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2013年9月27日金曜日
【俳句時評】 残ること、書きつづけること―萩澤克子句集『母系の眉』 / 外山一機
萩澤克子が第一句集『母系の眉』(鬣の会)を上梓した。すでに四〇年以上の句歴を持つ萩澤のキャリアは一九六九年の「歯車」入会にはじまる。林桂は巻末の解説で、一九五五年に鈴木石夫の指導する俳句勉強誌として創刊された「歯車」について「盛んだった高校生、大学生の俳句運動の渦中に誕生し、唯一生き残った雑誌」としているが、萩澤が入会した当時の「歯車」の、決して瀟洒とはいえない体裁のその薄い冊子を繰るとき、いったい「歯車」に参加した若者たちはどこへ行ってしまったのかという思いばかりが強くなるのは僕だけであろうか。それは、たとえば創刊号から今日までの『豈』や『未定』の誌面を辿っていくときに浮かぶ感慨とはちがう。それは俳句を書き続けるという営みについての寂しい想像を引き寄せるのである。
将来を嘱望されながら二三歳で筆を折った宮崎大地の例を挙げるまでもなく、かつての若者はその多くがすでに「歯車」からも俳句からも遠ざかってしまった。しかし僕の感慨はこのようにしてすでに去ってしまった若者たちの後ろ姿に対するものではない。彼らの姿は僕にはもう想像しがたくなっているのである。すでに還暦を過ぎているはずの宮崎大地を思えば、宮崎が四〇年近くも以前に筆を折った事情を僕が理解できるなどと考えるのはむしろ傲慢であろう。僕に見えるのは去った者ではなく残された者の姿である。残された者のなかには、去った者の後ろ姿を自らのうちに抱え込みつつ、一方でその夭折の理由を自らに問い続けている者もいる。とすれば、彼らを「残された者」と呼ぶのは不当であろう。彼らとは、いわば「残された」という喪失感を「残った」という自恃へと転位させることで書き続けている者の謂なのである。
一〇代で「歯車」に入会した萩澤もまた今日まで俳句を書き続けてきた一人である。しかし、たとえば次のような萩澤の韜晦を自らの俳句史のうちに手繰り寄せることのできる者は、すでに少なくなってしまったにちがいない。
萩澤は永井陽子、宮川妙子とともに「歯車」の「三才女」と評されたが、そのなかにあって喪失の感覚を身のうち深くに刻み込んだかのような自意識は、この句集の至るところに見ることができる。というよりも、そのような喪失の感覚をもって萩澤が詠うとき、その死者との交感こそが萩澤にとっての「俳句」であるのかもしれない。いわば萩澤の「俳句」とは口寄せとしてのそれであって、そうであってみればこそ、「才無き私だけが俗っぽくも孫を抱き、拙い詩を紡ぎ続けている」といいながら四〇年以上も俳句を手放すことがなかったのではあるまいか。
だから、萩澤が死を詠うとき、それは生との境界を曖昧にしたままの姿で立ち現われる。此岸は彼岸へと反転し、彼岸は此岸へと反転する。『母系の眉』を一読して思うのは、生にも死にも寄り添うことのできる人間の姿である。そしてまた、死を思い、やがて彼岸へと手を伸ばすとき、その指の先に思わず此岸の土が触れてしまうような、そのような人間の姿である。
『母系の眉』に頻出する「水」は此岸と彼岸とのあわいに存在するものとしてのそれであるようだ。萩澤の「水」は亡き父を引き寄せ、母を引き寄せる。師の急逝に「梅雨水面」をまなざしながら、やがて「木下闇の奥まで行けば師に会えるか」と詠う萩澤にとって、「会えるか」とは決して反語的な意味合いで発せられた言葉ではあるまい。むしろ不用意なほど率直に「会えるか」と自らの希望を提示できるのが萩澤なのであろう。そしてこんなふうに、生と死とのあわいに無邪気にさえ見える姿で遊ぶ萩澤にとってこのように遊ぶことこそ悼むことではなかったか。
生と死にこんなふうによりそう萩澤が、自らの「身のうち」に「水」を発見するのは自然なことであったろう。しかし、その「水」が「堕胎の水」や「水子」へと転位するとき、そこには自らの生を決定づけた血脈への屈折した自意識がはたらいているように思われる。萩澤には「家系図の真中の染みや春の雷」の一句もあるが、自らの「身のうち」に「水」を見つけたまなざしは、「家系図」に「染み」を見つけたまなざしと表裏をなすものではなかろうか。
萩澤は自らの血脈に「帯の一本」を見、あるいは「花びら」に「冷たき血脈」を見てしまう。「海ほおづき母系の眉をふと開く」とも詠んだ萩澤に「血脈を這う先の世の巻貝」とは「母」の身体へと連なりつつ血脈のうちを這う自らの姿であろう。しかしこうした句から見えてくるのは、自らが与するそうした血脈を恋いながらもついに疎外されてしまう萩澤のありようである。いや、より正確に言うならば、そのような自らの姿を発見せずにはいられない萩澤のありようである。
萩澤の待ち人はやってくるのだろうか。待ち人とは、萩澤にとって、あるいはもう二度と会えない者の謂ではなかったか。いや、そんなことを問うまでもなく、萩澤にはもう待ち人が見えているのだろう。いくつもの喪失のなかで、それでも残ることを選んだ萩澤であってみれば、待ち人とはいつでも会える者のことであり、そのようにして待つかたちこそが萩澤にとっての俳句であるかもしれないのである。
将来を嘱望されながら二三歳で筆を折った宮崎大地の例を挙げるまでもなく、かつての若者はその多くがすでに「歯車」からも俳句からも遠ざかってしまった。しかし僕の感慨はこのようにしてすでに去ってしまった若者たちの後ろ姿に対するものではない。彼らの姿は僕にはもう想像しがたくなっているのである。すでに還暦を過ぎているはずの宮崎大地を思えば、宮崎が四〇年近くも以前に筆を折った事情を僕が理解できるなどと考えるのはむしろ傲慢であろう。僕に見えるのは去った者ではなく残された者の姿である。残された者のなかには、去った者の後ろ姿を自らのうちに抱え込みつつ、一方でその夭折の理由を自らに問い続けている者もいる。とすれば、彼らを「残された者」と呼ぶのは不当であろう。彼らとは、いわば「残された」という喪失感を「残った」という自恃へと転位させることで書き続けている者の謂なのである。
一〇代で「歯車」に入会した萩澤もまた今日まで俳句を書き続けてきた一人である。しかし、たとえば次のような萩澤の韜晦を自らの俳句史のうちに手繰り寄せることのできる者は、すでに少なくなってしまったにちがいない。
氷雨の東京駅に、上京した「歯車」誌の仲間、永井陽子を送ったことがあった。近づく成人式に、「出席しない、振袖を着ない」と二人で約束し新幹線の窓に手を振った。あれから四十年余り。歯車同期の卯年の女三人、論客で歌人として「噛みつきうさぎ」の異名を持った陽子は詩に殉じ、鳥取の繊細な妙子は詩に病み、才無き私だけが俗っぽくも孫を抱き、拙い詩を紡ぎ続けている。
萩澤は永井陽子、宮川妙子とともに「歯車」の「三才女」と評されたが、そのなかにあって喪失の感覚を身のうち深くに刻み込んだかのような自意識は、この句集の至るところに見ることができる。というよりも、そのような喪失の感覚をもって萩澤が詠うとき、その死者との交感こそが萩澤にとっての「俳句」であるのかもしれない。いわば萩澤の「俳句」とは口寄せとしてのそれであって、そうであってみればこそ、「才無き私だけが俗っぽくも孫を抱き、拙い詩を紡ぎ続けている」といいながら四〇年以上も俳句を手放すことがなかったのではあるまいか。
だから、萩澤が死を詠うとき、それは生との境界を曖昧にしたままの姿で立ち現われる。此岸は彼岸へと反転し、彼岸は此岸へと反転する。『母系の眉』を一読して思うのは、生にも死にも寄り添うことのできる人間の姿である。そしてまた、死を思い、やがて彼岸へと手を伸ばすとき、その指の先に思わず此岸の土が触れてしまうような、そのような人間の姿である。
夕焼けの父が生まれて来そうな海
夭折の母冬波に青を溶く
そは蛍そは母の水終の水
あの世から眺むるために柿干しぬ
春逝くや枕の窪み水溜まり
私小説兄の素足に潮満ち来
師を悼む斯く静かなる梅雨水面
木下闇の奥まで行けば師に会えるか
『母系の眉』に頻出する「水」は此岸と彼岸とのあわいに存在するものとしてのそれであるようだ。萩澤の「水」は亡き父を引き寄せ、母を引き寄せる。師の急逝に「梅雨水面」をまなざしながら、やがて「木下闇の奥まで行けば師に会えるか」と詠う萩澤にとって、「会えるか」とは決して反語的な意味合いで発せられた言葉ではあるまい。むしろ不用意なほど率直に「会えるか」と自らの希望を提示できるのが萩澤なのであろう。そしてこんなふうに、生と死とのあわいに無邪気にさえ見える姿で遊ぶ萩澤にとってこのように遊ぶことこそ悼むことではなかったか。
水のごと村あり屈葬の故郷なり萩澤は「屈葬」について次のように書いている。
七歳当時、母は死病を得て入院。住職の父は読経に赴く時、止むを得ず一人で待てぬ私を連れて行く。通夜の時は読経を子守歌に死者の隣で眠ってしまい、村人におぶわれて戻るのが常だった。翌日、私のそばに寝ていた死者は起き上がり、座り、埋められた。昭和三十年台初頭、その村はまだ土葬、座棺だった。ここでも「水」は死に近しいものとしてあらわれるが、それが出自とともに語られるとき、出自もまた生と死にいろどられたものとして立ち現われてくる。「屈葬の故郷」とはたんに屈葬の記憶とともにある故郷ということではあるまい。ここで萩澤は故郷そのものを弔っているのである。そしてその弔いのかたちとしての「屈葬」は、たとえばかつて林田紀音夫が「いつか星ぞら屈葬の他は許されず」と詠ったような、いわば負荷としての「屈葬」ではないだろう。「私のそばに寝ていた死者は起き上がり、座り、埋められた」と記す萩澤の目に、「屈葬」は文字通り死者が「起き上がり、座」るように映っていたのであって、とすれば萩澤にとって「屈葬」とは死者の身体を一方的に封じ込めるかたちではなく、死者とともにその死を共有しつつ、いつ起き上がるやもしれない予感と畏れのなかで死者を弔うやさしいかたちの謂であるのではないか。そして、そのように弔われた故郷は、やがて「水のごと」き「村」として呼び起こされる。萩澤にとって「水」とは自らが喪失したものを自らのうちに呼び起こすときの装置として機能しているのである。
身のうちの水を住処とせり蝸牛
とある日は蝸牛と堕胎の水つくる
子堕しの水飲み蝸牛太りゆく
ふと受胎怖る薄暮は水の上
「うしろの正面だぁれ」うしろは常に水子
生と死にこんなふうによりそう萩澤が、自らの「身のうち」に「水」を発見するのは自然なことであったろう。しかし、その「水」が「堕胎の水」や「水子」へと転位するとき、そこには自らの生を決定づけた血脈への屈折した自意識がはたらいているように思われる。萩澤には「家系図の真中の染みや春の雷」の一句もあるが、自らの「身のうち」に「水」を見つけたまなざしは、「家系図」に「染み」を見つけたまなざしと表裏をなすものではなかろうか。
血脈の迷路ありけり麦の秋
血脈を這う先の世の巻貝か
血脈をたどれば帯の一本きり
花びらに冷たき血脈など見たり
萩澤は自らの血脈に「帯の一本」を見、あるいは「花びら」に「冷たき血脈」を見てしまう。「海ほおづき母系の眉をふと開く」とも詠んだ萩澤に「血脈を這う先の世の巻貝」とは「母」の身体へと連なりつつ血脈のうちを這う自らの姿であろう。しかしこうした句から見えてくるのは、自らが与するそうした血脈を恋いながらもついに疎外されてしまう萩澤のありようである。いや、より正確に言うならば、そのような自らの姿を発見せずにはいられない萩澤のありようである。
人待っており血止め草咲いておりいったい萩澤が待っていた「人」とは誰であったろう。岩片仁次は「實にやさしき/人喰いの/人 待つかたち」と詠んだが、萩澤の「人」を「待つかたち」とは、「血止め草」をまなざしながらのそれであった。一抹の不安をかかえながらも「待つかたち」をやめないのは、それは血脈をたどらずにはいられないあの営みの変奏でもあるからだろう。換言すれば「待つ」とは「たどる」こと「這う」ことと同様に、思慕を伴う積極的な営為なのである。だから、「人」を「待つかたち」が「血止め草」をまなざすかたちへと転位せずにはいられない萩澤の自意識は、その若き日に「やがて風となる少年の視野にいる」と詠んだときのそれとはやや趣を異にしている。「少年」にまなざされる存在として自らを思ったかつての萩澤は、いまや、まなざす側へとまわっているのである。
萩澤の待ち人はやってくるのだろうか。待ち人とは、萩澤にとって、あるいはもう二度と会えない者の謂ではなかったか。いや、そんなことを問うまでもなく、萩澤にはもう待ち人が見えているのだろう。いくつもの喪失のなかで、それでも残ることを選んだ萩澤であってみれば、待ち人とはいつでも会える者のことであり、そのようにして待つかたちこそが萩澤にとっての俳句であるかもしれないのである。
第39 号 (2013.09.27 .) あとがき
北川美美
秋興帖第四となりました。作品では丑丸敬史さんに御寄稿いただきました。時評では、筑紫相談役の前号の補強版と外山一機さんの新着があります。
作品画像がグレーになる現象が先週から続いています。原因不明です。放置して元に戻るものなのかわかりませんが経過をみたいと思います。ご了承いただきたくお願い申し上げます。
トップページの画像サイズをかなり小さくしました。閲覧時の負担が軽減されると思います。それによって大御所の「週刊俳句」とデザインがほぼ同じになりました。(もともと参考にはしていたのですが。)まだ見難いところがあるかもしれませんが、また手直ししていきたいと思います。
筑紫磐井
○「週刊俳句」の「ku+」の予告記事を踏まえて、前号の記事に追加を付け加えてみた。ウエッブと雑誌の関係は今もってよく考えてみないといけないと思うからである。
○新しい媒体にちなんで話題を一つ。今、あるアンケートを採るためにテレビ番組の歴史を調べている。「戦後俳句を読む」で1953年(昭和28年)2月にNHKテレビ、8月に日本テレビの放送が開始されたと書いたが、もちろん欧米でのテレビ放送はそれより遙か前である。しかしテレビ番組が社会に大きな影響を及ぼすようになったのはそれ程以前のことではないようである。
一例としてなじみの深い洋楽に関して言うと、イタリアのちゃちなテレビ番組で放送されていたサンレモ音楽祭が一躍有名になったのは、1958年のドメニコ・モドゥーニョの「ボラーレ」(Nel blu dipinto blu)によってである。それはこの曲がアメリカのテレビ番組(エド・サリバン・ショーであったと思う)で紹介され、第1回グラミー賞を受賞し、世界の「ボラーレ」になったからである。サンレモ音楽祭は以後続々と名曲を生みだしたし、アメリカもこの前後を境に、「ダイアナ」(ポール・アンカ1957年)、「オー・キャロル」(ニール・セダカ1959年)、「悲しき片想い」(ヘレン・シャピロ1961年)、「アイル・フォロウ・ヒム」(リトル・ペギー・マーチ1963年)などのいかにも新しい世代の曲が生まれた。その意味で、アメリカの音楽も世界の音楽も、「ボラーレ」以前と「ボラーレ」以後に分けられそうな気がする。グローバル化と新世代の登場がほぼ同時に行われたのである。
さて、1958年とは日本の俳句界で言えば、社会性俳句がほぼ一服し、新しい前衛俳句が誕生する前夜であった。そして、1960年の安保闘争、1964年には日本で最初のオリンピックが開かれている。
秋興帖第四となりました。作品では丑丸敬史さんに御寄稿いただきました。時評では、筑紫相談役の前号の補強版と外山一機さんの新着があります。
作品画像がグレーになる現象が先週から続いています。原因不明です。放置して元に戻るものなのかわかりませんが経過をみたいと思います。ご了承いただきたくお願い申し上げます。
トップページの画像サイズをかなり小さくしました。閲覧時の負担が軽減されると思います。それによって大御所の「週刊俳句」とデザインがほぼ同じになりました。(もともと参考にはしていたのですが。)まだ見難いところがあるかもしれませんが、また手直ししていきたいと思います。
筑紫磐井
○「週刊俳句」の「ku+」の予告記事を踏まえて、前号の記事に追加を付け加えてみた。ウエッブと雑誌の関係は今もってよく考えてみないといけないと思うからである。
○新しい媒体にちなんで話題を一つ。今、あるアンケートを採るためにテレビ番組の歴史を調べている。「戦後俳句を読む」で1953年(昭和28年)2月にNHKテレビ、8月に日本テレビの放送が開始されたと書いたが、もちろん欧米でのテレビ放送はそれより遙か前である。しかしテレビ番組が社会に大きな影響を及ぼすようになったのはそれ程以前のことではないようである。
一例としてなじみの深い洋楽に関して言うと、イタリアのちゃちなテレビ番組で放送されていたサンレモ音楽祭が一躍有名になったのは、1958年のドメニコ・モドゥーニョの「ボラーレ」(Nel blu dipinto blu)によってである。それはこの曲がアメリカのテレビ番組(エド・サリバン・ショーであったと思う)で紹介され、第1回グラミー賞を受賞し、世界の「ボラーレ」になったからである。サンレモ音楽祭は以後続々と名曲を生みだしたし、アメリカもこの前後を境に、「ダイアナ」(ポール・アンカ1957年)、「オー・キャロル」(ニール・セダカ1959年)、「悲しき片想い」(ヘレン・シャピロ1961年)、「アイル・フォロウ・ヒム」(リトル・ペギー・マーチ1963年)などのいかにも新しい世代の曲が生まれた。その意味で、アメリカの音楽も世界の音楽も、「ボラーレ」以前と「ボラーレ」以後に分けられそうな気がする。グローバル化と新世代の登場がほぼ同時に行われたのである。
さて、1958年とは日本の俳句界で言えば、社会性俳句がほぼ一服し、新しい前衛俳句が誕生する前夜であった。そして、1960年の安保闘争、1964年には日本で最初のオリンピックが開かれている。
三橋敏雄『真神』を誤読する 88. 擂粉木の素の香は冬の奥武蔵 / 北川美美
88.擂粉木の素の香は冬の奥武蔵
「武蔵」とはかつて日本の地方行政区分だった令制国の一つであり6世紀の武蔵国造の乱の後、无邪志国造(胸刺、牟邪志、无謝志とも)の領域と知々夫国造の領域を合し7世紀に成立したとされる。本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河・相模と共に佐斯国(サシ)と呼ばれ、後に佐斯上(サシガミ)・下佐斯(シモザシ)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」としている。その「奥武蔵」とは現在の埼玉県西部・武蔵野台地の奥に位置する、田園・丘陵・山岳地帯・地域を指す地名である。
本書の題名とした「眞神」は『大海』に「狼ノ異名。古ヘハ、狼ノミナラズ、虎、大蛇ナとある、ドヲモ、神ト云ヘリ」とある、其である。武蔵国は御嶽神社、或いは、同じく三峯神社等の祭神を相え随ふ地位に祀られて座す 大口眞神、即、広くは火災盗難除去の効験をみ担ふ所の英姿を、其護符上に拝する許である。ここに登場する御嶽神社、三峯神社は、山を神聖視し崇拝の対象とする信仰の社である。昨今のパワースポットブームに便乗して知られるところであるが、敏雄の『眞神』を大口眞神の信仰に準えるならば、久しく消え去ったものを崇めると解釈することができるのである。
『眞神』後記
三峯神社階段
さて掲句。奥武蔵である秩父地方に三峯神社は位置しており、大口眞神のご加護をいただくべく参拝にいってきた。いくつかの鳥居をすぎて階段を上り詰めていきつくところは、本殿ではなく、山である。神々しい奥武蔵の山山を拝むのである。
三峯神社に辿りつくまでの道のりが深い森に入ってゆくごとくの風景に秩父という土地、そして武蔵という地形を体感してきた。日本の国土の80%は山間部といわれている。日本人の山との関わりは古く、深い。
「擂粉木の素」とは何だろうか。料理ですり鉢でするための棒を「擂粉木(すりこぎ)」というが木枯により裸木になった木をも擂粉木というのだと認識している。擂粉木棒ならば山椒の木が適しているらしい。実際に我家の山椒の木を伐採することになり記念に擂粉木棒を作ったが、この棒のことだろうか。掲句を冬の奥武蔵で食した田舎蕎麦に山椒の香りが記憶に残った・・・と読むのは浅はかすぎる解釈だろうと消沈する。
「素」の字源は「撚り合わせる前の糸」を意味するが、御嶽神社、三峯神社の位置する八王子から秩父のあたりはかつての養蚕地帯としても名高く、日本の近代化を支えた絹遺産の地域である。
「スリコギ ノ スノカ」と読むならば「su」が韻を踏んでいることもリズム感がある。三峯神社にある「お犬茶屋」で食した田舎蕎麦は、夏であったが、「スリコギ ノ スノカ」がした気がする。
冬ならばどうなのだろうか。関東といえども秩父地方の冬は厳しい。氷結で有名な場所でもある。秩父には「秩父動乱」という激しい紛争の歴史もある。奥武蔵に住む人々、そして自然という激しさの中に佇む山々。本当は「冬の奥武蔵」には近寄ることも厳しい気がする。
「冬の奥武蔵」を詠むには、リズム感が佳すぎる感もあるが、『眞神』の中で地名が詠われているのはこの句のみである。
【俳句時評】紙の時代(文末増補版) NEW/筑紫磐井
高山れおなから、俳句雑誌を出すという電話が入ってきた。「ku+」(クプラス)と言う名前で、れおな、山田耕司、上田信治、佐藤文香の4人が中心になって、年内に第1号を出すと言う。その話を聞いて、今から4年ほど前に、れおなから電話がかかってきて、ウエッブサイトを立ち上げる、れおな、中村安伸、生野毅の3人が中心となって評論中心のサイトにするので協力してくれと言ったのを思い出した。これは「俳句空間―豈weekly―」と題してほぼ2年ほど続き、100号に達したところで終刊した。この間、『新撰21』『超新撰21』を刊行して、俳句界に少なからず激震を与えたから、存在意義は大いにあったと言うことになろう。創刊号の、批評の重要性を叫んだ「俳句なんて誰も読んでいない」というれおなのキャッチフレーズも大いに湧かせたものだ。こんな記憶があるから二つの事件を比較して、今や電脳の時代から紙の時代へ、世は移って行くのかと感慨深かった。私も「俳句空間―豈weekly―」の終刊号で、ウエッブサイトはその時盛り上がっても何も残らない、消え去るのみだ、と書いたところ、「週刊俳句」のさいばら天気から批判を受けたのだが、今やれおなが消え去らない紙の雑誌を出すことにより、私の主張を実行しているようで愉快だった。
こんなことが頭にある内に次の事件が起きた。「群青」と言う雑誌がこの月曜日(9月16日)に届いたのだ。指導者は、櫂未知子と佐藤郁良、俳句甲子園出身者を中心とした季刊同人誌であるらしい。「らしい」というのは、俳句甲子園出身者というのを憚るレンキストの御大浅沼璞や、国手仲寒蟬、角川俳句賞受賞の永瀬十悟が同人に混じっているからだ。しかし、その一方で谷雄介、酒井俊祐のみならず、昨年俳句甲子園で涙を呑んだ宇野究までがいることからも――彼については、「詩客」2012年08月24日号でも触れておいた――、俳句甲子園出身者を中心としたものであることは間違いないらしい。のみならずもっと限定すれば、開成高校OBの会と言ってもよいようだ。「天為」が東大俳句会の別名であるごとく、「群青」が開成高校俳句会でも別に異存はないが、それが極めて分かりやすい属性であることは覚えておいた方がいい。属性で語られる人は、一流となるのにしばしば苦労するからである。
「群青」の中身について言えば、堅実ではあるが、肝を潰すような変な企画はなかった。この雑誌を出すという噂を聞いたときに、良い意味でもわるい意味でも、若干期待していた俳句雑誌離れをした記事はなかったように思う。創刊の言葉、俳句時評、俳句月評、江戸俳諧研究、写生論、とまことに真面目である。この「BLOG俳句空間」の方がよほど変わっている。
作品を見てみよう。
* *
余計なことを一つ。「群青」には開成高校のOBが多く集まるにもかかわらず、そこに山口優夢の顔が見えない。松山東高校がこうした雑誌を出したとしたら、神野紗希と佐藤文香は必須だろう。開成にとってそれくらい山口の存在は大きいはずだがこの雑誌には山口の作品を見ることが出来ない。そもそも角川俳句賞を受賞して以後、滅多に彼の俳句作品を見ることが無くなった。同じ読売新聞に入社しながら、長谷川櫂が法王のように現在の俳壇に君臨するようになったにもかかわらず(これは冗談である)、山口優夢が俳句から遠ざかってしまうとしたら、それは俳句に対する若い世代の言葉にならない絶望を物語っているような気がしないでもない。
「群青」がこうした危惧を払拭することを期待している。
以上は前号(9月20日号)に掲載した内容だがその二日後には「週刊俳句」で「ku+」(クプラス)の予告が行われている。「BLOG俳句空間」で先に予告されて残念、だそうであるが、創刊号ではアンケートに基づく座談会が行われることになっており、そのアンケートの発出先が130人、そのなかで詳細に創刊の趣旨や参加メンバーも明示してあるから、公知の事実といってよいと思うので差し支えあるまい。むしろ驚いたのは、年末に出るであろう雑誌の予告が3ヶ月前に出ることで、櫂未知子の「群青」は秘密とは言わないが、密かに着々と準備されて進められていた(これが普通の進め方だと思う)ようであるから予想外のことであった。
予告内容は、高山れおなの「「ku+」が創刊されるのだ宣言」を覗くと如何にして「ku+」という雑誌名が決まったかの紆余曲折が綴られており、雑誌の内容は一切分からないからそれはそれでいいが、むしろ漠然と気になったのは上田信治のあとがきについている言葉であった。
なるほどそんなものかとは思ったが、よく考えてみると「週刊俳句」はウエッブサイト、「ku+」は紙媒体という差だけであるなら至極分かりやすいのだが、「週刊俳句」は広く開かれた開放系ウエッブサイト、「ku+」は選ばれた会員による閉鎖系雑誌であるとすればその折り合いがなかなか難しそうである。
私などから見ると「週刊俳句」はインターネットを使った新しい媒体である以上に開放系に特色があるのだと思う。著名人と無名人、大家・ベテランと初心者、うまいとへたが無差別に意見を言い合う民主化された場である。政治的に言えば、この原理・特色によって「アラブの春」が出現したことを思えば俳句界の権威否定に進むことは間違いない。
それがいいことか悪いことは別にして、「週刊俳句」に多くの記事を書いている人たちは、(たまたま記事を依頼されて書く人が出たとしても)「ku+」の編集をしたり中核メンバーになる人達13人とは合致しないに違いない。特に紙媒体「ku+」が、インターネットを見ない多くの俳人たち(つまり65歳以上の著名俳人)に発信しようとすれば、ある水準を維持しないわけにはいかないからその会員を自由参入する方針をとることは難しいように思われる。その意味で、どこかで割り切りが必要となるであろう。それが、さいばら天気とウエッブサイトと雑誌の関係の論争をしたときから気になっていた点である。とはいえ、始めないと何も答は出てこない。誰も始めなかった第一歩として、その動向を関心を持って見つめたい。
(前回の号で山口優夢を遊夢と打ってしまった。お詫び申し上げる)
こんなことが頭にある内に次の事件が起きた。「群青」と言う雑誌がこの月曜日(9月16日)に届いたのだ。指導者は、櫂未知子と佐藤郁良、俳句甲子園出身者を中心とした季刊同人誌であるらしい。「らしい」というのは、俳句甲子園出身者というのを憚るレンキストの御大浅沼璞や、国手仲寒蟬、角川俳句賞受賞の永瀬十悟が同人に混じっているからだ。しかし、その一方で谷雄介、酒井俊祐のみならず、昨年俳句甲子園で涙を呑んだ宇野究までがいることからも――彼については、「詩客」2012年08月24日号でも触れておいた――、俳句甲子園出身者を中心としたものであることは間違いないらしい。のみならずもっと限定すれば、開成高校OBの会と言ってもよいようだ。「天為」が東大俳句会の別名であるごとく、「群青」が開成高校俳句会でも別に異存はないが、それが極めて分かりやすい属性であることは覚えておいた方がいい。属性で語られる人は、一流となるのにしばしば苦労するからである。
「群青」の中身について言えば、堅実ではあるが、肝を潰すような変な企画はなかった。この雑誌を出すという噂を聞いたときに、良い意味でもわるい意味でも、若干期待していた俳句雑誌離れをした記事はなかったように思う。創刊の言葉、俳句時評、俳句月評、江戸俳諧研究、写生論、とまことに真面目である。この「BLOG俳句空間」の方がよほど変わっている。
作品を見てみよう。
射的こそ夜店の華と申すべく 櫂未知子
夏つばめ海の群青定まれる 佐藤郁良
鼻ひとつ穴ふたつあり扇風機 浅沼璞
南風や馬の眼に野のぐるりぐるり 宇野究
夏服の間をすり抜けてゆく子かな 小野あらた
碑になれば過去のことなり蝸牛 酒井俊祐
妹の寝顔のごとき山椒魚 高橋里波
処世術・ビーチサンダル・あとは髭 谷雄介
水虫を飼ひつくづくと大き足 仲寒蟬
口をつく防人の歌花うばら 永瀬十悟
隣人を愛せよ私有せよダリア 福田若之なるほど「群青」の領域がこれで分かるようである。もちろん結社誌ではないから、主宰の選により特定の色彩に染まる必要もないはずだが、同人として結集することによる求心力が一つの傾向を作りだしてゆくのだろう。
* *
余計なことを一つ。「群青」には開成高校のOBが多く集まるにもかかわらず、そこに山口優夢の顔が見えない。松山東高校がこうした雑誌を出したとしたら、神野紗希と佐藤文香は必須だろう。開成にとってそれくらい山口の存在は大きいはずだがこの雑誌には山口の作品を見ることが出来ない。そもそも角川俳句賞を受賞して以後、滅多に彼の俳句作品を見ることが無くなった。同じ読売新聞に入社しながら、長谷川櫂が法王のように現在の俳壇に君臨するようになったにもかかわらず(これは冗談である)、山口優夢が俳句から遠ざかってしまうとしたら、それは俳句に対する若い世代の言葉にならない絶望を物語っているような気がしないでもない。
「群青」がこうした危惧を払拭することを期待している。
(9月20日号)
★ ★以上は前号(9月20日号)に掲載した内容だがその二日後には「週刊俳句」で「ku+」(クプラス)の予告が行われている。「BLOG俳句空間」で先に予告されて残念、だそうであるが、創刊号ではアンケートに基づく座談会が行われることになっており、そのアンケートの発出先が130人、そのなかで詳細に創刊の趣旨や参加メンバーも明示してあるから、公知の事実といってよいと思うので差し支えあるまい。むしろ驚いたのは、年末に出るであろう雑誌の予告が3ヶ月前に出ることで、櫂未知子の「群青」は秘密とは言わないが、密かに着々と準備されて進められていた(これが普通の進め方だと思う)ようであるから予想外のことであった。
予告内容は、高山れおなの「「ku+」が創刊されるのだ宣言」を覗くと如何にして「ku+」という雑誌名が決まったかの紆余曲折が綴られており、雑誌の内容は一切分からないからそれはそれでいいが、むしろ漠然と気になったのは上田信治のあとがきについている言葉であった。
「ku+(クプラス)」、たまたま「週俳」運営当番の一人である自分が編集に関わっていることと、ネットと紙の橋渡しをする過渡期的メディアというアイ ディアが高山さんにあったことから、「週刊俳句」をプラットフォームとして使ってもらおうというアイディアが生まれました。
今後も、告知にとどまらず、スピンアウト企画など掲載していく予定です。
なるほどそんなものかとは思ったが、よく考えてみると「週刊俳句」はウエッブサイト、「ku+」は紙媒体という差だけであるなら至極分かりやすいのだが、「週刊俳句」は広く開かれた開放系ウエッブサイト、「ku+」は選ばれた会員による閉鎖系雑誌であるとすればその折り合いがなかなか難しそうである。
私などから見ると「週刊俳句」はインターネットを使った新しい媒体である以上に開放系に特色があるのだと思う。著名人と無名人、大家・ベテランと初心者、うまいとへたが無差別に意見を言い合う民主化された場である。政治的に言えば、この原理・特色によって「アラブの春」が出現したことを思えば俳句界の権威否定に進むことは間違いない。
それがいいことか悪いことは別にして、「週刊俳句」に多くの記事を書いている人たちは、(たまたま記事を依頼されて書く人が出たとしても)「ku+」の編集をしたり中核メンバーになる人達13人とは合致しないに違いない。特に紙媒体「ku+」が、インターネットを見ない多くの俳人たち(つまり65歳以上の著名俳人)に発信しようとすれば、ある水準を維持しないわけにはいかないからその会員を自由参入する方針をとることは難しいように思われる。その意味で、どこかで割り切りが必要となるであろう。それが、さいばら天気とウエッブサイトと雑誌の関係の論争をしたときから気になっていた点である。とはいえ、始めないと何も答は出てこない。誰も始めなかった第一歩として、その動向を関心を持って見つめたい。
(前回の号で山口優夢を遊夢と打ってしまった。お詫び申し上げる)
※前号の「山口優夢」さんの御名前の誤字を訂正しお詫び申し上げます。(管理人)
文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む14~食③~】/筑紫磐井
(3)食の創意工夫
我々の聞く戦後の食事の話は辛いものが多いが、よく考えると窮乏の中で創意工夫が発揮されているものもなくはない。通常食べていたものがなくなればそれに変わるものが登場するわけで、先に述べた藷もそれに当たるが、戦後の食=窮乏という固定観念ばかりで読まれるべきではないかも知れない。
私は小学生の頃、どういう訳か、「食べられる野草」に関心があり、図書館に行っては本の中からそうした野草のリストを作ってはその味を想像していたものだ。植物図鑑には食用の是非、ことによると、灰汁抜きをして塩を付けて何と取合わせて等と料理の仕方まで詳細に書いているものもあった。妙に生々しい記述が好きだった。もちろん、実際どれ一つ食べたものはないが、路傍にそうした食料が満ちあふれていると言うことは、不思議な充実感を覚えた。多くの人々が無関心で通り過ぎている道の端にそうした食糧が無尽蔵に溢れているというのは人知れず楽しみだった。そして、一方で、純粋な科学の本にそうしたことを沢山書いてあることに感心したのだが、おおむねそれらは戦時中の、食料が窮乏したときのための実用書として書かれたものをリバイスしたものであったようだ。飢餓は戦後も続き(いやもっと激しかった)、私が野草の名前を列挙しているときもその時代からそう遠ざかっていなかったから十分実用的知識であったのだ。現在の飽食の時代に趣味のようにして食べる野草とは全く違っていた。
閑話休題。「揺れる日本」の項目では「藷」の中に含まれていたが、
【代用食】
実は次回あたりにパン食を紹介したいと思うのだが、これこそ充実しているのか、困惑しているのか、絶望しているのかよく分からないのである。パンは高級食であるのか、やむを得ぬ代用食であったのか、人によって全然違う感想を持ちそうである。あらかじめ、パン食の予告として、これら代用食を掲げておきたい。
【家庭菜園】
食物そのものではないが、食物の獲得方法としての自給自足の家庭菜園は決して暗い話ではないはずである。もちろん明るいわけではないが、収穫の先には充実も控えているはずである。小さな幸福のようなものが見えないわけではない。
* *
代用食の一種として、次のものはどうだろう。解らないといえば全く分からない。
【サッカリン】
サッカリンをどのように解釈すべきか。現在の我々は人工甘味料を悪と考えているが、サッカリン禍が現実にあったのかどうか、一見「奈良騒然」の句は、ラムネにサッカリンが混じっていたことが露見し奈良の地域で社会的騒動が生じたと解すべきようにも思うが、それを断定するには私にはあまりにも知識がない。
毒性の強いチクロと違い、少なくとも人類は100年以上のサッカリン使用の歴史を持ち、この間科学的根拠のないままにサッカリンの規制を行ったり、砂糖の入手困難からサッカリンの使用を奨励した、揺れつ戻りつしてきた。
確かに1960年代にサッカリンの発ガン性が見つかったと報告され一時厳しい規制が行われたが、その後そうした危惧はないことから規制が解かれ、現在アメリカでは大量にサッカリンが使用されているという。しかしどういう訳か日本では、古い規則に基づき規制を受けるという訳の分からない状態になっている。少なくとも言えることは、人間は「甘味」がないと潤いのある生活が送れず、生活が充実しない、しかし、一方で砂糖は高価でカロリーが高い(肥満症は最も怖ろしい文明病である)、という矛盾した属性と状況の中で選ばれたのがサッカリン使用であったと言うことである。
掲出の句は、サッカリンの毒性に不安を感じている時代の句のように一見感じられるが、本当にそうだろうか。食品添加物に関する当時の認識と、その後我々が知っている発ガン性問題のサッカリン、そして日米で全然違う認識の現在のサッカリン。1句を読み解くには作者がどの状況にあったかを知る必要がある。例えば、「サッカリン舌に残り」は確かにサッカリンを大量に使うと苦みが生まれるがそれはサッカリンの属性であって、毒性を示しているわけではない。本物の砂糖を使えない貧しさを詠んだと言えば言えなくはない。「サッカリン時代」も砂糖の配給が無くなりサッカリンを使用するようになったという時代の移り変わりに感慨を持っているだけかも知れない。そして、「奈良騒然ラムネにサッカリン混る」も、「奈良騒然」としている状況(例えば青嵐でもいい)と、「ラムネに人工甘味料が混る」という無機的な配合に感慨を催しているだけなのかも知れない。
基礎知識がない状況では、俳句の解釈は全く違うものとなる。つい最近のことと思われても、「読み」を成り立たせない時間の経過があるのであり、国や文化による齟齬がある。言葉に敏感であるべき俳人にとっては注意が必要だ。
我々の聞く戦後の食事の話は辛いものが多いが、よく考えると窮乏の中で創意工夫が発揮されているものもなくはない。通常食べていたものがなくなればそれに変わるものが登場するわけで、先に述べた藷もそれに当たるが、戦後の食=窮乏という固定観念ばかりで読まれるべきではないかも知れない。
私は小学生の頃、どういう訳か、「食べられる野草」に関心があり、図書館に行っては本の中からそうした野草のリストを作ってはその味を想像していたものだ。植物図鑑には食用の是非、ことによると、灰汁抜きをして塩を付けて何と取合わせて等と料理の仕方まで詳細に書いているものもあった。妙に生々しい記述が好きだった。もちろん、実際どれ一つ食べたものはないが、路傍にそうした食料が満ちあふれていると言うことは、不思議な充実感を覚えた。多くの人々が無関心で通り過ぎている道の端にそうした食糧が無尽蔵に溢れているというのは人知れず楽しみだった。そして、一方で、純粋な科学の本にそうしたことを沢山書いてあることに感心したのだが、おおむねそれらは戦時中の、食料が窮乏したときのための実用書として書かれたものをリバイスしたものであったようだ。飢餓は戦後も続き(いやもっと激しかった)、私が野草の名前を列挙しているときもその時代からそう遠ざかっていなかったから十分実用的知識であったのだ。現在の飽食の時代に趣味のようにして食べる野草とは全く違っていた。
閑話休題。「揺れる日本」の項目では「藷」の中に含まれていたが、
馬鈴薯掘るや救世主天より現れずに地より 浜 23・9 宮津昭彦この馬鈴薯は藷の中に含めるべきではないかも知れない。むしろ次の、「代用食」に入れた方がよさそうだ。そして、この句の救世主の出現を待つ作者の心情は、「外米」「粥」「雑炊」に比べて、どことなく不幸の度合いは薄いように思われる。
【代用食】
粉食の舌へろへろと大旱 現代俳句 21・12 中島南映
日に二度の食の一度は麦こがし ホトトギス 22・10 岡本無漏子
麦ばかりぼそぼそ食べて厄日来ぬ 石楠 23・1 飯森杉雨
夏めくや主食代りのキューバ糖 曲水 23・8 後藤圭香
すいとんつく昏き豪雨の底にゐる 石楠 23・11 浜尾緑村現在これらを読んだ作家たちの主観を的確に想像することはなかなか難しい。どの句も滑稽さがにじみ出ている句が多いようである。飢餓そのものが差し迫っていないからである。不満ではあるが、取りあえず経の一日の食はすませた安堵感が漂う。
実は次回あたりにパン食を紹介したいと思うのだが、これこそ充実しているのか、困惑しているのか、絶望しているのかよく分からないのである。パンは高級食であるのか、やむを得ぬ代用食であったのか、人によって全然違う感想を持ちそうである。あらかじめ、パン食の予告として、これら代用食を掲げておきたい。
【家庭菜園】
難き世を生きむと妻と大根蒔く ホトトギス 21・2 亀井糸遊
菜園の午後の日射しが鍵穴にも 現代俳句 22・5 火渡周平
蝶来て炎せ妻のともしき菜園を 氷原帯 27・6 園田夢蒼花
馬鈴薯植ゑて暮れず十坪にたらぬ庭 石楠 29・5 永野鼎衣
一畝の妻の畑も麦の秋 青玄10号 成瀬正巳
食物そのものではないが、食物の獲得方法としての自給自足の家庭菜園は決して暗い話ではないはずである。もちろん明るいわけではないが、収穫の先には充実も控えているはずである。小さな幸福のようなものが見えないわけではない。
* *
代用食の一種として、次のものはどうだろう。解らないといえば全く分からない。
【サッカリン】
灼くるみちに出づサッカリン舌に残り 石楠 22・4/5 一原九糸
サッカリン時代の屋並み燕くる 寒雷 22・5/6 菊池卓夫
奈良騒然ラムネにサッカリン混る 俳句苑 27・11 米田鉱平
サッカリンをどのように解釈すべきか。現在の我々は人工甘味料を悪と考えているが、サッカリン禍が現実にあったのかどうか、一見「奈良騒然」の句は、ラムネにサッカリンが混じっていたことが露見し奈良の地域で社会的騒動が生じたと解すべきようにも思うが、それを断定するには私にはあまりにも知識がない。
毒性の強いチクロと違い、少なくとも人類は100年以上のサッカリン使用の歴史を持ち、この間科学的根拠のないままにサッカリンの規制を行ったり、砂糖の入手困難からサッカリンの使用を奨励した、揺れつ戻りつしてきた。
確かに1960年代にサッカリンの発ガン性が見つかったと報告され一時厳しい規制が行われたが、その後そうした危惧はないことから規制が解かれ、現在アメリカでは大量にサッカリンが使用されているという。しかしどういう訳か日本では、古い規則に基づき規制を受けるという訳の分からない状態になっている。少なくとも言えることは、人間は「甘味」がないと潤いのある生活が送れず、生活が充実しない、しかし、一方で砂糖は高価でカロリーが高い(肥満症は最も怖ろしい文明病である)、という矛盾した属性と状況の中で選ばれたのがサッカリン使用であったと言うことである。
掲出の句は、サッカリンの毒性に不安を感じている時代の句のように一見感じられるが、本当にそうだろうか。食品添加物に関する当時の認識と、その後我々が知っている発ガン性問題のサッカリン、そして日米で全然違う認識の現在のサッカリン。1句を読み解くには作者がどの状況にあったかを知る必要がある。例えば、「サッカリン舌に残り」は確かにサッカリンを大量に使うと苦みが生まれるがそれはサッカリンの属性であって、毒性を示しているわけではない。本物の砂糖を使えない貧しさを詠んだと言えば言えなくはない。「サッカリン時代」も砂糖の配給が無くなりサッカリンを使用するようになったという時代の移り変わりに感慨を持っているだけかも知れない。そして、「奈良騒然ラムネにサッカリン混る」も、「奈良騒然」としている状況(例えば青嵐でもいい)と、「ラムネに人工甘味料が混る」という無機的な配合に感慨を催しているだけなのかも知れない。
基礎知識がない状況では、俳句の解釈は全く違うものとなる。つい最近のことと思われても、「読み」を成り立たせない時間の経過があるのであり、国や文化による齟齬がある。言葉に敏感であるべき俳人にとっては注意が必要だ。
【俳句作品】 やぶめうが / 丑丸敬史
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やぶめうが 丑丸敬史
やぶめうが天沼に水たまりゆく
ぼうたんがたましひほどにゆれてをり
切りそろへ不揃ひになる麥の秋
我が生の左側ゆくかたつむり
夕虹のソテエは皿に盛りがたし
足裏にくる梅雨寒とかたつむり
蚊柱の二三本でももつてこい
蟬穴に人はうかつに出入りす
くづれては死者のぼりゆく海市
死火山の根腐れすすむ秋雨や
【略歴】
- 丑丸敬史(うしまる・たかし)
丑丸敬史(うしまる・たかし)本名。
「LOTUS」、「豈」同人。
俳句は極小であり、この極小の器に個性的な作品を盛ることの困難さと常に格闘。敬愛する俳人は、永田耕衣、高柳重信、加藤郁也、橋閒石、阿部青鞋、阿部完市、安井浩司。短歌では、塚本邦雄。現代詩では、田村隆一、吉岡実、粕谷栄市。軸足は俳句であるが、短歌、自由詩にも関心をもつ。感興の赴くままに、盛りつける皿を選び料理を盛りつけられれば最高。
2013年秋、第一句集『BALSE』を邑書林から上梓(多分力作、笑)。
大学でがん、老化、寿命について研究。マンガ、アニメ、アニソンも好物。
ブログ「七海亭七珍」を好評連載中。
平成二十五年 秋興帖 第四
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高山れおな
長夜筑紫磐井師に深謝して詠める
秋風や無学哲学みなあはれ
筑紫磐井
岡井隆が東京新聞にて「れおなは・・・ある意味でもっとも前衛的な俳人の一人」と評せしを祝して
秋風やいづこ前衛のひともしごろ
内村恭子(「天為」同人)
望の月ギリシア悲劇の夜のやうに
月光を浴びて大人になつてゆく
十三夜別の神ゐる国照らし
水岩瞳
話し方しぐさ変わらぬ友と桃
花野ゆく影は一つになりて月
そうでせう啼くのが命法師蝉
池田瑠那
秋雲の蛋白石(オパール)びかり賢治の忌
秋蝉や給水塔のはなだいろ
場外ホームラン秋草に落ちにけり
仲寒蝉
盆の家みんな眼鏡をかけてゐる
大なるを月小なるをたましひと言ふ
横飛びに鳥飛ばさるる野分かな
小早川忠義(「童子」会員・「あすてりずむ」)
颱風や蝋燭に火のまつすぐに
十四夜の鳴らぬ電話にまどろめり
四Sをよんえすと読み素十の忌
飯田冬眞(「豈」同人「未来図」所属)
八月の恥裏返る二重橋
捨てし名で呼ばるる町よ秋来たる
みんみんや東亜の歌手の薄き胸
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2013年9月20日金曜日
第38号 2013年9月20日発行
第38 号 (2013.09.20 .) あとがき
北川美美
今号、作品コンテンツが盛りだくさんです。曾根毅さんはサイト創刊以来の三回目の新作10句!二十四節気題詠句でもいち早く24句を御寄稿いただくなど精力的な創作です。今号もどうぞご堪能ください。
ふけとしこさんの「ほたる通信Ⅱ」の作品(当サイトは増刊号)が『増殖する歳時記』の9月19日分として掲載されています。どうぞ合わせて御覧ください。
2020年のオリンピック開催地が東京に決まりました。しかし、私の知っている東京がなくなってしまうのかしらという、一抹の淋しさも。
スポーツは競技する側も観る側も参加しているという空気が感動へと繋がります。「ひとつの句」を見て読者の心の振動が起こる(起らない場合もありますが)「俳句」との共通項があるように思います。
スポーツを題材としたものとして頭に浮かぶのは、
古い鑑賞本で『現代の秀句 三谷昭』(大和書房1969年)の、「レジャー」のカテゴリーに「雪山登山」「プール」「スケート」「ラグビー」「ヨット」などがあり、収録句には山口誓子句が多数あり。6年前に刊行された『俳句鑑賞450番勝負 中村裕』(文春新書2007年)には現役俳人も含まれますが、(「芸術」のカテゴリーに<和をもって文学という座談会 筑紫磐井>など)スポーツに限ってはほぼ物故者の作ばかり。
最近スポーツを題材とした句を見かけない気がしますがセレクション集は年代別が多くカテゴリー別の需要がない、あるいは、カテゴリーに分けるという主題性が問われない時代なのかもしれません。
さて7年先の世の中、そして俳壇は…どのように変化しているのか。いずれにしても生き抜く英知を養いたいと思います。
筑紫磐井
○このたびの台風18号の被災者の方々にお見舞いを申し上げる。台風による被害がこれほど大きいものになることは、最近の防災技術の向上から予想していなかったのではないか。東日本大震災の時もそうであったが、災害の神は年々狡猾になってゆくような気がする。
○大被害とは比較にならないが、想定外の事故をこの夏、経験した。各地に被害をもたらした8月12日の大雨で裏庭が冠水した。物置の底のぎりぎり下まで水が溢れ、高台なのに床下浸水だと家族は大騒ぎになった。川からは遠く離れているので、北隣の土地から流れ込んだ水が溜まったらしい。ちょうど北隣は畑を宅地に造成しているのでその工事のせいかと思った。その直後造成工事は終り、塀ができあがり北隣からは水が流れこまないように手当てされた。
ところが21日に降った雨でまた冠水する、どうも原因は東隣の家の雨樋からわが家に雨水が飛び込んでくるためらしいと分かった、昨年だか屋根の工事をしていたのである。それにしても冠水が起こるほどに流れ込むのか知らんと半信半疑であった。
9月15日の台風で同じことが起こりそうなので大きなタンクを用意して雨水受けを作って準備した。降り始めた雨を眺めてみると、微量の雨水ならば隣家の樋に流れ込むのだが、一定量を超えると樋から溢れ屋根から直ちに地面に落ちる。さらに降雨が激しくなると、塀を越えて放物線を描いてわが家の庭に直接流れ込むのである。昔、東大紛争の時、安田講堂めがけて機動隊が放水した風景を思い出してしまった。今回の台風の雨量はすさまじく、隣の屋根から私の臨時設置したタンクを直撃し、1時間ほどで1メートルほどの深さになった。途中で雨に濡れながら廃水したのだが、すぐにまたいっぱいとなった。これだけの雨量が瞬時に降り込めば庭も冠水するはずである。
○今回の台風も防災担当者が油断しているとは思わないが、降雨の激しさは我々の日常の感覚の尺度を時として越えることがある。1メートルおけが1時間でいっぱいになると言うことはぞっとするものがある。2時間後には2メートルを超える。私の身長は2メートル無いから溺死している勘定である。
今号、作品コンテンツが盛りだくさんです。曾根毅さんはサイト創刊以来の三回目の新作10句!二十四節気題詠句でもいち早く24句を御寄稿いただくなど精力的な創作です。今号もどうぞご堪能ください。
ふけとしこさんの「ほたる通信Ⅱ」の作品(当サイトは増刊号)が『増殖する歳時記』の9月19日分として掲載されています。どうぞ合わせて御覧ください。
2020年のオリンピック開催地が東京に決まりました。しかし、私の知っている東京がなくなってしまうのかしらという、一抹の淋しさも。
スポーツは競技する側も観る側も参加しているという空気が感動へと繋がります。「ひとつの句」を見て読者の心の振動が起こる(起らない場合もありますが)「俳句」との共通項があるように思います。
スポーツを題材としたものとして頭に浮かぶのは、
ピストルがプールの硬き面にひびき 山口誓子などの今やクラッシックともいえる秀句。上記は制作年でいうと、誓子句1938(昭和13)年、六林男句1948(昭和23)年、登四郎句1970(昭和45)年、の収録。40-80年近い歳月が経過し、作者は故人となっています。
暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり 鈴木六林男
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎
古い鑑賞本で『現代の秀句 三谷昭』(大和書房1969年)の、「レジャー」のカテゴリーに「雪山登山」「プール」「スケート」「ラグビー」「ヨット」などがあり、収録句には山口誓子句が多数あり。6年前に刊行された『俳句鑑賞450番勝負 中村裕』(文春新書2007年)には現役俳人も含まれますが、(「芸術」のカテゴリーに<和をもって文学という座談会 筑紫磐井>など)スポーツに限ってはほぼ物故者の作ばかり。
タクルして転がり合へば雁渡る 渡邊白泉
六月の砲丸かまへ手首病みぬ 山本紫黄
最近スポーツを題材とした句を見かけない気がしますがセレクション集は年代別が多くカテゴリー別の需要がない、あるいは、カテゴリーに分けるという主題性が問われない時代なのかもしれません。
さて7年先の世の中、そして俳壇は…どのように変化しているのか。いずれにしても生き抜く英知を養いたいと思います。
筑紫磐井
○このたびの台風18号の被災者の方々にお見舞いを申し上げる。台風による被害がこれほど大きいものになることは、最近の防災技術の向上から予想していなかったのではないか。東日本大震災の時もそうであったが、災害の神は年々狡猾になってゆくような気がする。
○大被害とは比較にならないが、想定外の事故をこの夏、経験した。各地に被害をもたらした8月12日の大雨で裏庭が冠水した。物置の底のぎりぎり下まで水が溢れ、高台なのに床下浸水だと家族は大騒ぎになった。川からは遠く離れているので、北隣の土地から流れ込んだ水が溜まったらしい。ちょうど北隣は畑を宅地に造成しているのでその工事のせいかと思った。その直後造成工事は終り、塀ができあがり北隣からは水が流れこまないように手当てされた。
ところが21日に降った雨でまた冠水する、どうも原因は東隣の家の雨樋からわが家に雨水が飛び込んでくるためらしいと分かった、昨年だか屋根の工事をしていたのである。それにしても冠水が起こるほどに流れ込むのか知らんと半信半疑であった。
9月15日の台風で同じことが起こりそうなので大きなタンクを用意して雨水受けを作って準備した。降り始めた雨を眺めてみると、微量の雨水ならば隣家の樋に流れ込むのだが、一定量を超えると樋から溢れ屋根から直ちに地面に落ちる。さらに降雨が激しくなると、塀を越えて放物線を描いてわが家の庭に直接流れ込むのである。昔、東大紛争の時、安田講堂めがけて機動隊が放水した風景を思い出してしまった。今回の台風の雨量はすさまじく、隣の屋根から私の臨時設置したタンクを直撃し、1時間ほどで1メートルほどの深さになった。途中で雨に濡れながら廃水したのだが、すぐにまたいっぱいとなった。これだけの雨量が瞬時に降り込めば庭も冠水するはずである。
○今回の台風も防災担当者が油断しているとは思わないが、降雨の激しさは我々の日常の感覚の尺度を時として越えることがある。1メートルおけが1時間でいっぱいになると言うことはぞっとするものがある。2時間後には2メートルを超える。私の身長は2メートル無いから溺死している勘定である。
三橋敏雄『真神』を誤読する 87. 馬強き野山のむかし散る父ら / 北川美美
87.馬強き野山のむかし散る父ら
また「父」の登場であるが、相当難易度の高い句である。
「散る父ら」が当て馬にされた男たちのように読めるのだが、句をそれぞれ分解して考えてみることにする。
「馬」「強き」「野山」「むかし」「散る」「父」とそれぞれの言葉を並べてみると、詩歌に用いられがちな言葉ということに気付く。島崎藤村の『新体詩抄』にも「野山」「強き」「散る」など言葉が用いられ、歌になる要素のある言葉ばかりである。「父」が自我を告知するように読み取れるのだが、「父ら」のその複数形の中の構成はどうなっているのだろうか。
「父とその他」なのか、「父の複数形」なのか。
「われ」と「我ら」では異なるのである。
単数形なのか複数形なのか。それは、自我か国家かという問題にもみえてくる。国家の散った「むかし」を言っているのだろうか。
昭和57年2月号の『俳句研究』特集・三橋敏雄論 では、論客の騎士と思える執筆者たち(川名大、坪内稔典、澤好摩、高橋龍、夏石番矢、林桂など)が三橋敏雄句の作品性を論じている。「三橋敏雄は近代を越えたか」ということにも発展している。しかし、上掲句は誰も引用としては取り上げていないのだが、近いと思えるのは、高橋龍の「からだの海」の中の「われ」と「わが身」についての論考である。文章の一部引用させていただく。
すでに「わが身」すら「われ」とは無関係な寄宿先であることを自覚したとき、肉体は一瞬にして「われ」のさまよう流浪の地と化すであろう。漂流してやまない広漠の海と化すのである。三橋敏雄は、そう教えている。
(中略)
最後の「われ」の意志充足の場である身体領域においても、遂に意志の未来形である願望としてしか発現し得なくなった悲しい「われ」の、流浪し漂流して止まない「わが身」は、もはや海としか呼びようのない空々漠々の世界であり、それは内的世界ですらあり得ない空間と化してしまったものと理解する。
<『俳句研究』昭和57年2月号特集・三橋敏雄論/高橋龍>
しかし、俳句とはそんなに難しいものなのだろうか。これがポストモダンといわれる「近代の次」といわれる時代の中に論者たちがいたことを思う。
****
「むかし」「父ら」から祖先、太古の人々を想像する。「父」との距離を考える時、同時に「父」の弱さと祖先の弱さを思う。「馬」とは冒頭句に<昭和衰へ馬の音する夕かな>に登場する「馬」である。馬を「駆け抜けてゆく力のあるもの」の象徴とするならば、人間、文明というのは衰弱していく。ただそれを傍観するのみである。
もしも「強き」のそれを「俳句形式」の核となるものと想望するとすれば、「散る父ら」は、その俳句形式に向って散って行った新興俳句運動の旗手たち、西東三鬼・渡邉白泉らの師、芭蕉・鬼貫・蕪村らの先達への哀悼の句と読むこともできる。<昭和衰へ馬の音する夕かな>とともに忘却の男達への挽歌という印象もある。
郷愁を誘う言葉が使用されているが、結局は「散る」という散々なあるいは美化するよ言葉で「父ら」を葬っている。言い放つと言ってもよいのかもしれない。「父ら」は「お前ら」「君ら」の使用時と同様にいささか卑下した表現として受け取れるのである。「生殖としての男たち」という意味に戻って考えてみると、男の生理の悲しさが少し伝わってくる、彼らの残像のみが読者の中で揺いでいるのである。
いずれにしても難解な句である。
【俳句作品】 平成二十五年 秋興帖 第三
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小澤麻結(「知音」)
鶴岡
色変へぬ松を主と御隠殿
萩の戸や人声とぎれとぎれ洩れ
落蝉のことり大名屋敷裏
陽 美保子 (「泉」同人)
ザルツブルク
山越えの牛歩まする朝の霧
新涼の湖をちりばめ歌の国
銀漢や聖水盤に水盈ちて
岬光世(「クンツァイト」「翡翠」)
へなへなとなるまで笑ひ秋高し
鳳仙花ドッヂボールのたけなはに
透きとほること傷むこと水蜜桃
依光正樹(「クンツァイト」主宰、「屋根」会員)
露の世に花葛ちよとちがふ色
街の子の隠れて遊ぶ真萩かな
水引を蹴り飛ばしてや川へ急ぐ
依光陽子(「クンツァイト」「屋根」)
かんばせに紫煙流して鯊を釣る
鯊の来て鯊の驚く旱汐
秋蝶や影をとほくに置きながら
下坂速穂(「クンツァイト」「屋根」)
こゑのしていまも社に露の猫
瓜の馬寄り道をして帰られよ
吾の影踏んで吾ゐる魂祭
早瀬恵子 (「豈」 同人)
風立ちぬ月見る月の汝(なれ)が世ぞ
青猫の酔うたる月や屋根も青
月はやるあなた好みに風の舌
藤田踏青(「層雲自由律」「豈」同人、「でんでん虫の会」代表)
夢の青さをぬけきれず遠ひぐらし
句読点をふるわせ細る落し水
蚯蚓鳴く擬音の中に殉教者
驟雨とや人語ふさぎて魂迎
返信のコンマにとまるツクツクホウシ
【俳句作品】 音楽 / 曾根 毅
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音楽 曾根 毅
みな西を向き輝ける金魚の尾
天牛の眼が遊び始めたる
佛にも舌のあるらし七変化
初夏の一人にひとつ生卵
波の間に暑き時間を浸しけり
サングラス人差し指に正されて
音楽を離れときどき柿の種
隣人を蛍と思い暮らしおり
女と寝て独りのごとし草紅葉
百日紅柵に凭れてしまいけり
【略歴】
- 曾根 毅(そね つよし)
1974年香川県生まれ。「LOTUS」同人。現代俳句協会会員。
【俳句時評】ハイクの越境――『現代詩手帖』9月号、Haiku in English: The First Hundred Years / 湊圭史
『現代詩手帖』9月号、読みました。特集は「詩型の越境――新しい時代の詩のために」。俳句と短歌が大きく取り上げられています。巻頭のシンポジウム「越境できるか、詩歌――三詩型横断シンポジウム」では、高橋睦郎、穂村弘、奥坂まや、野村喜和夫の四氏が、日本独自の詩型による分断状況を克服できるかを論じています。
読んだ後の感想は、詩型のあいだの境界について論じても、あまり生産的ではないなということ。高橋氏は「ですから、ぼくの場合は「越境できるか詩歌」と言われても、そもそも境界というものがないんです。それは消極的に境界がないわけですが、積極的にも境界がないほうがいいという考えです」、奥坂氏は「私は基本的に越境はできないという立場です」とのことで、司会の野村氏が「タイトルを取り下げないといけないという印象さえします(笑)」という展開(まあ、予想は出来なくもない、というか、野村さん、あらかじめ準備してたでしょ、という・・・笑)。
個人的には、詩型の違いと相互交流を論じるにしても、詩型のあいだの境界を問う以前に、それぞれの詩型と現実のあいだの境界、そして、作品そのものの中でその境界がどのように表れているかを検討しないと、お互いの信仰じみた意見を確認するだけに終わると思っています。この点では、このシンポジウムでは、穂村氏の、短歌はトリビアルなものを重視し、作品もトリビアルなものに留まるように読む、「それはつまり政治的、経済的、社会的フィルターというか、そういう価値体系の外にあるものだからです」との見解は議論のきっかけになるところだったと思われます。
つまり、ジャンルは音数などの形式的側面のみでアイデンティティをもっているのではなく、その形式でジャンル全体がこれまでにどのように現実と渡り合ってきたかを背景としているので、そうしたことを抜きにして論じれば、高橋氏の見解がいちばん正しい、で議論が終わってしまいます。高橋氏は私の見解では「詩歌原理主義者」で、詩歌のみが屹立すればそれでいいので、詩ジャンルの現実の中での位置などは考えておられない(この視点からの氏の著作『私自身のための俳句入門 (新潮選書)』、『詩心二千年――スサノヲから3・11へ』はとても面白く、ためになります)。だが、ジャンルとしての詩型にこだわる人で、高橋氏と同じ立場を述べる人はいないのではないか。それはジャンルに関わる、という時点で、現実に対する一種の態度決定がたいていの場合は含まれているからではないか、てなことを考えました。
しかし、シンポジウムでの奥坂氏の「俳句の場合は、形而上学は季語が引き受けてくれるんです」といったノーテンキな(?)言葉の後、作品欄で、安井浩司、竹中宏というまったく違った形而上学性を追求する作家たちの作品が、ついで、高山れおな、御中虫、福田若之の形而下にこだわった作品が並ぶのはなかなかに笑えました。セレクトした関悦史氏の言葉では、この五人に「共通するのは、異物、ノイズを果敢に俳句に取り入れていることである」とのこと。「異物、ノイズ」とは上に雑に書いた文章では「現実」のことで、この作品欄に並んだ句では、確かに、俳句と現実の境界のあいだが軋みとして句語となっていると感じます。詩歌における境界は、こういう部分にしか実際はないんでは?
* * *
境界ということで言えば、最近、アメリカ・イギリスの大手文芸出版社W.W. Norton & Companyから Jim Kacian, Philip Rowland, and Allan Burns, Haiku in English: The First Hundred Years という書名の英語俳句アンソロジーが出ました。サブタイトルに「最初の百年」とあるのは、エズラ・パウンドのイマジズム期の傑作、
を英語での俳句的実質を備えた最初の作品と見て、その発表年1913年から今年で100年目ということ。
現在までにも英語俳句アンソロジーとしては、Cor van den Heuvel, ed. The Haiku Anthology (第三版1999)を代表としていろいろありましたが、今回のHaiku in English: The First Hundred Yearsは、英語の俳句表現の豊かさへの貢献度から編年体で作家・作品が選ばれているという点で画期的です。つまり、俳句が英語世界に移入されて以来の表現史がたどれるように構成されているという意味で(編者Jim Kacianの力のこもった解説は、現在までの英語俳句の展開の簡潔な要約、かつ、重要作家紹介となっている。英語俳句に興味がある人は必読)。日本の詩ジャンルでも同じですが、詩歌というのはある程度、ジャンルの参加者にならないと見えてこないことが多い。とくに海外で、外国語で行われている活動については、作品をちら見するだけではピンと来ないことが多いので、この構成は助かります。また、日本語俳句とは別に、「ハイク」と呼ばれる豊かな表現がある、と感じられる点で貴重です。
アメリカ、イギリスだけではなく、英語で書かれた作品なら(場合によっては翻訳でも)取り上げていること、また、俳句とはされていないものでも、俳句に影響を受けたり、俳句的な要素があったり、俳句と豊かな交流を生みそうな作品も含めているのも面白い。英語詩に興味がある人なら知っている有名作家・詩人、パウンドやウォレス・スティーヴンスからラングストン・ヒューズ、ケルアックらビート詩人、リチャード・ウィルバー、シェイマス・ヒーニー、ポール・マルドゥーン、ビリー・コリンズらの作品が収められています(日本人では、夏石番矢や青柳飛の名も見えます)。アメリカの一般にも知られた人気詩人ビリー・コリンズは序文も寄せて、俳句とのこれまでの付き合いを楽しく書いてくれています。多くの世界の詩人が同じような経験をしてきているのではないでしょうか。
私のお気に入りの句を何句か。
英語俳句の短長短の3行だと言われていますが、1行の作品もたくさんありますね。最後のBurnsの句は ”leaf” + “light” の造語一語だけ。コンクリート・ポエトリー(具体詩)の要素が多い実験作も多いので、これも楽しいです。
読んだ後の感想は、詩型のあいだの境界について論じても、あまり生産的ではないなということ。高橋氏は「ですから、ぼくの場合は「越境できるか詩歌」と言われても、そもそも境界というものがないんです。それは消極的に境界がないわけですが、積極的にも境界がないほうがいいという考えです」、奥坂氏は「私は基本的に越境はできないという立場です」とのことで、司会の野村氏が「タイトルを取り下げないといけないという印象さえします(笑)」という展開(まあ、予想は出来なくもない、というか、野村さん、あらかじめ準備してたでしょ、という・・・笑)。
個人的には、詩型の違いと相互交流を論じるにしても、詩型のあいだの境界を問う以前に、それぞれの詩型と現実のあいだの境界、そして、作品そのものの中でその境界がどのように表れているかを検討しないと、お互いの信仰じみた意見を確認するだけに終わると思っています。この点では、このシンポジウムでは、穂村氏の、短歌はトリビアルなものを重視し、作品もトリビアルなものに留まるように読む、「それはつまり政治的、経済的、社会的フィルターというか、そういう価値体系の外にあるものだからです」との見解は議論のきっかけになるところだったと思われます。
つまり、ジャンルは音数などの形式的側面のみでアイデンティティをもっているのではなく、その形式でジャンル全体がこれまでにどのように現実と渡り合ってきたかを背景としているので、そうしたことを抜きにして論じれば、高橋氏の見解がいちばん正しい、で議論が終わってしまいます。高橋氏は私の見解では「詩歌原理主義者」で、詩歌のみが屹立すればそれでいいので、詩ジャンルの現実の中での位置などは考えておられない(この視点からの氏の著作『私自身のための俳句入門 (新潮選書)』、『詩心二千年――スサノヲから3・11へ』はとても面白く、ためになります)。だが、ジャンルとしての詩型にこだわる人で、高橋氏と同じ立場を述べる人はいないのではないか。それはジャンルに関わる、という時点で、現実に対する一種の態度決定がたいていの場合は含まれているからではないか、てなことを考えました。
しかし、シンポジウムでの奥坂氏の「俳句の場合は、形而上学は季語が引き受けてくれるんです」といったノーテンキな(?)言葉の後、作品欄で、安井浩司、竹中宏というまったく違った形而上学性を追求する作家たちの作品が、ついで、高山れおな、御中虫、福田若之の形而下にこだわった作品が並ぶのはなかなかに笑えました。セレクトした関悦史氏の言葉では、この五人に「共通するのは、異物、ノイズを果敢に俳句に取り入れていることである」とのこと。「異物、ノイズ」とは上に雑に書いた文章では「現実」のことで、この作品欄に並んだ句では、確かに、俳句と現実の境界のあいだが軋みとして句語となっていると感じます。詩歌における境界は、こういう部分にしか実際はないんでは?
悠々と大地のキャベツ盗む旅人 安井浩司
ヴエロニカは「ときどき眠る貂の顔」 竹中宏
香水やかゝる女と何食はむ 高山れおな
殴られ 蠟 痛い やらかい 蠟 やねえ 御中虫
麦藁帽子の魔法少女なのだと 福田若之
* * *
境界ということで言えば、最近、アメリカ・イギリスの大手文芸出版社W.W. Norton & Companyから Jim Kacian, Philip Rowland, and Allan Burns, Haiku in English: The First Hundred Years という書名の英語俳句アンソロジーが出ました。サブタイトルに「最初の百年」とあるのは、エズラ・パウンドのイマジズム期の傑作、
IN A STATION OF THE METRO
The apparition of these faces in the crowd;
Petals on a wet, black bough.
を英語での俳句的実質を備えた最初の作品と見て、その発表年1913年から今年で100年目ということ。
現在までにも英語俳句アンソロジーとしては、Cor van den Heuvel, ed. The Haiku Anthology (第三版1999)を代表としていろいろありましたが、今回のHaiku in English: The First Hundred Yearsは、英語の俳句表現の豊かさへの貢献度から編年体で作家・作品が選ばれているという点で画期的です。つまり、俳句が英語世界に移入されて以来の表現史がたどれるように構成されているという意味で(編者Jim Kacianの力のこもった解説は、現在までの英語俳句の展開の簡潔な要約、かつ、重要作家紹介となっている。英語俳句に興味がある人は必読)。日本の詩ジャンルでも同じですが、詩歌というのはある程度、ジャンルの参加者にならないと見えてこないことが多い。とくに海外で、外国語で行われている活動については、作品をちら見するだけではピンと来ないことが多いので、この構成は助かります。また、日本語俳句とは別に、「ハイク」と呼ばれる豊かな表現がある、と感じられる点で貴重です。
アメリカ、イギリスだけではなく、英語で書かれた作品なら(場合によっては翻訳でも)取り上げていること、また、俳句とはされていないものでも、俳句に影響を受けたり、俳句的な要素があったり、俳句と豊かな交流を生みそうな作品も含めているのも面白い。英語詩に興味がある人なら知っている有名作家・詩人、パウンドやウォレス・スティーヴンスからラングストン・ヒューズ、ケルアックらビート詩人、リチャード・ウィルバー、シェイマス・ヒーニー、ポール・マルドゥーン、ビリー・コリンズらの作品が収められています(日本人では、夏石番矢や青柳飛の名も見えます)。アメリカの一般にも知られた人気詩人ビリー・コリンズは序文も寄せて、俳句とのこれまでの付き合いを楽しく書いてくれています。多くの世界の詩人が同じような経験をしてきているのではないでしょうか。
私のお気に入りの句を何句か。
snow Cor van den Heuvel
on the saddle-bags
sun in skull
an empty elevator Jack Cain
opens
closes
thrush song a few days before the thrush Marlene Mountain
moment of birth new shadow Ruby Spriggs
razor wire Randy M. Brooks
soldiers in the alley
tossing dice
a ladybird Jörgen Johansson
b5 to c4
leaflight Allan Burns
英語俳句の短長短の3行だと言われていますが、1行の作品もたくさんありますね。最後のBurnsの句は ”leaf” + “light” の造語一語だけ。コンクリート・ポエトリー(具体詩)の要素が多い実験作も多いので、これも楽しいです。
【俳句時評】 紙の時代 / 筑紫磐井
高山れおなから、俳句雑誌を出すという電話が入ってきた。「ku+」(クプラス)と言う名前で、れおな、山田耕司、上田信治、佐藤文香の4人が中心になって、年内に第1号を出すと言う。その話を聞いて、今から4年ほど前に、れおなから電話がかかってきて、ウエッブサイトを立ち上げる、れおな、中村安伸、生野毅の3人が中心となって評論中心のサイトにするので協力してくれと言ったのを思い出した。
これは「俳句空間―豈weekly―」と題してほぼ2年ほど続き、100号に達したところで終刊した。この間、『新撰21』『超新撰21』を刊行して、俳句界に少なからず激震を与えたから、存在意義は大いにあったと言うことになろう。創刊号の、批評の重要性を叫んだ「俳句なんて誰も読んでいない」というれおなのキャッチフレーズも大いに湧かせたものだ。
こんな記憶があるから二つの事件を比較して、今や電脳の時代から紙の時代へ、世は移って行くのかと感慨深かった。私も「俳句空間―豈weekly―」の終刊号で、ウエッブサイトはその時盛り上がっても何も残らない、消え去るのみだ、と書いたところ、「週刊俳句」のさいばら天気から批判を受けたのだが、今やれおなが消え去らない紙の雑誌を出すことにより、私の主張を実行しているようで愉快だった。
こんなことが頭にある内に次の事件が起きた。「群青」と言う雑誌がこの月曜日(9月16日)に届いたのだ。指導者は、櫂未知子と佐藤郁良、俳句甲子園出身者を中心とした季刊同人誌であるらしい。「らしい」というのは、俳句甲子園出身者というのを憚るレンキストの御大浅沼璞や、国手仲寒蟬、角川俳句賞受賞の永瀬十悟が同人に混じっているからだ。
しかし、その一方で谷雄介、酒井俊祐のみならず、昨年俳句甲子園で涙を呑んだ宇野究までがいることからも――彼については、「詩客」2012年08月24日号「第15回松山俳句甲子園に出て」でも触れておいた――、俳句甲子園出身者を中心としたものであることは間違いないらしい。のみならずもっと限定すれば、開成高校OBの会と言ってもよいようだ。「天為」が東大俳句会の別名であるごとく、「群青」が開成高校俳句会でも別に異存はないが、それが極めて分かりやすい属性であることは覚えておいた方がいい。属性で語られる人は、一流となるのにしばしば苦労するからである。
「群青」の中身について言えば、堅実ではあるが、肝を潰すような変な企画はなかった。この雑誌を出すという噂を聞いたときに、良い意味でもわるい意味でも、若干期待していた俳句雑誌離れをした記事はなかったように思う。創刊の言葉、俳句時評、俳句月評、江戸俳諧研究、写生論、とまことに真面目である。この「BLOG俳句空間」の方がよほど変わっている。
作品を見てみよう。
射的こそ夜店の華と申すべく 櫂未知子
夏つばめ海の群青定まれる 佐藤郁良
鼻ひとつ穴ふたつあり扇風機 浅沼璞
南風や馬の眼に野のぐるりぐるり 宇野究
夏服の間をすり抜けてゆく子かな 小野あらた
碑になれば過去のことなり蝸牛 酒井俊祐
妹の寝顔のごとき山椒魚 高橋里波
処世術・ビーチサンダル・あとは髭 谷雄介
水虫を飼ひつくづくと大き足 仲寒蟬
口をつく防人の歌花うばら 永瀬十悟
隣人を愛せよ私有せよダリア 福田若之
なるほど「群青」の領域がこれで分かるようである。もちろん結社誌ではないから、主宰の選により特定の色彩に染まる必要もないはずだが、同人として結集することによる求心力が一つの傾向を作りだしてゆくのだろう。
* *
余計なことを一つ。「群青」には開成高校のOBが多く集まるにもかかわらず、そこに山口優夢の顔が見えない。松山東高校がこうした雑誌を出したとしたら、神野紗希と佐藤文香は必須だろう。開成にとってそれくらい山口の存在は大きいはずだがこの雑誌には山口の作品を見ることが出来ない。そもそも角川俳句賞を受賞して以後、滅多に彼の俳句作品を見ることが無くなった。同じ読売新聞に入社しながら、長谷川櫂が法王のように現在の俳壇に君臨するようになったにもかかわらず(これは冗談である)、山口優夢が俳句から遠ざかってしまうとしたら、それは俳句に対する若い世代の言葉にならない絶望を物語っているような気がしないでもない。
「群青」がこうした危惧を払拭することを期待している。
※「山口優夢」さんの御名前の誤字がありました。訂正しお詫び申し上げます。(2013.09.27.管理人)
文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む13~食②~】/筑紫磐井
(2)いわくある米
米は当然日本人の主食であり、米さえあれば満足出来たはずである。従って、米そのものは高い価値で詠まれるがそれは戦前戦後も変わるところはない。
【新米】
新米を摺りてひとりの汗ながす 馬酔木 24・2 沢井白柳子
れいらふと新米ひとつ爪の上 石楠 25・1 山田句浪
薬代は新米二升それでよし ホトトギス 26・3 高橋吉隆米は貴重品であるというのは当然だから、今回は曰くのある米をあげてみよう。曰くとはいろいろ瑕疵のある米である。
【粥】
今朝秋や粥を食うべて恙なし ホトトギス 21・3 皿井旭川
すさまじや大小の口粥すする 太陽系 22・6 島田洋一
恐ろしき世にながらへて干葉粥 ホトトギス 22・10 山口美和女
遅日の吾を妻は粥煮て待つやあらむ 石楠 22・11/12 近藤麦月
粥水の如くうすくて紅葉濃し ホトトギス 24・5 高野素十
粥すする浅漬の歯にこたゆ冷え 石楠 25・5 平宮広水
虹まどか妻子は切に粥をふく 雨覆 石田波郷
【雑炊】
共に雑炊喰するキリスト生れよかし 来し方行方 21 中村草田男
賢治の詩となへ雑炊を子も我も 太陽系 21・9 北垣一柿
雑炊やどの子も妻も皆いとし ホトトギス 25・4 鳥越掬水女【藷】
藷粥をすすりて夜なべつづけけり ホトトギス 26・4 梅田こんも
もがり笛粥のなかなる芋あつし 浜 23・1 目迫秩父
甘藷粥に落ちし涙は粥となる 石楠 26・7 油布五線
※米を薄めた粥や、藷や野菜、草、諸々を混雑されて作られた雑炊が登場する。
【外米】
カリフルニヤ米のびやく光めしひさすよ 太陽系 21・10 浅海明龍
爆音暑し外米の石歯に挟まり 浜 27・11 北原利郎
外米に次ぐ麦飯や金魚玉 鶴 28・9 刈谷敬一
梅雨に耐えて噛むやテキサス米と云ふ 寒雷 29・7 加賀谷一雄
※食ってうまい日本の米ではないということは分かるであろう。
【闇米】
白き米もらうて夏暁汽車を待つ 現代俳句 21・12 瀧春一
闇米を挙げられ背の子ゆりあげる 青玄 26・11 田中史郎
駅近く春夜の女米分け負ふ 石楠28・4 原田種茅
かなかなや負ひ来し米を道路に買ふ 石楠 28・7 夏目操
雪かかる背の荷闇米らしと見る 石楠 29・5 郡司野◆
去年今年金齧るよな米買ひぬ 石楠 29・4 高橋蒼々子
藤散るや三鬼がわたす米袋 雨覆 29・4 石田波郷
※先の粥や外米が物質的欠陥のある米であるとすれば、これらは精神的な欠陥のある米と言えようか。配給でない限り闇売買になるのであり、それは統制法違反の違法な状態にある米である。公然であり、国民の誰もが行っていたとはいえ違法は違法だ。だから、こうした闇米(米ばかりではあるまいが)を拒否して栄養失調の中で死亡した判事もいた。
※問題はこれからである。次の米はどのような属性を持つのであろうか。生活実感がよく分からないのである。これらの「米」の前につくキーワード(「保有」など)に何を感じろと言うのか。言葉で難解であるとは言わないが、それに対する感情が分からない。論理的には見当がつかなくはないが、感情の問題として解けないのである。救護米、相場米は嬉しいのか悲しいのか、憤激すべきなのかが不明なのである。年配の方にご教示願えればありがたい。
【保有米】
保有米さきて冬越す衣を得たり 浜 28・3 若林可【供出米】
供出米積みて暗さのいよいよ濃し 万緑 22・1 中村一衛【供出―供米】
完納の目鼻もつきて炉酒もり ホトトギス 22・6 片田石城
供米のつづき雪山あらはなる 石楠 25・4 浅野清水
南国の供米おそし冬かすみ 曲水 26・2 後藤圭秀
明日供出新米の俵庭に光る 曲水 28・2 保々秋生
【配給米】
待春や壜にて米を搗くことも 俳句研究 22・4 安住敦
寒の雨鞄に入るる加配米 道標 28・7 大橋登子
沈丁は咲きあふれをり米は来ず 野哭 加藤楸邨
【相場米】
相場米運ぶ車を押しやりぬ 石楠 25・1 渡辺敬里
相場米割当票を貼りし納屋 ホトトギス 27・2 本間一萍【救護米】
さむざむといただく救護米尊と 浜 29・1 川合華光
※少しだけ補足すれば、戦前から始まった、生産者(農家)が米麦等について自家保有量以外を公定価格で供出し、政府が消費者へ配給する食糧管理法に基づく制度で出て来る米の種類。生産者から見れば自家用に残されるのが「保有米」、供出されるのが「供出米」「供米」、消費者からみれば配給されるので「配給米」。
平成二十五年 夏興帖及び夏興帖番外こもろ日盛俳句祭4
※画像をクリックすると大きくなります。
飯田冬眞
【夏興帖追加】
ひかがみをあらはに女神輿かな
鷭の子のついばむもののみな濡れて
群るるとは肩触れぬ距離著莪の花
【こもろ日盛俳句祭 4】
小諸へと続く単線紅蜀葵
青空へ戻りたき鳥草いきれ
油照獅子の目光り交尾果つ
青林檎信濃の空を丸かじり
どかんしょの祭の渦を帰りけり
2013年9月13日金曜日
第37 号 (2013.09.13 .) あとがき
北川美美
・「秋興帖 第二」です。また今号は本領の「戦後俳句を読む」のに多くの投稿がありました。
・最近購入した本を紹介。
「夜露死苦現代詩」(都筑響一/ ちくま書房)。タイトル買いです。ギリギリのところで生きているようなギリギリの都市が見えてくるような言葉からの景観。「新潮」に連載されたもの。都築氏の「TOKYO STYLE」がすでに10年前の刊行とは時の経過を実感します。
第4章「池袋母子餓死日記」第5章「死刑囚の俳句」、第7章「32種類の『夢は夜ひらく』」などなど大衆の中の言葉、大衆と言葉についての数々。中でも「死刑囚の俳句」にはかなりの衝撃。「布団たたみ/雑巾しぼり/別れとす」「抱かれると/思う仏の/膝寒し」などなど死刑囚という作者情報があってのものですが衝撃的な句の数々です。また死刑囚の句会を開いていた「北山河」(「大樹」主幹)のことも紹介されています。
それと、「夢は夜ひらく」の歌詞が32ものバージョンがあり、全て掲載されています。なので「圭子の」と前に付いたのですね。作詞は、メロディが先行され、その後に言葉を載せていく手法がとれられると聞きますが、シンガーソングライター出現後の音楽をやる人に聴くと、人それぞれで、メロディと歌が同時という人も。
そういえば黛まどかさんが、現在、校歌、応援歌、広告としての俳句(Dior)などを数多く手掛けている記事をみました。俳句にとどまらず、歌を詠むことが主眼なのでしょう。今年の春にオペラ『万葉集』の台本も手掛けた記録をみました。
「夜露死苦」から「黛まどか」までちょっと大衆と俳句、大衆と言葉ということを考えていました。
筑紫磐井
○本来前号に書くべきであったが、俳句作品欄に掲げた「ほたる通信 Ⅱ」は、2012年8月からはじまった葉書一枚の個人誌である。毎回数句と短いエッセイを掲載した、洒落た読みものである。今回、同じ誌面を「BLOG俳句空間」で提供するので臨時増刊号を発行してもらえないかとお願いしたところ快諾していただいた。出来れば今後も継続していただきたいと思っている。
以前、弘栄堂版「俳句空間」第20号で、攝津らを中心に「広がるネット・いま、同人誌」特集を組んだ。個性のある同人誌・個人誌を紹介し、豈、未定、連衆、雷魚、騎、船団など伝説の同人誌が勢揃いしたが、そのなかで山内将史の「俳句通信 山猫」(ほたる通信同様、葉書一枚の通信)はA5版の1頁をそのまま使って「俳句通信 山猫第9号」に充ててしまったのだ。山内氏によれば「誌面ジャック」だそうである。紹介欄が雑誌そのものであると言うことは――これくらいまちがいのない紹介はないのであって、「俳句空間」らしい企画となったと思う。そんな紹介をどこかでしてみたいと思っていたところに、ふけとしこさんに依頼する機会が出来たのでお願いしたものである。「ほたる通信 Ⅱ」だけではなくて、他のミニ雑誌ついてもやってみたいと思っている。ご相談いただければ有難い。
○この夏忙しかったので、世間のニュースには疎くなっていたが、先日ふとしたきっかけで、ディアナ・ダービンが今年の4月になくなっていたという記事を見つけ、ちょっとした衝撃だった。ファンクラブの雑誌に息子が発表したのだと言うが、引退後60年してもまだファンクラブが残っていたというのも驚異である。
ディアナ・ダービンは戦前から戦後にかけての子役として世界で最も有名な少女だった。ファンにはチャーチルからムッソリーニまで、敵味方なく愛されていた。『アンネの日記』のアンネ・フランクの住まいにはディアナのブロマイドがはってあったと聞いたことがあるから、この薄幸の少女が憧れていた大スターであったわけだ。
同い年のジュディー・ガーランドと子役としてMGMでデビューし、「子役は二人も要らない、太った方を辞めさせろ」という重役の一言で馘首になった(名誉のために言っておくが彼女は多少ぽっちゃりとしてはいるが決して太ってはいない。何とも身につまされる話である)が、ユニバーサル・スタジオが採用するところとなり、『オーケストラの少女』以後、USのドル箱スターとなった。筋書きと関係なく突然歌い出す映画が多く(というよりは彼女に歌い出させるために、ストーリーが作られていたというべきか)現在そう高くは評価されていないようだが、しかしその歌声は、―――歌手としてではなく、女優の歌としては別格でありアメリカ中の家庭を夢中にさせていた女優だった。家族揃って見ることの出来る健全な映画こそが彼女の特徴であった。
出た映画はあまり評価が高くないといったが、ディアナの映画のさわりは歌の部分にあったから、映画全編を見る必要はないわけで、2~5分程度の彼女の歌う映像は、Youtube時代にはぴったりの画像であり、今それらをたくさん見ることが出来る。21世紀に生きている幸福と言うべきか。やはりそれは時代を築いた素晴らしいものである。
私の好きなのは14歳でUSで初めて出演した映画『天使の花園』の中で歌った「イル・バチオ(接吻)」で、この曲がかつてこんな可憐に歌われているのを聞いた記憶がない。確かに映画史に残る女優であった。
かわいらしい容姿にもかかわらず意志の強い人で、1950年に決然と引退してからは数十年間一切外部と接触はしなかった。引退後の映像は一切残さず、美しいイメージだけで逝ったのである(1921~2013年、91歳)。
* *
ディアナというとジョーン・フォンテーンを思い出してしまう。高齢の女優たちだからだ。オリヴィア・デ・ハヴィランドと姉妹でアカデミー賞を取っているが、日本人にはジョーンの方が親しいだろう。『レベッカ』『断崖』で親しんでいると言うだけではなく、東京虎ノ門でうまれ、聖心女子学院に通っていたからである。私はどちらかというと『忘れじの面影』が気に入っているがこれは人の趣味によるであろう。ジョーンは1817年生まれ(現在95歳)で、ディアナより年上なのである。姉(現在97歳)は現在でもしばしば公の場に登場しているが、ジョーンは老人施設で外部とは接触しないで静かに暮らしているという。ディアナと似ているようである。
・「秋興帖 第二」です。また今号は本領の「戦後俳句を読む」のに多くの投稿がありました。
・最近購入した本を紹介。
「夜露死苦現代詩」(都筑響一/ ちくま書房)。タイトル買いです。ギリギリのところで生きているようなギリギリの都市が見えてくるような言葉からの景観。「新潮」に連載されたもの。都築氏の「TOKYO STYLE」がすでに10年前の刊行とは時の経過を実感します。
第4章「池袋母子餓死日記」第5章「死刑囚の俳句」、第7章「32種類の『夢は夜ひらく』」などなど大衆の中の言葉、大衆と言葉についての数々。中でも「死刑囚の俳句」にはかなりの衝撃。「布団たたみ/雑巾しぼり/別れとす」「抱かれると/思う仏の/膝寒し」などなど死刑囚という作者情報があってのものですが衝撃的な句の数々です。また死刑囚の句会を開いていた「北山河」(「大樹」主幹)のことも紹介されています。
それと、「夢は夜ひらく」の歌詞が32ものバージョンがあり、全て掲載されています。なので「圭子の」と前に付いたのですね。作詞は、メロディが先行され、その後に言葉を載せていく手法がとれられると聞きますが、シンガーソングライター出現後の音楽をやる人に聴くと、人それぞれで、メロディと歌が同時という人も。
そういえば黛まどかさんが、現在、校歌、応援歌、広告としての俳句(Dior)などを数多く手掛けている記事をみました。俳句にとどまらず、歌を詠むことが主眼なのでしょう。今年の春にオペラ『万葉集』の台本も手掛けた記録をみました。
「夜露死苦」から「黛まどか」までちょっと大衆と俳句、大衆と言葉ということを考えていました。
筑紫磐井
○本来前号に書くべきであったが、俳句作品欄に掲げた「ほたる通信 Ⅱ」は、2012年8月からはじまった葉書一枚の個人誌である。毎回数句と短いエッセイを掲載した、洒落た読みものである。今回、同じ誌面を「BLOG俳句空間」で提供するので臨時増刊号を発行してもらえないかとお願いしたところ快諾していただいた。出来れば今後も継続していただきたいと思っている。
以前、弘栄堂版「俳句空間」第20号で、攝津らを中心に「広がるネット・いま、同人誌」特集を組んだ。個性のある同人誌・個人誌を紹介し、豈、未定、連衆、雷魚、騎、船団など伝説の同人誌が勢揃いしたが、そのなかで山内将史の「俳句通信 山猫」(ほたる通信同様、葉書一枚の通信)はA5版の1頁をそのまま使って「俳句通信 山猫第9号」に充ててしまったのだ。山内氏によれば「誌面ジャック」だそうである。紹介欄が雑誌そのものであると言うことは――これくらいまちがいのない紹介はないのであって、「俳句空間」らしい企画となったと思う。そんな紹介をどこかでしてみたいと思っていたところに、ふけとしこさんに依頼する機会が出来たのでお願いしたものである。「ほたる通信 Ⅱ」だけではなくて、他のミニ雑誌ついてもやってみたいと思っている。ご相談いただければ有難い。
○この夏忙しかったので、世間のニュースには疎くなっていたが、先日ふとしたきっかけで、ディアナ・ダービンが今年の4月になくなっていたという記事を見つけ、ちょっとした衝撃だった。ファンクラブの雑誌に息子が発表したのだと言うが、引退後60年してもまだファンクラブが残っていたというのも驚異である。
ディアナ・ダービンは戦前から戦後にかけての子役として世界で最も有名な少女だった。ファンにはチャーチルからムッソリーニまで、敵味方なく愛されていた。『アンネの日記』のアンネ・フランクの住まいにはディアナのブロマイドがはってあったと聞いたことがあるから、この薄幸の少女が憧れていた大スターであったわけだ。
同い年のジュディー・ガーランドと子役としてMGMでデビューし、「子役は二人も要らない、太った方を辞めさせろ」という重役の一言で馘首になった(名誉のために言っておくが彼女は多少ぽっちゃりとしてはいるが決して太ってはいない。何とも身につまされる話である)が、ユニバーサル・スタジオが採用するところとなり、『オーケストラの少女』以後、USのドル箱スターとなった。筋書きと関係なく突然歌い出す映画が多く(というよりは彼女に歌い出させるために、ストーリーが作られていたというべきか)現在そう高くは評価されていないようだが、しかしその歌声は、―――歌手としてではなく、女優の歌としては別格でありアメリカ中の家庭を夢中にさせていた女優だった。家族揃って見ることの出来る健全な映画こそが彼女の特徴であった。
出た映画はあまり評価が高くないといったが、ディアナの映画のさわりは歌の部分にあったから、映画全編を見る必要はないわけで、2~5分程度の彼女の歌う映像は、Youtube時代にはぴったりの画像であり、今それらをたくさん見ることが出来る。21世紀に生きている幸福と言うべきか。やはりそれは時代を築いた素晴らしいものである。
私の好きなのは14歳でUSで初めて出演した映画『天使の花園』の中で歌った「イル・バチオ(接吻)」で、この曲がかつてこんな可憐に歌われているのを聞いた記憶がない。確かに映画史に残る女優であった。
かわいらしい容姿にもかかわらず意志の強い人で、1950年に決然と引退してからは数十年間一切外部と接触はしなかった。引退後の映像は一切残さず、美しいイメージだけで逝ったのである(1921~2013年、91歳)。
ディアナというとジョーン・フォンテーンを思い出してしまう。高齢の女優たちだからだ。オリヴィア・デ・ハヴィランドと姉妹でアカデミー賞を取っているが、日本人にはジョーンの方が親しいだろう。『レベッカ』『断崖』で親しんでいると言うだけではなく、東京虎ノ門でうまれ、聖心女子学院に通っていたからである。私はどちらかというと『忘れじの面影』が気に入っているがこれは人の趣味によるであろう。ジョーンは1817年生まれ(現在95歳)で、ディアナより年上なのである。姉(現在97歳)は現在でもしばしば公の場に登場しているが、ジョーンは老人施設で外部とは接触しないで静かに暮らしているという。ディアナと似ているようである。
三橋敏雄『真神』を誤読する 86. 父はまた雪より早く出立ちぬ/ 北川美美
86.父はまた雪より早く出立ちぬ
80句目の<父はひとり麓の水に湯をうめる>にて、無意味と思える行動をとる父は、またも無意味とも思える行動に出ている。「父はまた」とあり、このお父さんは尋常でないことが常なのだろうか。
そして前句の<秋色や母のみならず前を解く>の女の性を受けて、父は、雪のように静かに何事もなかったように無言で「労働にいく(出かける)」という意味にとれば、それは、父の苦悩となり、敏雄の中の無言の葛藤とも思えてくる。しかし違う見方もある。「出立つ(いでたつ)」を「突き出てそびえ立つ」と解する読みである。
「父母未生以前」という禅宗の言葉がある。「父や母すら生まれる以前のこと。相対的な存在にすぎない自己という立場を離れた,絶対・普遍的な真理の立場。」という意味である。夏目漱石がこの命題に取り組んだ。
「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向っていった。「父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えて見たら善かろう」「私が私である前に私ではない」とは妙に哲学的になるのかもしれないが、『眞神』において、それを、「俳句」とするならば、「俳句が俳句である前に俳句ではない」すなわち、「自分の俳句を書く」という敏雄の信念にも通じるのではないだろうか。
宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分というものは必竟何物だか、その本体を捕まえて見ろという意味だろうと判断した。それより以上口を利くには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た。
(夏目漱石 『門』(十八))
「近代的自我」の歴史を考えると、北村透谷、島崎藤村、の名前が出て来るが、島崎藤村が『若菜集』という新体詩に臨んだのは、和歌や俳句は思想・感情の表現には不十分であるとされ,口語に近い用語や「わかち書き」の形式をもつ西洋文芸の影響下に生まれた新体詩を生んだのである。1882年(明治15年)に刊行された『新体詩抄』がある。
前項あたりから『眞神』における「自我」について考えるようになったが、まさに、「父母未生以前」の言葉を得て、敏雄が新興俳句で成しえなかった「自我」を俳句形式として昇華させようとしたと思えてくる。『眞神』は昭和49(1974)年刊行なので、『新体詩抄』に遅れること92年である。
「父」「母」「胎児」「赤子」「血」これらのキーワードが「父母未生以前」と結びついてくる。ここれらのキーワードで結びつくのが敏雄、高柳重信(『遠耳父母』)、吉岡実(『僧侶』死児)である。
沖に
父あり
日に一度
沖に日は落ち
§
沖の父
誰も見知らず
在りとのみ
高柳重信『遠耳父母』重信の遠く消えていきそうで消えない浮かび上がるような「父」、そして吉岡実の「死児」にも「父母未生以前」の言葉があてはまってくる。
『眞神』の中の父の句、それは難解に思える。
水赤き捨井を父を継ぎ絶やす
父はひとり麓の水に湯をうめる
父はまた雪より早く出立ちぬ
馬強き野山のむかし散る父ら
さし湯して永久(とは)に父なる肉醤(にくびしほ)
少年老い諸手ざはりに夜の父
すべて「父」の無言の狂気に受け取れる。父の句は上掲句に「雪」が記されているが、それ以外は無季(雑)の句である。それは逆に、上掲句のみが「雪」という季題を詠み込んでいる、ということにもなる。
古代の信仰では、冬ごもりのあいだに威力ある霊威が人の身に宿るものと信じていた。雪の久しいことは、冬ごもりの期間の永いことであり、その間における発育の大きいことである。(山本健吉「基本季語五〇〇選」(講談社学術文庫)「雪」からの抜粋)
「雪」は古くからの季題である。
雪の降っている間に霊威が宿り、母が身ごもり、そして自分が生まれたのならば、その「雪」が降るまえから父は存在していたのである。つまり、父は越えられないという「我」との距離である。この句に「雪」を配した意味は大きいと思える。
「近代的自我」と「俳句」を考えるときに、三橋敏雄の『眞神』は外せない句集だと確信すると同時に敏雄にとっての「自我」が『眞神』そのものなのではないだろうか。
平成二十五年 秋興帖 第二
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岡村知昭
新涼の神父三角座りだが
色鳥のいるよ神父のうしろには
ひげしろくなくても神父月あかり
堀田季何(澤・吟遊・中部短歌)
蛇穴に入る虎穴とは知らぬまま
新(あらた)しき塚穴避けて穴惑
無人偵察機迫り来蛇穴に
泰然に漫然と蛇穴に入る
月明に逢ひし蛇(じや)なればもう逢へず
丈縮み縞目黒ずみ蛇穴に
曾根 毅(「LOTUS」同人)
旋毛のさやさやさやと稲の花
順番を間違えて来し鬼やんま
黄落や路傍の石として朽ちて
仙田洋子
昇天やふうせんかづらより軽く
盆の路べたつきさうな小蟻かな
茄子胡瓜いづれの馬に乗りたきか
西村麒麟(「古志」)
はつとして今虫売でありにけり
見られてしまひ蜩が木の裏へ
流星を見てトラックは次の街
もてきまり(「らん」同人)
性格が単子葉類ひね生姜
無花果の肉吸ふ少年羽化途中
大くちびるの静かに傾ぎ秋の空
小林かんな
ちちろ虫窯出しの藍深くして
流木の集まるところ秋入日
初雁を仰ぐ角度や哨戒機
中村猛虎
本堂にソーラーパネル秋麗
稲光畳の上の薄き女
忘れ物取りに初秋の同窓会