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2022年9月23日金曜日

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測236 大牧広と鈴木節子 ——「沖」草創の時代のライバルとして  筑紫磐井

 大牧広全句集

 『大牧広全句集』(ふらんす堂/令和4年4月・一万円)が刊行された。大牧広が亡くなって(平成31年4月20日没)から3年目のことである。収められている句集は『父寂び』『某日』『午後』『昭和一桁』『風の突堤』『冬の駅』『大森海岸』『正眼』『地平』『朝の森』の10句集と拾遺、その他自句自解100句、エッセイ、それに仲寒蟬の解題と(大牧広の次女)小泉瀬衣子が編んだ年譜と、大牧広の活動を伺うのに必要な全資料が網羅されている。この全句集の刊行には仲寒蟬の甚大な努力があったと聞いている

 これを読んで感じるのは、大牧広は決して器用な俳人ではなかったという事だ。大牧が脚光を浴びるのはまず「沖」の作家としてだが、「沖」には大牧より器用な俳人はもっと沢山いた。しかし唯自分の強烈な個性を発揮しようとした作家であったことはまちがいない。第一句集『父寂び』で見ても、こんな句がある。


遠い日の雲呼ぶための夏帽子

噴水の内側の水怠けをり

もう母を擲たなくなりし父の夏

春の海まつすぐ行けば見える筈

(中略)


鈴木節子の死

 『大牧広全句集』を読んでいる最中に鈴木節子の死の報が入り驚いた。5月8日、夕刻意識を失い、病院に緊急入院し、6時40分に逝去したという。「沖」の作家鈴木鷹夫の夫人であり、鷹夫の亡き後「門」の主宰を嗣いだ。その後妹鳥居真里子に主宰を譲ったが名誉主宰として指導や文章で活躍していた。3月12日には門の新年大会にも元気に出席、選評を行い元気に記念写真にもおさまっていたし、「門」6月号まで作品を発表、さらに俳人協会機関雑誌「俳句文学館」の連載記事を6月号まで執筆していたのだから衝撃の訃報と言うべきであった。ただ「門扇抄」には、少し気になる句もあった。


草萌ゆる墓といのちの会話なり(5月)

われが灰になる日の桜乱舞せよ

卒寿の手つないで下さい花筏(6月)

万の藤房過去現在のしばし消ゆ

    *

 私が沖に入会した47~48年に沖の会員作品欄でしのぎを削っていたのが鈴木節子と大牧広であった。坂巻純子、都築智子(上田比差子氏の義母)、大畑善昭、今瀬剛一、吉田汀史、鈴木鷹夫、渡辺昭らが第1期の雑詠欄の立役者とすれば、第2期が鈴木節子と大牧広、第3期が上谷昌憲、正木浩一(正木ゆう子氏の兄)、北村仁子と続く。入門したばかりの会員にとっては巻頭を続ける鈴木節子と大牧広は高嶺の花であった。雑詠欄の最初期は、鈴木鷹夫夫人でもあり華やかな性格の節子の方が広に先んじていたかも知れない。


 蛙鳴く田を知つてゐる子の熟睡  節子(47年8月巻頭)

 風の匂ひ知りすぎて葦青みけり

 大根煮て血の少しづつ老いてゆく 広(48年2月巻頭)

 海へ行く水の力に薊枯れ


 当時の沖作品の志向がよく分かるであろう。擬人法を多用したやや観念的な作風であり、これが当時の能村登四郎の、また「沖」の傾向であった。特に節子の「蛙鳴く」はその傾向を「雲母」で批判されていて、これを編集長の林翔が再批判していたと記憶している。現在では、「雲母」も「沖」も同じ傾向にあったと考えているが、当時結社同志で見ると意外に近親の対立があったように思っていたようである。

 鈴木節子と大牧広が誰が見てもライバルであったのは、49年1月の第2回沖新人賞で揃って受賞を果たしたからだ。しかもその後、昭和48年記念コンクールでは、大牧広が2位入賞、昭和51年コンクールでは鈴木節子が1位入賞する。さらに昭和58年大牧広が『父寂び』で沖賞を受賞、59年には鈴木節子が『夏の行方』で受賞する。一時、「大牧節子さん」とからかわれていたことも懐かしいぐらい、二人の絢爛たる句歴であった。


  『父寂び』(沖俳句叢書第28編)

両国といふ駅さびし白魚鍋

おのれには冬の灯妻には一家の灯

  『夏の行方』(沖俳句叢書第29編)

埃立つものは叩かず涅槃の日

花桃にみたされて身の紐解けむ


 やがて、昭和62年節子の夫鈴木鷹夫が「門」、平成元年に大牧広が「港」を創刊し、それぞれ別の道を歩んだが、「門」のソフト、「港」のハードと言う対照的な結社は「沖」の裾野を広げたように思う。その貢献者の一人に、鈴木節子と大牧広がいたことは間違いないのである。作家にはライバルが必要なのだ。

※詳しくは「俳句四季」9月号をお読み下さい


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