我々の聞く戦後の食事の話は辛いものが多いが、よく考えると窮乏の中で創意工夫が発揮されているものもなくはない。通常食べていたものがなくなればそれに変わるものが登場するわけで、先に述べた藷もそれに当たるが、戦後の食=窮乏という固定観念ばかりで読まれるべきではないかも知れない。
私は小学生の頃、どういう訳か、「食べられる野草」に関心があり、図書館に行っては本の中からそうした野草のリストを作ってはその味を想像していたものだ。植物図鑑には食用の是非、ことによると、灰汁抜きをして塩を付けて何と取合わせて等と料理の仕方まで詳細に書いているものもあった。妙に生々しい記述が好きだった。もちろん、実際どれ一つ食べたものはないが、路傍にそうした食料が満ちあふれていると言うことは、不思議な充実感を覚えた。多くの人々が無関心で通り過ぎている道の端にそうした食糧が無尽蔵に溢れているというのは人知れず楽しみだった。そして、一方で、純粋な科学の本にそうしたことを沢山書いてあることに感心したのだが、おおむねそれらは戦時中の、食料が窮乏したときのための実用書として書かれたものをリバイスしたものであったようだ。飢餓は戦後も続き(いやもっと激しかった)、私が野草の名前を列挙しているときもその時代からそう遠ざかっていなかったから十分実用的知識であったのだ。現在の飽食の時代に趣味のようにして食べる野草とは全く違っていた。
閑話休題。「揺れる日本」の項目では「藷」の中に含まれていたが、
馬鈴薯掘るや救世主天より現れずに地より 浜 23・9 宮津昭彦この馬鈴薯は藷の中に含めるべきではないかも知れない。むしろ次の、「代用食」に入れた方がよさそうだ。そして、この句の救世主の出現を待つ作者の心情は、「外米」「粥」「雑炊」に比べて、どことなく不幸の度合いは薄いように思われる。
【代用食】
粉食の舌へろへろと大旱 現代俳句 21・12 中島南映
日に二度の食の一度は麦こがし ホトトギス 22・10 岡本無漏子
麦ばかりぼそぼそ食べて厄日来ぬ 石楠 23・1 飯森杉雨
夏めくや主食代りのキューバ糖 曲水 23・8 後藤圭香
すいとんつく昏き豪雨の底にゐる 石楠 23・11 浜尾緑村現在これらを読んだ作家たちの主観を的確に想像することはなかなか難しい。どの句も滑稽さがにじみ出ている句が多いようである。飢餓そのものが差し迫っていないからである。不満ではあるが、取りあえず経の一日の食はすませた安堵感が漂う。
実は次回あたりにパン食を紹介したいと思うのだが、これこそ充実しているのか、困惑しているのか、絶望しているのかよく分からないのである。パンは高級食であるのか、やむを得ぬ代用食であったのか、人によって全然違う感想を持ちそうである。あらかじめ、パン食の予告として、これら代用食を掲げておきたい。
【家庭菜園】
難き世を生きむと妻と大根蒔く ホトトギス 21・2 亀井糸遊
菜園の午後の日射しが鍵穴にも 現代俳句 22・5 火渡周平
蝶来て炎せ妻のともしき菜園を 氷原帯 27・6 園田夢蒼花
馬鈴薯植ゑて暮れず十坪にたらぬ庭 石楠 29・5 永野鼎衣
一畝の妻の畑も麦の秋 青玄10号 成瀬正巳
食物そのものではないが、食物の獲得方法としての自給自足の家庭菜園は決して暗い話ではないはずである。もちろん明るいわけではないが、収穫の先には充実も控えているはずである。小さな幸福のようなものが見えないわけではない。
* *
代用食の一種として、次のものはどうだろう。解らないといえば全く分からない。
【サッカリン】
灼くるみちに出づサッカリン舌に残り 石楠 22・4/5 一原九糸
サッカリン時代の屋並み燕くる 寒雷 22・5/6 菊池卓夫
奈良騒然ラムネにサッカリン混る 俳句苑 27・11 米田鉱平
サッカリンをどのように解釈すべきか。現在の我々は人工甘味料を悪と考えているが、サッカリン禍が現実にあったのかどうか、一見「奈良騒然」の句は、ラムネにサッカリンが混じっていたことが露見し奈良の地域で社会的騒動が生じたと解すべきようにも思うが、それを断定するには私にはあまりにも知識がない。
毒性の強いチクロと違い、少なくとも人類は100年以上のサッカリン使用の歴史を持ち、この間科学的根拠のないままにサッカリンの規制を行ったり、砂糖の入手困難からサッカリンの使用を奨励した、揺れつ戻りつしてきた。
確かに1960年代にサッカリンの発ガン性が見つかったと報告され一時厳しい規制が行われたが、その後そうした危惧はないことから規制が解かれ、現在アメリカでは大量にサッカリンが使用されているという。しかしどういう訳か日本では、古い規則に基づき規制を受けるという訳の分からない状態になっている。少なくとも言えることは、人間は「甘味」がないと潤いのある生活が送れず、生活が充実しない、しかし、一方で砂糖は高価でカロリーが高い(肥満症は最も怖ろしい文明病である)、という矛盾した属性と状況の中で選ばれたのがサッカリン使用であったと言うことである。
掲出の句は、サッカリンの毒性に不安を感じている時代の句のように一見感じられるが、本当にそうだろうか。食品添加物に関する当時の認識と、その後我々が知っている発ガン性問題のサッカリン、そして日米で全然違う認識の現在のサッカリン。1句を読み解くには作者がどの状況にあったかを知る必要がある。例えば、「サッカリン舌に残り」は確かにサッカリンを大量に使うと苦みが生まれるがそれはサッカリンの属性であって、毒性を示しているわけではない。本物の砂糖を使えない貧しさを詠んだと言えば言えなくはない。「サッカリン時代」も砂糖の配給が無くなりサッカリンを使用するようになったという時代の移り変わりに感慨を持っているだけかも知れない。そして、「奈良騒然ラムネにサッカリン混る」も、「奈良騒然」としている状況(例えば青嵐でもいい)と、「ラムネに人工甘味料が混る」という無機的な配合に感慨を催しているだけなのかも知れない。
基礎知識がない状況では、俳句の解釈は全く違うものとなる。つい最近のことと思われても、「読み」を成り立たせない時間の経過があるのであり、国や文化による齟齬がある。言葉に敏感であるべき俳人にとっては注意が必要だ。
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