【俳句新空間参加の皆様への告知】

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2024年11月15日金曜日

第236号

            次回更新 11/29



現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 4 筑紫磐井 》読む

【広告】筑紫磐井『新しい俳壇をめざして』出版と講演

澤田和弥句文集特集
はじめに 澤田和弥句文集について 津久井紀代 》読む
はじめに 凡例 筑紫磐井 》読む
第1編① 現在という二十世紀 》読む
第1編② 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】 》読む
第1編③ 無題 》読む
第2編 美酒讃歌 ①麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ②続・麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ③焼酎讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ④熱燗讃歌 》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行
第四(11/1)木村オサム・中西夕紀

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子
第二(11/1)辻村麻乃・神谷波・瀬戸優理子
第三(11/15)岸本尚毅・坂間恒子・ふけとしこ・仲寒蟬

■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第49回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

英国Haiku便り[in Japan](50) 小野裕三 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり18 浅川芳直『夜景の奥』 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】② 『情死一擲』の幻視的リアリズム  櫻井天上火 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(51) ふけとしこ 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】 3 現代川柳に通じる三句 佐藤文香 》読む

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【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む
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北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

11月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …

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前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。



英国Haiku便り [in Japan] (50)  小野裕三

スピリット・オブ・ハイク

 ロンドンにあるアートギャラリーから、俳句をテーマとした美術展への参加を誘われた。現代アートの作家たちが「俳句の精神(spirit of haiku)」をテーマに美術作品を作る。英国の詩人三人と僕の計四人がその作品に呼応するhaikuを作って会場で音声で流す、という趣向だ。この美術展のことは後日に詳述したいが、僕はイギリス人のキュレーターが語ったその言葉が気になった。「俳句の精神」を問われて、僕はそれをイギリス人たちにうまく説明できるだろうか。

 そう思うと、別の出来事が頭をよぎった。最近あるhaikuの会に参加した際に、イギリス人の講師がこう語った。

 「日本人は、我々西洋人がhaikuのルールと思うものをどんどん破ってますよ」

 本家と分家の奇妙な転倒とも思える言い方が面白かったが、俳句は常に進化すべき、というのが彼の真意のようだ。文化や言語ごとに俳句の差異はあっていいとの含意もあるかも知れない。だが、日本人が忘れた俳句の精神をhaikuが守っている事実を示すとも受け止めうる。

 前回の連載で「比喩」をめぐる俳句とhaikuの違いに触れたが、haikuの中には江戸期の俳句理念を忠実に踏襲しようとする人々が確かにいる。一方でこれも以前に触れた「scifai句」などのようにhaiku形式を借りた自由奔放な展開もいくつもある。そんな中で、果たしてそれらに普遍するスピリット・オブ・ハイクはあるのか。仮にそれがあるとして、それを正しく体現するのは、日本人の俳句か、それとも西洋人のhaikuか。

 ちなみに、例えば英国俳句協会から届く会報には、haikuで目指す日本的美の理念として次のものが記される。真(makoto)、侘び寂び(wabi-sabi)、幽玄(yūgen)、写生(shasei)。しかしこれらの多くは、今の日本の俳人の目からは古めかしいものとも見える。

 「写生」もここで列挙されるが、冷静に振り返るべきは、俳句の近代化の歴史だ。言うまでもないが、子規による俳句・短歌の近代化は、西洋絵画に由来する「写生(スケッチ)」の導入によって進められたとされる。あるいは「前衛俳句」にしても「前衛」という用語そのものが西洋美術から来ることも自明だ。子規以降の俳句史には、べったりと西洋美術由来の概念が塗り付けられている。

 そんな俳句が西洋に逆輸入されhaikuとして隆盛しているが、そこで多くの西洋人が学ぼうとするのは芭蕉など江戸期の俳人が中心だ。一方の僕は、むしろ西洋美術由来の「写生」や「前衛」の影響を強く受けて育ってきた。であるなら、そんな西洋の俳人や美術家たちに僕が語れるスピリット・オブ・ハイクが本当にあるのか? その美術展に取り組みながら、その問いを何度も自問してみた。

※写真はKate Paulさん提供

(『海原』2023年12月号より転載)

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり18 『夜景の奥』(浅川芳直、2023年12月刊、東京四季出版)

  青春詠を詠える時期に俳句に出会えることは、俳人として幸運だ。

 もちろん浅川芳直(あさかわ・よしなお)さんは、まだまだ青春真っ盛りの好青年だ。

この句集の青春詠を読み込んでいて羨ましくも微笑ましい。

 

一瞬の面に短き夏終る

光りつつ飛雪は額に消えにけり

吾のほかに凉しと言はぬ鉄路なり

論文へ註ひとつ足す夏の暁

夜濯に道着の藍の匂ひけり


 私は、あまり剣道の俳句を記憶にとどめていない。

 俳句の担い手が素直に我が身を詠み込んでいけば、さまざまな生き方が反映されて俳句の多様性も確かなものになるだろう。

 浅川芳直俳句は、そんな未来の明るさを感じさせてくれる。そんな俳人だ。

 一瞬の面が体の芯に鳴り響いて青春を注ぎ込んだ学生時代の最後の短い夏が終る。

 空はやけに明るくて飛ぶように雪は、光をまとい、額(ひたい)の体温ですっと消える。嗚呼!青春だ。

 鉄路の熱気の中で吾(われ)は、僅かな微風をも見逃さず甘受し涼しいと云う青春ど真ん中。

 論文の脚注をひとつ足す。その没頭ぶりは、夜が明けても集中力が途切れない。

 夜濯ぎの道着を洗濯して道着の藍も搾り出すように匂いが漂う。


児童らの密談さざんくわ揺れてゐる

少年の葱を一本さすリュック

噴水へさし出す坊主頭かな


 その青春ど真ん中の青年は、子らへの眼差しもあたたかい。

 帯文の高橋陸郎氏によると「この人の鋭さと柔らかさの兼ね合いは絶妙。清新と風格の共存と言い換えてもよい。」とある。若くして俳句の骨法を体得していて頼もしくもあり、しなやかな感性も子らへの眼差しに顕著に露わになる。

 子どもたちを可愛い可愛いだけでなく観ている点も慧眼で児童らの密談に危うさを感じてしまうのは、私だけだろうか。その山茶花(さざんか)の花の揺れは、少し可愛いだけではないようだ。

 少年はリュックに刀のように葱を差して剣士の面構えでお使いのまま颯爽と歩く姿や、少年は噴水の水のつめたさに坊主頭を差し出すようだと見ているユーモラスさ。



 浅川芳直俳句のどれも観察眼の肌理細やかさがあるだけでなくモノの本質を鷲掴みする俳句が量産されている。今後も坦々と俳句の道も切磋琢磨してほしい。


地ビールの乾杯どれも違ふいろ

一本は海に吼えたる黄水仙

花曇きれいに割れぬチョコレート

火蛾集ふ避妊具自動販売機

曼珠沙華吹き残されて茎二本

遅き日や後部座席の津軽弁

夜の靄を動かしてゐる百合の群

蝸牛のぼる獣型遊具の目

武者振ひ落としし馬の冷やさるる


 地ビールの乾杯のどれも違う色の躍動感を鷲掴みするように俳句に結実させていて舌を巻く。

 黄仙水の一本が海に吼え出す。その物語性の豊かさも見逃せない。俳句は沢山の物語を量産できるのだから多くの物語を詠める浅川芳直さんの才能がまぶしい。

 花曇の季語とチョコレートをきれいに割れないもどかしさ。俳句には、詠まれていないのだが恋の行方を花曇の明るくも柔らかなもどかしさとも読める。

 火蛾が集う避妊具の自動販売機。其処にも青春性がある。こういう現代チックな自動販売機に性欲満点のむらむら感をこんな短い言葉で、火蛾の集う様から見出せるのも若くて健全なパッションが溢れている。俳句の好奇心も旺盛なのだ。

 「遅き日や後部座席の津軽弁」「夜の靄を動かしてゐる百合の群」「蝸牛のぼる獣型遊具の目」など俳句の骨法の的確さ、季語の活かし方、そして日常に詩的だけれども俳句的な独自の面白みをしっかりと見出せる力強さがある。また「武者振ひ落としし馬の冷やさるる」は、なかなか詠めない俳句のいただきで、到達点の高さがある。いろんな俳句を詠める好奇心の階段をこつこつと歩を進めていくとさらなる到達点の見晴らしが、この浅川芳直俳句の未来には、ある。


 「東日本大震災から十年」を詠んだ俳句も鋭さと柔らかさらかさの兼ね合いは絶妙なだけでなく浅川芳直さんの真摯な震災への向き合い方が窺えるようだった。

 「鳥帰る廃船といふ道しるべ」「島凪ぐや落花行き着く貝の殻」「花菜畑やうやく人の気配かな」「潮風の吹きぬけてゆく苺摘」「てんと虫東京からの速達便」


 その他にも共鳴句をいただきます。


約束はいつも待つ側春隣

夏めいて教育実習先の島

空調音単調キャベツ切る仕事

姥百合の実の時詰めてゐる力

水平線もりあがり鳥雲に入る

春昼の酔うてもムツオにはなれぬ

夏座敷素揚げの雑魚の眼の大き

捩花やバスが来ぬなら歩きだす

雪となる夜景の奥の雪の山

鳥帰る窓辺に小さき魔法瓶

明日咲くかさくら樹液を満たしけり

葉擦れとも水の音とも夜の新樹

破船一つ蚰蜒の群れたる禁漁区     

紅蜀葵袋小路を濃くしたり           

草厚く積みたる畦の蟬の羽化

夜を鎮め鎮め蛍火湧きあがる

とんばうの良き日だまりを回りをり

雑煮椀どかと座したる遺影かな

夕方につつまれてゆく磯遊び

夕立の空展けゆく古墳群

一島に雲の速力ラムネ噴く

鈴虫の烈しやグリム童話集

冬の虹生まるる工場地域帯

一月も茫と石屋のモアイ像

澤田和弥句文集特集(2-1) 第2編美酒讃歌 ➀麦酒讃歌

 澤田和弥は酒が好きである。およそ10編ほどのエッセイがある。私は澤田と酒席を一緒にした経験はないが、多くの交友は酒席で進んでいたというから、澤田の俳句の秘密と微妙にかかわっているかもしれない。そうした澤田の俳句の秘密を紹介したい。――筑紫磐井

 第1回の「麦酒讃歌」は「天為」に掲載したものであるが、転載して紹介したいと思う。(表題の「美酒讃歌」は編者が仮に名付けたものである)

 

➀麦酒讃歌(「天為」より転載)    澤田和弥

 どうにもこうにも酒が好きである。 乾杯の二、三秒後には口中から喉へと流れゆく麦酒の心地よさ。脂ののった〆鯖の後を追うように流れるぬる燗のときめき。わいわいと昔話に興じながら流す酎ハイのさわやかさ。どれをとっても酒とは気持ちのよいもの。度さえ過ぎなければ、まさに人生の潤滑油、百薬の長である。たびたび度を過ぎてしまうことは、ここでは棚に上げておこう。


 ガラガラガラと引き戸を開けると「いらっしゃい」という女将の声。空席を探して、よいしょと。さてさて何にしようか。「とりあえずビール」。そう、ビールである。ビールは夏の季語であり、夏といえばなんといってもビール。しかしこの「とりあえず」は春夏秋冬新年変わらない。ビールは苦手という方もおられるが、私なんぞはまずはビールで喉と心を潤し、さて肴は、といきたい。なにせビールは


  ビール一本夢に飲み干し楽しみな  高濱年尾


というほどの代物だから。この句は「一本」とあるので瓶ビールだろう。内田百閒は旅に瓶ビールを持っていったそうだ。あの重い瓶ビールを。酒飲みとはかくありき。瓶ビールも勿論旨いのだが、まずはぐいっとジョッキを傾けたい。そうそう、生ビール。


  生きてゐる価値の一つに生ビール  河西みつる


 「生きてゐる価値」とはまた大袈裟なと思いつつ、一口目の旨さは確かに万金に値する。あの至福は「生きてゐる価値」に加えても遜色なかろう。病床で酒の飲めぬときは生ビールの最初の一口が何度も頭に浮かぶ。元気になったら、まずは酒場へ。心やすけく元気なときはぐいぐいと杯が進む。


  安堵とはこんなにビール飲めるとき  坊城中子


 「えっ!もうそんなに飲んだっけ?」というのは楽しんでいる証拠。酒は楽しく、気持ちよく。


 私は恥ずかしながらいまだ外国に行ったことがないが、こんなに旨そうな海外詠がある。


  黒ビール白夜の光すかし飲む  有馬朗人

  この国の出口は一つ麦酒飲む  対馬康子


 黒ビールに白夜の光を透かしながらとはなんともお洒落だ。酒を飲むときは酒だけではなく、その場の雰囲気にも酔いしれたい。「出口は一つ」とは空港が一つしかないということか。それとも陸路か。いずれにしても蒸し暑い国をイメージした。空港であれば、そこのちょっとしたカウンターで一杯。あまり冷えておらず、氷を入れたりして。ビールが旨いのは万国共通、日本だけのことではない。しかしながら海外ビールよりも日本のビールの方が好きなのは、性と言おうか、業と言おうか。


 ビールは一人でも旨いが、気の合う人と飲むのもまた格別。


  麦酒のむ椅子軋らせて詩の仲間  林田紀音夫


 詩は万物の根源、心の奥底を紡ぐもの。その仲間であるから気心の知れた仲。「椅子軋らせて」を詩論激しく戦わせているのか、それともゆるりとまったりと、と捉えるか。読み手に委ねられるところだが、いずれにしても満たされたひとときである。


  同郷といふだけの仲ビール干す  佐藤凌山


 東京などの大都市にいると「同郷」ということがなんとも心強い。大学時代に県人会に所属していた。それこそ「同郷といふだけの仲」である。よく飲んだ。とてもよく飲んだ。同郷の仲を「わざわざ東京に出てきてまで」と言う者もいたが、何を格好つけているのだろう。やはり嬉しいのだ。その嬉しさが末尾「干す」に集約されている。「飲む」のではない。「干す」。似た感覚に


  阿蘇人と阿蘇をたたへてビール抜く  上村占魚


という句がある。故郷を誉められることはなんとも嬉しい。「阿蘇人」は常連だろうか。それならば他の常連も巻き込めば、さらに楽しい。瓶ビールの王冠をシュポンと抜き、さて今宵のはじまりである。かしこまった席ではなく、大衆酒場の一景と考えたい。


  うそばかり言ふ男らとビール飲む  岡本眸


 男は虚栄心のかたまりである。勿論女性もそうである。しかしこの句が「女ら」であったならば、なんとも苦いビールである。男たちが酒の勢いで嘘やほらを並びたてる。だから楽しい。場も盛況。現実はつらい。せめて酒の席だけでも。「男ってバカね」というのは蔑みではなく、あたたかさ。それを包み込む酒場という器。


  ビール呑み先輩もまた貧しかりき  栗原米作


 こちらはさびしい。学生時代か、大部屋時代か。ビールを呑んで憂さ晴らしといきたいところだが、財布の中はお互いに……。しかし先輩は「おごる」と言う。安い金額ではない。財布を取り出しても「いいから、いいから」と。先輩とはそういう生き物である。下五の字余りが涙を誘う。


  人もわれもその夜さびしきビールかな  鈴木真砂女


 こちらもまた。はじめてこの句を目にしたとき、私は小料理屋の女将と常連の男一人をイメージした。登場人物はこの二人だけ。カウンター越しに男の愚痴。「他に客もいないし」と女将のグラスにビールを注ぐ。ちびちびと一口ずつ。しかしそれは作者「鈴木真砂女」のイメージに引っ張られ過ぎていたのかもしれない。今は、立ち飲み屋をイメージしている。カウンターの内も外も賑やかで大忙し。そのなかでひとりポツリとさびしく飲んでいると、隣にもう一人。常連だろうか。たびたび見る顔だ。ビールの表面ばかりを見つめ、飲み方もちびちびと。たまに漏れる小さなため息。自分と同じ人がもう一人。がやがやとした店内にふとしたエアスポット。だが、話しかけることはない。大人の礼儀というもの。私自身が「さびしき」人になってきているのか。そのようにこの句を読むようになった。生ビールではさびしくない。中瓶と片手におさまるビールグラス。そして飲み方はちびちび。このようなさびしさに滑稽を見出したのが次の句。


  誰もつぎくれざるビールひとり注ぐ  茨木和生


 大勢で飲んでいるときに手酌は不粋。しかし誰もついでくれない。仕方なく自ら。よくある光景であり、誰しも経験したことがあるだろう。これが一句になると、さびしいのだがなぜかうなづかずにはいられない共感と滑稽を思う。「ビール」ゆえにパーティ等でポツリとひとりになった感じが出ている。これが「冷酒」や「焼酎」では場面設定すら大きく変わってしまう。


 さびしくなってきた。ひとり酒は体に悪い。ぱっと明るく。


  ビール溢れ心あふるる言葉あり  林翔


 溢れるビールがなんとも旨そうだ。パーティか、送別会か。ビールとともに溢れる言葉がきらきらと輝いている。まさに黄金色。ビールの開放感が心地よい。この言葉、ぜひとも先述の先輩にもかけてほしい。


  遠近の灯りそめたるビールかな  久保田万太郎


 ビールを飲みはじめるのは終業後の夜、または宵の口であろう。上五中七の広く漫然とした景を下五がきゅっと締めている。締めつつも「かな」というやさしい切れ字が充実した心のゆとりと満足感を伝える。


 されども、格別に旨いのは昼。


  旅なれば昼のビールを許されよ  永田豊美


 昼、特に平日の昼にビールを飲むことは少なからず罪悪感を伴う。皆、仕事に学業に勤しんでいる時間帯。私だけいいのだろうか。うん。いいのだよ。この罪悪感と解放感がことのほか、ビールを旨くする。そのうえ旅中ともなれば旨さはさらに倍増。詠み上げるのではなく、語りかける文体がさらに憎らしい。許す反面、許したくない気持ちがどうしても拭えない。自分が飲む側であれば、このような気持ちは全く起こらないのだが。


 俳句の力か、ビールは飲む前から旨い。


  大声の酒屋のビール届きけり  太田順子


 「大声」がいい。元気いっぱいの酒屋がガタガタとケースに瓶ビールを鳴らしながら、届けてくれた。この句の中では一口もビールを飲んでいない。届いただけだ。しかしなんとも旨そうだ。これからキンキンに冷やし、食卓へ。王冠をコンコンと二、三度叩いてシュポっと。グラスに注がれる溢れんばかりの白と金。唇に触れた瞬間の泡のやわらかさ。さあ、一気に喉へ。ここまで書くのは読解過剰かもしれないが、この句を前にするとどうしてもそこまで頭の中が行ってしまう。つくづく、私は酒飲みだ。キンキンに冷えたビール。


 ビールを飲むときはその雰囲気にも酔いしれたいと先に書いた。ビールにはビヤホールやビヤガーデンという特別な場がある。ビヤガーデンは屋外という開放感があるが、ビールがすぐにぬるくなり、虫を追い払いながら飲まなければないないので、ビヤホールの方が好きだ。


  さまよへる湖に似てビヤホール  櫂未知子


 「さまよへる湖」と言えば楼蘭のロプノール湖。ロプノールとビヤホール。なるほど。確かに似ている。そして杯が進めば目の前はさまようかのようにゆらゆら。お手洗いに立とうものならば「あれ?席は」とさまよって、と書いてしまっては滑稽が過ぎるか。ただビヤホールという空間は、ロプノール湖のようにいつまでも浪漫に魅了される場であってほしい。


 昨今、発泡酒や第三のビールの登場により、ビールが贅沢品になりつつある。しかしながら、ビールは庶民、大衆のものでありたい。ともに喜びを分かち合い、さびしいときには肩に手をぽんと置いて隣にいてくれる存在。


  ビール酌む男ごころを灯に曝し  三橋鷹女


 心を曝すことなどなかなかできぬ、世知辛い世の中。ビールを酌めば。酒に逃げるのではない。喜びをさらなる喜びに、さびしさに救いを。一杯のビールが心に一灯をともす。ビールを知ることは、相棒を得ることに似ている。人は一人では生きられない。だから今日も私たちはビールが飲みたいのである。


  生きてゐる価値の一つに生ビール  河西みつる

(2022年7月15日金曜日編)

澤田和弥句文集特集(2-2) 第2編美酒讃歌 ➁続・麦酒讃歌

 続・麦酒讃歌          澤田和弥 


 ビールは人生のいろいろな場面を演出する。喜怒哀楽、さまざまな思いや感情が託される。とはいえ、苦いビールよりもまずは旨さを楽しみたい。


  ビール注ぐ泡盛り上り溢れんと  高濱年尾

  生ビール泡流る見て愉快かな    同


 ビールにはやはり泡が大切である。学生時代によく通った居酒屋では泡の全くないビールを出してくれた。学生とは貧しいもの。泡の分までビールを注いでくださいというリクエストに応えて。勿論冷えている。泡をスプーンで捨て、飲み口いっぱいまで黄金色。そのやさしさが嬉しかった。しかしいつの間にかビールの「泡」にこだわりはじめた。驕りか。贅沢か。ジョッキやグラスを傾けたとき、まず唇に触れる泡の感触はやはり忘れがたい。コップを溢れんとする泡。ジョッキより溢れ、こぼれる泡。まさに愉快。そしてグイっと一口。うぐうぐと喉を流れるビール。なお愉快。


  片なびくビールの泡や秋の風  會津八一


 秋風にビールの泡がなびいている。なびくためには泡がコップから溢れていなければならない。注ぎたてである。居酒屋というよりも、庭に窓を開け放った自宅の居間を想像した。洋間ではなく和室。畳に座布団。縁側かもしれない。風が心地よい。さあ、泡消えぬうちに一口。同じような景でもう一句。


  注ぎぞめの麦酒音あり秋涼し  永井龍雄


 秋の涼しさが嬉しい。こちらは音に注目する。炭酸のシュワシュワという音。泡の弾けゆく音。音だけで旨そうだ。音を味わうためには静けさが必要。居酒屋よりも、こちらも自宅をイメージしたい。ひとり酒。深まりゆく秋がさらにビールを旨くする。


 ビールそのもので充分旨いのだが、飲む状況や雰囲気によっても味は左右される。


  大役を終えてビールの栓を抜く  星野椿


 パーティでの来賓挨拶。数々のお歴々を代表して。無事終了。席に戻ると喉はもうカラカラ。ほっと一息入れて、さて口中を潤わさん。栓を抜くシュポンという音が安堵の気持ちを深める。


  恋せしひと恋なきひととビール汲む  辻桃子


 ビールの酔いが話にさらなる花を咲かせる。どのような話か。かたい話ではつまらない。一番盛り上がるのは色恋のこと。ただしのろけ話は却下。「恋せしひと」はまだ成就せぬ片想いの段階。「へえ、ああいう人が好みなんだ」「告白しちゃいなさいよ」なんて言うのが楽しい。大体、片想いの段階と付き合って一ヶ月ぐらいの頃が、恋愛において一番幸せなときである。聞く方としては片想いの頃が一番盛り上がる。また「恋なきひと」に「好みは?」「それなら、いい人がいる」というのも楽しい。杯が進めば「明日、告白してくる」なんてことも。なにとぞ苦い恋はせぬように。


  一人置いて好きな人ゐるビールかな  安田畝風


 こちらも恋路のこと。飲み会で席についたら、偶然にもお目当ての人が隣の隣に。話しかけようとしたら、隣の人が反応してしまった。あなたじゃない。「席を替わってほしい」なんて露骨なことは言えない。そのうえ隣の人が興に乗りはじめてしまった。好きな人は反対隣と楽しそう。嗚呼、もどかしい。こんなビールはなんともほろ苦い。


  ビールほろ苦し女傑となりきれず  桂信子


 女傑という資格には酒豪という要素が要るのかもしれない。ビールをグイっと空けて呵呵大笑。上司も部下も誰も歯が立たない。この「ほろ苦し」はビールの苦さ、それも自分にとって苦手な苦さとともに、女傑になりきれぬ自分へのほろ苦さもあるだろう。女傑とすでに呼ばれている人にあと一歩及ばない。それがビールの苦さ、といったところか。


  かりそめの孤独は愉しビール酌む  杉本零


 ひとり酒。孤独である。でも本当は「かりそめ」。なんとなく初めての店に一人で入ってみた。常連らしき人々は女将と盛り上がっている。カウンターの隅で誰に話すともなく、ビール。帰れば家族が待っているし、馴染みの店もすぐ近く。でも今は独り。誰も自分のことを知らないし、自分も誰のことも知らない。孤独になりたいときは誰にでもある。即席孤独。そんな楽しみ方もビールと頒ち合いたい。


  ビール発泡言葉無縁の日なりけり  林翔


 「ビール発泡」により、ビールが奏でる心地よい音が聞こえてくる。旧友との久々の再会なのだろう。話すことはたくさんあるが、ビールを酌みかわすだけで、分かり合える。言葉にしなくとも会わなかった日々を互いに慰労できる。「友情」という言葉を深く強く感じる。


  ビール飲む友に山羊髭いつよりぞ  平賀扶人


 こちらも友と久々の再会。やはり手にはビール。友の顎には山羊のようなひげ。あれ?前に会ったときには生えていただろうか。どうしても思い出せない。まあ、よいではないか。今、友と楽しい時間を共有し、ビールも旨い。それで充分。


 ビールを酌みかわす。初対面という場合もあるが、気心の知れた仲だとさらに充実した時間を味わうことができる。先の二句が、たった十七音でそれを見事に表現している。しかしながら、こういう場合も。


  屋上に落ち目の人とビール飲む  内田美紗


 何もそこまで言わずとも。「屋上」とあるので、百貨店等が催すビヤガーデンだろう。相手は、美しい女性と二人きりという状況にご満悦。しかし女性の側では「落ち目の人」という評価。同じビールを飲みながら、それぞれの味は格段に違うことだろう。


  ビール缶握り潰せる汝を愛す  中西夕紀


 飲み干したビール缶を片手でグシャっと。ドラマの一場面にでもありそうな男前のしぐさ。そんなあなたを愛しているというダイレクトな表現。これが両手で潰すとさまにならない。やはり片手で一気に。ところで「ビール缶」というと空き缶を想像するが、「缶ビール」というと中身の入っているものが頭に浮かぶ。「グラス」も同様。「瓶」もまた然り。


  ビール瓶二つかち合ひ遠ざかる  細見綾子


 ではこれも空き瓶か。二つの空き瓶がかち合い、片づけられたということか。いや。この句に限っては中身の入っているものを想像したい。パーティの席上。グラスと瓶ビールを手にお酌回りをしていたら、同じくお酌回りをしている人とかち合った。挨拶は先ほどしたし。エヘヘと軽く会釈をしながら、それぞれ別方向へ遠ざかっていく。どちらの解釈がよかろうか。皆様に委ねたい。


  涼風の星よりぞ吹くビールかな  水原秋櫻子


 風がなんとも気持ちよい。ビールがさらに旨くなる。その風が夏の星々から吹いてくるとはなんともロマンティック。もうもうと煙の立ち込める焼鳥屋ではなく、高原の山荘をイメージしたい。いかにも旨そうだ。


  山上の空気に冷えしビール飲む  右城暮石


 これも全くもって旨そうだ。山小屋での一杯のビール。ほどよい冷えがなんとも爽快。冷やし方に何かこだわりがある訳ではないが、「山上の空気に冷え」たとなると、これは格別に旨そう。登山の疲れもゆったりと癒される。


 日本においてビールとは冷たいもの。ジョッキも冷やしてあるところが多い。まさにキンキン。猛暑や熱帯夜には誠に嬉しい。しかし冷え過ぎるのはよろしくないという御仁もいらっしゃるようで。


  冷えすぎてビールなさざり夕蛙  石川桂郎

  冷え過ぎしビールよ友の栄進よ  草間時彦


 「冷えすぎて」がビールの温度か気温かで捉え方がかなり変わるが、ここでは前者の方で。冷えすぎている。これではビールとなさない。私が飲みたいビールではない。こだわりか。わがままか。イライラする耳に遠くかた夕蛙の声。「冷え過ぎし」は明らかにビールのこと。「友の栄進」だ。祝わねば。しかし「冷え過ぎしビール」である。喜んでいない。間違いなくマイナスの感情を含んでいる。先を越された。入社年も年齢も一緒なのに。主人公もこのままでは「冷え過ぎ」になってしまう。チキショー。


 楽しくも哀しくも杯が進む。だんだん酔ってきた。笑い上戸に泣き上戸。人には千差万別の酔い方がある。


  この道にビール飲まさんと跼みけり  永田耕衣


 なぜ道に。よろめいてかがんだことへの言い訳か。それとも酔いの戯れか。突拍子のなさに驚く一句。ほんとになぜ?


  ビール園神神もかく屯せし  平畑静塔


 ビールを片手に語り、笑い、酔いゆくさまを神々の宴に喩えた。古代ギリシアか、日本か。大らかでゆったりとした景色が浮かぶ。ビール園の誰もが酒神であるかのように。そんなビールはやっぱり旨い。


  ビール工場からあふれさうな満月  能城檀


 工場に勤務しているというよりは、工場見学と考えたい。最後の試飲にも満足し、ちょうどよい心地。ふりかえると大型タンクなどの向こうに大きな満月。


 さらなる充実感。「あふれさうな」という言葉が満月の美しさを充分に表現するとともに「ビール工場」とも結びついて、思わず唾を飲む。満月を仰ぎながら、できたてのビールをもう二、三杯試飲させてほしいところだ。ビール工場の誘惑。


  生ビール天蓋汚れ切つたれど  行方克己


 中華料理屋か。「天蓋」と大仰な言い方ながら、それは汚れきっている。ただ「汚れ切つたれど」である。だけどね、と来る。だけど、何か。それはもう生ビールでしょう。生ビールが旨い!天井は汚れてるけどね、というところか。最初は汚れていると思っても、通っているうちにその汚れが店の味わいに変わってくる。学生時代によく行った居酒屋で、お世辞にもきれいとは言い難いところがあった。おばさんが一人でやっていた。手が回らなかったのか。しかしそこに行くといつもほっとした。掃除の行きとどいた店とは異なるあたたかさがあった。今も夢に出てくる。おばさんの笑い声とともに。


  夫逝きて麦酒冷やしてありしまゝ  副島いみ子


 突然亡くなったのか。夫のためにビールはまだ数本、冷蔵庫のなかに。片づけられない。夫の死が過去になってしまうかのようで。いつか飲むだろう。心の整理がついたら。今はまだ。

 笑いから涙まで。ビールは人生のいろいろな場面を演出する。

(2022年7月15日金曜日編)

澤田和弥句文集特集(2-3) 第2編美酒讃歌 ➂焼酎讃歌

➂焼酎讃歌          澤田和弥


 芋に麦、米、蕎麦、トマト、栗、ピーマン。何の話かと言えば焼酎である。焼酎は夏の季語。プレミアムのものを除けば、比較的お手頃な値段ですぐに酔える。カロリーも低く、痛風を恐れることもない。サワーにすれば飲み口もすっきり。焼酎ブームはまだまだ続くだろう。私は芋か麦。お湯割りかロック。緑茶で割るのもよい。最近上京していないので疎いのだが、十年ほど前は「お茶割り」と頼むと東京ではウーロンハイが出てきた。静岡では緑茶割りである。たいがい冷たい。寒いときなどはメニューになくとも、頼めばあたたきお茶割りが飲める。あたたかいお茶割りはよほどに飲まなければ、悪酔いもしないし、次の日もつらくない。好む所以である。もっと普及してほしいものだ。焼酎の個性を楽しむならば、お湯の方がよいけれど。

 焼酎は個性が強い。或る人には「臭い」と思えても、別の人には「佳い香り」ということがよくある。味の好みもいろいろ。ただしクセを抑えた焼酎は、それこそ味気ない。人とて同じこと。クセのある人は、そのクセが魅力である。そこにはまるか、毛嫌いするか。はまってしまえば、あとはズブズブ底なし沼。


 焼酎の一銘柄を偏愛す  中島和昭


 悦楽の底なし沼にはまっている。なにせ「偏愛」なのだから。そのくらいに愛するということは、よほどクセの強い焼酎なのだろう。個性が強くなればそこまではまることはない。別の似たような酒に浮気してしまう。「きみじゃなくちゃダメなんだ。きみしか愛せない。愛せないんだよ」という状態。そんな焼酎に出逢えたことは、まさに酒飲みの本望であり、至福である。他の酒では満足できない体になってしまったことは少々残念かもしれないが。


 米の香の球磨焼酎を愛し酌む  上村占魚


 「愛し」がいい。偏愛とまで行かずとも、「愛し」がやさしい。句から、米の香りがふわっと鼻をくすぐる。「球磨焼酎」と限定したことにも愛を感じる。香りを楽しむためにもぜひロックでいただきたい。旨さは鼻腔にも口中にも。


  汗垂れて彼の飲む焼酎豚の肝臓(きも)  石田波郷


 夏の酒場。冷房ではなく、開けっ放しの戸口からの風。壁に据え付けられた扇風機。あと、カウンター下の棚に何枚かの団扇。焼き場の熱気もあって、みな汗を垂らしつつ。焼酎をグイ。この焼酎は酎ハイか。あえてお湯割りか。九州の酒飲みは一年をとおしてお湯割りと聞いたことがある。この状況にお湯割り。熱気過剰、汗が垂れるのも当然。そして肴は豚のレバー。モツ焼きではなく「豚の肝臓」と限定しているので、私はあえてレバ刺しと考えたい。お湯割りにレバ刺し、活気ある下町のパワーを感じる。ビールではこうはいかない。焼酎の力強さと個性のなせるわざ。


  市場者らし焼酎の飲みつぷり  上野白南風


 市場で働く方々と酌み交わしたことがないので、体験からの具体像は描けないが、わざわざ「飲みつぷり」と言っているぐらいだから、よほど豪快なのだろう。市場の活気を思い浮かべれば、ちびちび啜りつつというのはイメージしがたい。グイっと。グイグイっと。濃いめの水割りを喉に流しながら、乱暴であたたかい言葉の応酬。多少うるさくもあるが、見ているこちらの酒も旨くなる。影響を受け過ぎて、自分までグイグイ呑むのは禁物。お酒はあくまでも自分のペースで。


  火の国の麦焼酎に酔ひたるよ  大橋敦子


 「火の国」と言えば熊本。本場九州の麦焼酎。なんとも旨そうだ。「火の国の麦焼酎」という存在感に「に酔ひたるよ」という軽いフレーズが相まって一句をなしている。火の国の「火」と焼酎の「焼」により、麦を炒ったこうばしい香りまでただよってくるようだ。ちなみに焼酎の「焼」は酒を焼く、つまり蒸留をさす。火の国の麦焼酎。今すぐにでも味わいたい。


  馬刺うまか肥後焼酎の冷やうまか  鷹羽狩行


 今度の肴は馬刺しである。それはそれはうまかろうねえ。最高じゃろねえ。方言を用いることで、対象への親しみが伝わる。高級な店ではなく、常連さんが突然「あんた、どこから来たね」と声をかけてくるような大衆酒場を思い浮かべた。「焼酎の冷や」とはロックのことであろうか。それとも焼酎自体を冷やしてストレートか。それも旨そうだ。焼酎のイメージにも合う。くいくい飲んで、楽しい一夜。なにとぞ飲み過ぎには皆様、ご注意を。


  焼酎に死の渕見ゆるまで酔ふか  小林康治


 危ない、危ない。そこまで呑んじゃダメですよ。なんとも凄味のある一句。ドキっとするような、中七下五の強さと鋭さを受け止められるのはやはり焼酎だからだろう。試しに他の酒の名を入れても、この凄味には到底敵わない。


  甘藷焼酎過去には触れぬ男達  塩田藪柑子


 「過去には触れぬ」をどう解釈するかで、凄味も出るし、明るさも出るだろう。私は明るく読みたい。だって「甘藷焼酎」だもの。暗い過去には触れず、明るく今を楽しく。今の自分を偽るのではない。それに触れぬのも酒の席の礼儀。寺山修司の詩に


ふりむくな

ふりむくな

後ろには夢がない


というフレーズもありますし。


 焼酎は庶民の酒である。「下町のナポレオン」という有名なキャッチコピーもある。ただ、その庶民の中でも立身出世とはあまり関係のない方々の酒というイメージがあるようだ。そのような句をざっと紹介したい。


  焼酎が好きで出世もせざりけり  中丸英一

  焼酎に慣れし左遷の島教師  夏井やすを

  焼酎や出世にうとき顔ならぶ  臼井治文


 私、焼酎好きですが、何か。まあまあ、落ち込まず。こんな句もある。


  焼酎に甘んじ人生愉快なり  細見しゆこう


 甘んじている訳ではないけれど、人生愉快なら、まあいいか。それだからこそ、酒も旨い。いいじゃないのよ、幸せならば。さあ、焼酎をもう一杯。


  桃の日や焼酎飲んで産院へ  田川飛旅子


 いやいやダメダメ、飲んじゃあ。三月三日の腿の節句に産院へ。遂にわが子の誕生。わざわざ「桃の日や」と言っているのだから、おそらく女の子。待望。だが緊張する。落ち着け、落ち着け。どうしよう。そうだ。焼酎を一杯。グイと。ふう。よし、肝が据わった。さあ、行くぞ。なんだかミニコントのようになってしまったが、男という生き物の一特性が垣間見える。酒のにおいがしても、なにとぞおゆるしを。


  焼鳥焼酎露西亜文学に育まる  瀧春一


 新宿の名店ぼるがであろうか。歴史を感じさせる、蔦に覆われた外観。多くの文学者などが集い、今も意気軒昂なにぎわい。俳句仲間に何度か連れて行ってもらった。「ボルガ」はロシア西部の大河の名。ぼるがの思い出は確かに、大河のごとき悠久の中に今も流れている。じゅんさいを食べた記憶が不思議なくらいに頭にのこっている。


  形見にと湯守の呉れし蛇焼酎  小原山籟


 形見と言われても。焼酎にマムシ等の蛇を漬け込んだあれである。湯守とは湯本や湯屋の番人。どういう関係なのだろうか。形見を渡されるぐらいだから、浅からぬ仲だろう。

 マムシ焼酎を口にしたことが一度だけある。学生時代によく通った居酒屋でのこと。閉店時間が近づき、残っているのは私を含め常連グループが一組だけ。大将が「おい」と呼ぶ。「そろそろ閉店だよ」ということか。振り向く。「俺の元気の素を見るかい」。何だろう。「これだよ」と取り出したものに驚いた。薄い琥珀色の液体の中に蛇がいる。思わず全員で「えっ!」。「仕事が終わったらショットグラスで一日一杯。これが元気の素さ」。テレビ等では見たことはあったが、現物ははじめて。しげしげと眺めていると「飲むかい?」と。好奇心。こういうことを「毒を喰らわば皿までも」と言うのか。少し違う気がする。とはいえ、こんな機会は滅多にない。一杯いただく。鼻を近づけると、鼻腔をかきむしるかのようなにおい。口にする。飲んだのではなく、少し口が触れたぐらい。うぉぉぉぉ。なんという個性の強さ。思わず膝の力がガクっと抜けた。ショットグラスとはいえ、これを一杯飲み干すには勇気と度胸が足りなかった。あれ以来、蛇焼酎は口にしていないし、お目にもかかっていない。卒業してからお店にも伺っていない。今も蛇焼酎片手にお元気だろうか。学生たちに親しまれる、明るくやさしい、べらんめえ調の大将であり、お店だった。あの焼酎を形見に。いや、貰ってもやっぱり困るなあ。


  焼酎のたゞたゞ憎し父酔へば  菖蒲あや


 私の父は料理人である。母と二人で料理屋を営んでいる。へそ曲がりで気難しく、いつも無口だ。酒が入ると怒りやすく、喧嘩っ早くなる。最近酒量が減ったが、私が幼い頃には大酒を飲んでいた。父が苦手だった。酔った勢いで母につらくあたるときなどは、子どもながら心底腹が立った。料理人としての腕前はわが父ながら一流である。しかし父・夫としては、わが父ながら三流であった。父は最初にビールを一瓶。そのあとはずっと焼酎。そのため、夜の父からはいつも焼酎のにおいがした。そのにおいが嫌いだった。今となっては「生きることや愛することに不器用な人なんだ」と思っている。苦手でもなくなった。一般的な父と子の関係である。ただあのにおいが憎かった。焼酎を「いい香り♪」と言っている現在の自分が信じられない。信じられないながら実際にいい香りであり、すこぶる旨いのだから仕方がない。実家にて父と同じ焼酎を酌み交わすこともある。会話はほとんどないが、それが男親と息子の普通の姿と思っているのだが、いかがだろうか。

 なんだかしんみりしてしまった。締めに力強い一句を。


  黍焼酎売れずば飲んで減らしけり  依田明倫


 「売れずば」という豪快なフレーズ。呆気にとられてしまう。そうか。飲んじゃえばいいんだ!いやいやいや、売らなきゃ。この句のパワーに黍焼酎がよく似合っている。クセがあるほど愛してしまう。さてさて、ちょっと夜の街に消えるとするか。

(2022年8月12日金曜日編)

澤田和弥句文集特集(2-4) 第2編美酒讃歌  ④熱燗讃歌

④熱燗讃歌           澤田和弥 


 コートの襟を立て、縄暖簾をくぐる。「いらっしゃい」。大将の低い声。先に来ている常連らしき男がこちらを一瞥して、すぐに自分の世界に戻った。カウンターの一番奥が彼の定席なのだろう。一番奥と言っても五、六人並べばいっぱいという長さだが。一番入口に近い席に座る。戸の間から隙間風。無言で供されるおしぼり。あたたかい。「何にしやしょう」。さて、あなたならばここで何を注文するだろうか。とりあえずビール?それとも寒いから焼酎のお湯割り?いやいや。この状況では間違いなく、熱燗が正解である。ぐい呑みから湯気。それを無言で一口。口中、喉、食道、胃へとぬくもりが走る。お通しはちょっとした煮物だと嬉しい。

 熱燗は店で呑むものという先入観が私にはある。しかし俳句を見ているとアットホーム派がかなり多い。家庭のぬくもりというやつだろうか。「店にだってぬくもりがあるもん!」と独身の、それも彼女候補すらいない私としては声を大にして訴えたい。


  熱燗や雨ぬれ傘を脇に置き  村山古郷


 居酒屋、もしくは立ち飲み屋か。外は冬の雨。コートも脱がずにまず熱燗を。傘立てが見当たらないので、濡れた傘は脇に。何度ももたれかかってきてコートをさらに濡らす。もういいや。傘にもたれかかられながら、お猪口に酒を酌み、一息にグイ。ほっと一息。飲みはじめの様子が最小限の場面設定で描かれている。傘は面倒くさいが、冬の雨に芯から冷えた体には熱燗がなんとも嬉しい。


  熱燗や炉辺の岩魚も焼加減  樋笠文


 炉端焼の店である。もしくは囲炉裏のあるような田舎の旧家か。熱燗が喉にしみいる。岩魚もちょうどよい焼加減。熱燗のおかわりを。一合、いや二合で。この岩魚に一合では足りない。ジュクジュクプシュと岩魚の脂の弾ける音。悪いことは言わない。きみたちも熱燗を飲みなさい。

 「ひとり酒で熱燗を二合頼むとは不粋な。冷めてしまうではないか」という方もおられよう。しかし長年居酒屋でバイトをしていた私としてはいちいち一合ずつ注文するのは気が引けてしまう。或る著名な学者さんが五人連れで来店したときのこと。注文は「熱燗一合」。はい。他の方は。あっ。五人で一合なんですね。承知しました。熱燗を供する。数秒後、「熱燗一合」。そりゃそうだ。五人に注げば、すぐなくなる。結局一升五合。私は十五回、一合徳利一本を運ぶことになった。それが仕事、と言われれば、そのとおりなのだが。そのことが頭に引っかかって、一合以上飲むだろうなというときは二合徳利を注文するようにしている。少しぐらい冷めたって。冷めるのが嫌ならば、冷めないうちに二合飲めばいいだけの話である。その結果、酔い崩れる。なんというか、ごめんなさい、って感じだ。


  熱燗や食ひちぎりたる章魚の足  鈴木真砂女


 こちらの肴はタコ。タコの足の干物と考えたい。「食ひちぎり」なので。生ダコや茹ダコの足というのも旨いのだが、食いちぎるという動作は干物にこそ似つかわしい。ガブ、ぬぃぃぃぃ。プチ。むしゃむしゃ。そこへ熱燗をグイと。最高である。間違いなく至福の旨さだ。嗚呼、今すぐ飲みたい、食いたい。でもまだ行けない。これは嫌がらせかと、この句を前にもんぞりうっている。


  熱燗や街ぐんぐんと暮れてゐし  高田風人子


 熱燗は冬の季語。冬の日暮れは言うまでもなく、早い。街の居酒屋から外を眺めていると、いつの間にか夜。ただしずっと眺めつづけていたのではない。岩魚や章魚の足などの肴に舌鼓を打ちながら、熱燗をちびちびとやりつつ。気がついたら、外はすでに暗い。「あれ?いつの間に」。その様子が「ぐんぐん」に表されている。楽しい時間はぐんぐん過ぎる。つらい時間は全く過ぎない。居酒屋の時計と会社の時計が全く同じスピードで動いているとはどうしても思えない。時は平等か。そんな難しいことは置いておいて。さあ、熱燗を。


  熱燗に提灯もゆれ人もゆれ  和泉鳥子


 「あっ。もうこんな時間だ!帰らないと」。熱燗を酌み交わすことは楽しいが、門限を忘れずに。戸を開ければ冬の風。赤提灯が揺れている。「おっ、じゃあな」。あれあれ千鳥足。大丈夫かなあ。句全体を包み込む熱燗のぬくもりが心にやさしい。


  熱燗のほとぼり握手いくたびも  川島典虎


 こちらも帰り際の一コマ。おじさんは酔うと何故あんなに握手をしたがるのだろう。それは楽しい時間を共有できた喜びと感謝の気持ち。おじさんはやさしい。そして少々不器用である。何度も握手しても嫌がらないで。セクハラだなんて言わないで。そんなやましい気持ちはこれっぽっちもない、はずだ。この景も「熱燗」だからこそ、詩情とユーモアを生み出しているだろう。


  熱燗や捨てるに惜しき蟹の甲  龍岡晋


 おっ。甲羅酒ですな。これが本当に旨いんだ。


  鼻焦がす炉の火にかけて甲羅酒  河東碧梧桐


 囲炉裏のあたたかさ。そして甲羅酒。少し蟹味噌をとかして、クイと。旨い。そして箸を手に蟹味噌を一つまみ。旨い。まだ味噌が残っている。もう一度、熱燗を注ぐ。クイと。嗚呼、やはり旨い。味噌を少しばかり。まさに悦楽。さてそろそろ味噌もないし。いや、もう一度。では。いや。意地汚いと思われるか。いや。でも。どうせ捨てちゃうんでしょ。だったら……。酒飲みの業とは誠に深いものである。


  熱燗やいつも無口の一人客  鈴木真砂女


 不思議な常連さんはどこのお店にもいるだろう。いつも一人。挨拶代わりに少し頭を下げるだけで、あとは無言。「話しかけないでくれ」というオーラを感じる。今日のおすすめではなく、いつも同じ肴。そして熱燗。同じ時間に現れ、同じ時間に帰る。月光仮面か。何をしているのか、どんな人かもわからない。ただ今日も、同じ時間に現れて、同じ時間に帰るのは確かな気がする。ビール、焼酎、冷酒、ウイスキー、いろいろな酒があるが、この句は「熱燗」以外に考えられない。少しくたびれたことを着た五十歳代の男性というイメージ。少しコロンボに似ている。私の妄想だが。


  熱燗を二十分間つきあふと  京極杞陽


 なんだ。二十分間付き合うと何なんだ。どうなるんだ。誰とだ。さっぱりわからない。問題だけで答えがない。いろいろと考えてみる。読み手ごとにさまざまな回答がある。きっとそれでいいのだろう。答えは無数にある。ただし質問は一つだけ。それもまた俳句というもの。熱燗をちびちびやりながら、お好きなように想像することもまた一興。

 さて、酒も肴も旨かったし、二十分間はとっくに過ぎたし。でも、もう一本飲みたいな。


  熱燗の閉店ちかき置かれやう  大牧広


 なんだ、なんだ。今の置き方は。こっちは客だぞ。へっ?もうすぐ閉店?あっ。いつの間にか我々しかいない。そのうえもうすぐ日をまたぐ時間じゃないか。いやはや、すみませんね。これ飲んだら帰りますんで。はい。お勘定だけ先に。はい。すみません。やっちゃったなあ。でも、あの置き方は……。


  熱燗のあとのさびしさありにけり  倉田紘文


 熱燗を飲み終え、店を出る。途端に冬の烈風。看板の灯りも消えた。酔いも少しく醒める。つい先ほどまではぬくぬくと熱燗を楽しんでいたのに。寒い、寒い。早く帰ろう。さっきまでは


  熱燗にいまは淋しきことのなし  橋本鶏二


だったのになあ。

 男二人で熱燗を飲むときとはどんな状況だろうか。勿論寒いときだろうが、二人とも、もしくはどちらか一人が心身ともに疲れているときではないだろうか。


  熱燗や男同士の労はりあふ  瀧春一


 カウンターで差しつ差されつしていると、お互いの距離は自ずと近くなる。猫背になると、後ろ姿はこんもりとした山のように見える。その山中でお互いを労わりあう。これを四十七士に見立てると


  熱燗や討入り下りた者同士  川崎展宏


となる。逃げたのではない。好きでそうした訳じゃない。それぞれいろいろと理由がある。人には言えない理由が。酒と人に癒される。同じ傷を負った者同士。同類相憐れむ。喉元を過ぎる熱燗。夜は深まっていく。

 そんなこんなで飲んでいると当然ながら酔う。お互いの慰労のはずがいつしか険悪な雰囲気に。


  つまづきし話のあとを熱燗に  松尾緑富


 話が躓いた。変な空気になってしまった。まずい、まずい。さあさあ、もう一杯。酒でできた悪い雰囲気は、酒でごまかすのが一番。あとは気付かれぬように話題をずらすテクニック。まあ、このテクニックが一番難しいのではあるが。

 酒の上での失敗談は山ほどある。今となっては笑い話になっているものもあれば、現在進行形のものも。一体、何人に縁を切られただろう。これもそれも酒のせい、か。


  千悔万悔憎き酒を熱燗に  川崎展宏


 「千悔万悔」に多くの方々が同調なさるだろう。大袈裟と思うのは酒で失敗したことのない、たいへんラッキーなお方。「酒は飲んでも飲まれるな」と何度、自身を戒めたことか。酒が憎い。憎い酒。火炎地獄じゃ。熱がれ。熱がれ。おっ、ちょうどよい頃合い。さてさて、一杯やりますか。ん?反省はしている。ちゃんとしている。しかし同じ失敗を繰り返さない自信ははっきり言って、ない。それが酒飲みというもの。飲んだ私が悪いのか、飲まれた酒が悪いのか。明らかに前者である。

 あれ?暗いぞ。なんか暗いぞ。ジメジメした話になってしまった。明るくいきましょう。


  熱燗や二時間前は阿弥陀堂  鈴木鷹夫


 「二時間前は阿弥陀堂」。では、今は?熱燗囲んで、みんなでわいわい。不遜にも仏像で飲酒。けしからん。でも、案外あることではないだろうか。或る神社での話。拝殿で氏子総代数人と話し合っていた。宵祭の後のこと。宮司と総代が来年度のことを話している。ふとそこへ若者が熱燗片手にやってきた。「かたい話はここまで」ということで、あとは全員、顔が真っ赤になるまで呑んだ。地元の人たちが集まれば酒はつきもの。あくまでも親睦である。楽しい酒ならば神仏もお許しくださる、とはいかないか。ごめんなさい。神様仏様。


  北京より戻りてすぐに燗熱く  岸本尚毅


 出張だろうか。冬の北京。よほど寒かったのだろう。そして異国にて母国が恋しくなったのか。日本に戻るや否や熱燗。沸くほどではないしても、熱く熱く。「アチチ」などと言いながらクイと。熱さが体も心もあたためる。やはり最初の一口が大切だ。


  熱燗のまづ一杯をこゝろみる  久保田万太郎


 何事もまずは最初の一歩から。熱燗もまずは最初の一杯。うん、旨い。熱い酒がまさに五臓六腑に沁みわたり、かたくなった心もほぐしてくれる。ぬくもり。熱燗とは母のような存在である。そして、そうでありつづけてほしい。


  熱燗に心のともる音したり  鈴木鷹夫

(2022年9月2日金曜日編)

■現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 4 筑紫磐井

【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】


4.能村登四郎の最初期句

 既に登四郎の代表作となっている「ぬばたま」の句(23.3)、やがて登四郎の教師俳句への転換となった「長靴に腰埋め」の句(26.4)というぬばたま伝説の疑問は述べてきたので、登四郎の実像をこれから眺めて見たい。:

      *

 能村登四郎の俳句が馬酔木に初めて登場するのは、昭和14年2月号である。【注1】


芦焚けば焔さかんとなりて寂し


 それ以前は短歌を詠んでいたからどこか主情的な雰囲気が漂うが、描写はしっかりとしている。以後も、こうした着実な写実的な句が続いてゆく。これが登四郎の初期作品のスタイルであった。


枯山の星するどくてひとつなる(15・12*)

寝返ればふたつとなりぬ遠蛙(18・6*)

四五枚のいつも雪解のおくるる田(19・4*)

いつの間にみてゐし雲や春の雲(19・5*)

朝は子とゐし緑陰や人のゐる(19・8*)

ひとりゐる蘆刈に鳰もひとつゐる(20・1*)


 「するどくて」「ふたつとなりぬ」「いつも」「いつの間にみてゐし」等のやや主観をにじませる語、「朝は子とゐし」→「人のゐる」、「ひとりゐる(蘆刈)」→「(鳰も)ひとつゐる」の時間的推移を描写する語法は短歌的であると言えよう。

 戦後になってからもこのスタイルは変わらない。


刈田のなか池ありあをき空を置く(23・1*)

高槻のそのたかさよりしぐれくる

茶の咲くをうながす晴とちらす雨

潮くみてあす初漁の船きよむ(23・2➁)

雪天の西うす青し雪はれむ(23・3➀)


 ここで視点を変えて、能村登四郎のおかれていた環境を見てみたい。当時の馬酔木の成績を巻頭回数で見てみると次のとおりである。


22年:4回=山田文男,2回=静良夜,1回=藤田湘子、澤聡、静晴虹、大谷秋葉子、尾崎光訪、持田施花

23年:3回=藤田,能村登四郎,2回=林翔、水谷晴光,1回=竹中九十九樹、澤田緑生

24年:2回=藤田、林、馬場移公子、野川秋汀,1回=能村、殿村菟絲子、水谷、持田、

(藤田,能村,林以外の作家の略歴を現在分かる範囲で補足すれば、山田文男は山岳俳句の雄。静良夜は後の高野山法印前官大僧正で僧房俳句に闌け、澤聡は北海道在住で北炭勤務、秋櫻子編『新編歳時記』冬の部を担当。水谷晴光、澤田緑生は名古屋市在住で、登四郎・湘と同時に同人昇格。澤田は、後「鯱」主宰。馬場移公子は秩父在住の戦争未亡人でその後俳人協会賞受賞、野川秋汀は療養のため福岡に帰郷、後「野火」同人会長となった。殿村菟絲子は短歌から馬酔木に入り、女性俳句懇話会を結成、機関誌「女性俳句」を創刊。後俳人協会賞受賞。)


 これら巻頭作家の中でその後も活躍した人と巻頭作品を、23年を中心に掲げてみよう。


22年 2月 忽然と雪嶺うかぶ海のうへ      澤聡

    4月 月落ちて川瀬に小田の雪あかり    藤田湘子

23年 1月 揚舟をかくさんばかり干大根     藤田湘子

    2月 日を仰ぐ咳やつれせし面輪かも    竹中九十九樹

    3月 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌     能村登四郎

    4月 さふらんに沖かけて降る雪しばし   水谷晴光

    5月 花烏賊やまばゆき魚は店になし    林翔

    6月 茶摘み唄ひたすられや摘みゐつつ   藤田湘子

    7月 部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす 能村登四郎

    8月 霧騒ぎいたましきまで鮭群れつ    沢田緑生

    9月 夕潮の紺や紫紺や夏果てぬ      藤田湘子③

   10月 逝く汝に萬葉の露みなはしれ     能村登四郎③

   11月 さつまいもあなめでたさや飽くまでは 林翔②

   12月 十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ     水谷晴光②

                      (〇数字は年間通算巻頭回数)


 いずれも若い作家であるが、特に23年の巻頭作家が注目される。この時巻頭を多くとった藤田,能村,林、水谷が正にその後、馬酔木若手の中心となっているからである。その後、藤田,能村,林は馬酔木三羽烏と称されるが、実は当時は、水谷を加えた四羽烏というのが相応しかったかもしれない。彼らは25年に馬酔木同人に推挙されている(もう一人、澤田も)。いずれにしろ三人を目標に以後続々と若手が活躍し始めるのである。

 さてこの若い作家、特に藤田,能村,林が活躍し始める契機となったのが、22年8月に秋櫻子の発案で発足した馬酔木新人会であり、篠田悌二郎の指導の下、藤田湘子、秋野弘、宮城二郎(波郷の戦後の馬酔木復帰のキーパーソン)等が参加、若干遅れて能村登四郎、林翔を加えて、馬酔木新人育成の中心機関となり、機関誌「新樹」を創刊するのである。そしてこの新人会の中心となったのが誰あろう藤田湘子であった。【注2】

 この時の経緯を水原秋櫻子が次のように書いている。


 「(水原秋桜子が疎開していた八王子へ来て泊まって帰った藤田湘子と一緒に)東京へ出て、秋野弘君の勤務先(三菱)へ立寄り、それから私は病院へ藤田君は篠田君の所へ行つた。この頃は、篠田君の所か秋野君の所かへ寄ると、たいてい若い人が集つてゐるし、居ないでも消息はよくわかる。我々もむかし最も作句に熱中したときには、たいていどこかに集ってゐたものだ。いままで新樹集の作者達には、かうした交わりがなかつたのである。近頃急にこのやうな状態になつたのは、やはり一つの機運といふべきで、俳句の向上する道程であると思ふ。私はこの人達十五六人の会を作つて、新人会と名づけ、その薫陶を篠田君に託した。そこで毎月一回後楽園に集り、お互いに厳しい俳句の批評をするのであるが、会員の二三人にあつたとき、感想をきいて見ると、とても怖い感じの会であるといふので、安心した。怖い感じのする会で、十分鍛錬されなければ、俳句など巧くなるわけがないからである。」(「江山無尽」馬酔木22年10月)

 

ちなみに私は、林翔からこんな手紙をもらっている。


 「登四郎・翔の両人が初めて新人会に出席したのは昭和二十二年十二月です。出席は悌二郎先生以下十三名、悌二郎は出句せず、各自二句の出句でした。宮城了子が紅一点で、夫の二郎も出席していましたが、二郎は病状の悪化で翌年から来られなくなり、了子も翌年は一度しか出席していません。十二月の会では小生が最高点で悌二郎特選にも入りましたが句集に入れていません。新人会の例会場は丸ビル8Fの一室で、新人会員五十嵐三更が三菱地所の社員だったから借りられたのだと思います。 

 新年だけは会場を変えるならわしで、二十三年一月は涵徳亭、二十四年一月は八王子の喜雨亭(秋櫻子宅)でした。涵徳亭での句会では秋野弘が最高点、登四郎が二位、しかし登四郎は「ぬば玉」の句が悌二郎選に入ったわけです。二月は登四郎が断然トップで、悌二郎特選三句を独り占めしました。三月は湘子が最高点、この月から民郎も出席するようになりました。民郎は鎌倉の草間研究会(正式な名称かどうか知りませんが)に出ていたので新人会へはやや遅れて入ったのです(草間研究会は時彦氏の厳父草間時光の指導する会でした。時光は馬酔木同人、後の鎌倉市長です)。女流は宮城了子が来なくなってから馬場移公子が紅一点となりました。小林広子、山本貞子を挟んで、殿村敏子派女流の五番目、二十四年一月からの入会です。」(昭和59年4月5日付筑紫磐井宛)


 少し分かりにくいので、整理してみよう。昭和22年12月は丸ビル8階の会議室で13名で新人会が開かれた、話題の宮城二郎も出席していたが、おそらく最後の新人会への出席であったろう。翌昭和23年1月は後楽園の涵徳亭で句会が開かれ、ぬばたまの句が悌二郎選に入る。文面からすると悌二郎「特選」であったかどうかは分からない。

 このように、新人会に関しては、やや遅れてであるが上記のような秋桜子の薦めもあり遅れて参加する。しかし、林翔によれば、秋野弘から能村登四郎、林翔の両氏の参加を認めるという通知が届いたものの、林翔が登四郎にそれを伝えてもうれしそうな顔をしなかったという。秋野らとは微妙な関係があったことは後ほど述べたい。


【注1】私の原論文から引いたが、その後、安居正浩「「一句十年」の真実 ―能村登四郎小論―」(「沖」平成22年12月号より転載)で「最初に誌上に句が出るのは『馬酔木』昭和十三年十一月号である(筆者調べ)。

 秋櫻子選の新樹集に

    佐渡野呂松人形浄瑠璃

   秋燈に伏せる傀儡のいのち見つ     市川市 能村登四郎

であるから、初投句は昭和十四年の夏ではなく十三年の後半には投句を始めていたことになる。」と述べているので訂正する。


【注2】安居論文は、若手作家の馬酔木における登四郎の成績についても言及しており、「湘子の入会(昭和十八年十月号)から登四郎の巻頭(昭和二十三年三月号)までの登四郎と湘子の成績を比較してみると、

 〇句 登四郎 十二回  湘子  七回  (出征による欠詠も含む)

 一句 登四郎 十三回  湘子 十四回

 二句 登四郎 十六回  湘子 十一回

 三句 登四郎  二回  湘子  二回

 四句 登四郎  二回  湘子  十回

 五句 登四郎  〇回  湘子  一回

となる。四句以上の成績から見ても明らかなように湘子の方が上回っていた。特に昭和二十二年には登四郎がほとんど一、二句であったのに対し、湘子は上位に定着し昭和二十二年四月号では巻頭も取っている。このように句数においても、順位においても大きな差があった。」とされている。

 実は、昭和22年1月25日に高雄山麓高橋家で馬酔木の復刊記念俳句大会が開かれていた。この時、湘子は「風音のやめば来てゐし落葉掻」の句で秋桜子特選となった。その直後感興に任せて宿で句会を開き、その時の成果が湘子の馬酔木初巻頭句となる次の句であった(22年4月)。


雪しろき奥嶺があげし二日月  湘子

夕月や雪あかりして雑木山

月落ちて川瀬に小田の雪あかり


資料 能村登四郎初期作品データ。

(制作年月の次の〇数字は馬酔木集の席次。*は下位作品)


刈田のなか池ありあをき空を置く(23・1*)

高槻のそのたかさよりしぐれくる

茶の咲くをうながす晴とちらす雨


咳なかば何か言はれしききもらす(23・2➁)

かがみゐし人のしごとの野火となる

潮くみてあす初漁の船きよむ

ななくさの蓬のみ萌え葛飾野


ぬばたまの黒飴さはに良寛忌(23・3➀)

雪といふほどもなきもの松過ぎに

雪天の西うす青し雪はれむ

佗助やおどろきもなく明けくるゝ


雪の戸にけはひして人のおとなへる(23・4⑧)

匆々ときさらぎゆくや風の中

蓋ものに春寒の香のさくら餅

松の間に初花となり咲きにけり


弥生尽追ひ着せられて羽織るもの(23・5➁)

人いゆく柴山かげや春まつり

さく花に忙しききのふ無為のけふ

さくら鯛秤りさだまるまでのいろ


うすうすとわが春愁に飢もあり(23・6⑥)

春靄に見つめてをりし灯を消さる

摘むものにことば欠かねど蕗生ひし

畑すみに萌えいですでに紫蘇のいろ


部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23・7➀)

たよりあふ目をみなもちて梅雨の家

梅雨の傘抱きて映画に酔ひがたき

藺の花の水にも空のくもりあり


老残のことつたはらず業平忌(23・8③)

黴の香のほのかなる書を手ばなしぬ

白麻の着くづれてゐて人したし

白靴のしろさをたもち得てもどる


露はしり我にあかるき今日きたる(23・9⑥)

かぼちや咲き貧しさがかく睦まする・

かぼちやかく豊かになりて我貧し

病める子に蚊ばしらくづす風いでよ。


長男急逝

逝く汝に萬葉の露みなはしれ(23・10①)

供華の中に汝がはぐくみしあさがほも

汝と父母と秋雲よりもへだつもの

かつて次男も失ひければ

秋虹のかなたに睦べ吾子ふたり


白露の朝にはじまる言葉佳し(23・11③)

白露や子を抱き幸のすべてなる

秋草やすがり得ざりし人の情

日とよぶにはかなきひかり萩にあり


露幾顆散り惜しむとも吾子はあらず(23・12⑤)

鶏頭やきはまるものに世の爛れ

朝寒や一事が俄破と起きさする

林翔に

貧しさも倖も秋の灯も似たる。


咳了へてほのかにぞ来る人の息(24・1⓸)

わが胸のいつふくらむや寒雀

枯芭蕉どんづまりより始めんと

炭は火となるにいつまで迷ひゐる


霜ばしら怒りは内に燻ゆらすな(24・2③)

手袋やこの手でなせし幾不善

またけふの暮色に染まる風邪の床

かけ上る眼に冬樫の枝岐る

  殿村兎糸子氏を新人会に迎えて

朱を刷きて寒最中なる返り花


凩と言へどそれぞれものの音(24・3⑨)

遠凧となりてあやふき影すわる

水洟を感じてよりの言弱る

冬百舌の裂帛にわが虚を衝かる


老梅を愛して物を卑しまず(24・4⑤)

新雪の今日を画して為す事あり

卒業生言なくをりて息ゆたか

風邪熱を押して言葉にかざりなき


●戦前作品

芦焚けば焔さかんとなりて寂し(14・2*)

枯山の星するどくてひとつなる(15・12*)

蒲の穂のしづかなれどもふれあひぬ(16・11*)

盆のものなべてはしろくただよへり

寝返ればふたつとなりぬ遠蛙(18・6*)

四五枚のいつも雪解のおくるる田(19・4*)

いつの間にみてゐし雲や春の雲(19・5*)

朝は子とゐし緑陰や人のゐる(19・8*)

ひとりゐる蘆刈に鳰もひとつゐる(20・1*)


●戦後作品(受験子・教師俳句)

受験子の髪刈りて来し目のうるみ(24・4特別作品)

しづかにも受験待つ子の咀嚼音

あぢさゐの褪せて教師に週めぐる(24・8⑦)

氷菓もつ生徒と逢へりともに避け(24・9⑫)

長靴に腰埋め野分の老教師(26・4馬酔木コンクール受賞)

教師やめしそのあと知らず芙蓉の実

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