今回考えてみたいのが短詩文学における〈感想〉の導入というテーマです。誤解がないようにすぐに言い添えておきたいのは、川柳や短歌の感想文をどう書くかということではありません。むしろ、川柳や短歌の表現機制そのものに〈感想〉という言説構造をどう取り込んでいくのか。わたしが考えているのはそういった仕組みとしての〈感想〉です。
たとえば2016年に発刊された兵頭全郎さんの句集『n≠0』にこんな句があります。
おはようございます ※個人の感想です 兵頭全郎
(『n≠0』私家本工房、2016年)
この句では「おはようございます」という絶対的にゆるぎない挨拶の発話が「※個人の感想です」と注釈されてしまうことにより、相対化されてしまいます。誰もが〈そもそも〉疑問も問いかけも意味の吟味ももたない挨拶としての「おはようございます」に対して、「おはようございます」とはひとつの〈感想〉に過ぎないんだというラインを導入することにより「おはようございます」そのものが浮き彫りにされるのです。
それによって起こるのは、「おはようございます」とはなんだろうという問い直し=再吟味です。
つまり、この全郎さんの句が教えてくれるのはこういうことです。〈感想〉とはよく知られているような読書〈感想〉文のような意味の付与なんかではない。そうではなくて、実は〈感想〉というのはそれそのものを「個人の感想」としてしまうことで、〈偏った見方〉であることを引き受け、そしてその〈あからさまな偏差〉によって再定義しようとするものだ、ということなのです。
この「※個人の感想です」がまったくおなじかたちで今年新刊の歌集にあらわれていました。斉藤斎藤さんの歌集『人の道、死ぬと町』です。「わたしが減ってゆく街で ~NORMAL RADIATION BACKGROUND 4 東京タワー」という「人口減少社会」を扱った連作は短歌と散文が組み合わされているのですが、こんな散文箇所があります。
一九九〇年、バブル崩壊。わたしは高校を卒業する。
一九九三年、就職氷河期突入。
一九九六年、就職活動もロクにしなかったわたしは、大学を卒業してフリーターになった。
高校生の私は、就職はできて当たり前。就活は、10人中8人が座れる椅子取りゲームと思っていた。
しかし大学生活を送るうち、みるみる椅子は減らされてゆき、卒業する頃には、10人に三つの椅子しか残されていなかった。*13
(「わたしが減ってゆく街で ~NORMAL RADIATION BACKGROUND 4 東京タワー」『人の道、死ぬと町』短歌研究社、2016年)
というふうに散文に「*13」と注がついているのですが、その注をみると、
*13 ※個人の感想です
と書かれているのです。一九九三年からの就職氷河期という社会・歴史のなかに投げ込まれている「私」ですが、そのなかに「10人に三つの椅子しか残されていなかった」という「個人の感想」が出てくることによって、大きな社会の歴史と小さなわたしの歴史が競りあい、そのどちらもが相対化されるようになっています。
この連作内ではアニメ史では有名な原恵一監督のアニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』(2001)が引用されるのですが、考えてみればこのアニメもありえたはずの〈輝かしい未来〉が失われてしまったという社会の大きな歴史と私の小さな歴史の競合が物語の大きな軸をなしていました(この映画のキャッチコピーは「未来はオラが守るゾ」)。
この映画の主人公はしんのすけというよりは父親の野原ひろしになっています。なぜならありえたはずの失われた「20世紀」の未来を実感できるのは、かつてそれを夢みていた「こども」であり「大人」の野原ひろしだけだからです。
野原ひろしは〈ありえたはずの社会の大きな歴史〉も〈そうでしかありえなかった私の小さな歴史〉も同時に知っている人間です。しんのすけはまだ小さな私の歴史しか知りませんが、ひろしは大人として大きな歴史も知っています。あきらめ、も。
ですが、大人を子どもに戻し「古き良き昭和」を再現しようとする秘密結社「イエスタディ・ワンスモア」によるオトナ帝国化計画に、ひろしはどんどん惹き込まれていきます。ありえたはずの未来の懐かしさにとらわれていくのです、小さなわたしの歴史を忘れて。
つまり、〈大きなわたしの歴史〉というねじれた時間軸に閉じこもり、「大人」ではなく、現在の現実としての大きな・小さな歴史を忘れた「オトナ」になろうとするのです。ノスタルジーで世界を「20世紀の匂い」で日本を覆いつくそうとする敵の「イエスタディ・ワンスモア」という名前にはおそらくそういったねじれた懐かしさとしての大きな・小さな物語に閉じこもろうとする意味合いがうかがえます。《きょうから振り返る昨日をもう一度!》。野原ひろしは、やってはこなかったもうひとつの未来にひきこまれ、家族を捨てようとするのです。
ここで大事なのが、ひろしがどうやって現在の現実(小さなわたしの歴史)に帰ってきたか、ということです。イエスタディ・ワンスモアの思想の虜になり家族を捨てようとしたひろしはしんのすけから自分の靴の臭いをかがされて、はっとして正気にかえります。それは「イエスタディ・ワンスモア」の「20世紀の匂い」という大きな歴史の匂いに拮抗する、小さな個人の「靴の臭い」です。そこでひろしは気づくのです。ああ、どんなに普遍化された「匂い」も、「※個人の感想です」という小さな私の「臭い」に過ぎないのだと。
ひろしはあきらめた未来を受け入れ、現実の家族のもとに帰ってきます。このシーンは週刊家族ものアニメのシーンとしてもちょっとどきどきするシーンです。ひろしは家族を捨てて自分の未来のために生きようとしたんですから。もしかしたらはじめて週刊アニメものの類型化された家族が〈私〉のために家族を捨てようとしたものすごいシーンなのかもしれません(ちなみにこの映画ではしんのすけの出血シーンが描かれます。その意味でも脱キャラクター論的映画としてたいへん興味深い映画です)。
このクレヨンしんちゃんの映画のように斉藤さんの連作にもたえず「21世紀の匂い」と「私の臭い」の拮抗があります。これは冒頭に掲げた全郎さんの句もそうです。「おはようございます」という「大きな匂い」は「※個人の感想です」という「私の臭い」によって相対化されています。
つまり、〈感想〉の導入とは、大きな歴史と小さな歴史のあいだにひとつの係争点を提出することなのです。それが今回の結論です。ですから、感想文とは、感想を書くことではありません。大きな歴史と小さな歴史の接点をみいだすこと。そしてそれを〈あなた〉に問いかけること。それが〈感想文〉というジャンルです。歴史の匂いとわたしの臭いのなかで〈あなた〉に語りかけ、語りなおすこと。
あ、そうだ。「※個人の感想です」という言説自体はわたしたちは幼いころからずっとみてきているのです。通販番組です。通販番組では必ず「※個人の感想です」というテロップが出ます。なぜでしょう。
それは視聴者に絶対的な意見をもたせないためです。要は効果がでなくても「怒らないでね」ということです。「違う場合もあるからね」というのが相対性です。「こんなはずじゃなかった」が相対性です。そういった意見をもたせるのが「※個人の感想です」なのです。
だから、通販で素晴らしい商品を買っても効果は出ないかもしれません。身長も伸びないかもしれないし、彼女もできないかもしれないし、宝くじもあたらないかもしれません。ムダ毛もなくならないかもしれないし、ぽっこりおなかのまま生き続けることになるかもしれません。
だから「※個人の感想です」というのはある意味で、絶対性を引き受けるにはどうしたらいいかを考えるための場所(トポス)のようなものなのです。「まだ奥があるよ。でも続きはあなた自身で考えてね。あなたがいま立っているその場所であなた自身のもっているすべてでこれからのことを考えてみてね」。それが「※個人の感想です」なのです。
そしてここまで、〈感想としての文学〉について長々と語ってきましたが、もちろん今回の時評自体もまた「※個人の感想です」。
突き詰めて公式の例外になる 兵頭全郎
相対性じゃなくて責任逃れだよね。個人の感想です、と書きさえすればなんでも責任逃れできるかのように使われるバズワード、としての風刺だわね。しかし柳本さんの文章って、風刺を絶対回避するのが不思議。
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