【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2025年11月21日金曜日

第257号

 次回更新 12/5


第50回現代俳句講座「昭和百年 俳句はどこへ向かうのか」予告 》読む

LEGEND外伝 攝津幸彦こぼれ話/佐藤りえ 》読む

■新現代評論研究

新現代評論研究(第15回)各論:後藤よしみ・佐藤りえ 》読む

現代評論研究:第18回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

現代評論研究:第18回各論―テーマ:「月」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」/米田恵子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃
第二(10/24)仙田洋子・豊里友行・山本敏倖・水岩瞳
第三(10/31)仲寒蟬・ふけとしこ・浅沼 璞
第四(11/21)岸本尚毅・小野裕三・瀬戸優理子

令和七年秋興帖
第一(10/31)杉山久子・辻村麻乃・仙田洋子
第二(11/21)豊里友行・山本敏倖・仲寒蟬

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第七(7/25)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第八(8/22)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第九(9/12)水岩瞳・佐藤りえ
第十(10/10)鷲津誠次・仲寒蟬・浜脇不如帰

■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第21号 発行※NEW!

■連載

英国Haiku便り[in Japan](57) 小野裕三 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり39 山口優夢『残像』 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・5 金光 舞  》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(63) ふけとしこ 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

11月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  

LEGEND外伝 攝津幸彦こぼれ話  佐藤りえ

俳句四季」2025年10月号から12月号まで執筆した「LEGEND 〜私の源流」攝津幸彦評伝の、資料にまつわる話、本編では触れられなかった話など、少し纏めてみようと思う。


・日時計書き下し句集シリーズ
幸彦の第一句集「姉にアネモネ」について、「豈」26号に藤原龍一郎氏が「俳句研究で広告を見て申し込んだ」旨の記述をしていた。当該の号は昭和48年の9月号と思われる。「俳句研究」誌に何度か広告が載っているが、これが最初の掲載だった。第一回五十句競作発表号(11月号)のふたつき前のことだ。

「俳句研究」昭和48年9月号51ページ

「書き下し句集シリーズ第1弾刊行!」とあるから、あるいは第2弾、3弾と続けようという展望があったのか、なかったのか。坪内捻典氏のブログに何度か記事があり、句集現物の画像が載っている。このシリーズについては話題として触れている誰もが実際に「どこまで刊行されたかわからない」という。幻の全巻揃いがあったらおもしろい。


・アサヒグラフ、太陽
「恰幅のいいスーツの体躯に口髭、ウェリントンタイプの細いメタルフレームの眼鏡」第3回の書き出し、そのイメージの源となった「アサヒグラフ」「太陽」のグラビア(?)がこちら。

アサヒグラフ増刊「俳句入門」1988年7月

アサヒグラフ増刊は「入門」と銘打っているものの、俳人の手厚い紹介が主なコンテンツとなっている一冊。引き伸ばし機の前に座る波郷、楸邨の手紙、などカラーグラビアも豊富。幸彦が掲載されているのは「現代俳句のニューウエーブ」のコーナーで、江里昭彦氏が短い総論的な文章を寄せている。他のニューウエーブ(表記ママ)のメンツは江里昭彦、夏石番矢、林桂、藤原月彦、今井聖、金田咲子、田中裕明、長谷川櫂、正木ゆう子、久保純夫、大木あまり、増田まさみ、鳴戸奈菜、松本恭子、浪野聡子、山田径子。編集に齋藤愼爾氏が関わっているせいか、微に入り細に入り、凝った特集という印象。アサヒグラフは何度も俳句の特集を組んでいるが、この号は俳人を概観するという意味で突出している。

太陽「特集・百人一句」1994年12月号

「江戸・近代・現代 100人の名句100」という特集で復本一郎・川名大・仁平勝の三氏が選んだ100人が並ぶ。奈良原一高、神蔵美子など写真家とのコラボレーションにもページを割いている。幸彦の掲載ページは百人一句のほか「現代俳句の地平」コーナーで、上段が写真、下段がエッセイというもの。「静かな談林といったところを狙っている」はこの記事内での発言。ベスト100句に選ばれたのは「幾千代も散るは美し明日は三越」。 
 幸彦の正面を向いた写真がメディアに掲載されたことはあるのだろうか。「太陽」の写真の撮影場所は新宿っぽい。


・恒信風インタビュー
亡くなる9ヶ月前に収録されたロングインタビュー。掲載誌「恒信風」3号には同人選による「攝津幸彦の一五〇句」コーナーもあった。のちの全文集「俳句幻景」に収録されているが、攝津幸彦が自らの口で俳句観、言語感覚を語った、ほとんど唯一の記録となってしまった。じつに貴重な記録だ。



・追悼文集「幸彦」
没後1年に開催された「攝津幸彦を偲ぶ会」席上で配布された、会社の同僚である松永博氏が旗振り役となって完成した200ページを超える追悼文集。各人の思い出話のほか、行きつけのお店MAP、趣味やなじみの街のエピソードなども配されていて、ここまで手厚い本を没後たった1年で作り上げた、制作に携わった方たちの情熱には頭が下がる。
趣味、というより仕事の接待も含め、晩年の幸彦はゴルフに興じていた。酒が飲めないかわりの営業手段だった向きがある。打ちっぱなしで練習していた話なども載っている。体調はかなり厳しかったであろうけれど、見えない努力を続けた企業人・幸彦の横顔である。切ない。
俳句へと進むきっかけを作った伊丹啓子氏の回想では、学生時代の幸彦はノイローゼ気味で、痩せて長身で「キリンのようだった」と語り、後年の様子からは想像がつかない横顔が垣間見える。本人はずっと自身のことを「情緒不安定」「情緒欠如に近い不安定な心」などと書いている。若き日の肖像はそういうものだったのか。
映画研究会の後輩、長瀬充夫氏(文集の発行元スタジオ・エッジの人でもある)の文章には、映研での幸彦の様子が綴られている。攝津東洋のペンネームで機関誌にシナリオや評論を執筆、それが横紙破りなスタイルだった、というのは、学生の頃すでに幸彦的な幸彦だったことを示唆するものがある。


【新連載】口語俳句の可能性について・5  金光舞

  前稿では、堀切克洋の〈文語=世界/口語=私〉という思考のスペクトルを参照しながら、口語表現が俳句にもたらす〈声〉の現前性について検討した。

 越智友亮の〈さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき〉〈掃除機に床は叱られ夏のくれ〉〈紅茶冷ゆ帰省の君は元気そう〉の三句を取り上げ、これらの作品がいずれも景物の描写より主体の心情を前景化し、「もの」から「こころ」へと焦点を転換している点を指摘した。とりわけ「どきどき」「叱られ」「君は元気そう」といった口語的・会話的な言い回しは、説明ではなく体感や気分の直接的な漏出として機能し、読者にひとりの人間の声がそのまま届くような親密な読解空間を生成している。こうした〈声〉の立ち上がりによって、俳句は静物や季語の美を写し取る器にとどまらず、人間同士の関係性や生活の息づかいを語る場へと変貌する。前稿では、この三句の分析を通して、口語俳句の核心が対象の描写を超え、読者とのあいだに新しい関係的な場を創出する文学的可能性にあることを明らかにした。


 さて、前回の連載にあたる第四回までは夏合宿の際にわたしが筑紫磐井先生に見せたものを内容ごとに切り取り、編集したものだった。今回からは色んな場所で口語俳句についてを聞きまわり、ひとりではなく、多くの人の意見を吸収した論を展開し、より口語俳句の可能性について多角的に見てゆきたいと考える。

 今年の九月初旬、わたしは教授に誘われて近現代文学東北インカレゼミ合宿に参加させていただいた。芋煮会をしたり西瓜割りをしたり手花火をしたりしてとても楽しかったのだが、しっかりと口語俳句についても十数名から意見を貰って帰ってきた。意見を交換した中で二人の教授が映画理論の「モンタージュ」について言及したのが印象的だった。ジャンルが少し異なる分野であるように受け取ったためである。

モンタージュ考とは[1]岩本憲児『連続と切断――モンタージュの思想』で「組み立て」として理解されるものであると示される。フィルム断片をつなぎ合わせる撮影後の技術手続きといったただの編集ではなく、撮影前の構成の概念も取り入れる語として組み立てが挙げられている。つまりモンタージュ考で最も意識されることは、カメラを対象に向け、撮影される世界を再構成しようとするカメラマン又は監督の意識問題なのである。


〈クレソンがすこしだけとびだしている〉

〈ぼくいつまでもバカだね きしきしとやどかり〉

〈ハンカチのはりねずみずっと一緒に泣いてよ〉


 今回は俳人の友人である斎建大に「口語俳句の瞬間的な爆発力に振り切った良さがある」と紹介され、気づけばnoteの記事を購入していた[2]田村奏天『ハンカチのはりねずみ』の句を例に口語俳句におけるモンタージュ考について考察したい。


〈クレソンがすこしだけとびだしている〉

この句は、たった一つの静物描写に見えながら、その内部には複数の時間や感覚が折り重なっている。わずかに「とびだしている」という状態の描写は、現在の視覚の瞬間でありながら、そこに至る動きや、その食卓の周囲にある生活の時間を暗示する。明示されていない時間が読者の内部で再構成される点で、この句はすでに一つの瞬間を超えており、静物ショットが別の記憶・行為・生活といったショットを呼び起こすという意味でミニマルなモンタージュとして働いている。同様に、


〈ぼくいつまでもバカだね きしきしとやどかり〉

では、口語的な独白と、「きしきし」という擬音を伴ったヤドカリのイメージという異質な二つの断片が並置されている。心理の現在と別次元の生き物の動きは、本来同一の風景に属さない可能性が高い。しかしこの断絶こそが、読者の内部で新しい意味や関係を生成する。独白の情緒の輪郭が、ヤドカリの小さな動きと摩擦音によって反射されるように立ち上がり二つの断片はモンタージュによる新たな文脈を生み出している。さらに、表題句である


〈ハンカチのはりねずみずっと一緒に泣いてよ〉

では、静物(ハンカチのはりねずみ)と情緒的な呼びかけ(泣いてよ)という、非連続的なレベルの要素が接続されることで、現実には存在しない“話しかけられる現在”が構築されている。これは口語俳句がしばしば作り出す、「生きている現在」ではなく「語り手の役割が演じる現在」であり、まさに編集された時間である。


 これら三句はいずれも俳句が単なる瞬間の切り取りではなく、異質な断片をミニマルに剪接し、その「間」から意味を生み出すモンタージュ装置であることを示している。口語俳句の自立性は、固定した伝統形式の美にではなく、この断片の結合がもたらす創造的な意味生成の運動そのものにこそ宿っているのである。

 口語俳句の仮想敵かつ基盤としてある文語俳句は形式として閉じた「間」を空白の美と呼びモンタージュ的に組み立ててゆく。俳句は語と語、イメージとイメージのあいだにある余白や間によって直接語られない世界を喚起する。その意味で、俳句をモンタージュ装置として読める。

これを[3]俳人・柳元佑太が俳句文芸誌『俳句』で「キメラ」と称していることについて、[4]同誌で俳人・浅川芳直が言及し、論を展開しているのを見た。しかし、この余白を、組み立てを「キメラ」と呼ぶよりも「モンタージュ」とわたしは呼びたい。キメラというと融合・混成の構造であり、要素が一つの身体になることを指す。対してモンタージュとは断片の配置であり、要素が別物のまま結合し、間に意味が生まれるものである。踏まえると、やはりモンタージュと言ったほうがしっくり来るように思われる。

 俳句の自立性とは、伝統形式としての閉じた美ではなく、断片と断片の結合によって新しい意味を持ちあげる想像の運動そのものに見出される。俳句が芸術として自立することは、固定された歴史や形式の内部に留まることではなくモンタージュ的な現在を言葉の最小単位で生成し続けることに他ならない。


[1] 岩本憲児・連続と切断――モンタージュの思想『無声映画の完成』1986年1月10日出版 出版:岩波書店 260頁-269頁

[2] 田村奏天・第四回全国俳誌協会新人賞準賞受賞作『ハンカチのはりねずみ』

https://note.com/play_the_sky/n/n6f0d29e4bdd5 (2025年11月15日取得)

[3] 柳元佑太・写生という奇怪なキメラ『俳句』2022年9月号 出版:KADOKAWA 124頁-144頁

[4] 浅川芳直・悲観的写生説とリアリズム『俳句』2022年9月号 出版:KADOKAWA 138頁-141頁


英国Haiku便り[in Japan] (57)  小野裕三

「海を越えた俳句」の時代を超えて

 『海を越えた俳句』(佐藤和夫著、丸善ライブラリー)という本を読んだ。一九九一年刊行のもので、明治の頃から始まりその時期に至るまでの、haikuの海外での広がりを丁寧に追う、とても参考になる一冊だった。強く共感しつつ読みながら、一方でそれから三十年ほどの間に起きた変化も大きいと感じた。

 ひとつには、「海を越えた俳句」という書名自体が象徴的なのだが、そこには「ようやく俳句も世界で認められるようになった」というニュアンスがある。しかし今の僕が目にするのは、もはや完全に世界各地で定着し、かつそれぞれに独自の進化を遂げつつあるhaikuの姿である。ステージが一段も二段も進んでいる、というのが率直な実感だ。

 そしてそのこととも関連するのだが、三十年前にはなかったインターネット普及の影響も大きい。佐藤氏は、当時の「サンデー毎日」「英文毎日」などのhaiku欄を担当していたというが、おそらくそれらのメディアが読まれるのはほぼ日本国内で、だから投句する人も日本在住の外国人が多かったのではと推察する。それと比較して、僕が現在担当する日本英語交流連盟ウェブサイトのhaiku欄は、インターネットメディアであるだけに、文字通り世界各地在住の外国人から投句が来る。また、Facebookなどを見ても、インターネットが世界のhaikuを生き生きと繋いで進化させていることを実感するし、その意味でもhaikuは「海を越えた俳句」の時代からはさらに進んだステージにいると感じる。

 この本の中では、haikuを発見・評価し海外で広めてきた多くの外国人が列挙される。ただし、たった一人だけ、俳句とhaikuを繋ごうとした日本の俳人の名が記される。その名が、高浜虚子であることは、興味深い事実だと思う。

 haikuならぬhaikaiが隆盛していた戦前のフランスを虚子は訪れ、フランスの詩人たちと俳句談義を交わした。虚子は、フランス語の十七音は日本語よりも内容が長くなることに気づき、十七音にこだわるな、そして社会風刺ではなく季や景色を詠め、とアドバイスしたらしい。さらには、フランスから帰国後も、雑誌『ホトトギス』『俳諧』に外国の俳句欄を設け、また自分の俳句も各国語に訳させた、という。その意味では、最初期の「海を越えた俳句」に取り組んだ文字通りの先駆者は実は、日本では何かと守旧派と目されがちなあの虚子であったし、そのhaiku観も的確であったと感じる。

 それから百年近い時を経て、世界に定着したhaikuはインターネットで繋がった。虚子が生きていたらどう感じるだろうと思うし、僭越ながらその虚子の志をいささかでも僕の活動が受け継げているのだとしたら嬉しくもある。

※写真はKate Paulさん提供

(『海原』2024年9月号より転載)


【新連載】新現代評論研究(第15回)各論:後藤よしみ、佐藤りえ

 ★―3「高柳重信における皇国史観と象徴主義の精神史」―戦前の影響と戦後の変容をめぐって―後藤よしみ

第二章 少年期の感受性と皇国史観との邂逅

 高柳重信の思想形成は、まず自然との深い交感から始まる。群馬の地に育った少年期の重信は、富士と筑波を仰ぎ見る日々の中で、山々に宿る霊魂と心を通わせるような感覚を育んでいた。彼は後年、こう記している。「富士と筑波とを眺めてくらす日々は、…そこには、おのずからの連想力による交感が、自然に準備されていったのである」¹。このようなアニミズム的感受性は、後の自然詠の基底となる精神的土壌であった。

 その一方で、重信の思想形成に決定的な影響を与えたのが、中学時代の歴史教師・久保田収との出会いである。久保田は東京帝国大学国史学科卒で、平泉澄の高弟として知られた人物であり、重信は彼を「心の恩師」と呼んでいる²。久保田の授業は、従来の歴史教育とは一線を画し、感情移入を伴う〈フィーリング〉の歴史教育であった。楠木正成や新田義貞、北畠顕家らの忠義の物語を語る際、重信は「私も同じ誓いの下に死んでゆくのであった」と述懐している³。

 このような教育は、重信に皇国史観的な歴史観を植え付けると同時に、英雄的死への共感を育んだ。久保田は西洋史も担当しており、フランス革命におけるルイ16世の処刑を「まことに残念」と嘆き、スペイン内戦ではフランコを支持していた⁴。こうした授業は、平泉澄の講義と同様、歴史上の人物への「心境推測」を通じて物語を紡ぐものであり、重信の感受性に深く刻まれた。

 重信は、戦時下に肺結核を患い、病床で歴史書を読み漁ることになる。その中には、平泉澄の著作や、吉田松陰・藤田東湖・『神皇正統記』など、皇国史観に基づく書物が含まれていた⁵。妹が敗戦後に発見したこれらの蔵書は、重信の精神的支柱であり、彼の思想形成における重要な要素であった。

 このように、少年期から青年期にかけての重信は、自然との交感による霊的感受性と、皇国史観に基づく英雄的死への共感という、二つの精神的軸を育んでいた。これらは、後の思想的変容においても、深層に残り続けることになる。

脚注

¹ 高柳重信「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』立風書房、1985年。

² 高柳重信「わが心の恩師を語る」『高柳重信散文集成 第十六冊』夢幻航海社、2002年。

³ 同上。

田中正俊『戦中戦後』名著刊行会、2001年。

高柳美知子「思い出すことなど」高柳蕗子HP(潮汐性母斑通信)より。



★ー5清水径子の句/佐藤りえ

 手足うごく寂しさ春の蚊を打てば

 ひき続き『鶸』「白扇」より、昭和45年の作。蚊にとっての適温、活発に活動できる温度は20℃~30℃だという。成虫が活動的になるというだけでなく、この温度帯では卵から成虫になるまでの期間も短縮される。飛びまわり、血を吸い、繁殖する、蚊にとっては繁忙期、人間にとっては少々困る頃合いといえる。

 「手足」をうごかしているのは打たれた蚊で、床に落ちたのちの蠢くさまに、無常の寂しさを見ている。あるいは蚊を打つ動作をした自身の手足に寂しさを見出しているのだろうか。足で打つのはヘンであるから、やはりここはまだ動いている蚊の状態に一抹の寂しさを感じる景としたい。まだ動きが緩慢な春の蚊は思いがけなくあっさりと人の手に打たれ、ぽとりと落ちることがある。

 「悲嘆の声が強すぎる」と指摘されてきたことを径子自身が句集のあとがきで述べているが、直接的な感情表現はそこまで多用されていない。『鶸』集中で「さびし」「淋し」「寂し」の措辞が使用されている残りの6句を挙げる。


 暑さなき一日があり淋しがる 「昼月」

 盤石を踏み舟虫のさびしさは 「火の色」

 くちびるの淋しや秋の山清水 「北の畳」

 落葉焚き煙らすさびしがりやの火 「白扇」

 雲なきはむしろ淋しや寒の入 「寒凪」

 極楽はさびしからずや蓴生ふ  〃


 428句中7句、多すぎるというほどの数ではない。何より「さびしさ」の扱いかたにちょっとした特徴がある。


 「暑さなき一日があり淋しがる」、夏らしからぬ涼しい日を「暑さがない」日として、その物足りなさを「淋し」としている。

「盤石を踏み舟虫のさびしさは」、ごく小さなフナムシが自身の何万倍もあろう巨岩、その盤石の上を歩く、その計り知れなさがフナムシにとって「さびしさ」である、という。

 「くちびるの淋しや秋の山清水」、山歩きのさなか、清水を含んだ口のつめたさ、その体感を、爽やかさやここちよさではない「淋し」としている。

 「落葉焚き煙らすさびしがりやの火」、乾ききらぬ落葉を焚いたものか、いぶる煙を「火がさびしがって」あげたもの、としている。

 「雲なきはむしろ淋しや寒の入」、一月初めの日和の空、寒さのなかのほっとする晴天に雲がないことが「むしろ淋しい」。

 「極楽はさびしからずや蓴生ふ」新芽が顔を出す蓮沼を前に、すでに見知った顔が揃う極楽浄土は、それでもさびしくはないでしょうかと、問わず語りに独りごちている。


 いずれも自身が日常の中でふと寂しさを感じる――というよりは、ある種の違和感、落差、物足りなさといったものを「さびし」と評している。諧謔味をとらえたとき、径子の「さびし」は発動している。 

ここに見る嘆きの詩脈は儚さの嘆きではなく、心を燃やすゆえの嘆き、そこに生ずる浪漫ぶり、私はそんなふうにこの女流の嘆きをうけとる。だから、嘆きがむしろいさぎよいくらいだ。(『鶸』序/秋元不死男)

 師・不死男が評する「心燃やす」「浪漫ぶり」といった傾向は、フナムシや火のさびしさを思うものを言うものでもあろうし、のちの耕衣への敬慕につながる、アニミズムというより、なんとかこの世と溶け合っていこうとする、心の動きのようにも見える。

【連載】現代評論研究:第18回各論―テーマ:「月」その他―  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2012年01月06日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 汽船が灯り月夜の切符二枚重ねて切られる

 「ケイノスケ句抄」(注①)所収の昭和42年の作品である。意味深長な切符二枚はまるで映画のワンシーンの如く、月夜の下にその対象へカメラがズームアップされ、そこからドラマが始まる。そして切符が重ねて切られる事によって二人の関係とそれを切る船員の視線をも意識させられる構図となっている。七・七・七・四の二十五音の自由律俳句特有の長律句であるが、それによって情景が鮮明に浮かび上がり、ゆっくりとした時間の流れさへも感取される。定型句ではこの情景をこのように一つの構成としては纏めきれないのではないか、と思われる。また、この句は次に掲げる連作中の初句であり、それらを含めて時の流れを味わうのもよろしいかと。

 船首に月があるのはそれとして旅立つ   昭和42年作 注①

 船首月にむけておって或る日の乗客       々   注①

 岬の月の時刻を通過する汽船          々   注①

 汽船が一隻月を消し沖へ出て行く        々   注①

 まるで月はその目的であるが如くに汽船がそれに向かって出て行くが、やがては月も汽船も二人の乗客の姿も画面から消え去って行く存在なのである。またそのドラマ性は圭之介の短詩にも共通して表われている。

「パレットナイフ 10」 Ⅲ    注②

消えゆく月と潮流にひそむ変異態

事象は浮き沈みのなかを夜から未明まで

――詩稿未完

 消えゆく月と潮流に浮沈する事象とが暗示するもの、それが未完故にドラマの印象が一層際立ってくるようにも思われる。

 俳句特有の花鳥風月ではないが、やはり「月」の句は圭之介の句稿の中で最多であった。そして「月」に対峙する存在として「沼」や「死」を取り扱った作品も多くみられた。

 「月」と「沼」

 孤独の沼の真ン中の月になる     昭和24年作  注①

 月がこんばんわと沼になる         々    注①

 非具象の月が黒い沼に溶解する    昭和39年作  注①

 微笑が沼のまんなかの月になる    昭和40年作  注①

 沼に月は置いてきて もう落ちた時分  昭和49年作 注①


 「月」と「死」

 死がくる家の月夜の中の木      昭和29年作  注①

 ついに最後 蒲団の裾に月さしている 昭和31年作  注①

 死への過程月影が屋根を重ねる    昭和40年作  注①

 死のすでに月を暗うしている家    昭和42年作  注①


 沼は月と照応する存在として、また同化する存在として位置しており、死は月に包含される存在として表現されている。空間と時間を象徴するかのような月という存在。この様な月に対する感覚は果してどの世代まで受け継がれてゆくのであろうか。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 つひに子を生まざりし月仰ぐかな

 第一句集『榧の実』に収められたきくの56歳の作品である。

 わたし自身に子がないこともあり、掲句の「つひに」のひと言には身を切るような痛みを覚える。

 人間としての充実した時間はこの先まだ続くが、子が生める時代は無情にも限られている。自分で選んだ人生と胸を張ることができても、あるときふと子を残せなかったことへの後悔と罪悪感が胸に湧かない女がこの世にいるだろうか。

 月を仰ぐとは、同じシルエットでありながら大樹や青空を見あげる健やかさとは対極にある。その姿は切なさであり、ひそやかな懺悔を感じさせる。集中に並ぶ

 隠すべき涙を月にみせしかな

も掲句に続く嘆きの涙であろう。

 月は愁訴を吸い込むために夜空に穿った穴のごとく口を開け、女はあふれる涙を夜の闇で包む。そして、月に放った詮ない思いをまた胸の奥にたたみ、日常という時間に戻っていくのだ。

 きくの作品には時折輝くような少女が描かれる。それらは過ぎ去った日への羨望というより、まばゆい若さへの讃歌と、美しいものを愛でるような手放しの喜びが感じられる。

 パンツ穿き口笛上手キャンプの娘 「春蘭」昭和13年9月号所載

 少女等の円陣花野より華麗   『冬濤』所収

 ペダル踏んで朝六月の少女たち 『花野』所収

 子どもを持つことの叶わなかったきくのにとって、出会った少女すべてが可愛い自分の娘のように映っていたのではないだろうか。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 落鮎をなほ寸断の月明り

 昭和48年作。第4句集『狩眼』(*1)所収。

 花・鳥・風の句を今まで見てきたが、今回は月。月といえば、秋の月である。「月」の句は、後半生(昭和46年から昭和55年)の三句集で13句を数える(*2)。三句集合計938句中13句は桜の13句と同数である。句集別だと『狩眼』3句、『雁道』8句、『無畔』2句となる。年次別に言うと、昭和48年、49年、50年が各1句、昭和51年、54年が各2句、52年と53年が各3句となる。

 そのなかで、月の光に何かが照らされているという構図の句を取り上げてみたい。

 落鮎をなほ寸断の月明り 昭和48年作 『狩眼』

 産卵を終えて川を下る鮎の姿は、衰弱して哀れである。死にゆく落鮎の魚体を月の光が瞬時、照らしたさまを〈寸断〉ととらえたところに、玄の眼の確かさを感じる。月光の刃でずたずたに断ち切られた鮎は、若鮎ではなく、〈落鮎〉である。だからこそ〈なほ〉の措辞が生まれたのだろう。感傷に陥ることなく、死の峻厳さを〈月明り〉に託したことによって、詩情が生まれているように思う。

 あるいは、〈落鮎〉に還暦を翌年に控えた玄自身を重ね合わせて読むならば、〈月明り〉の象徴するものは、時に輝かせ、時に死に至らしめることもある「世評」と解することも可能だが、穿ちすぎだろう。

 月光に射しとほさるる薄の身     昭和53年作  『雁道』

 やうやくに月を浴(ゆあみ)の冬の鯉    昭和54年作 『無畔』

 〈薄の身〉を比喩ととるか、実景と見るかで解釈が分かれそうだ。月光に照らされて輝くすすきの姿を〈射しとほさるる〉と受身で捉えたことで、すすきを取り巻く寂寞とした月夜の景が見えてくる。あるいは、痩せさらばえた病身をすすきに見立てたものか。

 〈やうやくに〉は、池の底に潜んでいた〈冬の鯉〉がゆっくりと月下に姿を現した景を詠んだもの。〈月を浴(ゆあみ)〉の中七によって、鯉が自ら月光を浴びに来たと解している点がユニークである。

 なお、自死を考えていた頃の連作「死の如し」における「月」の句にも月光とそれに照らされる何か、という構図が散見される。

 野分先づ月の光を吹きはじむ   昭和22年作  『玄』

 月下また死す恰好になりにけり  昭和22年作  『玄』

 月光のはじめて中る茎の石    昭和22年作  『玄』

〈野分〉と〈月の光〉はともに物の存在を通して感知されるものである。非在が非在を対象とした句の存在をこの句によって初めて知った。

〈月下また〉の句は死ぬ時の自身の姿を想像して畳の上でうごめいている作者の姿が滑稽だ。生の延長線上でいくらもがいてみても死を経験することは人に与えられてはいない。

〈茎の石〉は茎漬けの桶の上に置く重石。月光を浴びることで、普段気にも止められなかった存在が、象徴的な何かに変貌してゆく心理を捉えている。この句の場合では漬物石である〈茎の石〉が「死」を象徴する存在として描かれている。


*1 第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 参考までに後半生の「月」の13句を記しておく。

落鮎をなほ寸断の月明り      昭和48年  『狩眼』

月の出の虫売つねに憂かりけり   昭和49年  『狩眼』

畦焼きの月はあやふくかかりける  昭和50年  『狩眼』

月の出を待つ神妙のありにけり   昭和51年  『雁道』

見おろしに月が光とならむ時    昭和51年  『雁道』

月遠くものみな遠く息一つ     昭和52年  『雁道』

月今宵ありのままなり明日のため  昭和52年  『雁道』

月今宵木槿は木槿出づるなく    昭和52年  『雁道』

在りながら山ゆく月の若牛蒡    昭和53年  『雁道』

月明の箸を逃げたる甘煮藷     昭和53年  『雁道』

月光に射しとほさるる薄の身    昭和53年  『雁道』

やうやくに月を浴(ゆあみ)の冬の鯉   昭和54年  『無畔』

身の置きどころとて真葛原月もなく    昭和54年   『無畔』


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 良夜疑わず鯉こんじきの頭を揃へ

 『過客』(1996年)所収。「唐招提寺観月会」との前書きを持つ句。

 葦男の歿後、彼を欽慕する関西俳人たちが創刊した「一粒」no.1(1997年3月)には、1983年1月から1993年4月に至る10年余の詳細な年譜が掲載されている。この年譜を読み込んでゆくとたしかに1989年(平成元年)9月の条に唐招提寺観月会の文字が見える。だが、ここで注目すべきはその直後に続く(俳句研究二年十月号九句)という記述である。「俳句研究」平成2年10月号にこのときの作品9句を掲載の意。つまり葦男は、平成元年9月の奈良旅行を題材にした作品をちょうど1年のあいだ寝かせておいてから「俳句研究」誌上に発表していたことになる。

 実際、生前の葦男を知る複数の人々の証言によれば、晩年の葦男は常に1年分の作品をストックしており、商業誌の需めに応ずる際などには前年同時期に詠んだ作品を寄稿することが多かったという。締切日オーバーや欠稿等で編集者に累が及ぶのを嫌うプロ意識のなせるわざか、それとも「句日記」と題して「ホトトギス」に1年前の作品を連載し続けた高浜虚子の顰みに倣ったものか。真意は不明であるが、「11月某日までに新年詠30句」などと注文して平然としている月刊誌の無体な要求に対する、葦男一流のささやかな抵抗だったのかもしれない。

 そんな気がしたのも、冒頭の句に出会ったからである。作者は金色の鱗をまとった見事な鯉が頭を並べて悠々と泳いでいるさまを見て、まことめでたい気分に満たされている。そして中秋の名月の照りわたる素晴らしい夜の到来を確信している。しかし、決して今年の良夜を目撃したわけではない。「良夜疑わず」という表現は、今年の十五夜の月を未だに観ることなく「良夜想望俳句」を発表するのだという葦男の微妙に屈折した心理の正直な反映なのである。ある種の俳人たちは、平素、季感や実感を後生大事に云々し、眼前嘱目の景物との実存的邂逅をひどく重視する。いわば「制作時点主義」の信奉者なのである。そのくせひとたび活字媒体からの要請があれば、たちまち「掲載時点主義」に宗旨替えをして恬然としている。この句の切っ先はそのような俳壇特有の「隠蔽された大矛盾」にも果敢に突きつけられている。

 晩年、葦男は有季定型に回帰したとも評される。しかし、季語に対する身構えを解き、季に寄り添い季に遊ぶかに見える一方、「良夜疑わず」の句に隠された鋭利な仕込杖の如き批評性はなお健在であった。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 さよなら貴男 月夜のすべり台地底まで   諧弘子

 いまここに逢瀬の真っただ中にいるふたりがいる。ふたりが互いに抱きあっている情熱もさることながら、「逢瀬」の真っただ中にいることががもたらす昂ぶりのありようというのは、当事者たるふたり以外にはなかなかにわかりづらいものであろうか。さてここに熱く昂ぶりあった時間が過ぎ去り、別れの時が訪れた二人がいる。この別れが単に「じゃあまた明日、また今度ね」というものであれば、ふたりとも今日の抱擁のぬくもりとともに次なる「逢瀬」への期待を持ち帰ることができる。だがこの一句に登場する女性(としておこう、あなたを「貴男」としてあるだけに)には、いかなる理由かはわからないが、もう次なる「逢瀬」の時は訪れなくなってしまった。「さよなら」も単なる挨拶にとどまらない、真の決別を告げる言葉となってしまった。月の光が満ち溢れたこの空間で、かつて数えきれないほどにささやかれた愛の言葉と彼の全身がもたらしてくれた愛撫は、彼が去っていってしまったこの空間において次第に彼女の体と心に深く突き刺さった棘となってゆく。彼を失った痛みはいよいよ彼女を苦しめ苛む。かつての「逢瀬」のひとときに彼が自分にもたらしてくれた高揚感が、彼女の痛みをさらに増幅させる。彼の姿がいなくなったこの瞬間に、「月夜のすべり台」をただまっすぐに滑り落ちてゆくばかりの彼女の心は、きっとこう思わずにいられないのだろう「奈落の底って、こんな感じかしら」。

 掲出句は1965年(昭和40)度の第8回「青玄新人賞」を受賞した30句の中の一句。導入の「さよなら」からの「地底まで」の一連の流れはそれこそ「すべり台」を一気に下りてゆくかのような勢いが感じられ、作品のドラマティックさをより際立たせ、ひとりの女性の悲嘆は一句を通じてひとりの女性の物語へと広がるのだが、受賞30句をまとめてみると、別れのドラマが展開されているのは実のところこの一句のみ。一連30句を彩るのは、次のような愛の希望にあふれたドラマを生きる女性の姿であったりする。

 気絶の真似して 梅林でたゞ 夫が好き

 春風刈りに 夫も大きいてのひら 下げ

 子はこうやって抱くのかと 干し物とり込む夫

 わたしが待つから夫が帰る 愚かでない

 愛妻俳句ならぬ「愛夫俳句」とでも呼びたくなるこれらの作品を見た目で掲出句を見直してみると、別の意味で作品の落差に驚かされるところもあるのだが、どちらに一句においてのドラマティックさの打ち出し方の強さにおいては共通している部分は多い。「気絶の真似」「春風刈り」は夫とともに過ごす時間がもたらしてくれる昂ぶりをさらに増してくれる大切な手立てともなっているし、「子はこうやって抱くのか」の句では自分の子をいつかこの人が抱いてくれるのだ、との確信が彼女をより昂ぶらせ、夫との関係に対する自信が全身に漲らせるのだ。

 掲出句に登場する愛を失った悲嘆の真っただ中にいる女性と、「愛夫俳句」に登場する夫からの愛を信じ、自らも惜しむことなく愛を注ぎ込む女性、どちらもいまこの時においては自らの悲嘆をまっすぐに嘆き、自らへ注がれる愛への参加をまっすぐに唄う。そのドラマティックなまでに堂々とした態度は、辟易してしまった読者をして、「そんな人本当にいるのか」との疑問をもたげさせてしまうこともあるかもしれない(それははじめて読んだ時のわたしのことであるわけで)。しかしもしかしたら、あまりに物語的で典型的であり続けていることこそが、これらの作品群の魅力の源泉でもあるのだから何とも厄介ではないか、と感嘆したくもなるのである。たしかにここに出てくる女性たちとは、私たちはどこかですでに出会っている、もしくはこれから出会うのかもしれないのだから。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 月の村川のごとくに道ながれ     五千石

 第三句集『琥珀』所収(*1)。昭和六十一年作。

 このところ、意識的に第三句集『琥珀』の作品を挙げてきた。『琥珀』の秀句を紹介したいとの思いからだ。

 五千石の句は第一句集『田園』が斗出して評価が高く、それ以後の『森林』『風景』『琥珀』『天路』は軽視されすぎる傾向があると思っている。たしかに、『森林』『風景』あたりは発展途上の感もあり、『田園』ほどのインパクトがないのも事実。だが第三句集『琥珀』は、「眼前直覚」以降の五千石の充実期であり、練られた表現、詩情豊かで技が光る作品が多く、五千石俳句の最高峰は『田園』よりもこの『琥珀』ではないか、と個人的には思っている。

     ◆

 掲出句。

 ふつう「ごとく」を使う場合、全く別次元のものを引き合いに出すのが、比喩の醍醐味であり、飛躍を生む秘訣だと思う。「貫く棒のごとく」のごとく。

 だが、この句では「道」を「川」に例えている。どちらもごく自然に、身近に存在するもので、言うなればかなり近いものと言える。大いなる水の流れ、つまり川、その近くに人が集まり、生活が形成され、道ができる。川沿いには必ずといっていいほど道がある。この意味でも「道」と「川」は関係性が強い。比喩としての飛躍に乏しいように思うのだが、一句として仕立てられたとき、違和感なくすっと入ってくるから不思議である。これが先に述べた、さり気ないが、地に足のついた技とも言えようか。

     ◆

 この句に前書はないため、どこの景色なのか、本当に存在する村なのか、それは分からない。だが、この道は車のヘッドライトが行き来するような道路ではなく、山間のひっそりとした村、鄙びた屋並みを通る村の道が想像できる。世界遺産にも登録された白川郷などを思ったりもする。

     ◆

 「月の村」と上五に置くことで、まず大づかみの把握を読者に促し、「川のごとくに道ながれ」で、景色としての村の在りよう、道の存在を提示する。高台から村を見おろしているような浮遊感を感じるのは、「月の村」という上五の効果であり、「川のごとくに」「道ながれ」によって月の光りに浮かぶ幻想的な村の道を静かに喚起する。

 「川」や「道」「村」という何気ない現実的な言葉を使いながら、この句の景色がどこか現実離れしているように感じるのもまた、「月の村」という言葉の不思議さから。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 月下美人展くや熟年めく恥らい

 「野の会」昭和56年6月号より。全句集には収録されておらず、『自選自解楠本憲吉集』に収録。

 日本的な季語である「月」はあまりにも日本的情緒のまとわりついているせいか、憲吉には名句が少ないようである。憲吉の句に「月」の句をまれに見ても日本的情緒を排除している句が多い。

 月爪のごとしこの恋泥のごとし

 残忍にひらく月下の恋いくつ

 羸痩わが胸に影して月の山毛欅

 一方で、「月」のつく「月下美人」というサボテン科の花には、憲吉の想像力を羽ばたかせるものがあるのか、題材としてしばしば詠んでいるようである。作品そのものも無理なく憲吉調を発揮している。

 妖と開き煌と香りぬ月下美人

 月下美人かっと目ひらき明日フランス

 掲出句に戻り、「熟年めく恥らい」という把握はいかにも憲吉らしいものがある。熟年になれば恥じらいがないのではないかという常識的な解釈は憲吉の取るところではない。若い女性の鈍感さを、憲吉ほどになるとよく分かっている。厚かましいように見える熟年女性に、ある瞬間、恥じらいの表情が素通りして行くことがある。それを妙と思っているのである。こうしたところに憲吉の独自性がある。

 最近のお笑いでいえば、一時、綾小路きみまろが中高年の女性をいじっていたのが、このごろはピースの綾部、オードリーの春日、ロバートの秋山などが熟女好きを芸にしている。楠本憲吉は20年早かったのだ、芸人としては。


(修正)前回の、「戦後俳句を読む」(17)で、

 翼重たくジャンボジェット機も花冷ゆる

をあげて、ジャンボジェット機を取り上げた初期の句(45年7月でJAL就航)と述べたが、この句は昭和50年の句であった。しかしこれに先立つ昭和46年の句に、

 秋暑しジャンボジェットが人吐きおり

があったことを見落としていた。訂正し修正する。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 月夜から生れし影を愛しけり

 優雅で謎めいている。

 月夜から生れた影、それは物語のはじまりのようだ。

 敏雄に恋、愛の句を見つけるのは難しい。上掲句は、人に恋するのではなく、影を愛する句であることが憎い。掲句は『まぼろしの鱶』に収録される。制作は昭和20年代、敏雄25~35歳の頃である。

 月影ではなく、月夜から生れた「影」である。それをどう捉えるのかを読者に委ねるしかない俳句形式の短さはまさに宿命的である。ナルシストと思える敏雄がもう一人の自己を愛すること。月夜に蘇った断ちきれぬ想いを投影する影と読めようか。

 人は深い傷を負った頃の自己の影に突然遭遇することがある。月夜の艶めかしい光の中で忘却の彼方へ置き去りにされた影が生まれたかのようだ。蘇った影さえも愛すべきこととして捉える余裕。穏やかで平坦な時間。「生まれし影」に雅が、そして「愛しけり」に切ない余韻が残る。

 映画『過去のない男』(2002年/監督・脚本・制作:アキ・カウリスマキ)の中で暴漢に襲われ記憶を失った主人公が飲んだくれの男に「過去なんてなくても心配ない。人生は後ろへ進まない。」と言われる。様々な境遇、様々な想いを抱えつつ登場人物達は日常を淡々と生きる。リセットしたいとおもいつつ人は簡単に過去から解放されない。

 生まれてしまったものは生きてくしかない。過去から現れたもう一人のわれの影と読みたい。人間の悲哀、愛らしさが感じられる。青年期の敏雄の高い精神性が伺える句である。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 たたみ一畳亡骸を乗せ月のぼる

 第1句集「地霊」所収の作品である。

 千空に月の句はさほど多くない。生涯の句集6冊に収められた句は20句に満たないであろう。派生季語に目を広げても、僅かに以前(於第2回)採り上げた、

 墨磨れば墨の声して十三夜   『白光』

など数句があるのみである。

 しかも、半数近い8句が第1句集の「地霊」に集中している。

 その時期の作品は、掲出句や、

 直截月の光の病ここに

のように、どちらかと言えば重く暗い雰囲気のものが目に付く。また描かれた月は冷たい存在、或いは畏敬すべき対象になっているのである。

 それが時代を経るにしたがって、

 三日月を天上に鳴く恋蛙      『天門』

 水の香のまんまる月夜母子像に   『忘年』

 などのように明るい作風の句に変わっていき、月は親しみやすい存在に転化する。

 その変化がどこから来たものか確たることは不分明であるが、この変化は、千空の作品世界において、鋭敏な感性が句作の原動力となった青壮年期から、句業を重ね、さまざまな人生経験を経た、ある種の懐の深さを見せる句風への転換を示す典型例だと思えるのである。


●―14中村苑子の句【『水妖詞館』―あの世とこの世の近代女性精神詩】49、50、51、52  / 吉村毬子

2014年10月17日金曜日


49 海へ残すくるぶし赤き影法師


「渚」         北原白秋『海豹と雲』所収 

﨟たさよ、しろき月/炎(ほのほ)しろく、/雲の翼(はね)はろばろに/行き流れぬ。/釣舟の漕ぎいづる/入り江ちかく、/さざなみの彩(あや)織(おり)に/魚(び)籠(く)ひたせば。/光るなし、かげるなし、/夕満ち汐、/うらもなし、うつつなしし、/膝、くるぶし。/夕暮れよ黄金虫/うなり過ぎて、/さんごじゅの花の香のみ/蒸しにほひぬ。


 「海」と「くるぶし」に因んで、苑子の好きな北原白秋の詩を書き出してみた。

 掲句は、白秋の詩の如き夕陽の照らす「海へ」、「影法師」だけを残して去って行ってしまったのだ。痛々しく丸い「くるぶし」を赤く染めて。

 「くるぶし」=踝の〈果〉は、丸いくだものの実が木になっている樣を描いた象形文字のことであり、「くるぶし」が丸い形の骨であるため、〈足〉+〈果〉で〈踝〉となった。私は、足の果てだと思っていたのだが…。「くるぶし」は足首の外側に出ているので、夕陽をより受けて「赤き」とする物理的な読みにもなるが、「くるぶし」という足首に付随する部位は、足袋や靴下類で隠す部分であるせいか、足首とともに艶を持つ響きがある。

針供養女の齢くるぶしに         石川桂郞 

くるぶしの露けき頃となっており    川崎展宏 

うつくしき踝をもつ秋の霊       宮入聖 

くるぶし痛しむかし山には羽ありき   阿部完市 

旅人のふと日野の穢のくるぶしか    安井浩司 

くるぶしのすとんと暮れし神集い    攝津幸彦 

くるぶしに日暮れを寄せて麦を踏む   黛執 

実朝忌くるぶしに来る地の冷      鍵和田秞子 

くるぶしの砂におぼるる浜豌豆     片山由美子 

くるぶしの際ぬけてゆく春の水     桂信子

 「くるぶし・踝」の句を拾ってみた。男女の俳人ともに女の「くるぶし・踝」とおぼしき句が多い。

 石川桂郞の「針供養」や川崎展宏の「露」は、慎ましやかな女を思わせ、宮入聖の「うつくしき」と「秋の霊」に、若々しく清潔なエロスを見る。阿部完市は、自分のくるぶしの痛さから民話性を呼び、安井浩司の「穢のくるぶし」が女のものであるのなら、その意味に慄然とする。攝津幸彦の「暮れし」が必ずしも日暮れの時刻を表現していないとしても、「くるぶし・踝」は、黛執や苑子の句のように日暮れ時を連想させるものもある。日暮れ時は、人にもの思わせる時間であるのかも知れない。

 女性俳人の句は、それぞれ水辺が舞台の作品である。水辺で足袋や靴下を脱ぎ、足を水に浸したり、砂浜を歩いている様が「実朝忌」や「浜豌豆」、「春の水」の季語と相俟って、「くるぶし」が自身の心であるように水や砂との交感の機微が繊細に表現されている。

 桂信子の句は、句集『初夏』(昭和52年刊行)所収の作品である。昭和48年秋~49年と記述があるので、信子が58、9歳のものである。「際ぬけてゆく」の表現に信子の諦念が透ける。「くるぶし」というたわわに実った足の骨の際をすりぬけてゆく水は、ものみな生き生きとし始める「春の水」である。春光に輝く水が春の愁いを纏った信子をかわしていくようである。直情から洩れるその詩に、ある種の艶めかしさは確かにあるが、明るい「春の水」なだけに、憂いを覚える。句集は編年体のため、各章にタイトルをあしらった句集のようなイメージで括れないが、48年秋~49年の1年半だけの句の中には、寂寥感の滲み出る句や、ときには、緊迫感を伴うような句もある。

毒茸を掘って真昼の日にさらす   信子『初夏』昭和52年

相模野の春暮になじむとりけもの       〃  〃

濁り声に身をとりまいて大根焚        〃  〃

春の土荒れて筋引く竹箒           〃  〃

総毛だつ紙の手ざわり春の暮        〃  〃

惜春の竹の幹うつ石つぶて         〃  〃

 ここに掲げた句が、390句にも及ぶ句集全体を貫いている訳では決してないので、誤解のないように読んで頂きたいのだが、〈くるぶしの際ぬけてゆく春の水〉の私の鑑賞に至った理由として掲げたまでである。

 「人生は女の日記じゃない。」と言ったのは、サガンの小説『ブラームスはお好き』に登場する青年シモンであるが、(年の差を気にして身を引こうとしたポール(39歳)に言ったシモン(25歳)の言葉である。)編年体の句集とは、微妙な心の動きが日記のように見えてしまうことを識った。『水妖詞館』のような、各章にタイトルを付けてまとめた句集は、映画を編集するように、作句時期の前後を考えず各章ごとにイメージを展開すれば良いので、時間経過に伴う心理状況は解らない。

 桂信子は、大阪出身で(大正3年生まれ・平成16年沒90歳)、20歳から90歳までの70年間を俳句とともに生きた、まさに人生が俳句の人であった。昭和13年から「旗艦」に投句。日野草城に師事し、同人になる。その後、「まるめろ」「太陽系」「青玄」を経て、45年に「草苑」を主宰。

 平成19年、私が所属誌『LOTUS』9号に書いた随筆「エロテイシズムのかたち―『女身』桂信子―」の一部分を抜粋する。

いつの世も朧のなかに水の音   桂信子 

 嘗て『女性俳句』という超結社の俳誌が存在した(1954~1999年)。此の句は、終刊号に全会員が一人一句発表した際の作品である。 

少年美し雪夜の火事に昂ぶりて  中村苑子 

秋刀魚焼く煙の中の割烹着    鈴木真砂女 

 苑子や真砂女は独自の俳句性を表現した作品を載せているが、信子の作品には『女性俳句』創刊に関わってから、終刊に至るまでの思いの込められた句のように感じられる。亡くなる10年前の作品ではあるが、永きに亘る俳句人生の中でのひとつの終幕への感慨がこの作品を通して伝わってくる。移り変わる朧なる世にひとつの生命を育む水の音を聴いて自分は生きてきたのだと―。強く静かに鳴り響く水の音は果たして信子自身であるのかも知れない。(中略)1995年の『女性俳句』65号〈湧泉集〉の「強霜」に私は強く引き付けられた。 

寒暁や生きてゐし声身を出づる 

人小さく凍てて地の揺れ思ふまま 

とこしえに地球はありや寒星座 

地震あとの春待つ顔をあげにけり 

人間を笑うて山の覚めにけり 

 此の5句を含む阪神・淡路大震災に基づくと思われる15句を発表している。桂信子を語る時、有名無名を問わず人は、誠実で潔癖であると言う。この句群を目にした時は、まさしく誠実と潔癖を感知した。先に掲げた『女性俳句』終刊号の1句を読んだ時も同じ思いであった。いつの時代も常に真摯に物事を女身ひとつで受けとめ、熟知し、自然や人間を悲しみ、慈しむ、従来の感性が句作を重ね、より研ぎ澄まされ生き抜いた俳人であると私は確信する。(後略)

 信子は、私が折りに触れ書き記している「女性俳句」の8人の発起人の一人であり、長きに亘り女性俳人のために貢献した中心人物であった。(大会でお会いした印象はいつも穏やかな笑顔であった。)平成23年の東日本大震災の時、信子は彼の世の人になっていたけれども、今も天上で鎮魂句を詠み続けているような気がしてならない。

 苑子は、信子と同世代であり、親しくしていたが、高柳重信は苑子よりもずっと以前に信子と交流していた。『桂信子句集』(昭和58年立風書房発行)の栞「桂信子句集ノート」の重信の文章「若き日に」の最後の部分を引く。(この『桂信子句集』は6月15日発行であり、同年7月8日に重信は亡くなった。)

(前略)その頃(昭和十六年)の桂には 

夫逝きぬちちはは遠く知り給はず 

という句があるが、これを読むたびに私は涙ぐましい思いでいっぱいになる。また、桂信子のことを考えるたびに、なぜか私は、この作品を真先に思い浮かべるのである。

 それから、四十数年が過ぎてしまった現在、たぶん桂や伊丹や私にも、それぞれ大きく変貌を遂げているところと、少しも変化していないところがあるに違いない。だが、いまなお、過ぎし日の健気さを殆んど失わずにいるのは、おそらく桂信子であろう。その健気さこそ新興俳句の心意気と思う私にとって、いま桂信子の健在は心の支えの一つでもある。

 同じ栞の飯田龍太の「桂信子さんのこと」の冒頭を引く。

 結論を先に言ってしまえば、桂信子さんは、俳句に対する識見、あるいはそれを裏から支える実作に対する情念のありように於いて、現代女流俳人の第一人者であると、私は確信している。 

 いや、私の見識などと、改めて見栄を切ることもないだろう。いま、俳壇おお方の良識は、そこに帰着するように思われる。(後略)

 藤木清子や橋本多佳子らとも交流し、彼女らの残したものを胸に抱きつつ、日野草城、山口誓子を継承しつつ、独自の女性としての俳句を、その人生を懸けて詠い続けてきた信子の姿勢は、誰もが認めるところである。結婚2年後の昭和16年(26歳)、夫を亡くしてから永きに亘る句業の間に、幾多の句友を見送って来た。書き綴る晩年の句には、微妙な心情が語られている。

忘年や身ほとりのものすべて塵  信子『樹影』平成 2年(76歳) 

死ぬことの怖くて吹きぬ春の笛  〃 『花影』平成 7年(81歳) 

元日や如何なる時も松は松   〃 『草影』平成15年(90歳)

 1、2句目の心情の後、新年を迎えた信子の3句目のゆるぎない決意は、一貫して歩んだ自身の俳句人生を物語るにふさわしい、厳しくも格調高い一句である。そのゆるがぬ俳句への思いを貫く為に捨てたものもあったであろう。昭和22年(32歳)の次の句を見ても一生を一人で過ごした女人の姿として哀切の感に堪えない。

雛の灯に近く独りの影法師    信子『月光抄』昭和24年

 女一人の「影法師」は、女身の実体そのものよりも昏く悲し気である。今回の苑子句の「影法師」も一人の女の不幸を物語っているかのようである。顕になった「くるぶし」のように、女人の「影法師」の真実の暗さは夕陽にありありと照らし出されるのである。前回の〈47.はるばると島を発ちゆく花盥〉で私がこだわった佐渡情話のお弁の「くるぶし」と「影法師」も思い浮かんでくる。水辺に残された女達の「くるぶし」と「影法師」を今宵も細波が揺らすであろう。 

ひとり臥(ね)てちちろと闇をおなじうす  信子『女身』 

桃の宿ひとり遊びの影踊る        苑子『吟遊』  


50 澪標(みをつくし)身を尽くしたる泣きぼくろ

 掲句について苑子自身が自註している文章がある。(『現代女流俳句全集第四巻』昭和56年講談社所収)

 いささか甘くて気恥ずかしいこの句が、どうしてか男の人に好まれている。 

 ある日、横須賀の港で浮標(ブイ)を見ていた。頭を赤く塗ったコンクリートの巨大なものだったが、浮標(ブイ)という文字の関連から澪標(みをつくし)という音が必然的に「身を尽し」と心に入ってきた。 

 目の前の浮標(ブイ)から解かれて港を出てゆく船もあれば、入港して浮標(ブイ)に繋がれる船もある。その船で働いているおおかたの船乗りたちは家に妻を残してきているであろうし、実際に見送りに来て何か荷物を渡している女の人の姿も見えた。そんな風景を眺めているうちに、ひとりの男に全身全霊を捧げて尽す、おとなしく優しい女の姿が浮かびあがり、いったん船出したら、いつ帰るかも判らない男を待ち続けて、何ごとにも耐えて淋しく暮らしている女を表現するのに「泣きぼくろ」という名詞が泛んだ。こうした女は、いまは幻の存在でしかないであろうし、それ故に男の人たちは、ひたすら渇仰するのであろう。

 「澪標」は「身を尽くし」にかけて和歌で多く詠われている。万葉集には「遠(とおつ)江(おうみ)引(いな)左(さ)細江の澪標吾を頼めてあさましものを」などもある。冒頭で「いささか気恥ずかしいこの句」と本人が語っている通りであるが、最後の一行の「こうした女は、いまは幻の存在でしかないであろうし、それ故に男の人たちは、ひたすら渇仰するのであろう。」に妙に納得してしまうのである。

泣きぼくろ彼女もちけりけふの月   山口青邨 

石竹の美少女なりし泣きぼくろ   倉橋羊村

 「泣きぼくろ」は、今や男が〝ひたすら渇仰する〟女に似合う。青邨や羊村の若き時代はそうした女が存在していたのだろう。(羊村句の「石竹」は撫子のことである。)

 けれども、「泣きぼくろ」がなくとも「身を尽くしたる」女は現存しているのではなかろうか。10年程前までは、そんな女流俳人が確かに存在していたのだ。鈴木真砂女(明治39年生まれ・平成15年没96歳)は、その波瀾万丈なる人生が、小説や芝居にもなっているが、真砂女のその人生の折り折りの女の俳句を苑子の掲句に重ねてしまうのである。

 真砂女は、千葉鴨川の有名旅館の三姉妹の末娘に生まれ、結婚後夫が失踪し、家に戻るが、亡くなった姉の替りに家の為に義兄と結婚する。30歳の時、7歳年下の海軍将校と恋に落ち、50歳で家を飛び出し、銀座にて小料理屋「卯波」を営みながら俳句を書き続けた。俳句は亡くなった姉の影響で作り始め、大場白水郎主宰の「縷紅」に投句。戦後「春燈」で久保田万太郎、安住敦に師事。昭和29年創刊の「女性俳句」の発起人の一人でもある。

 平成4年(私は平成2年から俳句を始めている。)銀座「卯波」の暖簾を初めてくぐった。会社の先輩が句会を体験したいからと、編集者の友人に勧められ、予約をしてしまったのである。私は断わり切れず、先輩達と句会らしきものを始めた。(2、30代の女性ばかり5、6人で、俳句を習っているのは私と石原八束の教室へ通っていた同僚の2人だけであった。)そこへ真砂女が現われ、「どちらの結社の方達?」と尋ね、私は冷や汗をかきながら「中村苑子先生のところで勉強しています。」と答えると、「まあ、苑子さんならよく知っているわよ。」と笑顔で仕事に戻って行った。暫くすると、真砂女は、赤ペンを持ってきて一人一人の句に添削をしてくれたのである。私の拙句、

父の忌や春暁いまだ暗くあり   広美(毬子)

の下五を「明けやらず」と修した。苑子も同じように修したと記憶している。(その「卯波」での稿を大切にしていたのだが、その他、窓秋の扇子や苑子と食事した折りに書いて頂いた2枚のコースター等々、俳句関連のものが家に泥棒が入り、盗まれてしまい、本当に残念でならない。)後日、私がその「卯波句会」の事を話した先輩に皆に言ってはいけないと言われたが、苑子にだけは謝りながら、恐る恐る話すと、「先に言ってくれれば、真砂女に話しておいたのに。」と残念がっていただけで、事なきを得た。苑子と真砂女は、「春燈」で8年間共に学んだ句友であった。それから、2、3年後、苑子や先輩達と「卯波」へ食事に行った際、(夏だったからか、真砂女は御手製の紺地に白の水玉のワンピースを着ていて、少女のようであった。)一番端の席を指して、苑子が言った。「ここが例の人の定席だったのよ。」と。

羅や人悲します恋をして       真砂女『生簀籠』昭和30年

罪障の深き寒紅濃かりけり       〃   〃 

女体冷ゆ仕入れし魚のそれよりも   〃 『夕螢』昭和51年 

水さびし空もさびしと通し鴨       〃  『都鳥』平成6年 

死なうかと囁かれしは螢の夜      〃   〃 

人を泣かせ己も泣いて曼珠沙華    〃 『紫木蓮』平成10年

 これらの作品を読む時、不倫という一言で片付けてしまえない時間の重さを感じる。泣きながら仕事をしながら俳句を書くことで自身を慰めてきたのだろう。けれどもその悲哀を綴るほど悲しみが募っていったのではないだろうか。

 ―さる人の死を悼む―

かくれ喪にあやめは花を落としけり      『居待月』昭和61年

忌七たび七たび踏みぬ櫻蘂            〃

 掲句は、昭和61年の句集『居待月』である。「かくれ喪」に泣き、咲き散らした花の「蘂」を踏みながら、毎年一人で愛しい人の忌日に手を合わせたのであろう。句集『紫木蓮』は、平成10年(92歳)刊行であるが、〈人を泣かせ―〉の他に〈酒強く無口な人の墓洗う〉の句もあり、30歳で恋に落ちてから、96歳で亡くなるまで、60年以上(その人が亡くなってからも)愛し続けていたのではないかと思うといじらしいばかりである。

夏草や一途というは美しく           『夏帯』昭和43年

 この句に書かれている「一途」を貫き通した訳である。冒頭で苑子の語っている文章に登場する船乗りの妻のような真砂女は、海軍将校であった亡き人のいる彼の世に旅発ったのだ。

 源氏物語の「澪標」の巻は、源氏28歳から29歳の1年余りである。海辺で生まれ育った真砂女は、通行する船に通りやすい深い水脈を知らせる「澪標」の如く、その生涯を懸けて一人の男に「身を尽くしたる」女であった。苑子もまた(25年間ではあったが)、後半生「身を尽くしたる」覚悟であったが故に、今回のこの句を詠んだのではないかと私には思えてくるのである。

 その昔の「春燈」姉妹は、故郷を出てから戻ることなく、東京の地で愛する男と俳句に身を尽くし切った人生であった。

ふるさとの蔵にわが雛泣きをらむ     真砂女『紫木蓮』 

振り向けばふるさと白く夕霰        苑子 『花隠れ』


51 人妻に春の喇叭が遠く鳴る

 20年近く前に苑子から掲句について質問を受けたことがある。

 「今の若い人はこの句をどういう風にとらえるのかしら?」私は、「人妻の経験のない私ですが、人妻となりそれなりの倖せな生活を送っているこの句の女性が、春のある日、呆けた喇叭の音を聴いていると、遠く置き忘れたもう戻ることのない青春の甘く熱い日々を思い出す、ノスタルジー的な詩を感じます。」と答えたが、彼女は微笑んで聴いているだけであった。

 高橋睦郎の「中村苑子二十句恣解」(『鑑賞女性俳句の世界第3巻』平成2年角川学芸出版所収)に、この句についての文章がある。

 人妻とはどれほどの年齢をさすか。年齢よりも結婚以来の歳月。花嫁や若妻よりは時が経過しているが、まだ人の妻になったという匂いが残っている。人を夫と言い換えれば、心身ともに夫と馴染んで来た頃あいをいうといっていいのではないか。その人妻に春の喇叭が鳴る。喇叭は豆腐屋の喇叭でも、吹奏楽の喇叭でもいいが、ここはやはり軍隊の進軍喇叭と考えたい。 

 春眠暁を覚えず、夫はまだ床の中にある。妻はすでに起きて、飯を炊き汁の実を刻んでいる。その幸福を嫉むかのように喇叭が鳴り、夫を戦争に拉致しようとする。妻はその音を夫に聞かせたくないが、けっきょく夫は聞くだろう。聞いて軍隊の拉致に委せるだろう。男は平安な時間が破られることをどこかで望んでいる。それもまた男の性の真実であるだろう。遠い喇叭はたちまち近くなる。

 戦争を知らない世代の私にとって、「軍隊の進軍喇叭」とは、思いもよらなかったが、苑子が佐渡出身の新聞記者と結婚したのは、昭和7年(20歳)のことであるから、その見解が案外当たっているのかも知れない。苑子の夫は、昭和19年に報道班員として派遣されていたフィリピンで戦死している。苑子は「私の内部で以来、戦争は終りを告げない。」と語っている。

 苑子の夫は帰らぬ人となってしまったが、苑子のように愛する人が戦地から帰るのを待っていた女流俳人がいた。

 細見綾子である。

帰り来し命美し秋日の中    綾子『冬薔薇』昭和27年

 昭和22年に、夫となる12歳年下の俳人沢木欣一が戦地より無事帰還した折りの句である。

冬薔薇(そうび)日の金色(こんじき)を分ちくるゝ    『冬薔薇』(昭和21年作)

  十一月沢木欣一と結婚

見得るだけの鶏頭の紅うべなへり            〃 (昭和22年作)

 細見綾子(明治40年生まれ・平成9年没90歳)は、兵庫県出身で東京の大学卒業後結婚するが、2年後夫は結核にかかり病没し、ふるさとへ帰るが肋膜炎を発病し、その頃(昭和4年・23歳)から松尾青々主宰の「倦(けん)鳥(ちょう)」に投句し始める。32歳頃まで療養しながら俳句を作り続け、ようやく健康を回復した。昭和21年、沢木欣一が創刊した「風」に同人参加。翌年欣一と結婚。 

ひし餅のひし形は誰の思ひなる     綾子『桃は八重』昭和17年 

ふだん着でふだんの心桃の花           〃       〃

 1句目の(療養中であると思えるが)その素直な観点の不思議さは詩人の目なのだろう。2句目は、綾子が健康を回復した頃の作品である。初期の有名な作品であり、細見綾子を語る時、この作品にその人柄が表われていると言われている。綾子は20代を療養生活で過ごしたが、ふるさと丹波の自然と、静養地、大阪での俳句交友が健やかな身体と生来の素直な詩精神を育くんだのであろう。70年近い俳句人生の中で多くの句集を残し、随筆も数多く執筆している。昭和29年創刊の「女性俳句」の発起人の一人としても名を連ねている。

縦横無尽の中の一点秋日吾等     『冬薔薇』昭和27年 

白木槿櫻児も空を見ることあり       〃

 前回〈48.はるばると島を発ちゆく花盥〉で俳人同志の夫婦について加藤知世子と横山房子について述べたが、綾子もまた50年間を俳人の夫と共に過ごしている。が、2人のように夫と表記された句が(私が調べたところ)見受けられないようだ。だからといって、12歳もの年の差を超えた大恋愛は、欣一の小説「踏切」や綾子の随筆「晩秋」(『私の歳時記』昭和34年風発行所)等で周知のことである。掲句の「吾等」は、欣一と綾子であり、40代で授かった子供との毎日は未知なる幸福であっただろう。

 しかし、私には綾子は、妻として蔭、日向で欣一を支えた女流俳人というよりも、自然に寄り添い溶け込みながら自然を崇拝する俳人で、自然も夫も同等に愛したという印象が強い。

鶏頭を三尺離れもの思ふ     『冬薔薇』

 高柳重信がこの句について述べている。

 なるほど、対象と自分との間が三尺という距離は、物思うのに、まさに不可欠の距離というべきで、それを感得した彼女は天性の詩人だ。

 綾子自身の自註もある。

 鶏頭と自分との距離が三尺だと思ったとき、何もかもが急にはっきりするように感じた。その時、何を思っていたのか、言われても言い証しは出来ないが、鶏頭へ三尺の距離で私は色んな事を考えた。三尺は如何ともし難い距離だと思えたのである。

 そして、自然を視つめる眼差から、その生死や輪廻を更に深い思惟へ至り、涅槃や仏像の句々を生み出す。

仏見て失はぬ間に桃喰めり     『技藝天』昭和49年 

女身仏に春剝落のつづきをり      〃 

貝殻に溜れる雨も涅槃かな      『存問』昭和61年

 自然に洗われた心身が仏像を拝顔することで、より洗い清められ、柔かな境地へと辿り着く。1句目は、苑子が好きな句であった。苑子も仏像が好きで各地を旅してはその地の仏像を拝顔して廻ったと聴いている。私は苑子からこの句を教わった。

 私は冒頭で記したように、20年前、今回の句を苑子の若き(新聞記者の夫と生活していた)頃の人妻の句ととらえていた。句の解釈は変わらないけれども、今では、重信の妻(籍は入れていないが)としての句であっても、どちらにしても「人妻」の懐旧の念を詠っているのだと思っている。綾子に「人妻に」と上五を与えたら何と詠むであろうか。10歳以上もの年の差を超えて愛を貫いた綾子と苑子は、夫にとって、ある時は母であり、ある時は仏像のように微笑み、風通しの良い距離を保ちながら、自身は、俳句という曼陀羅を描いていったのである。

曼陀羅の地獄極楽しぐれたり    綾子『存問』 

落花舞ふ渓の無明や水明り     苑子『花隠れ』


52 夕べ著莪見下ろされゐて露こぼす

ひとづまにきざはしはある著莪(しやが)の花     大西泰世

 前句の「ひとづま」に因んで引いてみた「著莪の花」の句は、昭和24年生まれの川柳作歌大西泰世の作である。「著莪の花」は、6月の梅雨時、陰地に群生する花である故か、その花の地味な様子のせいか、昔から明朗風には詠まれていないようだ。

花著莪に涙かくさず泣きにけり     長谷川かな女 

ほどほどの昏さがよけれ著莪の花   今井つる女 

華やかに女あはれや著莪の花     阿部みどり女

 かな女、つる女の句は、著莪の持つ白く涼しくも静かな陰鬱を湛える風情が描かれているが、みどり女の句は、泰世の句のイメージと共通するところがある。苑子の句の「見下ろされゐて」の著莪(もしくは本人)の位置に対して、泰世の句は、「きざはし」という、上から見下ろし、下から見下ろされ、同等の位置に立つこともできるものを句に置いている。苑子句の主体が(著莪に喩えられた)女だとすると、泰世句の「きざはし」の位置が苑子句と同じ位置であるともないとも断定できない表記が、「ひとづま」という女に多種多様の意味を展開させ、「著莪の花」の持つ表裏を表現している。みどり女の「華やかに女あはれや」も、泰世の曖昧さを含ませた詩的浮遊感とは異なる形ではあるが、「著莪の花」の持つ陽と陰を五七五にはっきりと提示しているのである。

 阿部みどり女は、北海道生まれ(明治19年生まれ・昭和55年没93歳)で、明治43年に結婚するが、結核のため鎌倉で療養し、俳句を始める。大正元年虚子に師事。「ホトトギス」で5年に婦人俳句会が始まり、かな女、淡路女らと活躍。昭和7年「駒草」創刊主宰。19年、仙台に移住し、30年余りを過ごす。

葉柳に舟おさへ乗る女達      みどり女    『笹鳴き』昭和22年 

物言はぬ獨りが易し胡瓜もみ      〃     『微風』昭和30年 

枝豆がしんから青い獺祭忌            『光陰』昭和34年 

絶対は死のほかはなし蟬陀仏      〃    『雪嶺』昭和46年 

ゝゝと芽を出す畑賢治の忌         〃    『石蕗』昭和57年

 みどり女についての逸話を知る由もないが、これらの作品を引きながら何と俳句に向いている人かと思った。迷いのない言葉が清々しく、そして時には諧謔を合わせ持ち、名を伏せたら男性の若手現代俳人と見紛うような作品もある。1句目の「女達」の華やかな揺れる動きを見る目は、男性の眼差のような客観性がある。先に掲げた「著莪の花」の句もそういった目線から見ることもできよう。

ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ     桂信子 

そら豆はまことに青き味したり         細見綾子

 みどり女の3句目は、「獺祭忌」が主体だとしても、台所に立って同じ豆類を茹でる信子や綾子の句とは全く違う趣きのある芯の太い堂々とした句である。2句目の台所句、「胡瓜もみ」にもまた彼女の気質が表われているようである。そして、4句目はみどり女85歳刊行の所収句だが、益々削ぎ落とされた言い切りが自己の晩年の俳句へと結晶されていく姿であろう。作句時期も、どの句集所収かも解らないのだが〈海底のごとく八月の空があり〉という句も現代俳句に適う新鮮さを持っている。

 みどり女の女性性が表現された句を探してみた。

打ちあけしあとの淋しさ水馬     『笹鳴き』昭和22年 

秋の蝶山に私を置き去りぬ     『微風』 昭和30年 

うすものに透くものもなき袂かな    〃 

胸すぐるとき双蝶の匂ひけり     『雪嶺』昭和46年

 1、2句目はストレートな表現が初々しさをも感じるが、(これも若手現代女流俳人風の作品である。)3句目の叙述に女を見るが、「うすもの」の語は、男女俳人ともに透けていることを艶とした女体の有様を表現する作品が多い中、「透くものもなき袂」と言ったところにより儚い女性性が滲み出ている。4句目の「すぐるとき」もそこはかとない熱情への名残りを漂わせている。

 苑子の今回の句に共通するものを見出すとすれば、3句目の「うすものに」の句であろうか。著莪は花が咲いても種子ができない代わりに、地下の根茎が伸びて群生する。そのためか、花言葉は〝友人が多い〟だが、なぜか〝反抗〟という花言葉も持つ。梅雨時の山地や軒下に咲き、アヤメにも似ているが、姿や咲く場所が地味な著莪の花は、晴天で見るよりも、そぼ降る雨の中、白い花片が透き通り雨露をこぼす姿は、儚く美しい。紫陽花のように人目を引く華やかさに、薄い花片を震わせて微かに〝反抗〟しているようでもある。私は初学時代、晴れた日の著莪の花を詠んだ拙句に、苑子から「著莪はそういう花ではありません。」とはっきりと言われたことがあるのを(晴天の著莪に問題があるのではなく、私の句が著莪を言い得ていなかったのである。)この句を読む度に思い出す。苑子にとって「著莪」は、見下ろされながら美しさが透ける花(女)であり、みどり女は、女の「華やか」さには「あはれ」があると「著莪の花」に喩えて詠う。

泰山木乳張るごとくふくらめる      『石蕗』昭和57年

 93歳で亡くなったみどり女の遺句集所収のこの句には、重厚で健やかな華やかさを纏う女の姿がありありと浮かんでくる。女の「あはれ」も「華やか」さも知り抜いたみどり女は、地に侍る著莪の花のような女達へ大空を仰ぐ「泰山木」を大らかに詠いあげ、女の讃歌を叫んでいるかの如き風情である。

 苑子の今回の4句は、女性の嫋やかさを詠う句々であった。


23. 羽が降る嘆きつつ樹に登るとき

から始まった第2章「回帰」の終句は嘆くことをやめ、見下ろされながらも、泣いているかのように見えながらも、透き通る花片を静かに滴らして反抗しているのであろうか。

命より俳諧重し蝶を待つ          みどり女『月下美人』 

俳句とは業余のすさび木の葉髪     苑子 『四季物語』

 次回から、第3章「父母の景」を繙いて、苑子俳句の源を探っていきたいと思う。


【連載】現代評論研究:第18回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑤(仲寒蝉編集) 

 :20111209

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)

 

5.家族・家庭と遷子について述べよ。

筑紫は〈全く関心がない〉と言う。

は興味がないと言う。

中西は俳句から見る遷子は〈良き家庭人だった〉と言う。

 

百舌鳴くや妻子に秘する一事なし  (『山国』)

 に明治生まれの潔癖さを読み取り〈この句が遷子の全句の中にあって、家族への愛情表現の最たるもの〉であり〈句の調子としても、気骨ある遷子の高い精神を描いた他の作品と同列に並べられることができるもの〉と評価する。

 次に示すように『雪嶺』の息子を描いた句に親の本音を、娘の結婚の句には〈手放しで喜ぶ良き父の姿〉があり世の父親と変わらないと言う。

 かすむ野に子の落第をはや忘る

帰省子に北窓よりの風青し

秋の苑子を嫁がせし父歩む

 

 横道に逸れるが、その中で2句目の「青し」に注目する。『草枕』の「梅雨めくや人に真青き旅路あり」の〈「真青き」には将来への不安とともに、まっさらな手付かずの美しい未来を思わせるものがある〉と述べ、上の句の〈「風青し」にも青年の前途を祝福するものが含まれている〉と指摘する。それを踏まえて〈遷子の「青」に寄せる清澄な思いは生涯変わらなかったのではないか〉と言う。

 ただ華やぎを添えるものではあっても家族を描いた句は『雪嶺』では傍流。家族を描いたものでは『山河』の死の前後の父を描いたものが良かったと言う。

深谷は〈私的な要素であるため「戦後俳句史」を語るうえでは適さない部分かも知れない〉と断わりつつ〈敢えて言えば戦後の家庭像がありのままに描かれており、遷子の実直な人柄があらわれている〉と述べる。

は『雪嶺』には息子の反抗や受験、娘の結婚を詠んだ句があるが〈内容としては市井の優しい父親の域を出ていない〉と言う。また『山河』にある〈老いた父母を詠んだ句は淡々としており患者を見る目とほとんど変わるところがない〉が、〈母の句の幾つかは彼にとって母は永遠に若く気風のいい存在だったことを示している〉と述べる。

 

5のまとめ

 5人中2人が興味なしと回答している。回答のあった3人に共通していたのは、遷子はよき家庭人、よき父親であったということ。ただ家族を題材にした俳句については中西が『山国』の「百舌鳴くや妻子に秘する一事なし」を評価した他は遷子の句業の脇役的存在との認識であった。個々では中西が『山河』の死の前後の父を描いた句を、仲が母を描いた句を評価している。

 

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり39 句集『残像』(山口優夢、2011年刊、角川学芸出版)を再読する。 豊里友行

  山口優夢(やまぐち ゆうむ)さんとは、2009年に大変な話題となった新人発掘のアンソロジー『新撰21』(邑書林)のひとりで私も御一緒させていただいた。

 優夢さんは、2003年の第6回俳句甲子園個人最優秀賞受賞や2010年の第56回角川俳句賞受賞など既に確固たる俳人の地位と名声を得ている若手俳人のひとりだ。

帯文を記して置く。 

先に『抒情なき世代』という評論集を出している山口優夢だが、自身はその世代に包括されると思っていないかのような書き振りで対峙している。しかし、山口の句さえ既に私共が考えてきた“抒情”とある処では完全に訣別し、変貌し、食み出し始めている。こんな処に詩因があったかと思うこと屢々。旧態然とした抒情では括れない、私など逆立ちしても書き得なかった世界を難無く書き留めているのだ。(中原道夫)


小鳥来る三億年の地層かな

 第6回俳句甲子園個人最優秀賞受賞(2003年)の俳句は、優れた秀作であることは周知のことだろう。

 「小鳥来る」の秋の季語を三億年という膨大な歳月の地層を組み合わせることで季節がめぐりめぐって三億年の地層を堆積していく時間の間も「小鳥来る」という自然の営みが絶え間なく紡がれていることを意識化してくれている。

 本当に若くして俳句に愛されている俳人のひとりだ。

 それは、俳句の形式に落とし込むコツとでもいいましょうか。兎にも角にも巧い。


淡雪や博物館に美しい骨

 淡雪が音もなく降りし切るのに気付く。そっと眼をやった外界には、雪が降り始めていたのだろうか。博物館の中にいることで意識の外にあった淡雪が硝子越しに足早に降っているのだ。それも一瞥の一瞬のことでまた博物館のガラスケースに収められた美しい骨に魅入られる。俳句という身近な制約の中でここまで的確な言葉の組み合わせ、取り合わせがなされていることこそ俳句に愛されているということなのだろう。

 「鳴り出して電話になりぬ春の闇」「戦争の次は花見のニュースなり」「大広間へと手花火を取りに行く」といった日常の事象や所作にいたるまで俳句化されて秀句が量産されている。はっと俳句の面白味に驚かされていくのが、心地よい。


銀杏や二十歳は笑はれてばかり

 また若くして俳句に愛されていることで青春詠にも顕著に飾る事無く自己を投影していることも見所だ。銀杏(ぎんなん)は、秋の食べ物としても知られていますよね。ほろ苦い風味と晩秋の季節を織り交ぜながらも二十歳の自己を笑われてばかりとほろ苦さもお道化て見せる。快闊な好青年ぶりがうかがえる。「未来おそろしおでんの玉子つかみがたし」「秋雨を見てゐるコインランドリー」「夏風邪のからだすみずみまで夕焼」「ぶらんこをくしやくしやにして遊ぶなり」「梅日和近所の映るワイドショー」「卒業や二人で運ぶ洗濯機」「野遊びのつづきのやうに結婚す」など爽やかな青春詠から大人びていく人間的な成長過程の歩みを俳句に愛されながら突き進んでいる。


月の出の商店街の桜餅

心臓はひかりを知らず雪解川

問診は祭のことに及びけり

投函のたびにポストへ光入る

 物に語らせることの巧みさも。真実を踏まえて俳句化することの出来る力量も。お医者さんとの問診のやり取りが、祭りに及ぶところの面白味も。日常の所作のなかにあるポストの投函に光を見出すことも。俳句ひとつひとつに俳句に愛さているんだなと感じられるほど面白い俳句が沢山ある。若くして俳人として華々しく確固たる俳句の形式を確立されていて、その俳句が賞賛を得ている。その俳句に愛されていることに飽くことなく我が道をいくことが、これからも俳句に愛される俳人の道のりなのかもしれない。


 他にも共鳴句をいただきます。素晴らしい俳句の数々をありがとうございます。


あぢさゐはすべて残像ではないか

火に触れしものは火になる敗戦日

芝居小屋からうつくしき火事になる

雨は芙蓉をやさしき指のごと伝ふ

眼球のごとく濡れたる花氷

鍵束のごとく冷えたるすすきかな

冬帽子星に遠近ありにけり

しらうをも市場も濡れてゐたりけり