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2025年11月21日金曜日

【新連載】口語俳句の可能性について・5  金光舞

  前稿では、堀切克洋の〈文語=世界/口語=私〉という思考のスペクトルを参照しながら、口語表現が俳句にもたらす〈声〉の現前性について検討した。

 越智友亮の〈さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき〉〈掃除機に床は叱られ夏のくれ〉〈紅茶冷ゆ帰省の君は元気そう〉の三句を取り上げ、これらの作品がいずれも景物の描写より主体の心情を前景化し、「もの」から「こころ」へと焦点を転換している点を指摘した。とりわけ「どきどき」「叱られ」「君は元気そう」といった口語的・会話的な言い回しは、説明ではなく体感や気分の直接的な漏出として機能し、読者にひとりの人間の声がそのまま届くような親密な読解空間を生成している。こうした〈声〉の立ち上がりによって、俳句は静物や季語の美を写し取る器にとどまらず、人間同士の関係性や生活の息づかいを語る場へと変貌する。前稿では、この三句の分析を通して、口語俳句の核心が対象の描写を超え、読者とのあいだに新しい関係的な場を創出する文学的可能性にあることを明らかにした。


 さて、前回の連載にあたる第四回までは夏合宿の際にわたしが筑紫磐井先生に見せたものを内容ごとに切り取り、編集したものだった。今回からは色んな場所で口語俳句についてを聞きまわり、ひとりではなく、多くの人の意見を吸収した論を展開し、より口語俳句の可能性について多角的に見てゆきたいと考える。

 今年の九月初旬、わたしは教授に誘われて近現代文学東北インカレゼミ合宿に参加させていただいた。芋煮会をしたり西瓜割りをしたり手花火をしたりしてとても楽しかったのだが、しっかりと口語俳句についても十数名から意見を貰って帰ってきた。意見を交換した中で二人の教授が映画理論の「モンタージュ」について言及したのが印象的だった。ジャンルが少し異なる分野であるように受け取ったためである。

モンタージュ考とは[1]岩本憲児『連続と切断――モンタージュの思想』で「組み立て」として理解されるものであると示される。フィルム断片をつなぎ合わせる撮影後の技術手続きといったただの編集ではなく、撮影前の構成の概念も取り入れる語として組み立てが挙げられている。つまりモンタージュ考で最も意識されることは、カメラを対象に向け、撮影される世界を再構成しようとするカメラマン又は監督の意識問題なのである。


〈クレソンがすこしだけとびだしている〉

〈ぼくいつまでもバカだね きしきしとやどかり〉

〈ハンカチのはりねずみずっと一緒に泣いてよ〉


 今回は俳人の友人である斎建大に「口語俳句の瞬間的な爆発力に振り切った良さがある」と紹介され、気づけばnoteの記事を購入していた[2]田村奏天『ハンカチのはりねずみ』の句を例に口語俳句におけるモンタージュ考について考察したい。


〈クレソンがすこしだけとびだしている〉

この句は、たった一つの静物描写に見えながら、その内部には複数の時間や感覚が折り重なっている。わずかに「とびだしている」という状態の描写は、現在の視覚の瞬間でありながら、そこに至る動きや、その食卓の周囲にある生活の時間を暗示する。明示されていない時間が読者の内部で再構成される点で、この句はすでに一つの瞬間を超えており、静物ショットが別の記憶・行為・生活といったショットを呼び起こすという意味でミニマルなモンタージュとして働いている。同様に、


〈ぼくいつまでもバカだね きしきしとやどかり〉

では、口語的な独白と、「きしきし」という擬音を伴ったヤドカリのイメージという異質な二つの断片が並置されている。心理の現在と別次元の生き物の動きは、本来同一の風景に属さない可能性が高い。しかしこの断絶こそが、読者の内部で新しい意味や関係を生成する。独白の情緒の輪郭が、ヤドカリの小さな動きと摩擦音によって反射されるように立ち上がり二つの断片はモンタージュによる新たな文脈を生み出している。さらに、表題句である


〈ハンカチのはりねずみずっと一緒に泣いてよ〉

では、静物(ハンカチのはりねずみ)と情緒的な呼びかけ(泣いてよ)という、非連続的なレベルの要素が接続されることで、現実には存在しない“話しかけられる現在”が構築されている。これは口語俳句がしばしば作り出す、「生きている現在」ではなく「語り手の役割が演じる現在」であり、まさに編集された時間である。


 これら三句はいずれも俳句が単なる瞬間の切り取りではなく、異質な断片をミニマルに剪接し、その「間」から意味を生み出すモンタージュ装置であることを示している。口語俳句の自立性は、固定した伝統形式の美にではなく、この断片の結合がもたらす創造的な意味生成の運動そのものにこそ宿っているのである。

 口語俳句の仮想敵かつ基盤としてある文語俳句は形式として閉じた「間」を空白の美と呼びモンタージュ的に組み立ててゆく。俳句は語と語、イメージとイメージのあいだにある余白や間によって直接語られない世界を喚起する。その意味で、俳句をモンタージュ装置として読める。

これを[3]俳人・柳元佑太が俳句文芸誌『俳句』で「キメラ」と称していることについて、[4]同誌で俳人・浅川芳直が言及し、論を展開しているのを見た。しかし、この余白を、組み立てを「キメラ」と呼ぶよりも「モンタージュ」とわたしは呼びたい。キメラというと融合・混成の構造であり、要素が一つの身体になることを指す。対してモンタージュとは断片の配置であり、要素が別物のまま結合し、間に意味が生まれるものである。踏まえると、やはりモンタージュと言ったほうがしっくり来るように思われる。

 俳句の自立性とは、伝統形式としての閉じた美ではなく、断片と断片の結合によって新しい意味を持ちあげる想像の運動そのものに見出される。俳句が芸術として自立することは、固定された歴史や形式の内部に留まることではなくモンタージュ的な現在を言葉の最小単位で生成し続けることに他ならない。


[1] 岩本憲児・連続と切断――モンタージュの思想『無声映画の完成』1986年1月10日出版 出版:岩波書店 260頁-269頁

[2] 田村奏天・第四回全国俳誌協会新人賞準賞受賞作『ハンカチのはりねずみ』

https://note.com/play_the_sky/n/n6f0d29e4bdd5 (2025年11月15日取得)

[3] 柳元佑太・写生という奇怪なキメラ『俳句』2022年9月号 出版:KADOKAWA 124頁-144頁

[4] 浅川芳直・悲観的写生説とリアリズム『俳句』2022年9月号 出版:KADOKAWA 138頁-141頁