、食欲旺盛な女を半ば呆れ、半ば不安を抱きつつ愛おしく見ている。「ぽりぽり」というリズムは、女の在り方を示すと同時に、作者の包容性をも表している。男にとって、中庸とは、まずフェミニストたる事の謂か。フィリップ・マーロウの名言を持ち出すまでも無く、男は女を守ろうとするとき、一番強かなのだ。

誰もみなはじめは風邪と思ふらし 
狼に少し遅れて人滅ぶ 
ゆたんぽの栓の抜けたる事象かな
さて、その強かな眼が見た人類滅亡は掲句のごとし。一句目は戦前なら結核であろうし、一昔前ならエイズだろう。今の日本なら放射能汚染の可能性も出て来た。未来において、致死性のウィルスが人類を滅亡させる様は映画でも小説でも語り尽されてきた。掲句は、その導入部を立ち上げている。実際、そんな風な些細な予兆の裡に、死はあっけなく現れる。蔓延してしまえば、地球規模で見て、日本狼の滅亡も人類の滅亡も大した時間差ではない。三句目は、滅亡とは何の関係もないのだ。にも拘らず、ここに並べたのは、仮にこの三句を続けて読んだ場合、滅亡も、湯たんぽの栓が(恐らくは寝床で)抜けた事象(事象とはまた大げさでもあり冷静でもある)も、大変さにおいて大して変わらないのではないか、と、うそぶくような作者の強かな開き直りが垣間見えるからだ。多分、生き残るのは作者のような人間で、即ち、「中庸」と称される強さを背骨に持つ者だろう。そんな作者の傑作を挙げるなら、

水着なんだか下着なんだか平和なんだか

水着と下着の違いは何だろう。撥水性とか速乾性とか、素材の違いはあるだろうが、男にはわからない。それが秘めやかなベッドであれば下着であり、衆人環境のプールであれば水着なんだろうと思うばかりだ。では、「平和なんだか」の後に続くものは何だろう。下着だと思っていたものが実は水着だったりする如く、平和だと思っていたものが本当は違うものだったりする。それは何なのか、人の頭の数以上に解答はあろう。その無限に枝分かれする正解を、どれも正解または誤謬と見極めるために俳句の短さがあるのなら、掲句は混沌に立つ俳句の中庸を顕現していると言えまいか。






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