➀まほろば帯解俳談抄 ― 筑紫磐井さんを囲んで ― 堺谷真人(豈)
浮世絵師・歌川国芳に「相馬の古内裏」という作品がある。山東京伝の読本「善知安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)」の一場面を描いたもので、夜陰を背景にした巨大な骸骨が御簾を破って内側を覗き込む構図がおどろおどろしい。平将門が下総国に築いた内裏の廃墟を巣窟に、妖術を授かった将門の娘・瀧夜叉姫とその弟・相馬太郎良門が謀叛を企て、これを阻止しようとする大宅太郎光圀と対決するシーンだ。
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さて、奈良市南郊の帯解の里、窪之庄町には水輪書屋(すいりんしょおく)という古民家がある。敷地面積約400坪、築250年と推定される豪農の旧宅だが、屋根が朽ち落ちて床の間から空が丸見えになるくらい荒廃していたのを、歌人・北夙川不可止さんが修復し、アートの殿堂としてみごとに蘇らせた。
2024年11月17日(日)、その水輪書屋に集まったのは、俳人・筑紫磐井さんを囲む会の面々。磐井さんが発行人を務める「豈」の同人をはじめ、「藍」「麒麟」「群青」「翔臨」「草樹」「楽園」などの俳人、「晴」「ゆに」で活躍する川柳作家に加え、歌誌「玲瓏」「短歌21世紀」所属の北夙川さんが座敷の車座に列なった。
磐井さんによる話題提供の劈頭は、彼の近著『戦後俳句史nouveau1945-2023三協会統合論』(ウェップ)に因んで、現代俳句協会、俳人協会、日本伝統俳句協会の統合の可能性に関するもの。詳細は省略するが、1961年12月に始まった俳人団体の分裂・分派が、有季・無季、定型・自由律など相異なる俳句観を有する俳人たちの相互批評空間を狭め、結果として「俳壇無風」とも言われる大いなる停滞の時代を招いたのではないかとの考察には共感する所があった。
一方、国語教科書に無季俳句を載せないよう出版社に要望書を出す、「無季は俳句のようなもの」と幹部が発言するなど、俳人協会は時おり排斥的、攻撃的な面を見せるとのこと。何故だろうか。少し残念な気がする。
かつては金子兜太と能村登四郎、飯田龍太と鈴木六林男がそれぞれ現代俳句協会賞を同時受賞するなど、現代俳句協会は多様な俳句・俳人を包摂していた。所謂historical ifになるけれど、もし協会分裂なかりせば、飴山實と赤尾兜子が同時受賞した可能性だってあったと磐井さんはいう。いま改めて三協会「統合」と聞くと事々しい感じがするが、要は時計の針を「63年前にもどすだけ」だと。妙に納得してしまった。それにしても、統合後の団体名は「俳句統一協会」になるのであろうか。
ついで話題は俳句のユネスコ無形文化遺産登録へ。無形文化遺産として認められるためには、「俳句とは何か」という定義が必要になる。現在、「プレバト」の夏井いつきさん等の影響もあってか、「俳句は有季定型でなければならない」との風潮が世の中では一般的である。そんな中、仮にユネスコが「俳句とは五七五定型と季語を有する自然詩である」と定義づければ、無季俳句や自由律俳句が不当に排除されるのではないか、との懸念を有する人々もいるのだ。「豈」編集顧問の大井恒行さんもその一人。昨今、ユネスコ無形文化遺産登録に反対する大井さんへの風当たりが強まっているが、登録を推進する団体の幹部諸氏は多様な意見に耳を傾けつつ、この問題に対して丁寧に説明を重ねる義務があるのではないだろうか。
そして「囲む会」は中盤へ。
俳句の国際化に関する磐井さんの見解を伺ったところ、俳句とは第一義的には日本語による詩歌作品であり、言語も韻律も異なる海外のハイク、haikuとは合致しないとの基本認識であった。勿論、日本語で俳句を書く人々が外国語ハイクからインスピレーションを得てそれが作品に影響を与えることはあるかもしれないとのこと。
これに対して、英語ハイクから俳句の世界に入ったというMHさんからは、俳句とハイクはたしかに全然違うものだが、それでも翻訳には挑戦しつづけたい、との発言があり、更にこれを受けてドイツ文学研究者のMNさんからは、翻訳そのものの可能性、不可能性に関する議論や言語の起源に関する学説を紹介して頂くなど、活発な意見交換がなされた。
休憩を挟んでの後半戦は、磐井さんが練達の書き手、評論家であることから、話題は評論の書き方へ。最近「豈」に入会したMKさんからテーマの探し方、資料の引用の仕方、タイトルの付け方といった実践的な質問があり、それに対する磐井さんの回答はおおよそ以下の如くであった。
テーマの選択に当たっては、まず第一に自分自身の関心のないことは書かない、というのが原則。ただ、編集者の共感と熱量によって書き手が自らのテーマを深掘りしたり拡張したりということも実際にはある。引用については必ず原典=一次資料に当たること。著名な書き手の評論にも孫引き、ひ孫引きをしているために事実誤認が多数見られることがある。ファクト・チェックが大切。本のタイトルは、その時代の空気、流行、事件などさまざまなことを考慮してつけている。出版社は売れるキャッチーなタイトルを常に考えているので相談すると良いかもしれない、云々。
原典=一次資料という話で一点補足しておくと、「囲む会」には神戸大学山口誓子記念館のYKさんも参加していた。前衛俳句をめぐる山口誓子と堀葦男との応酬の経緯に関して、さる高名な評論家の著書に誤った時系列の記述があることを、かつて朝日新聞の記事データベースに拠って実証的に指摘してくれたのは他ならぬYKさんである。
続いて議論は再び俳句史へ。
戦後俳句を考えるとき山口誓子の「天狼」の果たした役目は大きかったにも拘らず、磐井さんも川名大氏もそこにあまり触れていないのは何故か、とSKさんが質問。これに対し、磐井さんからは次のようなコメントがあった。西東三鬼を指導者とする「天狼系前衛俳誌-雷光」が「天狼」とほぼ同時期に創刊され、その後、会員たちによる三鬼の排斥を経て「夜盗派」「縄」などに作家が流れた。根源俳句について誓子自身が明言していないこともあり、新興俳句以降の俳句史に「天狼」を位置づけるのはなかなか困難な仕事である、云々。
終盤、「俳壇無風」といわれると些か忸怩たるものがあると切り出したIKさんからは、三協会統合シンパとしてこれから何をやればよいですか、という率直な質問が飛ぶなど、約2時間に及んだ議論は自由かつオープンそのもの。かくて今回の「囲む会」は俳句の過去・現在・未来を縦横に語りつつ大団円を迎えることとなった。
奈良、帯解を舞台にした「囲む会」には遠近各地から20名が集まり、すこぶる盛況を呈した。磐井さんはじめ、ご参集の各位にはこの場をお借りして深甚なる謝意を表したい。
自由闊達な発言を担保する意味で、録画・録音などの形で記録を残すことは一切しなかったが、終了後、開催報告の需めが磐井さんからあった。利き手の指を骨折している状態で残した不完全なメモをもとにこの文章を書いたので、聞き違い、勘違いの類いはひらにご容赦を乞う。なお、SNS等で「囲む会」に触れる際には、発言者の人名をイニシャル表記にするよう参加者にお願いしたため、本稿の記載もそれに従っている。
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「囲む会」の主役である筑紫磐井さんの俳号は外国勢力と結んで大和朝廷に叛いた筑紫国造・磐井(いわい)から取られている。将門が東の新皇ならば、磐井は西の乱魁。将門の遺児たちが相馬の古内裏ならば、磐井(ばんせい)の見物たちは帯解の化けもの屋敷。さてさて、吉と出るか凶と出るかはわからぬが、時は旧暦神無月、八百万の神さまのいまさぬその隙に、帯解き放って俳壇の洗濯談義、無事満尾に至ることかくの如し。