「俳句四季」2025年10月号から12月号まで執筆した「LEGEND 〜私の源流」攝津幸彦評伝の、資料にまつわる話、本編では触れられなかった話など、少し纏めてみようと思う。
・日時計書き下し句集シリーズ
幸彦の第一句集「姉にアネモネ」について、「豈」26号に藤原龍一郎氏が「俳句研究で広告を見て申し込んだ」旨の記述をしていた。当該の号は昭和48年の9月号と思われる。「俳句研究」誌に何度か広告が載っているが、これが最初の掲載だった。第一回五十句競作発表号(11月号)のふたつき前のことだ。
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| 「俳句研究」昭和48年9月号51ページ |
・アサヒグラフ、太陽
「恰幅のいいスーツの体躯に口髭、ウェリントンタイプの細いメタルフレームの眼鏡」第3回の書き出し、そのイメージの源となった「アサヒグラフ」「太陽」のグラビア(?)がこちら。
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| アサヒグラフ増刊「俳句入門」1988年7月 |
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| 太陽「特集・百人一句」1994年12月号 |
・恒信風インタビュー
亡くなる9ヶ月前に収録されたロングインタビュー。掲載誌「恒信風」3号には同人選による「攝津幸彦の一五〇句」コーナーもあった。のちの全文集「俳句幻景」に収録されているが、攝津幸彦が自らの口で俳句観、言語感覚を語った、ほとんど唯一の記録となってしまった。じつに貴重な記録だ。
・追悼文集「幸彦」
没後1年に開催された「攝津幸彦を偲ぶ会」席上で配布された、会社の同僚である松永博氏が旗振り役となって完成した200ページを超える追悼文集。各人の思い出話のほか、行きつけのお店MAP、趣味やなじみの街のエピソードなども配されていて、ここまで手厚い本を没後たった1年で作り上げた、制作に携わった方たちの情熱には頭が下がる。
趣味、というより仕事の接待も含め、晩年の幸彦はゴルフに興じていた。酒が飲めないかわりの営業手段だった向きがある。打ちっぱなしで練習していた話なども載っている。体調はかなり厳しかったであろうけれど、見えない努力を続けた企業人・幸彦の横顔である。切ない。
俳句へと進むきっかけを作った伊丹啓子氏の回想では、学生時代の幸彦はノイローゼ気味で、痩せて長身で「キリンのようだった」と語り、後年の様子からは想像がつかない横顔が垣間見える。本人はずっと自身のことを「情緒不安定」「情緒欠如に近い不安定な心」などと書いている。若き日の肖像はそういうものだったのか。
映画研究会の後輩、長瀬充夫氏(文集の発行元スタジオ・エッジの人でもある)の文章には、映研での幸彦の様子が綴られている。攝津東洋のペンネームで機関誌にシナリオや評論を執筆、それが横紙破りなスタイルだった、というのは、学生の頃すでに幸彦的な幸彦だったことを示唆するものがある。





