【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2022年9月23日金曜日

第190号

        次回更新 10/7

第45回現代俳句講座質疑(13) 》読む

【俳句新空間16号鑑賞】「特集・コロナを生きて」を読む  佐藤りえ 》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和四年花鳥篇
第一(7/15)仙田洋子・山本敏倖・坂間恒子・辻村麻乃
第二(7/22)杉山久子・ふけとしこ・岸本尚毅・花尻万博
第三(8/12)曾根 毅・瀬戸優理子・浜脇不如帰・小野裕三・小林かんな
第四(8/19)木村オサム・鷲津誠次・神谷波・眞矢ひろみ・浅沼 璞
第五(8/26)加藤知子・仲寒蟬・望月士郎・網野月を・渡邉美保
第六(9/2)妹尾健太郎・松下カロ・小沢麻結・林雅樹・竹岡一郎
第七(9/23)水岩 瞳・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・佐藤りえ・筑紫磐井


■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第28回皐月句会(8月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中! 》読む


豈64号 》刊行案内 
俳句新空間第16号 発行 》お求めは実業公報社まで 

■連載

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測236 大牧広と鈴木節子  ——「沖」草創の時代のライバルとして

筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](33) 小野裕三 》読む

北川美美俳句全集23 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(26) ふけとしこ 》読む

澤田和弥論集成(第12回) 》読む

句集歌集逍遙 ブックデザインから読み解く今日の歌集/佐藤りえ 》読む

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス
25 紅の蒙古斑/岡本 功 》読む

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス
17 央子と魚/寺澤 始 》読む

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス
18 恋心、あるいは執着について/堀切克洋 》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス
7 『櫛買ひに』のこと/牛原秀治 》読む

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス
18 『ぴったりの箱』論/夏目るんり 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス
11 『眠たい羊』の笑い/小西昭夫 》読む

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい
2 鑑賞 句集『たかざれき』/藤田踏青 》読む

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス
11 鑑賞 眞矢ひろみ句集『箱庭の夜』/池谷洋美 》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(3)俳句の無限連続 救仁郷由美子 》読む





■Recent entries
葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
9月の執筆者(渡邉美保)

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測236 大牧広と鈴木節子 ——「沖」草創の時代のライバルとして  筑紫磐井

 大牧広全句集

 『大牧広全句集』(ふらんす堂/令和4年4月・一万円)が刊行された。大牧広が亡くなって(平成31年4月20日没)から3年目のことである。収められている句集は『父寂び』『某日』『午後』『昭和一桁』『風の突堤』『冬の駅』『大森海岸』『正眼』『地平』『朝の森』の10句集と拾遺、その他自句自解100句、エッセイ、それに仲寒蟬の解題と(大牧広の次女)小泉瀬衣子が編んだ年譜と、大牧広の活動を伺うのに必要な全資料が網羅されている。この全句集の刊行には仲寒蟬の甚大な努力があったと聞いている

 これを読んで感じるのは、大牧広は決して器用な俳人ではなかったという事だ。大牧が脚光を浴びるのはまず「沖」の作家としてだが、「沖」には大牧より器用な俳人はもっと沢山いた。しかし唯自分の強烈な個性を発揮しようとした作家であったことはまちがいない。第一句集『父寂び』で見ても、こんな句がある。


遠い日の雲呼ぶための夏帽子

噴水の内側の水怠けをり

もう母を擲たなくなりし父の夏

春の海まつすぐ行けば見える筈

(中略)


鈴木節子の死

 『大牧広全句集』を読んでいる最中に鈴木節子の死の報が入り驚いた。5月8日、夕刻意識を失い、病院に緊急入院し、6時40分に逝去したという。「沖」の作家鈴木鷹夫の夫人であり、鷹夫の亡き後「門」の主宰を嗣いだ。その後妹鳥居真里子に主宰を譲ったが名誉主宰として指導や文章で活躍していた。3月12日には門の新年大会にも元気に出席、選評を行い元気に記念写真にもおさまっていたし、「門」6月号まで作品を発表、さらに俳人協会機関雑誌「俳句文学館」の連載記事を6月号まで執筆していたのだから衝撃の訃報と言うべきであった。ただ「門扇抄」には、少し気になる句もあった。


草萌ゆる墓といのちの会話なり(5月)

われが灰になる日の桜乱舞せよ

卒寿の手つないで下さい花筏(6月)

万の藤房過去現在のしばし消ゆ

    *

 私が沖に入会した47~48年に沖の会員作品欄でしのぎを削っていたのが鈴木節子と大牧広であった。坂巻純子、都築智子(上田比差子氏の義母)、大畑善昭、今瀬剛一、吉田汀史、鈴木鷹夫、渡辺昭らが第1期の雑詠欄の立役者とすれば、第2期が鈴木節子と大牧広、第3期が上谷昌憲、正木浩一(正木ゆう子氏の兄)、北村仁子と続く。入門したばかりの会員にとっては巻頭を続ける鈴木節子と大牧広は高嶺の花であった。雑詠欄の最初期は、鈴木鷹夫夫人でもあり華やかな性格の節子の方が広に先んじていたかも知れない。


 蛙鳴く田を知つてゐる子の熟睡  節子(47年8月巻頭)

 風の匂ひ知りすぎて葦青みけり

 大根煮て血の少しづつ老いてゆく 広(48年2月巻頭)

 海へ行く水の力に薊枯れ


 当時の沖作品の志向がよく分かるであろう。擬人法を多用したやや観念的な作風であり、これが当時の能村登四郎の、また「沖」の傾向であった。特に節子の「蛙鳴く」はその傾向を「雲母」で批判されていて、これを編集長の林翔が再批判していたと記憶している。現在では、「雲母」も「沖」も同じ傾向にあったと考えているが、当時結社同志で見ると意外に近親の対立があったように思っていたようである。

 鈴木節子と大牧広が誰が見てもライバルであったのは、49年1月の第2回沖新人賞で揃って受賞を果たしたからだ。しかもその後、昭和48年記念コンクールでは、大牧広が2位入賞、昭和51年コンクールでは鈴木節子が1位入賞する。さらに昭和58年大牧広が『父寂び』で沖賞を受賞、59年には鈴木節子が『夏の行方』で受賞する。一時、「大牧節子さん」とからかわれていたことも懐かしいぐらい、二人の絢爛たる句歴であった。


  『父寂び』(沖俳句叢書第28編)

両国といふ駅さびし白魚鍋

おのれには冬の灯妻には一家の灯

  『夏の行方』(沖俳句叢書第29編)

埃立つものは叩かず涅槃の日

花桃にみたされて身の紐解けむ


 やがて、昭和62年節子の夫鈴木鷹夫が「門」、平成元年に大牧広が「港」を創刊し、それぞれ別の道を歩んだが、「門」のソフト、「港」のハードと言う対照的な結社は「沖」の裾野を広げたように思う。その貢献者の一人に、鈴木節子と大牧広がいたことは間違いないのである。作家にはライバルが必要なのだ。

※詳しくは「俳句四季」9月号をお読み下さい


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(26)  ふけとしこ

 完成

はつあきの赤きテープを巻かるる木

川船の波とどく辺に種を採る

秋半ば展示の銀器曇りゐて

台風圏サンドイッチの角が反り

人ひとり立たせ花野の完成す

・・・

 「今度の台風はこの辺を通りそうだから、台風の目の中に入るかも知れないよ」理科の先生がそう言った。「昼間だったら目の中に入った時には青空が見えるから、その間は風も止むし見ておいた方がいいよ」と続けた。

 何しろ昔の、昭和三十年代の話、今のように詳しい気象情報が入ってくるわけではない頃のことだ。

  当日学校は臨時休校になり、何となくわくわくしながら台風を待った。

 風がパタッと止んだ。慌てて庭へ出て空を見上げた。

 「本当だ!」楕円形に青空が見えていた。台風は北の方へと移動してゆき、また強風が吹いた。本当なんだ!

 日食を見たときよりも驚いたかも知れない。今でもくっきりと憶えているが、その後、台風の目の中へ入るという偶然というか経験は無い。

 これも思い出話だが、何人かで稲光を見ていた。真直ぐ光るのもあれば、途中で枝分かれするような形の光もある。細く短いのもあれば、太くて山に届きそうな長いものもあった。横へ流れるようなものもある。きれいだなあ……。

 稲光は美しかったが、雷のゴロゴロという音は好きではなかったし、押し入れに隠れるほどではないにしても、やっぱり恐ろしかった。

 突然、ゴロゴロどころかバッキン! ガッシャーン! と凄まじい音がした。今のは落ちたなと皆で言い合った。近所の屋敷裏の森のようだった。それは近くだったこともあり、本当に凄い音だった。雨が止んだ後で様子を見に行ったわんぱく坊主が「木が裂けている」「カミナリが逃げた穴がある」と知らせてくれた。女の子たちも怖い物見たさでついて行った。

 大きな木は中程から見事に裂けていた。根方の土に確かに十円玉より少し小さい程の穴が開いていた。それが雷が逃げた穴かどうかは分からなかったけれど……。

(2022・9)

英国Haiku便り [in Japan] (33)  小野裕三


haiku、最初の百年

 『英語俳句〜最初の百年(Haiku in English —The First Hundred Years)』という本に最近出会った。英語でhaikuが書かれ始めて現在に至る百年間の主要作家を紹介する充実した一冊だ。自身もhaikuを書く米国の高名な詩人ビリー・コリンズが序文を書き、エズラ・パウンドの有名な地下鉄の詩(俳句)を最初に掲げ、あとは時系列でギンズバーグやケルアックらのビート詩人から最近の世代まで網羅する。巻末にある編者のジム・ケイシアンの通史解説も示唆に富む。

 ケイシアンは、「真の俳句は日本人以外には書けないと思う保守的な日本のhaijinは今でもいる」とも記す。その保守的な見方が真実なら、英語haikuの世界はどうやっても日本語俳句の亜流でしかありえない。だが英語のhaiku史は、多くの日本人が想像するより遥かに豊穣で奥が深い。

 haikuの百年間は、ずっと日本の俳句だけの影響下にあったわけではない。英語でhaikuを作る人が増えれば、そのhaikuの影響でhaikuを作る次の世代が英語圏に現れる。例えば、ケルアックらのビート詩人のhaikuに影響されてhaikuを始めた人は少なくない。そういう世代の登場により、haikuは日本の亜流を離れて自立し始めた。また、英語の俳誌の登場で、英語圏のhaiku作家同士が刺激しあえるようになったのも大きい。そこには、日本の俳句史に対する、まるでパラレルワールドのようなhaiku史がある。

 興味深いことに、英語haikuの百年の歴史もまた日本と同様に、伝統と前衛の間を揺れ続けた。ただひとつ決定的な違いがある。ケイシアンはこう記す。「(haikuという)単語はそれ自体で、前衛につながる文化的なオーラを持つ」。日本の俳人が、俳句の持つ形式性に否定的に向き合うことで前衛を追究したのに対し、haiku史の冒頭を飾るのがエズラ・パウンドという前衛詩人であったように、言語文化としての英語においてはhaikuという形式はそもそも一貫して前衛的であった。一方でもちろん、日本の俳句が持つ古い歴史的背景も英語圏に伝わる。そんな両面を根源的に抱えるhaikuは、日本の俳句史よりもより先鋭的に「伝統と前衛の対立」というテーマに向き合ってきたとも言える。加えて英語詩やアートの影響もあり、haikuの前衛活動は日本のそれよりも多彩に見える。

 英語のhaikuのもう一つの重要な特徴は、英語常用者を超えた広がりをもつことだ。「二十世紀末までには、haikuは地球上におけるほぼすべての詩文化に結びついていった」とケイシアンは指摘するが、英語が事実上の世界共通語である現在、異なる言語文化を超えて伝えるために選択されるのはもっぱら英語だ。英語haikuの次の百年は、もはや地球全体の文化史になっていくのだろう。

(『海原』2022年4月号より転載)

澤田和弥論集成(第12回) 続・熱燗讃歌

 続・熱燗讃歌

澤田和弥  


 熱燗は心身にしみじみと沁みわたる。これは飲んだ者にしかわからない。しかし飲まずとも熱燗を詠むことはできるらしい。

 夫に熱燗ありわれに何ありや  下村梅子

 えっ。何って言われても……。食卓で嬉しそうに熱燗を飲む夫を横目に、といったところか。

 熱燗の夫にも捨てし夢あらむ  西村和子

 熱燗や夫にまだあるこころざし  長谷川翠

 熱燗の旨さを詠むのではなく、夫という「庶民」を熱燗に象徴させている。一句目「夫にも」とある。私にも捨てた夢があり、夫にも。そうして今、二人は夫婦としてここにいる。熱燗に庶民性だけではなく、「狭いながらも楽しいわが家」を象徴させているようにも感じられる。二句目は平々凡々たる庶民と思っていた夫の胸の内に、今も志が輝いていることを知った驚きである。「惚れ直した」とまで言ってしまっては夫の肩を持ちすぎか。世の奥様方、あなたの旦那様はいかに。

  熱燗やこの人優しく頼りなく  川合憲子

 いいじゃありませんか。頼りなくとも。優しくて、お給料をちゃんと家に入れてくれる人であれば。食卓を挟み、夫にお酌をしてあげながら、その顔をじっと見ていて句ができた。そんな妄想をしてしまう。店ではなく、家庭での熱燗。

  熱燗のある一灯に帰りけり  皆川光峰

 この「一灯」は赤提灯ではなく、家庭の灯だろう。同僚の誘いに「ごめん。かあちゃんが燗つけて待ってるから」と、いそいそと帰る生真面目亭主が頭に浮かぶ。主人公を新婚ではなく、結婚して十年以上経つ中年と考えると、なんだか微笑ましい。あたたかな夫婦愛。未婚の私にとっては空想上の話であるが。

 家庭とは夫婦だけではない。子もいる。

  熱燗やあぐらの中に子が一人  加藤耕子

 もう、家庭円満、幸せ絶頂である。ホームドラマの一場面のようだ。絵に描いたような仲良し家族。家庭での熱燗はその味、旨さということよりも、家族の幸せを象徴するものとして描かれるようだ。

  熱燗や恐妻家とは愉快なり  高田風人子

 「愉快なり」と言い切られてしまっては「はあ、そうですか」としか言いようがない。一緒に飲んでいる人が恐妻家なのではなく、自身のことだろう。恐妻家というと古代ギリシアの哲人ソクラテスを思い浮かべる。悪いのは奥さんのクサンチッペではなくソクラテスの方だ、あんな世間離れした夫では恐妻にでもならざるを得ない、という意見もある。恐妻家というエピソードがいくつか伝わっているが、どうもソクラテス自身、「恐妻家」である自分を楽しんでいるように思われる。いわゆる自虐ネタとして。今も恐妻家というキャラクターで番組出演しているタレントは何人もいる。しかしその実態はどうなのだろう。実は熱燗をお酌してくれるようなやさしさ、かわいらしさがあるのではないだろうか。自身の奥さんをもっと観察してほしい。じっと見つめてほしい。見つめてみたら殴られたという場合はご安心を。間違いない。あなたは立派な恐妻家である。

 奥さんに負けちゃいけない。ほら、グイと飲み干して。さあ、酒の力を借りて、ビシっと。

  熱燗に酔うていよいよ小心な  高野素十

 いやいや。ダメじゃん。小心になっちゃあ。こういうときは気が大きくならないと。ただ、そんな夫だからこそ家庭として、うまくいっているのかもしれない。それぞれの家庭、それぞれの幸せ。なんて言葉じゃまとまらないか。

  熱燗のいつ身につきし手酌かな  久保田万太郎

 癖とは意識せずとも繰り返すうちにいつの間にか身についているもの。手酌。そういえば最近一人で飲んでばかりだな。気楽。でもさびしい。この場合、熱燗という装置はかなしみを引き出すものとして働いている。なんだか、美空ひばりの「ひとり酒」でも聞こえてきそうな。

  ひとり酔ふ熱燗こぼす胸の内  山口草堂

 こちらもひとり酒。「こぼす」って言ったって、派手にこぼした訳じゃない。なみなみと注いだので、口に持っていくときに少しだけ。ちょいちょいと拭えば済むこと。ただしその胸の内はちょいちょいぐらいでは拭いきれない。そういう酒もある。

  熱燗もほど〱〱にしてさて飯と  高濱年尾

 このあっけらかんぶり。これが今の日本には必要なのではないか。現在、年間自殺者数は長きにわたり三万人を下回らない。長期にわたる不況。なかなか明るい話題がない。「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」とは何十年も前のこと。サラリーマンはみな必死の形相である。どこもかしこも、あっけらかんが足りていない。これは単なるつぶやきじゃないのか。俳句なのか。詩なのか。そうです。これが俳句という短詩です。熱燗はほどほどにして、さてみんなで飯を食おうか。和気あいあいとした家族が見えてくる。真実は難解と混迷の奥に隠れた単純にこそ宿るのかもしれない。難しく考えてはならない。幸せはすぐそばにある。そんなことをこの句は語っているように思う。考えすぎか。

  熱燗や美男の抜けしちくわの輪  木戸渥子

 熱燗をやりつつ数人での飲み会。カッコイイと思っている美男子が奥さんからの電話で帰ってしまった。あとに残っているのは……。それをテーブル上にある「ちくわの輪」に喩えた。喩えた、じゃないよ。失敬な。あいつは「美男」で、俺たちは「ちくわの輪」かよ。と言いつつ、熱燗を差しつ差されつするほどの仲。気心の知れた仲である。「こいつっ、憎まれ口を叩きやがって」と、場はさらに盛り上がり。と、考えたいのですよ。「ちくわの輪」側にいる私としては。

  熱燗や四十路祝はず祝はれず  根岸善雄

  熱燗や余生躓くばかりなる  石原八束

 どんどんさびしくなる。熱燗に「ビールで乾杯」というような明るさはない。しかし、ともにさびしさを語り合い、肩をポンと叩いてくれるような懐の深さがある。だからこそ、人々は熱燗を手放せない。

  人生のかなしきときの燗熱し  高田風人子

 大学院生の友人が彼女と別れるという。彼女も私の友人で大学院生。彼女は結婚したいという。彼は学究の身であり、結婚しても家計を支えることができない。就職するまでは待ってほしい。その話がこじれ、別れることになったらしい。電話をすると彼女は泣いていた。私は彼女の側に立った。そして居酒屋にて彼と会う。お互いの行きつけであり、知っている顔がちらほら見える。皆、彼女側に立っていた。私は彼を怒ってしまった。今となれば、彼の考えや気持ちは重々わかる。しかしそのときは感情的に責めてしまった。彼はつらい顔をしながら、ただただ熱燗をちびちび飲んでいた。そして彼らは別れた。私には気持ちの悪い罪悪感だけが残った。半年後、彼に謝罪し、赦してもらえた。そしてそのときにはすでに元の鞘におさまっていた。今、彼らは仲良く暮らしている。よかった、よかった。で、私は一体なんだったのだろう。役柄は。道化師という言葉が頭をよぎる。なんだったのか。今の私にこそ熱燗が必要なのかもしれない。

  熱燗をつまみあげ来し女かな  中村汀女

 あっ。ちょうどよく。ありがとう。さて、この「女」。妻と見るべきか。女将と見るべきか。あぁ、わかってる、わかってる。私は未婚なので、想像上の奥さんね。さて、どちらと見るか。私は「女将」と考えたい。休日に夫婦で散歩。「この店、よく行くんだ。入ってみる?」と夫。初めて知った。好奇心。暖簾をくぐると小料理屋という風情。「うちの奥さん」と女将に紹介される。きれいな人。着物がよく似合ってる。私が持っていないものを持ってる、気がする。「いつもの」と夫は注文し、女将と楽しく話しはじめる。なかなか入り込めない。急に話を振られても、愛想笑いしかできない。「はい、いつもの」と熱燗をつまみあげ、持ってきた。そして夫にお酌。えっ。熱燗飲むだなんて知らなかった。家では全く飲んだことないし、そんな話も聞いていない。「いつもの」って。嫉妬心。それが「女」という無感情な言葉につながっているような気がする。そしてその下に配された「かな」という大らかな切れ字を嫉妬の軽さと見るか、反対に恐怖心をいだくか。私は今、独身の気楽さを噛み締めている。もしくは「奥さん」という方々に対して、間違ったイメージを持っている。

  夭折を果たせぬ我ら燗熱し  青山茂根

 「夭折の天才」という常套句がある。若き天才やカリスマが夭折すると、必ず伝説化する。ロックミュージシャン、画家、小説家。天才について、夭折が一つの条件のようになる場合もある。「夭折を果たせぬ我ら」は凡才か。しかし生きている。生きているからこそ先がある。遅咲き、大器晩成という言葉もある。未来がある。生きているからこそ燗酒の旨さも味わえる。「果たせぬ」とあるが、その向こうには笑顔が見える。この、あたたかさ。これが生きているということなのだろう。

 何か大きなことを言いはじめてしまった。さてさて旨い熱燗を。

  竹筒を焦し熱燗山祭  羽部洞然

 酒に竹の香りがうつり、なんとも旨そうだ。田舎の山祭。露店を過ぎて、寺務所か社務所の辺りで火を焚いている。竹のパンと始める音が気持ちいい。村の衆と語り、笑いながら、こんな旨い熱燗を飲んでみたい。都会ではそうそうお目にかかれぬ贅沢である。

  熱燗や放蕩ならず忠実ならず  三村純也

 熱燗をグイと無頼の放蕩息子、という訳でもない。真面目に生きてきた。しかし親に忠実という訳でもなかった。熱燗片手に自らの来し方を思い出しているのだろう。「忠実ならず」という字余りが印象的だ。私も親に対してどうだろう。私も「放蕩ならず忠実ならず」といったところか。

 熱燗には派手な明るさや爽快感、気品などはない。庶民性を物語る。しかしそこには懐の深さがある。その懐に身を委ねる。誰にも疲れる。死を考える夜もある。そんなときに熱燗を友とする。冷えた体があたたまる。傷ついた心も。我々は所詮凡才だ。しかし我々にしか見えない世界がある。そこには徳利とぐい呑みが待っている。夭折を果たす必要はない。生きて今日も熱燗の旨さを噛み締める。それで充分。美人女将のお酌があればなお充分。恋愛と結婚はもう少し先延ばしにしておこう。

北川美美俳句全集23

連載を読み返してみると、バックナンバーの一つを書き漏らしていたことに気づいた。

少し間が抜けてしまったが、ここに追加しておくことにしたい。


面122号「遠音」(2017年12月)


バナナの木育ちはじめの葉の開く

いづれ海青田の中をゆく列車

草の葉が撫でゆく登山電車かな

夏の日を斜めに立ちてふくらはぎ

幽霊は網戸を抜けて来たりけり

かなかなや森近づいて遠ざかる

緑陰のベンチの端と端に人

夏館葉に落つ雨の音しづか

階下より桶の響きや返り梅雨

八月の雲の隙間を昇るかな

■ 第28回皐月句会(8月)[速報]

投句〆切8/11 (木) 

選句〆切8/21 (日) 


(5点句以上)

8点句

指先のしつかりとある捨案山子(西村麒麟)


7点句

秋天を縄梯子 誰を昇らしむ (哀悼 救仁郷由美子)(堀本吟)


6点句

その奥へ誘ふちから鉄風鈴(真矢ひろみ)

【評】 「鉄」が効いています。──渕上信子

【評】 南部鉄風鈴の音が聞こえている。夢うつつに誘われる先は陸奥であろうか。この句で「奥」は何のと限定されていないが、奥州路のそれに思える。──妹尾健太郎


八月や主変はりし家の犬(中山奈々)

【評】  犬は主に付くと言われているが、環境が変われば主を変えることもある。八月の終戦。日本人は主君を変えることとなった。──篠崎央子

【評】 犬ではなく主が変わったのですね、祖父母から父母へか、または父母から子へ、なのか。人の死も犬の側からするとこういったことになりますか。──佐藤りえ


草市のもう飽きてゐる男の子(西村麒麟)

【評】 男の子は子どもにもよるが飽きやすい傾向にあるように思う。親に連れられた出先で飽きてぐずる様子が見えてくるようである。──辻村麻乃


滴りの上に滴り猿が棲む(篠崎央子)

【評】 崖の層に次ぐ層を仰ぐような上昇感覚。尋常の山ではない心地がします。この猿も、金絲猴といったような幾らか霊獣めいた猿のように思われます。──平野山斗士


5点句

向日葵の種を兵士のポケットに(飯田冬眞)

【評】  種が無事育ち一面の向日葵を見たい、と思いました。今は平和の地として。かの映画を彷彿とさせます。──小沢麻結


三面鏡するすると夏帯の落ち(仙田洋子)


前掛けの結び方から夏バイト(千寿関屋)

【評】  なるほど!──渕上信子


文を書くときおり蛍狩にゆく(望月士郎)


少年の影と一対夏の蝶(妹尾健太郎)

【評】「少年の影」ですから、これは思い出でしょうか。美しく儚い情景に惹かれました。──水岩瞳


(選評若干)

星座表回し傾く甚平の子 4点 内村恭子

【評】 帰省した祖父母の家か避暑の宿か、そんなところの縁側あたりで星座表と星空を見比べているのだろう。甚平の子の年頃や、夜涼の雰囲気だとか、周辺が自ら想像される。──青木百舌鳥


10Bで描く贋物の白夜かな 1点 山本敏倖

【評】 白夜自体、偽物のような期間(時間)だ。映画「ミッドサマー」を観たひとならあのカルト的まやかしをニンゲンが作るのか白夜が作り出しているのかわからなくなる。10Bの鉛筆で描かれた白夜の輪郭ははっきりしているが、そこに影が書き込まれることはない。形と光しかない。それは平面なのだけど、魔の力を借りてか、起きあがろうとしてくる。──中山奈々


自販機に停まれば汗の吹き出いでし 1点 千寿関屋

【評】 自販機の前に停まった時、それまで忘れていたかのように汗がどっと吹き出てきた。これはたぶん自転車で来た人、自販機の色は赤だ。──依光陽子


梅を干す影重ならぬよう梅を干す 2点 中村猛虎

【評】 私も梅を干しましたので、実感があります。私なら「梅を干す影重ならぬように干す」とするかも。──渕上信子


杖ふって虹など掛けてみせましょう 3点 小林かんな

【評】 楽しい!──渕上信子

【評】 まずはこのファンタスティックな、人を食ったような発想に魅かれた。句意は良く解ります。しかも具象的に。まさに仙人の境地。こういう俳句もあって良いかと。──山本敏倖


化け猫の干からびてゐし草いきれ 3点 仙田洋子

【評】 草いきれの素性に化け猫がいたとは──真矢ひろみ


世界中はためき初むるかき氷 1点 依光陽子

【評】 どんなに世界が大騒ぎになっていても一杯のかき氷の清涼感で、こころはおちつくものである。しかし、一方で、かき氷の店の周りにはためいている万国旗の様も、その世界の象徴のようにもみえる。身辺も亦国際色豊か、というところへ持ってゆく落ち着きを良しとしたい。──堀本吟


夫は蜜われは酢醤油ところてん 2点 渕上信子

【評】 男がこんな甘たるいものが食えるか、という時代がかわってきています。「夫は蜜」・・といいきった甘い関係を大切に。──堀本吟


2022年9月2日金曜日

第189号

       次回更新 9/23


第45回現代俳句講座質疑(13) 》読む

【俳句新空間16号鑑賞】「特集・コロナを生きて」を読む  佐藤りえ 》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和四年花鳥篇
第一(7/15)仙田洋子・山本敏倖・坂間恒子・辻村麻乃
第二(7/22)杉山久子・ふけとしこ・岸本尚毅・花尻万博
第三(8/12)曾根 毅・瀬戸優理子・浜脇不如帰・小野裕三・小林かんな
第四(8/19)木村オサム・鷲津誠次・神谷波・眞矢ひろみ・浅沼 璞
第五(8/26)加藤知子・仲寒蟬・望月士郎・網野月を・渡邉美保
第六(9/2)妹尾健太郎・松下カロ・小沢麻結・林雅樹・竹岡一郎


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俳句新空間第16号 発行 》お求めは実業公報社まで 

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

澤田和弥論集成(第11回)

 熱燗讃歌

澤田和弥 

 コートの襟を立て、縄暖簾をくぐる。「いらっしゃい」。大将の低い声。先に来ている常連らしき男がこちらを一瞥して、すぐに自分の世界に戻った。カウンターの一番奥が彼の定席なのだろう。一番奥と言っても五、六人並べばいっぱいという長さだが。一番入口に近い席に座る。戸の間から隙間風。無言で供されるおしぼり。あたたかい。「何にしやしょう」。さて、あなたならばここで何を注文するだろうか。とりあえずビール?それとも寒いから焼酎のお湯割り?いやいや。この状況では間違いなく、熱燗が正解である。ぐい呑みから湯気。それを無言で一口。口中、喉、食道、胃へとぬくもりが走る。お通しはちょっとした煮物だと嬉しい。

 熱燗は店で呑むものという先入観が私にはある。しかし俳句を見ているとアットホーム派がかなり多い。家庭のぬくもりというやつだろうか。「店にだってぬくもりがあるもん!」と独身の、それも彼女候補すらいない私としては声を大にして訴えたい。

  熱燗や雨ぬれ傘を脇に置き  村山古郷

 居酒屋、もしくは立ち飲み屋か。外は冬の雨。コートも脱がずにまず熱燗を。傘立てが見当たらないので、濡れた傘は脇に。何度ももたれかかってきてコートをさらに濡らす。もういいや。傘にもたれかかられながら、お猪口に酒を酌み、一息にグイ。ほっと一息。飲みはじめの様子が最小限の場面設定で描かれている。傘は面倒くさいが、冬の雨に芯から冷えた体には熱燗がなんとも嬉しい。

  熱燗や炉辺の岩魚も焼加減  樋笠文

 炉端焼の店である。もしくは囲炉裏のあるような田舎の旧家か。熱燗が喉にしみいる。岩魚もちょうどよい焼加減。熱燗のおかわりを。一合、いや二合で。この岩魚に一合では足りない。ジュクジュクプシュと岩魚の脂の弾ける音。悪いことは言わない。きみたちも熱燗を飲みなさい。

 「ひとり酒で熱燗を二合頼むとは不粋な。冷めてしまうではないか」という方もおられよう。しかし長年居酒屋でバイトをしていた私としてはいちいち一合ずつ注文するのは気が引けてしまう。或る著名な学者さんが五人連れで来店したときのこと。注文は「熱燗一合」。はい。他の方は。あっ。五人で一合なんですね。承知しました。熱燗を供する。数秒後、「熱燗一合」。そりゃそうだ。五人に注げば、すぐなくなる。結局一升五合。私は十五回、一合徳利一本を運ぶことになった。それが仕事、と言われれば、そのとおりなのだが。そのことが頭に引っかかって、一合以上飲むだろうなというときは二合徳利を注文するようにしている。少しぐらい冷めたって。冷めるのが嫌ならば、冷めないうちに二合飲めばいいだけの話である。その結果、酔い崩れる。なんというか、ごめんなさい、って感じだ。

  熱燗や食ひちぎりたる章魚の足  鈴木真砂女

 こちらの肴はタコ。タコの足の干物と考えたい。「食ひちぎり」なので。生ダコや茹ダコの足というのも旨いのだが、食いちぎるという動作は干物にこそ似つかわしい。ガブ、ぬぃぃぃぃ。プチ。むしゃむしゃ。そこへ熱燗をグイと。最高である。間違いなく至福の旨さだ。嗚呼、今すぐ飲みたい、食いたい。でもまだ行けない。これは嫌がらせかと、この句を前にもんぞりうっている。

  熱燗や街ぐんぐんと暮れてゐし  高田風人子

 熱燗は冬の季語。冬の日暮れは言うまでもなく、早い。街の居酒屋から外を眺めていると、いつの間にか夜。ただしずっと眺めつづけていたのではない。岩魚や章魚の足などの肴に舌鼓を打ちながら、熱燗をちびちびとやりつつ。気がついたら、外はすでに暗い。「あれ?いつの間に」。その様子が「ぐんぐん」に表されている。楽しい時間はぐんぐん過ぎる。つらい時間は全く過ぎない。居酒屋の時計と会社の時計が全く同じスピードで動いているとはどうしても思えない。時は平等か。そんな難しいことは置いておいて。さあ、熱燗を。

  熱燗に提灯もゆれ人もゆれ  和泉鳥子

 「あっ。もうこんな時間だ!帰らないと」。熱燗を酌み交わすことは楽しいが、門限を忘れずに。戸を開ければ冬の風。赤提灯が揺れている。「おっ、じゃあな」。あれあれ千鳥足。大丈夫かなあ。句全体を包み込む熱燗のぬくもりが心にやさしい。

  熱燗のほとぼり握手いくたびも  川島典虎

 こちらも帰り際の一コマ。おじさんは酔うと何故あんなに握手をしたがるのだろう。それは楽しい時間を共有できた喜びと感謝の気持ち。おじさんはやさしい。そして少々不器用である。何度も握手しても嫌がらないで。セクハラだなんて言わないで。そんなやましい気持ちはこれっぽっちもない、はずだ。この景も「熱燗」だからこそ、詩情とユーモアを生み出しているだろう。

  熱燗や捨てるに惜しき蟹の甲  龍岡晋

 おっ。甲羅酒ですな。これが本当に旨いんだ。

  鼻焦がす炉の火にかけて甲羅酒  河東碧梧桐

 囲炉裏のあたたかさ。そして甲羅酒。少し蟹味噌をとかして、クイと。旨い。そして箸を手に蟹味噌を一つまみ。旨い。まだ味噌が残っている。もう一度、熱燗を注ぐ。クイと。嗚呼、やはり旨い。味噌を少しばかり。まさに悦楽。さてそろそろ味噌もないし。いや、もう一度。では。いや。意地汚いと思われるか。いや。でも。どうせ捨てちゃうんでしょ。だったら……。酒飲みの業とは誠に深いものである。

  熱燗やいつも無口の一人客  鈴木真砂女

 不思議な常連さんはどこのお店にもいるだろう。いつも一人。挨拶代わりに少し頭を下げるだけで、あとは無言。「話しかけないでくれ」というオーラを感じる。今日のおすすめではなく、いつも同じ肴。そして熱燗。同じ時間に現れ、同じ時間に帰る。月光仮面か。何をしているのか、どんな人かもわからない。ただ今日も、同じ時間に現れて、同じ時間に帰るのは確かな気がする。ビール、焼酎、冷酒、ウイスキー、いろいろな酒があるが、この句は「熱燗」以外に考えられない。少しくたびれたことを着た五十歳代の男性というイメージ。少しコロンボに似ている。私の妄想だが。

  熱燗を二十分間つきあふと  京極杞陽

 なんだ。二十分間付き合うと何なんだ。どうなるんだ。誰とだ。さっぱりわからない。問題だけで答えがない。いろいろと考えてみる。読み手ごとにさまざまな回答がある。きっとそれでいいのだろう。答えは無数にある。ただし質問は一つだけ。それもまた俳句というもの。熱燗をちびちびやりながら、お好きなように想像することもまた一興。

 さて、酒も肴も旨かったし、二十分間はとっくに過ぎたし。でも、もう一本飲みたいな。

  熱燗の閉店ちかき置かれやう  大牧広

 なんだ、なんだ。今の置き方は。こっちは客だぞ。へっ?もうすぐ閉店?あっ。いつの間にか我々しかいない。そのうえもうすぐ日をまたぐ時間じゃないか。いやはや、すみませんね。これ飲んだら帰りますんで。はい。お勘定だけ先に。はい。すみません。やっちゃったなあ。でも、あの置き方は……。

  熱燗のあとのさびしさありにけり  倉田紘文

 熱燗を飲み終え、店を出る。途端に冬の烈風。看板の灯りも消えた。酔いも少しく醒める。つい先ほどまではぬくぬくと熱燗を楽しんでいたのに。寒い、寒い。早く帰ろう。さっきまでは

  熱燗にいまは淋しきことのなし  橋本鶏二

だったのになあ。

 男二人で熱燗を飲むときとはどんな状況だろうか。勿論寒いときだろうが、二人とも、もしくはどちらか一人が心身ともに疲れているときではないだろうか。

  熱燗や男同士の労はりあふ  瀧春一

カウンターで差しつ差されつしていると、お互いの距離は自ずと近くなる。猫背になると、後ろ姿はこんもりとした山のように見える。その山中でお互いを労わりあう。これを四十七士に見立てると

  熱燗や討入り下りた者同士  川崎展宏

となる。逃げたのではない。好きでそうした訳じゃない。それぞれいろいろと理由がある。人には言えない理由が。酒と人に癒される。同じ傷を負った者同士。同類相憐れむ。喉元を過ぎる熱燗。夜は深まっていく。

 そんなこんなで飲んでいると当然ながら酔う。お互いの慰労のはずがいつしか険悪な雰囲気に。

  つまづきし話のあとを熱燗に  松尾緑富

 話が躓いた。変な空気になってしまった。まずい、まずい。さあさあ、もう一杯。酒でできた悪い雰囲気は、酒でごまかすのが一番。あとは気付かれぬように話題をずらすテクニック。まあ、このテクニックが一番難しいのではあるが。

 酒の上での失敗談は山ほどある。今となっては笑い話になっているものもあれば、現在進行形のものも。一体、何人に縁を切られただろう。これもそれも酒のせい、か。

  千悔万悔憎き酒を熱燗に  川崎展宏

 「千悔万悔」に多くの方々が同調なさるだろう。大袈裟と思うのは酒で失敗したことのない、たいへんラッキーなお方。「酒は飲んでも飲まれるな」と何度、自身を戒めたことか。酒が憎い。憎い酒。火炎地獄じゃ。熱がれ。熱がれ。おっ、ちょうどよい頃合い。さてさて、一杯やりますか。ん?反省はしている。ちゃんとしている。しかし同じ失敗を繰り返さない自信ははっきり言って、ない。それが酒飲みというもの。飲んだ私が悪いのか、飲まれた酒が悪いのか。明らかに前者である。

 あれ?暗いぞ。なんか暗いぞ。ジメジメした話になってしまった。明るくいきましょう。

  熱燗や二時間前は阿弥陀堂  鈴木鷹夫

 「二時間前は阿弥陀堂」。では、今は?熱燗囲んで、みんなでわいわい。不遜にも仏像で飲酒。けしからん。でも、案外あることではないだろうか。或る神社での話。拝殿で氏子総代数人と話し合っていた。宵祭の後のこと。宮司と総代が来年度のことを話している。ふとそこへ若者が熱燗片手にやってきた。「かたい話はここまで」ということで、あとは全員、顔が真っ赤になるまで呑んだ。地元の人たちが集まれば酒はつきもの。あくまでも親睦である。楽しい酒ならば神仏もお許しくださる、とはいかないか。ごめんなさい。神様仏様。

  北京より戻りてすぐに燗熱く  岸本尚毅

 出張だろうか。冬の北京。よほど寒かったのだろう。そして異国にて母国が恋しくなったのか。日本に戻るや否や熱燗。沸くほどではないしても、熱く熱く。「アチチ」などと言いながらクイと。熱さが体も心もあたためる。やはり最初の一口が大切だ。

  熱燗のまづ一杯をこゝろみる  久保田万太郎

 何事もまずは最初の一歩から。熱燗もまずは最初の一杯。うん、旨い。熱い酒がまさに五臓六腑に沁みわたり、かたくなった心もほぐしてくれる。ぬくもり。熱燗とは母のような存在である。そして、そうでありつづけてほしい。

  熱燗に心のともる音したり  鈴木鷹夫

北川美美俳句全集22

(今回は美美の書いたエッセイをあげて見る)

風と光と桐生の安吾と(『安吾と桐生』2016年2月より)

                               北川 美美

 「子宮の入口のようなところ」――これは私が知人たちに伝える鳥瞰図的な桐生の地形表現である。桐生は関東平野の北端、足尾山地の裾野に位置する。私は安吾の没年齢である四十八、の直前に出生地である桐生に戻ってきた。戦後景気の活気に満ち満ちた安吾が過ごした頃の桐生と、その華ぎから一転した荒涼感漂う現在の桐生の姿とはいささか舞台が異なり過ぎる。しかし、山々は変わらず鎮座し、この町を見続ける。 

 安吾がいた頃の面影をわずかに残す本町通り(@田舎のメインストリートから「桐生通信」)の奥に天満宮の社がある。その社の後ろに初夏には新樹が沸き上がり、晩秋には霧が昇っていく山の姿が見える。冬には前へ進むことも困難な乾いた痛い風が、そして夏には炎天の矢が、本町通りを外れた路地裏に、美和神社(@存在しない神社のお祭り「桐生通信」)の参道に、そしてだだっ広い学校の校庭(@いつも大投手がいない町「桐生通信」)にと、吹き荒れ、降り注ぐ。昭和二十六年に「安吾・新日本地理」に着手した安吾が二年後に越して来た桐生の地形を満身で受け止めない筈はない。 

 安吾があちこちと日本を旅したことを『伊勢物語』の男に投影することができる。特に以下の歌は「文学のふるさと」にも引用され興味深い。 


ぬばたまのなにかと人の問いしとき

          露と答えてけなましものを


――草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答えて、一緒に消えてしまえばよかった(「文学のふるさと」中の安吾訳)――後の言葉となる幽玄美を体感するために安吾は日本各地に赴いたと思え、最後に桐生に辿り着いた。霧が生まれやすい桐生の地で、安吾は子宮の人口にうごめくナマの人間に接し、その曳に濳む以外を表現していく。桐生へ越した四か月後に飛騨での取材を筋立てしたといわれる「夜長姫と耳男」(昭和二十七年六月『新潮』として発表する 


 向うの高い山をこえ、その向うのミズウミをこえ、そのまた向うひろい野をこえると、石と岩だけでできた高い山がある。その山を泣いてこえると、またひろい野があってそのまた向うに霧の深い山がある。              「夜長姫と耳男」


 桐生を三方囲む山夊をみていると、安吾が山に吸い寄せられ、モノノケに自ら逢いにいこうとする好奇心がよくわかる。安吾の物語には、モノノケが潜む山に敢えて入っていく男女が登場するのである。

 「夜長姫と耳男」は「桜の森の満開の下」とともに 幻想的かつ怪奇的な傑作と評される。残酷で気高い女王気質の女と、その歓心を買うべく命をすりへらす下賤の男。二つの物語は どちらも男が女を殺すという結末で幕を下ろす。そこにいきつく男の心理はいずれも複雑で捻じ曲がった構造だ。<このヒメを殺さなければ チャチな人間世界は持たないのだ。>――最後に男がたったひとり残る孤独と虚無の傑作は「堕ちるところまで堕ちる」安吾の思想と確かに通じる。戦後の自我を模索する時代に寵児として登場した安吾は、何故男が女を殺すことに執着したのか。安吾が本当に殺したい対象は別にいるのではないか。 

 近代以降の文学は自我とは何かを問い続けてきた。文学という「父」、そして、家・国家・社会を支えてきた「父」、その存在を超えることが近代の思想の典型であった。登場する男を「父系」に、女を「母系」として考えるならば、女を殺すということは、本来、自分を産むはずの「母」を殺すことになる。それは生れてくるはずの自分、すなわち文学上の「我」の抹殺であり、自分を生まれてこなかったことにする「空」の世界がある。安吾が近代以降の自我である「父を超える」というテーマから掛け離れた着想を持ち、特異な点だろう。 


つひにゆく道とはかねて聞きしかど

         きのふけふとは思はざりしを


――誰もが逝く死の道とはかねてから聞いていたが まさか昨日今日のこととは思わなかった――『伊勢物語』の男は死を予感して物語が終る。安吾は多分、死の予感すらもなく、この子宮の入口のような町で死んでしまう。露のしずくが消える一瞬の景を求めた安吾が、この地に消えてしまった。 

 桐生の「桐(キリ)」と音韻が被る「錐(キリ)」に男陰の意がある?(「隠語辞典」束京堂)。確かに桐生は子宮のようでもあり男陰の紡錘のような地形でもある。男陰と子宮はある意味一体の形を成す。安吾と桐生の因果が魑魅魍魎と脳内にスパイラルしながら安吾の後世が私の中で過ぎてゆく。 

(「俳句新空間」編集長 俳誌「面」「豈」同人)

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (25)  ふけとしこ

 疎遠

すずめいろどき夕菅が透けてくる

ひまはりへ女が顎を上げにけり

麦茶冷ゆ消防設備点検日

檀特の花や退会告げらるる

疎遠なる珊瑚樹の実も色づくか

・・・

 葉盤(ひらで)のこと。

  家に在れば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

万葉集第二巻中の有馬皇子のよく知られた歌。旅とはいうが謀反の疑いをかけられて連れて行かれている場面。後に処刑される、悲劇の皇子と伝わる人物である。

 私が解らなかったのは、当時の政治や天皇の座をめぐることではなくて、本当に単純なことなのだが

 最後の「椎の葉に盛る」この部分である。「飯」がどのような物かはさておき、柏の様な広い葉ではなく、「椎の葉」とはっきり書かれていることなのである。この時代にも椎は椎であっただろうから、食べ物を載せるにはあまりに小さいのではないだろうかということ。人が食べる物ではなく、神へ供えるものだから、それでいいのだという人もあるようだが、罪人として引かれている状態で、それでも本人にしろ従者にしろ神へ供えるということをするだろうか。出来るのだろうか。

 過去に問いかけてみたこともあったが、答は得られなかった。

 最近「葉盤」という言葉を知った。この字で「ひらで」と読むそうだ。広辞苑には神饌の祭祀具と載っている。数枚の柏の葉を細い竹釘で刺し止め、盤のようにした容器。後にその形をした土器を言った、とある。これなら納得できる。椎の葉は小振りではあるが、何枚かを丸く置き、小枝や笹の茎などで綴じ合わせれば仮の器の用ぐらいは足せたであろう。そう思えば頷ける。ずっと一枚の葉だと思っていた私は疑問のままに思い出しては忘れ……の繰り返しだったのだ。

 草木の葉は何かと便利に使われてきた。柏餅や笹団子、柿の葉鮨に朴葉味噌等々、今も郷土食として残る。山帰来の葉も月桃の葉も食べ物を包むのに使われている。かつて旅先で早苗饗の場に行き合わせて蕗の葉に包まれた御飯を頂いたこともあった。

 草木の葉といえども安心できる物ばかりではない。中には有毒な物もある。今残っているのは、防腐作用があったり、香りが良い物だったり、長い間に淘汰されてきた物だろう。

 有馬皇子の椎の葉、もしも葉盤だったら、長年の私の疑問も落ち着くのだが……。

 因みに窪みをつけた器は「葉椀(くぼて)」というのだとか。私はどちらも知らなかった。

(2022・8)


【俳句新空間16号鑑賞】「特集・コロナを生きて」を読む  佐藤りえ

 俳句新空間16号の特集は「コロナを生きて」。冒頭の発行人筑紫磐井の文にはスペイン風邪当時のホトトギス誌上の動向を伝えるとともに、「虚子がやり残した仕事として、この二年間の俳人たちの心情をリアルタイムで残してみることは意味があるのではないかと思った」と記されている。

募集された句については「コロナ」の語句を直接詠み込むことは条件になく、各々が二年間の「コロナ期間」を念頭に作句したものが集まった。


 注意書きだらけの町よ秋の雨  青木百舌鳥

 これはこれは不要不急の心太 杉山久子


街に一歩出れば「ソーシャルディスタンス」「消毒のお願い」「一人、または少人数で」…といった注意書きがズラリと並ぶ。

当初はフィルムやラップ類など、急ごしらえだったパーティションも、今ではすっかりアクリル製の製品が導入されている。

また、「不要不急」「三密」「密を避ける」などの珍妙な言葉が日々メディアを賑わせた。なにかの行動について「これは不要不急だから」と唱えること自体がちょっとした遊戯としてくりひろげられた。言葉の意味がねじ曲げられ、おかしな具合に利用されるのもコロナの副症状と言っていいにちがいない。


 麦こがし食うて一人や大広間 岸本尚毅


「黙食」という言葉も登場した。いや、現在も飲食店に張り出されたりしている。なんだか禅堂に来ているようだ。


 わが去りし席が消毒され西日 仲寒蟬

 芽吹きさう検温されてゐる額 ふけとしこ


忙しい飲食店では、客が帰るやいなや椅子からテーブル、メニューまで消毒液で拭き上げるところもある。他意がないことはあきらかだが、己がコロナの手先になったみたいな気分にも、ちょっとだけなる。

飲食店だけでなく、あらゆる場所への入場に検温を求める形式は、まだ続いている。手首だったり額だったり、おもむろに差し出す所作は、何かの儀式のようでもある。


 狛犬の阿吽を塞ぐ大マスク 辻村麻乃

 爆笑はマスク外せよバカ殿忌 夏木久


2020年、あらゆる場所——薬局、スーパー、ホームセンターなど——からマスクが一斉に消えた際は、これがもとの水準に戻る日はいつになるのか、途方もない時間がかかるのではないかとも危惧した。しかるに2022年の今日現在、前述した場所に、多種多様なマスクは無事在庫されている。価格もおおむね現実的な水準に戻りつつあるように見える。

危機感とはあまり関係なく、またはだからこそなのか、人間以外もマスクをさせられた2年間だった。

そしてコメディアン志村けんの死は、彼の芸の明るさが故に、より悲劇的なものとして語られることになった。「バカ殿忌」は空前絶後の忌日名といえよう。


 父の日やしばらく濡れていない傘 なつはづき

 入学の後の宙ぶらりんの日々 前北かおる


そうしたさわがしい表層の奥に、変質をせまられた日常が詰まっている。外出を控え、使われることのない傘が玄関にほこりをかぶる。子・孫が親に会えないだけでなく、親の外出も減り、籠もりがちになる。

大学生はリモート授業で登校できず、学友とも教師とも直接会えぬままに学生生活が続く。小中高校生も似たような境遇ではあるが、最も環境の変わる大学生活は、影響がとてつもなく大きいことだろう。一人暮らしの学生はどうするのか。先々の見通しのない感染症だからこそ、対応に困る。


 霞みつつ疫がしづかな街を得る 竹岡一郎

 東京で巻貝のごと生きてゆく 筑紫磐井


かように人間はあれこれ困り、戸惑いながら生き続ける。しかしウイルスの側からこの状況を見渡せば、まったく違った様相になるのだろう。

スペイン風邪が流行した1920年頃は世界人口が18億前後だった。国連経済社会局から今年7月に発表された推計によると、2022年11月には世界人口は80億に達する見込みであるという。

単純に比較できるものではないが、スペイン風邪の流行当時より衛生環境はかなり改善されているはずだが、人間の数は4倍ほど、その移動は桁外れに広範囲に広がり、気温などの自然条件も異なる。

ウイルス自身が生き延びるための環境条件は、今、緩和されているのか、憎悪しているのか——。

ロックダウン中の街の静寂が、ウイルスにとってのひとつの「成果」として詠まれている。そのしずかな街の其処此処には夥しい数の巻き貝がひそんでいる。SFのあらすじをつなげたようになってしまう、これが21世紀の感染症の渦中にある実景だ。


■ 第27回皐月句会(7月)[速報]

投句〆切7/11 (月) 

選句〆切7/21 (木) 


(5点句以上)

10点句

なつやすみ白紙に水平線一本(望月士郎)

【評】  絵日記でしょうか?いや、平仮名だからついそう取ってしまったけれど「夏休みというものは・・・」ということかもしれません。何でも出来そうだった子供の頃の夏休み。正に大きな白紙いちまい。水平線一本は海の思い出とも目指すべき未来とも。──仲寒蟬


6点句

噴水にどしゃぶりのきて笑い合う(望月士郎)


5点句

病家めく木槿の花を掃かざれば(青木百舌鳥)

【評】いつの間にか大きな樹となって、掃いても掃いても間に合わない。朝に夕に散り落ちている木槿の花が気になってならない主人。つい口を衝いて出た言葉を一句に仕上げたものとも思われるが、実のところは健やかな一家なのであろう。──妹尾健太郎

【評】 地面に落ちた木槿の花。人の気配があまりない家のしずけさ。木槿が掃かれずにあることに着目したことで「病家めく」空気感を伝え、木槿の花のくしゃっとした質感までリアルに見せた。──依光陽子


賽の目の数だけ歩む大暑かな(飯田冬眞)


サルビアの色が溢れて死期の窓(筑紫磐井)

【評】 サルビアの造花めく乾いた赤。死期を悟った生命の赤さを冷静に眼差している。──篠崎央子


万巻の花鳥諷詠きらら棲む(水岩瞳)


(選評若干)

巻き戻す身投げ映像沖縄忌 3点 水岩瞳

【評】 巻き戻すは、身投げ映像のことでもあるが、それ以上に沖縄の、戦争の風化してはならない記憶のことも背後に含んでおり、沖縄忌が効果的。──山本敏倖


とねりこの花灼け羽蟲押すな押すな 2点 平野山斗士

【評】 暑い日の情景が生き生きと描かれています。──渕上信子


打水や濡れて生き生き足の指 4点 小沢麻結

【評】 打水が自分の足にかかってしまったのだろうか。暑い一日を過ごして疲れ切った肌も、ふいにかかった水によって瞬間的に色艶を取り戻す。その驚きが伝わってくる。──辻村麻乃


数学と宇宙の間の涼しさよ 4点 中村猛虎

【評】 典型的非理系の自分にとっては、この何物かに涼しさを感じることができる識見に嫉妬と憧れが綯交ぜに。 数年前に素数ーリーマン予想を素材にした句を作ったことがあり、その時一瞬感じたもの、ひょっとすると空海が洞窟の奥で感じとった識、:これを数式でなく日本語・短詩・俳句では「涼しさ」とするということか──真矢ひろみ


七夕の空あざやかに船出せり 2点 田中葉月

【評】 天の川を活かして恋めく句にせず壮行の句にした処が眼目。中七はやや饒舌ながらそれゆえに率直、快い味が出ています。──平野山斗士


片蔭に半身異界にその残り 4点 真矢ひろみ

【評】 その残りは眩しい日差しに眩む目に良く見えない。白昼なのに怖い。いやこの認識は間違いだ。白昼は怖い。──小沢麻結


職持たぬをのこを待ちぬ花擬宝珠 2点 篠崎央子

【評】 無職、でもこの男を一番愛してる。──渕上信子

【評】  この独言のような中七までと季題のよろしさ。──依光正樹


雨待てば草かげろふの卵揺れ 3点 依光陽子

【評】 細い糸の先にぶら下っている小さな卵が揺れている。好きな写生句。──渕上信子


風鈴やどのチャンネルも速報に 4点 小林かんな

【評】 よその家のテレビからの音なども混じって聞こえているかも知れない。風鈴の音は背後の雑音となる。──青木百舌鳥

【評】 早鐘のような風鈴の音、一斉に速報に切り替わる画面。緊迫した空気が熱い風とともに押し寄せる。──小沢麻結