(投稿日:2012年01月06日)
●―1近木圭之介の句/藤田踏青
汽船が灯り月夜の切符二枚重ねて切られる
「ケイノスケ句抄」(注①)所収の昭和42年の作品である。意味深長な切符二枚はまるで映画のワンシーンの如く、月夜の下にその対象へカメラがズームアップされ、そこからドラマが始まる。そして切符が重ねて切られる事によって二人の関係とそれを切る船員の視線をも意識させられる構図となっている。七・七・七・四の二十五音の自由律俳句特有の長律句であるが、それによって情景が鮮明に浮かび上がり、ゆっくりとした時間の流れさへも感取される。定型句ではこの情景をこのように一つの構成としては纏めきれないのではないか、と思われる。また、この句は次に掲げる連作中の初句であり、それらを含めて時の流れを味わうのもよろしいかと。
船首に月があるのはそれとして旅立つ 昭和42年作 注①
船首月にむけておって或る日の乗客 々 注①
岬の月の時刻を通過する汽船 々 注①
汽船が一隻月を消し沖へ出て行く 々 注①
まるで月はその目的であるが如くに汽船がそれに向かって出て行くが、やがては月も汽船も二人の乗客の姿も画面から消え去って行く存在なのである。またそのドラマ性は圭之介の短詩にも共通して表われている。
「パレットナイフ 10」 Ⅲ 注②
消えゆく月と潮流にひそむ変異態
事象は浮き沈みのなかを夜から未明まで
――詩稿未完
消えゆく月と潮流に浮沈する事象とが暗示するもの、それが未完故にドラマの印象が一層際立ってくるようにも思われる。
俳句特有の花鳥風月ではないが、やはり「月」の句は圭之介の句稿の中で最多であった。そして「月」に対峙する存在として「沼」や「死」を取り扱った作品も多くみられた。
「月」と「沼」
孤独の沼の真ン中の月になる 昭和24年作 注①
月がこんばんわと沼になる 々 注①
非具象の月が黒い沼に溶解する 昭和39年作 注①
微笑が沼のまんなかの月になる 昭和40年作 注①
沼に月は置いてきて もう落ちた時分 昭和49年作 注①
「月」と「死」
死がくる家の月夜の中の木 昭和29年作 注①
ついに最後 蒲団の裾に月さしている 昭和31年作 注①
死への過程月影が屋根を重ねる 昭和40年作 注①
死のすでに月を暗うしている家 昭和42年作 注①
沼は月と照応する存在として、また同化する存在として位置しており、死は月に包含される存在として表現されている。空間と時間を象徴するかのような月という存在。この様な月に対する感覚は果してどの世代まで受け継がれてゆくのであろうか。
注①「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊
●―2稲垣きくのの句/土肥あき子
つひに子を生まざりし月仰ぐかな
第一句集『榧の実』に収められたきくの56歳の作品である。
わたし自身に子がないこともあり、掲句の「つひに」のひと言には身を切るような痛みを覚える。
人間としての充実した時間はこの先まだ続くが、子が生める時代は無情にも限られている。自分で選んだ人生と胸を張ることができても、あるときふと子を残せなかったことへの後悔と罪悪感が胸に湧かない女がこの世にいるだろうか。
月を仰ぐとは、同じシルエットでありながら大樹や青空を見あげる健やかさとは対極にある。その姿は切なさであり、ひそやかな懺悔を感じさせる。集中に並ぶ
隠すべき涙を月にみせしかな
も掲句に続く嘆きの涙であろう。
月は愁訴を吸い込むために夜空に穿った穴のごとく口を開け、女はあふれる涙を夜の闇で包む。そして、月に放った詮ない思いをまた胸の奥にたたみ、日常という時間に戻っていくのだ。
きくの作品には時折輝くような少女が描かれる。それらは過ぎ去った日への羨望というより、まばゆい若さへの讃歌と、美しいものを愛でるような手放しの喜びが感じられる。
パンツ穿き口笛上手キャンプの娘 「春蘭」昭和13年9月号所載
少女等の円陣花野より華麗 『冬濤』所収
ペダル踏んで朝六月の少女たち 『花野』所収
子どもを持つことの叶わなかったきくのにとって、出会った少女すべてが可愛い自分の娘のように映っていたのではないだろうか。
●―4齋藤玄の句/飯田冬眞
落鮎をなほ寸断の月明り
昭和48年作。第4句集『狩眼』(*1)所収。
花・鳥・風の句を今まで見てきたが、今回は月。月といえば、秋の月である。「月」の句は、後半生(昭和46年から昭和55年)の三句集で13句を数える(*2)。三句集合計938句中13句は桜の13句と同数である。句集別だと『狩眼』3句、『雁道』8句、『無畔』2句となる。年次別に言うと、昭和48年、49年、50年が各1句、昭和51年、54年が各2句、52年と53年が各3句となる。
そのなかで、月の光に何かが照らされているという構図の句を取り上げてみたい。
落鮎をなほ寸断の月明り 昭和48年作 『狩眼』
産卵を終えて川を下る鮎の姿は、衰弱して哀れである。死にゆく落鮎の魚体を月の光が瞬時、照らしたさまを〈寸断〉ととらえたところに、玄の眼の確かさを感じる。月光の刃でずたずたに断ち切られた鮎は、若鮎ではなく、〈落鮎〉である。だからこそ〈なほ〉の措辞が生まれたのだろう。感傷に陥ることなく、死の峻厳さを〈月明り〉に託したことによって、詩情が生まれているように思う。
あるいは、〈落鮎〉に還暦を翌年に控えた玄自身を重ね合わせて読むならば、〈月明り〉の象徴するものは、時に輝かせ、時に死に至らしめることもある「世評」と解することも可能だが、穿ちすぎだろう。
月光に射しとほさるる薄の身 昭和53年作 『雁道』
やうやくに月を浴(ゆあみ)の冬の鯉 昭和54年作 『無畔』
〈薄の身〉を比喩ととるか、実景と見るかで解釈が分かれそうだ。月光に照らされて輝くすすきの姿を〈射しとほさるる〉と受身で捉えたことで、すすきを取り巻く寂寞とした月夜の景が見えてくる。あるいは、痩せさらばえた病身をすすきに見立てたものか。
〈やうやくに〉は、池の底に潜んでいた〈冬の鯉〉がゆっくりと月下に姿を現した景を詠んだもの。〈月を浴(ゆあみ)〉の中七によって、鯉が自ら月光を浴びに来たと解している点がユニークである。
なお、自死を考えていた頃の連作「死の如し」における「月」の句にも月光とそれに照らされる何か、という構図が散見される。
野分先づ月の光を吹きはじむ 昭和22年作 『玄』
月下また死す恰好になりにけり 昭和22年作 『玄』
月光のはじめて中る茎の石 昭和22年作 『玄』
〈野分〉と〈月の光〉はともに物の存在を通して感知されるものである。非在が非在を対象とした句の存在をこの句によって初めて知った。
〈月下また〉の句は死ぬ時の自身の姿を想像して畳の上でうごめいている作者の姿が滑稽だ。生の延長線上でいくらもがいてみても死を経験することは人に与えられてはいない。
〈茎の石〉は茎漬けの桶の上に置く重石。月光を浴びることで、普段気にも止められなかった存在が、象徴的な何かに変貌してゆく心理を捉えている。この句の場合では漬物石である〈茎の石〉が「死」を象徴する存在として描かれている。
*1 第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 参考までに後半生の「月」の13句を記しておく。
落鮎をなほ寸断の月明り 昭和48年 『狩眼』
月の出の虫売つねに憂かりけり 昭和49年 『狩眼』
畦焼きの月はあやふくかかりける 昭和50年 『狩眼』
月の出を待つ神妙のありにけり 昭和51年 『雁道』
見おろしに月が光とならむ時 昭和51年 『雁道』
月遠くものみな遠く息一つ 昭和52年 『雁道』
月今宵ありのままなり明日のため 昭和52年 『雁道』
月今宵木槿は木槿出づるなく 昭和52年 『雁道』
在りながら山ゆく月の若牛蒡 昭和53年 『雁道』
月明の箸を逃げたる甘煮藷 昭和53年 『雁道』
月光に射しとほさるる薄の身 昭和53年 『雁道』
やうやくに月を浴(ゆあみ)の冬の鯉 昭和54年 『無畔』
身の置きどころとて真葛原月もなく 昭和54年 『無畔』
●―5堀葦男の句/堺谷真人
良夜疑わず鯉こんじきの頭を揃へ
『過客』(1996年)所収。「唐招提寺観月会」との前書きを持つ句。
葦男の歿後、彼を欽慕する関西俳人たちが創刊した「一粒」no.1(1997年3月)には、1983年1月から1993年4月に至る10年余の詳細な年譜が掲載されている。この年譜を読み込んでゆくとたしかに1989年(平成元年)9月の条に唐招提寺観月会の文字が見える。だが、ここで注目すべきはその直後に続く(俳句研究二年十月号九句)という記述である。「俳句研究」平成2年10月号にこのときの作品9句を掲載の意。つまり葦男は、平成元年9月の奈良旅行を題材にした作品をちょうど1年のあいだ寝かせておいてから「俳句研究」誌上に発表していたことになる。
実際、生前の葦男を知る複数の人々の証言によれば、晩年の葦男は常に1年分の作品をストックしており、商業誌の需めに応ずる際などには前年同時期に詠んだ作品を寄稿することが多かったという。締切日オーバーや欠稿等で編集者に累が及ぶのを嫌うプロ意識のなせるわざか、それとも「句日記」と題して「ホトトギス」に1年前の作品を連載し続けた高浜虚子の顰みに倣ったものか。真意は不明であるが、「11月某日までに新年詠30句」などと注文して平然としている月刊誌の無体な要求に対する、葦男一流のささやかな抵抗だったのかもしれない。
そんな気がしたのも、冒頭の句に出会ったからである。作者は金色の鱗をまとった見事な鯉が頭を並べて悠々と泳いでいるさまを見て、まことめでたい気分に満たされている。そして中秋の名月の照りわたる素晴らしい夜の到来を確信している。しかし、決して今年の良夜を目撃したわけではない。「良夜疑わず」という表現は、今年の十五夜の月を未だに観ることなく「良夜想望俳句」を発表するのだという葦男の微妙に屈折した心理の正直な反映なのである。ある種の俳人たちは、平素、季感や実感を後生大事に云々し、眼前嘱目の景物との実存的邂逅をひどく重視する。いわば「制作時点主義」の信奉者なのである。そのくせひとたび活字媒体からの要請があれば、たちまち「掲載時点主義」に宗旨替えをして恬然としている。この句の切っ先はそのような俳壇特有の「隠蔽された大矛盾」にも果敢に突きつけられている。
晩年、葦男は有季定型に回帰したとも評される。しかし、季語に対する身構えを解き、季に寄り添い季に遊ぶかに見える一方、「良夜疑わず」の句に隠された鋭利な仕込杖の如き批評性はなお健在であった。
●―8青玄系作家の句/岡村知昭
さよなら貴男 月夜のすべり台地底まで 諧弘子
いまここに逢瀬の真っただ中にいるふたりがいる。ふたりが互いに抱きあっている情熱もさることながら、「逢瀬」の真っただ中にいることががもたらす昂ぶりのありようというのは、当事者たるふたり以外にはなかなかにわかりづらいものであろうか。さてここに熱く昂ぶりあった時間が過ぎ去り、別れの時が訪れた二人がいる。この別れが単に「じゃあまた明日、また今度ね」というものであれば、ふたりとも今日の抱擁のぬくもりとともに次なる「逢瀬」への期待を持ち帰ることができる。だがこの一句に登場する女性(としておこう、あなたを「貴男」としてあるだけに)には、いかなる理由かはわからないが、もう次なる「逢瀬」の時は訪れなくなってしまった。「さよなら」も単なる挨拶にとどまらない、真の決別を告げる言葉となってしまった。月の光が満ち溢れたこの空間で、かつて数えきれないほどにささやかれた愛の言葉と彼の全身がもたらしてくれた愛撫は、彼が去っていってしまったこの空間において次第に彼女の体と心に深く突き刺さった棘となってゆく。彼を失った痛みはいよいよ彼女を苦しめ苛む。かつての「逢瀬」のひとときに彼が自分にもたらしてくれた高揚感が、彼女の痛みをさらに増幅させる。彼の姿がいなくなったこの瞬間に、「月夜のすべり台」をただまっすぐに滑り落ちてゆくばかりの彼女の心は、きっとこう思わずにいられないのだろう「奈落の底って、こんな感じかしら」。
掲出句は1965年(昭和40)度の第8回「青玄新人賞」を受賞した30句の中の一句。導入の「さよなら」からの「地底まで」の一連の流れはそれこそ「すべり台」を一気に下りてゆくかのような勢いが感じられ、作品のドラマティックさをより際立たせ、ひとりの女性の悲嘆は一句を通じてひとりの女性の物語へと広がるのだが、受賞30句をまとめてみると、別れのドラマが展開されているのは実のところこの一句のみ。一連30句を彩るのは、次のような愛の希望にあふれたドラマを生きる女性の姿であったりする。
気絶の真似して 梅林でたゞ 夫が好き
春風刈りに 夫も大きいてのひら 下げ
子はこうやって抱くのかと 干し物とり込む夫
わたしが待つから夫が帰る 愚かでない
愛妻俳句ならぬ「愛夫俳句」とでも呼びたくなるこれらの作品を見た目で掲出句を見直してみると、別の意味で作品の落差に驚かされるところもあるのだが、どちらに一句においてのドラマティックさの打ち出し方の強さにおいては共通している部分は多い。「気絶の真似」「春風刈り」は夫とともに過ごす時間がもたらしてくれる昂ぶりをさらに増してくれる大切な手立てともなっているし、「子はこうやって抱くのか」の句では自分の子をいつかこの人が抱いてくれるのだ、との確信が彼女をより昂ぶらせ、夫との関係に対する自信が全身に漲らせるのだ。
掲出句に登場する愛を失った悲嘆の真っただ中にいる女性と、「愛夫俳句」に登場する夫からの愛を信じ、自らも惜しむことなく愛を注ぎ込む女性、どちらもいまこの時においては自らの悲嘆をまっすぐに嘆き、自らへ注がれる愛への参加をまっすぐに唄う。そのドラマティックなまでに堂々とした態度は、辟易してしまった読者をして、「そんな人本当にいるのか」との疑問をもたげさせてしまうこともあるかもしれない(それははじめて読んだ時のわたしのことであるわけで)。しかしもしかしたら、あまりに物語的で典型的であり続けていることこそが、これらの作品群の魅力の源泉でもあるのだから何とも厄介ではないか、と感嘆したくもなるのである。たしかにここに出てくる女性たちとは、私たちはどこかですでに出会っている、もしくはこれから出会うのかもしれないのだから。
●―9上田五千石の句/しなだしん
月の村川のごとくに道ながれ 五千石
第三句集『琥珀』所収(*1)。昭和六十一年作。
このところ、意識的に第三句集『琥珀』の作品を挙げてきた。『琥珀』の秀句を紹介したいとの思いからだ。
五千石の句は第一句集『田園』が斗出して評価が高く、それ以後の『森林』『風景』『琥珀』『天路』は軽視されすぎる傾向があると思っている。たしかに、『森林』『風景』あたりは発展途上の感もあり、『田園』ほどのインパクトがないのも事実。だが第三句集『琥珀』は、「眼前直覚」以降の五千石の充実期であり、練られた表現、詩情豊かで技が光る作品が多く、五千石俳句の最高峰は『田園』よりもこの『琥珀』ではないか、と個人的には思っている。
◆
掲出句。
ふつう「ごとく」を使う場合、全く別次元のものを引き合いに出すのが、比喩の醍醐味であり、飛躍を生む秘訣だと思う。「貫く棒のごとく」のごとく。
だが、この句では「道」を「川」に例えている。どちらもごく自然に、身近に存在するもので、言うなればかなり近いものと言える。大いなる水の流れ、つまり川、その近くに人が集まり、生活が形成され、道ができる。川沿いには必ずといっていいほど道がある。この意味でも「道」と「川」は関係性が強い。比喩としての飛躍に乏しいように思うのだが、一句として仕立てられたとき、違和感なくすっと入ってくるから不思議である。これが先に述べた、さり気ないが、地に足のついた技とも言えようか。
◆
この句に前書はないため、どこの景色なのか、本当に存在する村なのか、それは分からない。だが、この道は車のヘッドライトが行き来するような道路ではなく、山間のひっそりとした村、鄙びた屋並みを通る村の道が想像できる。世界遺産にも登録された白川郷などを思ったりもする。
◆
「月の村」と上五に置くことで、まず大づかみの把握を読者に促し、「川のごとくに道ながれ」で、景色としての村の在りよう、道の存在を提示する。高台から村を見おろしているような浮遊感を感じるのは、「月の村」という上五の効果であり、「川のごとくに」「道ながれ」によって月の光りに浮かぶ幻想的な村の道を静かに喚起する。
「川」や「道」「村」という何気ない現実的な言葉を使いながら、この句の景色がどこか現実離れしているように感じるのもまた、「月の村」という言葉の不思議さから。
*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊
●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井
月下美人展くや熟年めく恥らい
「野の会」昭和56年6月号より。全句集には収録されておらず、『自選自解楠本憲吉集』に収録。
日本的な季語である「月」はあまりにも日本的情緒のまとわりついているせいか、憲吉には名句が少ないようである。憲吉の句に「月」の句をまれに見ても日本的情緒を排除している句が多い。
月爪のごとしこの恋泥のごとし
残忍にひらく月下の恋いくつ
羸痩わが胸に影して月の山毛欅
一方で、「月」のつく「月下美人」というサボテン科の花には、憲吉の想像力を羽ばたかせるものがあるのか、題材としてしばしば詠んでいるようである。作品そのものも無理なく憲吉調を発揮している。
妖と開き煌と香りぬ月下美人
月下美人かっと目ひらき明日フランス
掲出句に戻り、「熟年めく恥らい」という把握はいかにも憲吉らしいものがある。熟年になれば恥じらいがないのではないかという常識的な解釈は憲吉の取るところではない。若い女性の鈍感さを、憲吉ほどになるとよく分かっている。厚かましいように見える熟年女性に、ある瞬間、恥じらいの表情が素通りして行くことがある。それを妙と思っているのである。こうしたところに憲吉の独自性がある。
最近のお笑いでいえば、一時、綾小路きみまろが中高年の女性をいじっていたのが、このごろはピースの綾部、オードリーの春日、ロバートの秋山などが熟女好きを芸にしている。楠本憲吉は20年早かったのだ、芸人としては。
(修正)前回の、「戦後俳句を読む」(17)で、
翼重たくジャンボジェット機も花冷ゆる
をあげて、ジャンボジェット機を取り上げた初期の句(45年7月でJAL就航)と述べたが、この句は昭和50年の句であった。しかしこれに先立つ昭和46年の句に、
秋暑しジャンボジェットが人吐きおり
があったことを見落としていた。訂正し修正する。
●―12三橋敏雄の句/北川美美
月夜から生れし影を愛しけり
優雅で謎めいている。
月夜から生れた影、それは物語のはじまりのようだ。
敏雄に恋、愛の句を見つけるのは難しい。上掲句は、人に恋するのではなく、影を愛する句であることが憎い。掲句は『まぼろしの鱶』に収録される。制作は昭和20年代、敏雄25~35歳の頃である。
月影ではなく、月夜から生れた「影」である。それをどう捉えるのかを読者に委ねるしかない俳句形式の短さはまさに宿命的である。ナルシストと思える敏雄がもう一人の自己を愛すること。月夜に蘇った断ちきれぬ想いを投影する影と読めようか。
人は深い傷を負った頃の自己の影に突然遭遇することがある。月夜の艶めかしい光の中で忘却の彼方へ置き去りにされた影が生まれたかのようだ。蘇った影さえも愛すべきこととして捉える余裕。穏やかで平坦な時間。「生まれし影」に雅が、そして「愛しけり」に切ない余韻が残る。
映画『過去のない男』(2002年/監督・脚本・制作:アキ・カウリスマキ)の中で暴漢に襲われ記憶を失った主人公が飲んだくれの男に「過去なんてなくても心配ない。人生は後ろへ進まない。」と言われる。様々な境遇、様々な想いを抱えつつ登場人物達は日常を淡々と生きる。リセットしたいとおもいつつ人は簡単に過去から解放されない。
生まれてしまったものは生きてくしかない。過去から現れたもう一人のわれの影と読みたい。人間の悲哀、愛らしさが感じられる。青年期の敏雄の高い精神性が伺える句である。
●―13成田千空の句/深谷義紀
たたみ一畳亡骸を乗せ月のぼる
第1句集「地霊」所収の作品である。
千空に月の句はさほど多くない。生涯の句集6冊に収められた句は20句に満たないであろう。派生季語に目を広げても、僅かに以前(於第2回)採り上げた、
墨磨れば墨の声して十三夜 『白光』
など数句があるのみである。
しかも、半数近い8句が第1句集の「地霊」に集中している。
その時期の作品は、掲出句や、
直截月の光の病ここに
のように、どちらかと言えば重く暗い雰囲気のものが目に付く。また描かれた月は冷たい存在、或いは畏敬すべき対象になっているのである。
それが時代を経るにしたがって、
三日月を天上に鳴く恋蛙 『天門』
水の香のまんまる月夜母子像に 『忘年』
などのように明るい作風の句に変わっていき、月は親しみやすい存在に転化する。
その変化がどこから来たものか確たることは不分明であるが、この変化は、千空の作品世界において、鋭敏な感性が句作の原動力となった青壮年期から、句業を重ね、さまざまな人生経験を経た、ある種の懐の深さを見せる句風への転換を示す典型例だと思えるのである。
●―14中村苑子の句【『水妖詞館』―あの世とこの世の近代女性精神詩】49、50、51、52 / 吉村毬子
2014年10月17日金曜日
49 海へ残すくるぶし赤き影法師
「渚」 北原白秋『海豹と雲』所収
﨟たさよ、しろき月/炎(ほのほ)しろく、/雲の翼(はね)はろばろに/行き流れぬ。/釣舟の漕ぎいづる/入り江ちかく、/さざなみの彩(あや)織(おり)に/魚(び)籠(く)ひたせば。/光るなし、かげるなし、/夕満ち汐、/うらもなし、うつつなしし、/膝、くるぶし。/夕暮れよ黄金虫/うなり過ぎて、/さんごじゅの花の香のみ/蒸しにほひぬ。
「海」と「くるぶし」に因んで、苑子の好きな北原白秋の詩を書き出してみた。
掲句は、白秋の詩の如き夕陽の照らす「海へ」、「影法師」だけを残して去って行ってしまったのだ。痛々しく丸い「くるぶし」を赤く染めて。
「くるぶし」=踝の〈果〉は、丸いくだものの実が木になっている樣を描いた象形文字のことであり、「くるぶし」が丸い形の骨であるため、〈足〉+〈果〉で〈踝〉となった。私は、足の果てだと思っていたのだが…。「くるぶし」は足首の外側に出ているので、夕陽をより受けて「赤き」とする物理的な読みにもなるが、「くるぶし」という足首に付随する部位は、足袋や靴下類で隠す部分であるせいか、足首とともに艶を持つ響きがある。
針供養女の齢くるぶしに 石川桂郞
くるぶしの露けき頃となっており 川崎展宏
うつくしき踝をもつ秋の霊 宮入聖
くるぶし痛しむかし山には羽ありき 阿部完市
旅人のふと日野の穢のくるぶしか 安井浩司
くるぶしのすとんと暮れし神集い 攝津幸彦
くるぶしに日暮れを寄せて麦を踏む 黛執
実朝忌くるぶしに来る地の冷 鍵和田秞子
くるぶしの砂におぼるる浜豌豆 片山由美子
くるぶしの際ぬけてゆく春の水 桂信子
「くるぶし・踝」の句を拾ってみた。男女の俳人ともに女の「くるぶし・踝」とおぼしき句が多い。
石川桂郞の「針供養」や川崎展宏の「露」は、慎ましやかな女を思わせ、宮入聖の「うつくしき」と「秋の霊」に、若々しく清潔なエロスを見る。阿部完市は、自分のくるぶしの痛さから民話性を呼び、安井浩司の「穢のくるぶし」が女のものであるのなら、その意味に慄然とする。攝津幸彦の「暮れし」が必ずしも日暮れの時刻を表現していないとしても、「くるぶし・踝」は、黛執や苑子の句のように日暮れ時を連想させるものもある。日暮れ時は、人にもの思わせる時間であるのかも知れない。
女性俳人の句は、それぞれ水辺が舞台の作品である。水辺で足袋や靴下を脱ぎ、足を水に浸したり、砂浜を歩いている様が「実朝忌」や「浜豌豆」、「春の水」の季語と相俟って、「くるぶし」が自身の心であるように水や砂との交感の機微が繊細に表現されている。
桂信子の句は、句集『初夏』(昭和52年刊行)所収の作品である。昭和48年秋~49年と記述があるので、信子が58、9歳のものである。「際ぬけてゆく」の表現に信子の諦念が透ける。「くるぶし」というたわわに実った足の骨の際をすりぬけてゆく水は、ものみな生き生きとし始める「春の水」である。春光に輝く水が春の愁いを纏った信子をかわしていくようである。直情から洩れるその詩に、ある種の艶めかしさは確かにあるが、明るい「春の水」なだけに、憂いを覚える。句集は編年体のため、各章にタイトルをあしらった句集のようなイメージで括れないが、48年秋~49年の1年半だけの句の中には、寂寥感の滲み出る句や、ときには、緊迫感を伴うような句もある。
毒茸を掘って真昼の日にさらす 信子『初夏』昭和52年
相模野の春暮になじむとりけもの 〃 〃
濁り声に身をとりまいて大根焚 〃 〃
春の土荒れて筋引く竹箒 〃 〃
総毛だつ紙の手ざわり春の暮 〃 〃
惜春の竹の幹うつ石つぶて 〃 〃
ここに掲げた句が、390句にも及ぶ句集全体を貫いている訳では決してないので、誤解のないように読んで頂きたいのだが、〈くるぶしの際ぬけてゆく春の水〉の私の鑑賞に至った理由として掲げたまでである。
「人生は女の日記じゃない。」と言ったのは、サガンの小説『ブラームスはお好き』に登場する青年シモンであるが、(年の差を気にして身を引こうとしたポール(39歳)に言ったシモン(25歳)の言葉である。)編年体の句集とは、微妙な心の動きが日記のように見えてしまうことを識った。『水妖詞館』のような、各章にタイトルを付けてまとめた句集は、映画を編集するように、作句時期の前後を考えず各章ごとにイメージを展開すれば良いので、時間経過に伴う心理状況は解らない。
桂信子は、大阪出身で(大正3年生まれ・平成16年沒90歳)、20歳から90歳までの70年間を俳句とともに生きた、まさに人生が俳句の人であった。昭和13年から「旗艦」に投句。日野草城に師事し、同人になる。その後、「まるめろ」「太陽系」「青玄」を経て、45年に「草苑」を主宰。
平成19年、私が所属誌『LOTUS』9号に書いた随筆「エロテイシズムのかたち―『女身』桂信子―」の一部分を抜粋する。
いつの世も朧のなかに水の音 桂信子
嘗て『女性俳句』という超結社の俳誌が存在した(1954~1999年)。此の句は、終刊号に全会員が一人一句発表した際の作品である。
少年美し雪夜の火事に昂ぶりて 中村苑子
秋刀魚焼く煙の中の割烹着 鈴木真砂女
苑子や真砂女は独自の俳句性を表現した作品を載せているが、信子の作品には『女性俳句』創刊に関わってから、終刊に至るまでの思いの込められた句のように感じられる。亡くなる10年前の作品ではあるが、永きに亘る俳句人生の中でのひとつの終幕への感慨がこの作品を通して伝わってくる。移り変わる朧なる世にひとつの生命を育む水の音を聴いて自分は生きてきたのだと―。強く静かに鳴り響く水の音は果たして信子自身であるのかも知れない。(中略)1995年の『女性俳句』65号〈湧泉集〉の「強霜」に私は強く引き付けられた。
寒暁や生きてゐし声身を出づる
人小さく凍てて地の揺れ思ふまま
とこしえに地球はありや寒星座
地震あとの春待つ顔をあげにけり
人間を笑うて山の覚めにけり
此の5句を含む阪神・淡路大震災に基づくと思われる15句を発表している。桂信子を語る時、有名無名を問わず人は、誠実で潔癖であると言う。この句群を目にした時は、まさしく誠実と潔癖を感知した。先に掲げた『女性俳句』終刊号の1句を読んだ時も同じ思いであった。いつの時代も常に真摯に物事を女身ひとつで受けとめ、熟知し、自然や人間を悲しみ、慈しむ、従来の感性が句作を重ね、より研ぎ澄まされ生き抜いた俳人であると私は確信する。(後略)
信子は、私が折りに触れ書き記している「女性俳句」の8人の発起人の一人であり、長きに亘り女性俳人のために貢献した中心人物であった。(大会でお会いした印象はいつも穏やかな笑顔であった。)平成23年の東日本大震災の時、信子は彼の世の人になっていたけれども、今も天上で鎮魂句を詠み続けているような気がしてならない。
苑子は、信子と同世代であり、親しくしていたが、高柳重信は苑子よりもずっと以前に信子と交流していた。『桂信子句集』(昭和58年立風書房発行)の栞「桂信子句集ノート」の重信の文章「若き日に」の最後の部分を引く。(この『桂信子句集』は6月15日発行であり、同年7月8日に重信は亡くなった。)
(前略)その頃(昭和十六年)の桂には
夫逝きぬちちはは遠く知り給はず
という句があるが、これを読むたびに私は涙ぐましい思いでいっぱいになる。また、桂信子のことを考えるたびに、なぜか私は、この作品を真先に思い浮かべるのである。
それから、四十数年が過ぎてしまった現在、たぶん桂や伊丹や私にも、それぞれ大きく変貌を遂げているところと、少しも変化していないところがあるに違いない。だが、いまなお、過ぎし日の健気さを殆んど失わずにいるのは、おそらく桂信子であろう。その健気さこそ新興俳句の心意気と思う私にとって、いま桂信子の健在は心の支えの一つでもある。
同じ栞の飯田龍太の「桂信子さんのこと」の冒頭を引く。
結論を先に言ってしまえば、桂信子さんは、俳句に対する識見、あるいはそれを裏から支える実作に対する情念のありように於いて、現代女流俳人の第一人者であると、私は確信している。
いや、私の見識などと、改めて見栄を切ることもないだろう。いま、俳壇おお方の良識は、そこに帰着するように思われる。(後略)
藤木清子や橋本多佳子らとも交流し、彼女らの残したものを胸に抱きつつ、日野草城、山口誓子を継承しつつ、独自の女性としての俳句を、その人生を懸けて詠い続けてきた信子の姿勢は、誰もが認めるところである。結婚2年後の昭和16年(26歳)、夫を亡くしてから永きに亘る句業の間に、幾多の句友を見送って来た。書き綴る晩年の句には、微妙な心情が語られている。
忘年や身ほとりのものすべて塵 信子『樹影』平成 2年(76歳)
死ぬことの怖くて吹きぬ春の笛 〃 『花影』平成 7年(81歳)
元日や如何なる時も松は松 〃 『草影』平成15年(90歳)
1、2句目の心情の後、新年を迎えた信子の3句目のゆるぎない決意は、一貫して歩んだ自身の俳句人生を物語るにふさわしい、厳しくも格調高い一句である。そのゆるがぬ俳句への思いを貫く為に捨てたものもあったであろう。昭和22年(32歳)の次の句を見ても一生を一人で過ごした女人の姿として哀切の感に堪えない。
雛の灯に近く独りの影法師 信子『月光抄』昭和24年
女一人の「影法師」は、女身の実体そのものよりも昏く悲し気である。今回の苑子句の「影法師」も一人の女の不幸を物語っているかのようである。顕になった「くるぶし」のように、女人の「影法師」の真実の暗さは夕陽にありありと照らし出されるのである。前回の〈47.はるばると島を発ちゆく花盥〉で私がこだわった佐渡情話のお弁の「くるぶし」と「影法師」も思い浮かんでくる。水辺に残された女達の「くるぶし」と「影法師」を今宵も細波が揺らすであろう。
ひとり臥(ね)てちちろと闇をおなじうす 信子『女身』
桃の宿ひとり遊びの影踊る 苑子『吟遊』
50 澪標(みをつくし)身を尽くしたる泣きぼくろ
掲句について苑子自身が自註している文章がある。(『現代女流俳句全集第四巻』昭和56年講談社所収)
いささか甘くて気恥ずかしいこの句が、どうしてか男の人に好まれている。
ある日、横須賀の港で浮標(ブイ)を見ていた。頭を赤く塗ったコンクリートの巨大なものだったが、浮標(ブイ)という文字の関連から澪標(みをつくし)という音が必然的に「身を尽し」と心に入ってきた。
目の前の浮標(ブイ)から解かれて港を出てゆく船もあれば、入港して浮標(ブイ)に繋がれる船もある。その船で働いているおおかたの船乗りたちは家に妻を残してきているであろうし、実際に見送りに来て何か荷物を渡している女の人の姿も見えた。そんな風景を眺めているうちに、ひとりの男に全身全霊を捧げて尽す、おとなしく優しい女の姿が浮かびあがり、いったん船出したら、いつ帰るかも判らない男を待ち続けて、何ごとにも耐えて淋しく暮らしている女を表現するのに「泣きぼくろ」という名詞が泛んだ。こうした女は、いまは幻の存在でしかないであろうし、それ故に男の人たちは、ひたすら渇仰するのであろう。
「澪標」は「身を尽くし」にかけて和歌で多く詠われている。万葉集には「遠(とおつ)江(おうみ)引(いな)左(さ)細江の澪標吾を頼めてあさましものを」などもある。冒頭で「いささか気恥ずかしいこの句」と本人が語っている通りであるが、最後の一行の「こうした女は、いまは幻の存在でしかないであろうし、それ故に男の人たちは、ひたすら渇仰するのであろう。」に妙に納得してしまうのである。
泣きぼくろ彼女もちけりけふの月 山口青邨
石竹の美少女なりし泣きぼくろ 倉橋羊村
「泣きぼくろ」は、今や男が〝ひたすら渇仰する〟女に似合う。青邨や羊村の若き時代はそうした女が存在していたのだろう。(羊村句の「石竹」は撫子のことである。)
けれども、「泣きぼくろ」がなくとも「身を尽くしたる」女は現存しているのではなかろうか。10年程前までは、そんな女流俳人が確かに存在していたのだ。鈴木真砂女(明治39年生まれ・平成15年没96歳)は、その波瀾万丈なる人生が、小説や芝居にもなっているが、真砂女のその人生の折り折りの女の俳句を苑子の掲句に重ねてしまうのである。
真砂女は、千葉鴨川の有名旅館の三姉妹の末娘に生まれ、結婚後夫が失踪し、家に戻るが、亡くなった姉の替りに家の為に義兄と結婚する。30歳の時、7歳年下の海軍将校と恋に落ち、50歳で家を飛び出し、銀座にて小料理屋「卯波」を営みながら俳句を書き続けた。俳句は亡くなった姉の影響で作り始め、大場白水郎主宰の「縷紅」に投句。戦後「春燈」で久保田万太郎、安住敦に師事。昭和29年創刊の「女性俳句」の発起人の一人でもある。
平成4年(私は平成2年から俳句を始めている。)銀座「卯波」の暖簾を初めてくぐった。会社の先輩が句会を体験したいからと、編集者の友人に勧められ、予約をしてしまったのである。私は断わり切れず、先輩達と句会らしきものを始めた。(2、30代の女性ばかり5、6人で、俳句を習っているのは私と石原八束の教室へ通っていた同僚の2人だけであった。)そこへ真砂女が現われ、「どちらの結社の方達?」と尋ね、私は冷や汗をかきながら「中村苑子先生のところで勉強しています。」と答えると、「まあ、苑子さんならよく知っているわよ。」と笑顔で仕事に戻って行った。暫くすると、真砂女は、赤ペンを持ってきて一人一人の句に添削をしてくれたのである。私の拙句、
父の忌や春暁いまだ暗くあり 広美(毬子)
の下五を「明けやらず」と修した。苑子も同じように修したと記憶している。(その「卯波」での稿を大切にしていたのだが、その他、窓秋の扇子や苑子と食事した折りに書いて頂いた2枚のコースター等々、俳句関連のものが家に泥棒が入り、盗まれてしまい、本当に残念でならない。)後日、私がその「卯波句会」の事を話した先輩に皆に言ってはいけないと言われたが、苑子にだけは謝りながら、恐る恐る話すと、「先に言ってくれれば、真砂女に話しておいたのに。」と残念がっていただけで、事なきを得た。苑子と真砂女は、「春燈」で8年間共に学んだ句友であった。それから、2、3年後、苑子や先輩達と「卯波」へ食事に行った際、(夏だったからか、真砂女は御手製の紺地に白の水玉のワンピースを着ていて、少女のようであった。)一番端の席を指して、苑子が言った。「ここが例の人の定席だったのよ。」と。
羅や人悲します恋をして 真砂女『生簀籠』昭和30年
罪障の深き寒紅濃かりけり 〃 〃
女体冷ゆ仕入れし魚のそれよりも 〃 『夕螢』昭和51年
水さびし空もさびしと通し鴨 〃 『都鳥』平成6年
死なうかと囁かれしは螢の夜 〃 〃
人を泣かせ己も泣いて曼珠沙華 〃 『紫木蓮』平成10年
これらの作品を読む時、不倫という一言で片付けてしまえない時間の重さを感じる。泣きながら仕事をしながら俳句を書くことで自身を慰めてきたのだろう。けれどもその悲哀を綴るほど悲しみが募っていったのではないだろうか。
―さる人の死を悼む―
かくれ喪にあやめは花を落としけり 『居待月』昭和61年
忌七たび七たび踏みぬ櫻蘂 〃
掲句は、昭和61年の句集『居待月』である。「かくれ喪」に泣き、咲き散らした花の「蘂」を踏みながら、毎年一人で愛しい人の忌日に手を合わせたのであろう。句集『紫木蓮』は、平成10年(92歳)刊行であるが、〈人を泣かせ―〉の他に〈酒強く無口な人の墓洗う〉の句もあり、30歳で恋に落ちてから、96歳で亡くなるまで、60年以上(その人が亡くなってからも)愛し続けていたのではないかと思うといじらしいばかりである。
夏草や一途というは美しく 『夏帯』昭和43年
この句に書かれている「一途」を貫き通した訳である。冒頭で苑子の語っている文章に登場する船乗りの妻のような真砂女は、海軍将校であった亡き人のいる彼の世に旅発ったのだ。
源氏物語の「澪標」の巻は、源氏28歳から29歳の1年余りである。海辺で生まれ育った真砂女は、通行する船に通りやすい深い水脈を知らせる「澪標」の如く、その生涯を懸けて一人の男に「身を尽くしたる」女であった。苑子もまた(25年間ではあったが)、後半生「身を尽くしたる」覚悟であったが故に、今回のこの句を詠んだのではないかと私には思えてくるのである。
その昔の「春燈」姉妹は、故郷を出てから戻ることなく、東京の地で愛する男と俳句に身を尽くし切った人生であった。
ふるさとの蔵にわが雛泣きをらむ 真砂女『紫木蓮』
振り向けばふるさと白く夕霰 苑子 『花隠れ』
51 人妻に春の喇叭が遠く鳴る
20年近く前に苑子から掲句について質問を受けたことがある。
「今の若い人はこの句をどういう風にとらえるのかしら?」私は、「人妻の経験のない私ですが、人妻となりそれなりの倖せな生活を送っているこの句の女性が、春のある日、呆けた喇叭の音を聴いていると、遠く置き忘れたもう戻ることのない青春の甘く熱い日々を思い出す、ノスタルジー的な詩を感じます。」と答えたが、彼女は微笑んで聴いているだけであった。
高橋睦郎の「中村苑子二十句恣解」(『鑑賞女性俳句の世界第3巻』平成2年角川学芸出版所収)に、この句についての文章がある。
人妻とはどれほどの年齢をさすか。年齢よりも結婚以来の歳月。花嫁や若妻よりは時が経過しているが、まだ人の妻になったという匂いが残っている。人を夫と言い換えれば、心身ともに夫と馴染んで来た頃あいをいうといっていいのではないか。その人妻に春の喇叭が鳴る。喇叭は豆腐屋の喇叭でも、吹奏楽の喇叭でもいいが、ここはやはり軍隊の進軍喇叭と考えたい。
春眠暁を覚えず、夫はまだ床の中にある。妻はすでに起きて、飯を炊き汁の実を刻んでいる。その幸福を嫉むかのように喇叭が鳴り、夫を戦争に拉致しようとする。妻はその音を夫に聞かせたくないが、けっきょく夫は聞くだろう。聞いて軍隊の拉致に委せるだろう。男は平安な時間が破られることをどこかで望んでいる。それもまた男の性の真実であるだろう。遠い喇叭はたちまち近くなる。
戦争を知らない世代の私にとって、「軍隊の進軍喇叭」とは、思いもよらなかったが、苑子が佐渡出身の新聞記者と結婚したのは、昭和7年(20歳)のことであるから、その見解が案外当たっているのかも知れない。苑子の夫は、昭和19年に報道班員として派遣されていたフィリピンで戦死している。苑子は「私の内部で以来、戦争は終りを告げない。」と語っている。
苑子の夫は帰らぬ人となってしまったが、苑子のように愛する人が戦地から帰るのを待っていた女流俳人がいた。
細見綾子である。
帰り来し命美し秋日の中 綾子『冬薔薇』昭和27年
昭和22年に、夫となる12歳年下の俳人沢木欣一が戦地より無事帰還した折りの句である。
冬薔薇(そうび)日の金色(こんじき)を分ちくるゝ 『冬薔薇』(昭和21年作)
十一月沢木欣一と結婚
見得るだけの鶏頭の紅うべなへり 〃 (昭和22年作)
細見綾子(明治40年生まれ・平成9年没90歳)は、兵庫県出身で東京の大学卒業後結婚するが、2年後夫は結核にかかり病没し、ふるさとへ帰るが肋膜炎を発病し、その頃(昭和4年・23歳)から松尾青々主宰の「倦(けん)鳥(ちょう)」に投句し始める。32歳頃まで療養しながら俳句を作り続け、ようやく健康を回復した。昭和21年、沢木欣一が創刊した「風」に同人参加。翌年欣一と結婚。
ひし餅のひし形は誰の思ひなる 綾子『桃は八重』昭和17年
ふだん着でふだんの心桃の花 〃 〃
1句目の(療養中であると思えるが)その素直な観点の不思議さは詩人の目なのだろう。2句目は、綾子が健康を回復した頃の作品である。初期の有名な作品であり、細見綾子を語る時、この作品にその人柄が表われていると言われている。綾子は20代を療養生活で過ごしたが、ふるさと丹波の自然と、静養地、大阪での俳句交友が健やかな身体と生来の素直な詩精神を育くんだのであろう。70年近い俳句人生の中で多くの句集を残し、随筆も数多く執筆している。昭和29年創刊の「女性俳句」の発起人の一人としても名を連ねている。
縦横無尽の中の一点秋日吾等 『冬薔薇』昭和27年
白木槿櫻児も空を見ることあり 〃
前回〈48.はるばると島を発ちゆく花盥〉で俳人同志の夫婦について加藤知世子と横山房子について述べたが、綾子もまた50年間を俳人の夫と共に過ごしている。が、2人のように夫と表記された句が(私が調べたところ)見受けられないようだ。だからといって、12歳もの年の差を超えた大恋愛は、欣一の小説「踏切」や綾子の随筆「晩秋」(『私の歳時記』昭和34年風発行所)等で周知のことである。掲句の「吾等」は、欣一と綾子であり、40代で授かった子供との毎日は未知なる幸福であっただろう。
しかし、私には綾子は、妻として蔭、日向で欣一を支えた女流俳人というよりも、自然に寄り添い溶け込みながら自然を崇拝する俳人で、自然も夫も同等に愛したという印象が強い。
鶏頭を三尺離れもの思ふ 『冬薔薇』
高柳重信がこの句について述べている。
なるほど、対象と自分との間が三尺という距離は、物思うのに、まさに不可欠の距離というべきで、それを感得した彼女は天性の詩人だ。
綾子自身の自註もある。
鶏頭と自分との距離が三尺だと思ったとき、何もかもが急にはっきりするように感じた。その時、何を思っていたのか、言われても言い証しは出来ないが、鶏頭へ三尺の距離で私は色んな事を考えた。三尺は如何ともし難い距離だと思えたのである。
そして、自然を視つめる眼差から、その生死や輪廻を更に深い思惟へ至り、涅槃や仏像の句々を生み出す。
仏見て失はぬ間に桃喰めり 『技藝天』昭和49年
女身仏に春剝落のつづきをり 〃
貝殻に溜れる雨も涅槃かな 『存問』昭和61年
自然に洗われた心身が仏像を拝顔することで、より洗い清められ、柔かな境地へと辿り着く。1句目は、苑子が好きな句であった。苑子も仏像が好きで各地を旅してはその地の仏像を拝顔して廻ったと聴いている。私は苑子からこの句を教わった。
私は冒頭で記したように、20年前、今回の句を苑子の若き(新聞記者の夫と生活していた)頃の人妻の句ととらえていた。句の解釈は変わらないけれども、今では、重信の妻(籍は入れていないが)としての句であっても、どちらにしても「人妻」の懐旧の念を詠っているのだと思っている。綾子に「人妻に」と上五を与えたら何と詠むであろうか。10歳以上もの年の差を超えて愛を貫いた綾子と苑子は、夫にとって、ある時は母であり、ある時は仏像のように微笑み、風通しの良い距離を保ちながら、自身は、俳句という曼陀羅を描いていったのである。
曼陀羅の地獄極楽しぐれたり 綾子『存問』
落花舞ふ渓の無明や水明り 苑子『花隠れ』
52 夕べ著莪見下ろされゐて露こぼす
ひとづまにきざはしはある著莪(しやが)の花 大西泰世
前句の「ひとづま」に因んで引いてみた「著莪の花」の句は、昭和24年生まれの川柳作歌大西泰世の作である。「著莪の花」は、6月の梅雨時、陰地に群生する花である故か、その花の地味な様子のせいか、昔から明朗風には詠まれていないようだ。
花著莪に涙かくさず泣きにけり 長谷川かな女
ほどほどの昏さがよけれ著莪の花 今井つる女
華やかに女あはれや著莪の花 阿部みどり女
かな女、つる女の句は、著莪の持つ白く涼しくも静かな陰鬱を湛える風情が描かれているが、みどり女の句は、泰世の句のイメージと共通するところがある。苑子の句の「見下ろされゐて」の著莪(もしくは本人)の位置に対して、泰世の句は、「きざはし」という、上から見下ろし、下から見下ろされ、同等の位置に立つこともできるものを句に置いている。苑子句の主体が(著莪に喩えられた)女だとすると、泰世句の「きざはし」の位置が苑子句と同じ位置であるともないとも断定できない表記が、「ひとづま」という女に多種多様の意味を展開させ、「著莪の花」の持つ表裏を表現している。みどり女の「華やかに女あはれや」も、泰世の曖昧さを含ませた詩的浮遊感とは異なる形ではあるが、「著莪の花」の持つ陽と陰を五七五にはっきりと提示しているのである。
阿部みどり女は、北海道生まれ(明治19年生まれ・昭和55年没93歳)で、明治43年に結婚するが、結核のため鎌倉で療養し、俳句を始める。大正元年虚子に師事。「ホトトギス」で5年に婦人俳句会が始まり、かな女、淡路女らと活躍。昭和7年「駒草」創刊主宰。19年、仙台に移住し、30年余りを過ごす。
葉柳に舟おさへ乗る女達 みどり女 『笹鳴き』昭和22年
物言はぬ獨りが易し胡瓜もみ 〃 『微風』昭和30年
枝豆がしんから青い獺祭忌 『光陰』昭和34年
絶対は死のほかはなし蟬陀仏 〃 『雪嶺』昭和46年
ゝゝと芽を出す畑賢治の忌 〃 『石蕗』昭和57年
みどり女についての逸話を知る由もないが、これらの作品を引きながら何と俳句に向いている人かと思った。迷いのない言葉が清々しく、そして時には諧謔を合わせ持ち、名を伏せたら男性の若手現代俳人と見紛うような作品もある。1句目の「女達」の華やかな揺れる動きを見る目は、男性の眼差のような客観性がある。先に掲げた「著莪の花」の句もそういった目線から見ることもできよう。
ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ 桂信子
そら豆はまことに青き味したり 細見綾子
みどり女の3句目は、「獺祭忌」が主体だとしても、台所に立って同じ豆類を茹でる信子や綾子の句とは全く違う趣きのある芯の太い堂々とした句である。2句目の台所句、「胡瓜もみ」にもまた彼女の気質が表われているようである。そして、4句目はみどり女85歳刊行の所収句だが、益々削ぎ落とされた言い切りが自己の晩年の俳句へと結晶されていく姿であろう。作句時期も、どの句集所収かも解らないのだが〈海底のごとく八月の空があり〉という句も現代俳句に適う新鮮さを持っている。
みどり女の女性性が表現された句を探してみた。
打ちあけしあとの淋しさ水馬 『笹鳴き』昭和22年
秋の蝶山に私を置き去りぬ 『微風』 昭和30年
うすものに透くものもなき袂かな 〃
胸すぐるとき双蝶の匂ひけり 『雪嶺』昭和46年
1、2句目はストレートな表現が初々しさをも感じるが、(これも若手現代女流俳人風の作品である。)3句目の叙述に女を見るが、「うすもの」の語は、男女俳人ともに透けていることを艶とした女体の有様を表現する作品が多い中、「透くものもなき袂」と言ったところにより儚い女性性が滲み出ている。4句目の「すぐるとき」もそこはかとない熱情への名残りを漂わせている。
苑子の今回の句に共通するものを見出すとすれば、3句目の「うすものに」の句であろうか。著莪は花が咲いても種子ができない代わりに、地下の根茎が伸びて群生する。そのためか、花言葉は〝友人が多い〟だが、なぜか〝反抗〟という花言葉も持つ。梅雨時の山地や軒下に咲き、アヤメにも似ているが、姿や咲く場所が地味な著莪の花は、晴天で見るよりも、そぼ降る雨の中、白い花片が透き通り雨露をこぼす姿は、儚く美しい。紫陽花のように人目を引く華やかさに、薄い花片を震わせて微かに〝反抗〟しているようでもある。私は初学時代、晴れた日の著莪の花を詠んだ拙句に、苑子から「著莪はそういう花ではありません。」とはっきりと言われたことがあるのを(晴天の著莪に問題があるのではなく、私の句が著莪を言い得ていなかったのである。)この句を読む度に思い出す。苑子にとって「著莪」は、見下ろされながら美しさが透ける花(女)であり、みどり女は、女の「華やか」さには「あはれ」があると「著莪の花」に喩えて詠う。
泰山木乳張るごとくふくらめる 『石蕗』昭和57年
93歳で亡くなったみどり女の遺句集所収のこの句には、重厚で健やかな華やかさを纏う女の姿がありありと浮かんでくる。女の「あはれ」も「華やか」さも知り抜いたみどり女は、地に侍る著莪の花のような女達へ大空を仰ぐ「泰山木」を大らかに詠いあげ、女の讃歌を叫んでいるかの如き風情である。
苑子の今回の4句は、女性の嫋やかさを詠う句々であった。
23. 羽が降る嘆きつつ樹に登るとき
から始まった第2章「回帰」の終句は嘆くことをやめ、見下ろされながらも、泣いているかのように見えながらも、透き通る花片を静かに滴らして反抗しているのであろうか。
命より俳諧重し蝶を待つ みどり女『月下美人』
俳句とは業余のすさび木の葉髪 苑子 『四季物語』
次回から、第3章「父母の景」を繙いて、苑子俳句の源を探っていきたいと思う。