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2025年11月21日金曜日

LEGEND外伝 攝津幸彦こぼれ話  佐藤りえ

俳句四季」2025年10月号から12月号まで執筆した「LEGEND 〜私の源流」攝津幸彦評伝の、資料にまつわる話、本編では触れられなかった話など、少し纏めてみようと思う。


・日時計書き下し句集シリーズ
幸彦の第一句集「姉にアネモネ」について、「豈」26号に藤原龍一郎氏が「俳句研究で広告を見て申し込んだ」旨の記述をしていた。当該の号は昭和48年の9月号と思われる。「俳句研究」誌に何度か広告が載っているが、これが最初の掲載だった。第一回五十句競作発表号(11月号)のふたつき前のことだ。

「俳句研究」昭和48年9月号51ページ

「書き下し句集シリーズ第1弾刊行!」とあるから、あるいは第2弾、3弾と続けようという展望があったのか、なかったのか。坪内捻典氏のブログに何度か記事があり、句集現物の画像が載っている。このシリーズについては話題として触れている誰もが実際に「どこまで刊行されたかわからない」という。幻の全巻揃いがあったらおもしろい。


・アサヒグラフ、太陽
「恰幅のいいスーツの体躯に口髭、ウェリントンタイプの細いメタルフレームの眼鏡」第3回の書き出し、そのイメージの源となった「アサヒグラフ」「太陽」のグラビア(?)がこちら。

アサヒグラフ増刊「俳句入門」1988年7月

アサヒグラフ増刊は「入門」と銘打っているものの、俳人の手厚い紹介が主なコンテンツとなっている一冊。引き伸ばし機の前に座る波郷、楸邨の手紙、などカラーグラビアも豊富。幸彦が掲載されているのは「現代俳句のニューウエーブ」のコーナーで、江里昭彦氏が短い総論的な文章を寄せている。他のニューウエーブ(表記ママ)のメンツは江里昭彦、夏石番矢、林桂、藤原月彦、今井聖、金田咲子、田中裕明、長谷川櫂、正木ゆう子、久保純夫、大木あまり、増田まさみ、鳴戸奈菜、松本恭子、浪野聡子、山田径子。編集に齋藤愼爾氏が関わっているせいか、微に入り細に入り、凝った特集という印象。アサヒグラフは何度も俳句の特集を組んでいるが、この号は俳人を概観するという意味で突出している。

太陽「特集・百人一句」1994年12月号

「江戸・近代・現代 100人の名句100」という特集で復本一郎・川名大・仁平勝の三氏が選んだ100人が並ぶ。奈良原一高、神蔵美子など写真家とのコラボレーションにもページを割いている。幸彦の掲載ページは百人一句のほか「現代俳句の地平」コーナーで、上段が写真、下段がエッセイというもの。「静かな談林といったところを狙っている」はこの記事内での発言。ベスト100句に選ばれたのは「幾千代も散るは美し明日は三越」。 
 幸彦の正面を向いた写真がメディアに掲載されたことはあるのだろうか。「太陽」の写真の撮影場所は新宿っぽい。


・恒信風インタビュー
亡くなる9ヶ月前に収録されたロングインタビュー。掲載誌「恒信風」3号には同人選による「攝津幸彦の一五〇句」コーナーもあった。のちの全文集「俳句幻景」に収録されているが、攝津幸彦が自らの口で俳句観、言語感覚を語った、ほとんど唯一の記録となってしまった。じつに貴重な記録だ。



・追悼文集「幸彦」
没後1年に開催された「攝津幸彦を偲ぶ会」席上で配布された、会社の同僚である松永博氏が旗振り役となって完成した200ページを超える追悼文集。各人の思い出話のほか、行きつけのお店MAP、趣味やなじみの街のエピソードなども配されていて、ここまで手厚い本を没後たった1年で作り上げた、制作に携わった方たちの情熱には頭が下がる。
趣味、というより仕事の接待も含め、晩年の幸彦はゴルフに興じていた。酒が飲めないかわりの営業手段だった向きがある。打ちっぱなしで練習していた話なども載っている。体調はかなり厳しかったであろうけれど、見えない努力を続けた企業人・幸彦の横顔である。切ない。
俳句へと進むきっかけを作った伊丹啓子氏の回想では、学生時代の幸彦はノイローゼ気味で、痩せて長身で「キリンのようだった」と語り、後年の様子からは想像がつかない横顔が垣間見える。本人はずっと自身のことを「情緒不安定」「情緒欠如に近い不安定な心」などと書いている。若き日の肖像はそういうものだったのか。
映画研究会の後輩、長瀬充夫氏(文集の発行元スタジオ・エッジの人でもある)の文章には、映研での幸彦の様子が綴られている。攝津東洋のペンネームで機関誌にシナリオや評論を執筆、それが横紙破りなスタイルだった、というのは、学生の頃すでに幸彦的な幸彦だったことを示唆するものがある。