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2013年9月27日金曜日

【俳句時評】 残ること、書きつづけること―萩澤克子句集『母系の眉』 / 外山一機

萩澤克子が第一句集『母系の眉』(鬣の会)を上梓した。すでに四〇年以上の句歴を持つ萩澤のキャリアは一九六九年の「歯車」入会にはじまる。林桂は巻末の解説で、一九五五年に鈴木石夫の指導する俳句勉強誌として創刊された「歯車」について「盛んだった高校生、大学生の俳句運動の渦中に誕生し、唯一生き残った雑誌」としているが、萩澤が入会した当時の「歯車」の、決して瀟洒とはいえない体裁のその薄い冊子を繰るとき、いったい「歯車」に参加した若者たちはどこへ行ってしまったのかという思いばかりが強くなるのは僕だけであろうか。それは、たとえば創刊号から今日までの『豈』や『未定』の誌面を辿っていくときに浮かぶ感慨とはちがう。それは俳句を書き続けるという営みについての寂しい想像を引き寄せるのである。

将来を嘱望されながら二三歳で筆を折った宮崎大地の例を挙げるまでもなく、かつての若者はその多くがすでに「歯車」からも俳句からも遠ざかってしまった。しかし僕の感慨はこのようにしてすでに去ってしまった若者たちの後ろ姿に対するものではない。彼らの姿は僕にはもう想像しがたくなっているのである。すでに還暦を過ぎているはずの宮崎大地を思えば、宮崎が四〇年近くも以前に筆を折った事情を僕が理解できるなどと考えるのはむしろ傲慢であろう。僕に見えるのは去った者ではなく残された者の姿である。残された者のなかには、去った者の後ろ姿を自らのうちに抱え込みつつ、一方でその夭折の理由を自らに問い続けている者もいる。とすれば、彼らを「残された者」と呼ぶのは不当であろう。彼らとは、いわば「残された」という喪失感を「残った」という自恃へと転位させることで書き続けている者の謂なのである。

 一〇代で「歯車」に入会した萩澤もまた今日まで俳句を書き続けてきた一人である。しかし、たとえば次のような萩澤の韜晦を自らの俳句史のうちに手繰り寄せることのできる者は、すでに少なくなってしまったにちがいない。

 氷雨の東京駅に、上京した「歯車」誌の仲間、永井陽子を送ったことがあった。近づく成人式に、「出席しない、振袖を着ない」と二人で約束し新幹線の窓に手を振った。あれから四十年余り。歯車同期の卯年の女三人、論客で歌人として「噛みつきうさぎ」の異名を持った陽子は詩に殉じ、鳥取の繊細な妙子は詩に病み、才無き私だけが俗っぽくも孫を抱き、拙い詩を紡ぎ続けている。

 萩澤は永井陽子、宮川妙子とともに「歯車」の「三才女」と評されたが、そのなかにあって喪失の感覚を身のうち深くに刻み込んだかのような自意識は、この句集の至るところに見ることができる。というよりも、そのような喪失の感覚をもって萩澤が詠うとき、その死者との交感こそが萩澤にとっての「俳句」であるのかもしれない。いわば萩澤の「俳句」とは口寄せとしてのそれであって、そうであってみればこそ、「才無き私だけが俗っぽくも孫を抱き、拙い詩を紡ぎ続けている」といいながら四〇年以上も俳句を手放すことがなかったのではあるまいか。

だから、萩澤が死を詠うとき、それは生との境界を曖昧にしたままの姿で立ち現われる。此岸は彼岸へと反転し、彼岸は此岸へと反転する。『母系の眉』を一読して思うのは、生にも死にも寄り添うことのできる人間の姿である。そしてまた、死を思い、やがて彼岸へと手を伸ばすとき、その指の先に思わず此岸の土が触れてしまうような、そのような人間の姿である。
 

夕焼けの父が生まれて来そうな海 
夭折の母冬波に青を溶く 
そは蛍そは母の水終の水 
あの世から眺むるために柿干しぬ 
春逝くや枕の窪み水溜まり 
私小説兄の素足に潮満ち来 
師を悼む斯く静かなる梅雨水面 
木下闇の奥まで行けば師に会えるか

 『母系の眉』に頻出する「水」は此岸と彼岸とのあわいに存在するものとしてのそれであるようだ。萩澤の「水」は亡き父を引き寄せ、母を引き寄せる。師の急逝に「梅雨水面」をまなざしながら、やがて「木下闇の奥まで行けば師に会えるか」と詠う萩澤にとって、「会えるか」とは決して反語的な意味合いで発せられた言葉ではあるまい。むしろ不用意なほど率直に「会えるか」と自らの希望を提示できるのが萩澤なのであろう。そしてこんなふうに、生と死とのあわいに無邪気にさえ見える姿で遊ぶ萩澤にとってこのように遊ぶことこそ悼むことではなかったか。

水のごと村あり屈葬の故郷なり
萩澤は「屈葬」について次のように書いている。

七歳当時、母は死病を得て入院。住職の父は読経に赴く時、止むを得ず一人で待てぬ私を連れて行く。通夜の時は読経を子守歌に死者の隣で眠ってしまい、村人におぶわれて戻るのが常だった。翌日、私のそばに寝ていた死者は起き上がり、座り、埋められた。昭和三十年台初頭、その村はまだ土葬、座棺だった。
ここでも「水」は死に近しいものとしてあらわれるが、それが出自とともに語られるとき、出自もまた生と死にいろどられたものとして立ち現われてくる。「屈葬の故郷」とはたんに屈葬の記憶とともにある故郷ということではあるまい。ここで萩澤は故郷そのものを弔っているのである。そしてその弔いのかたちとしての「屈葬」は、たとえばかつて林田紀音夫が「いつか星ぞら屈葬の他は許されず」と詠ったような、いわば負荷としての「屈葬」ではないだろう。「私のそばに寝ていた死者は起き上がり、座り、埋められた」と記す萩澤の目に、「屈葬」は文字通り死者が「起き上がり、座」るように映っていたのであって、とすれば萩澤にとって「屈葬」とは死者の身体を一方的に封じ込めるかたちではなく、死者とともにその死を共有しつつ、いつ起き上がるやもしれない予感と畏れのなかで死者を弔うやさしいかたちの謂であるのではないか。そして、そのように弔われた故郷は、やがて「水のごと」き「村」として呼び起こされる。萩澤にとって「水」とは自らが喪失したものを自らのうちに呼び起こすときの装置として機能しているのである。

身のうちの水を住処とせり蝸牛 
とある日は蝸牛と堕胎の水つくる 
子堕しの水飲み蝸牛太りゆく 
ふと受胎怖る薄暮は水の上 
「うしろの正面だぁれ」うしろは常に水子

 生と死にこんなふうによりそう萩澤が、自らの「身のうち」に「水」を発見するのは自然なことであったろう。しかし、その「水」が「堕胎の水」や「水子」へと転位するとき、そこには自らの生を決定づけた血脈への屈折した自意識がはたらいているように思われる。萩澤には「家系図の真中の染みや春の雷」の一句もあるが、自らの「身のうち」に「水」を見つけたまなざしは、「家系図」に「染み」を見つけたまなざしと表裏をなすものではなかろうか。

血脈の迷路ありけり麦の秋 
血脈を這う先の世の巻貝か 
血脈をたどれば帯の一本きり 
花びらに冷たき血脈など見たり

 萩澤は自らの血脈に「帯の一本」を見、あるいは「花びら」に「冷たき血脈」を見てしまう。「海ほおづき母系の眉をふと開く」とも詠んだ萩澤に「血脈を這う先の世の巻貝」とは「母」の身体へと連なりつつ血脈のうちを這う自らの姿であろう。しかしこうした句から見えてくるのは、自らが与するそうした血脈を恋いながらもついに疎外されてしまう萩澤のありようである。いや、より正確に言うならば、そのような自らの姿を発見せずにはいられない萩澤のありようである。

人待っており血止め草咲いており
いったい萩澤が待っていた「人」とは誰であったろう。岩片仁次は「實にやさしき/人喰いの/人 待つかたち」と詠んだが、萩澤の「人」を「待つかたち」とは、「血止め草」をまなざしながらのそれであった。一抹の不安をかかえながらも「待つかたち」をやめないのは、それは血脈をたどらずにはいられないあの営みの変奏でもあるからだろう。換言すれば「待つ」とは「たどる」こと「這う」ことと同様に、思慕を伴う積極的な営為なのである。だから、「人」を「待つかたち」が「血止め草」をまなざすかたちへと転位せずにはいられない萩澤の自意識は、その若き日に「やがて風となる少年の視野にいる」と詠んだときのそれとはやや趣を異にしている。「少年」にまなざされる存在として自らを思ったかつての萩澤は、いまや、まなざす側へとまわっているのである。


萩澤の待ち人はやってくるのだろうか。待ち人とは、萩澤にとって、あるいはもう二度と会えない者の謂ではなかったか。いや、そんなことを問うまでもなく、萩澤にはもう待ち人が見えているのだろう。いくつもの喪失のなかで、それでも残ることを選んだ萩澤であってみれば、待ち人とはいつでも会える者のことであり、そのようにして待つかたちこそが萩澤にとっての俳句であるかもしれないのである。


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