2018~2020年にのどかの筆名でBLOG「俳句新空間」に連載した「寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む」を新たに書き改めた著書。ソ連(シベリア)抑留、満州引揚げについて知ることができる体験談や俳句作品を紹介。その背景にある1984年の日清戦争から1945年の満州国崩壊までの歴史も概説する。ウクライナ侵攻を進めるソ連の動向に関心のある現代の人々にも見過ごすことのできない本だ。
BLOG「俳句新空間」での長大な連載をもとに、大関博美『極限状況を刻む俳句』(コールサック社)が刊行されたところから、本BLOGで何人かの方に解説・感想をお願いした。
本書が、令和6年1月の俳人協会賞の選考において評論賞を受賞したのは何よりも喜ばしい。俳人協会評論賞受賞というタイムリーな本となったことから、過去の記事を再編集してもう一度本書を読み直す手がかりとして見たい。
【帯】
果たして現代は戦後であるのか?
――氷河期で言えば、間氷期に過ぎないのではないか?
戦争の実相はまだ明らかでない。
極限まで圧縮された俳句と言う表現に描かれる極限の敗戦下の状況
――我々はここから考え始めたい。(俳人・評論家 筑紫磐井)
著者:大関 博美/略歴:千葉県袖ケ浦市生まれ。俳人。俳句結社「春燈」所属。俳人協会会員。看護師。
価格 ¥2,200(本体¥2,000)コールサック社(2023/07発売) 発売日 : 2023/6/13
【目次】
序章 父の語り得ぬソ連(シベリア)抑留体験
第1章 日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて
第2章 ソ連(シベリア)抑留者の体験談―――山田治男・中島裕
第3章 ソ連(シベリア)抑留俳句を読む―――小田保・石丸信義・黒谷星音・庄司真青海・高木一郎・長谷川宇一・川島炬士・鎌田翆山
第4章 戦後70年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句―――百瀬石涛子
第5章 満蒙引揚げの俳句を読む―――井筒紀久枝・天川悦子
全章のまとめとして
解説 鈴木比佐雄
【解説】
ソ連抑留者の極限状況を後世に伝えることは可能か
大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』
鈴木比佐雄
1
本書『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を執筆した大関博美氏にとって、ソ連抑留者であった父は子供の頃から大きな謎であった。その謎を聞いてみたいと願っていたところ、六十二歳で亡くなってしまった。父の背負っていた極限状況の一端でも認識し、父の重荷を娘として理解したいという胸に秘めていた課題を直接聞く機会を、大関氏は失ってしまった。しかしその代わりに、まだ存命中の父母の世代のソ連抑留者・満州引揚げ者たちに取材を試みその人物像と接し、その著書を読むことによって、最もアジア・太平洋戦争で傷ついた世代の思いに肉薄し、その証言を後世に残すことを構想した。そのことに一途に邁進しようとする純粋さ、熱い志を私は草稿・構成案を拝読し感じ取った。
大関博美氏は一九五九年に千葉県袖ケ浦市に生まれ、今は隣接する市原市に暮らす現役の看護師であり、俳句結社「春燈」に所属する俳人だ。数年程前に、コールサック社が刊行した東北の俳人の照井翠氏と永瀬十悟氏の句集やエッセイ集について、大関氏から問い合わせがあり、その際に本書の出版についても相談があった。早速その下書き的な草稿を送って頂いて拝読したところ、まだ修正・加筆が必要な個所が多くあったが、誰よりもソ連抑留者・満州引揚げ者の悲劇の歴史について俳句を通して解き明かし、その教訓を後世に伝えていきたいという強いモチベーションを感受することができた。
私は現在の文芸誌「コールサック」(石炭袋)を一九八七年に刊行したが、その創刊号に詩を寄稿してくれた詩人に、シベリア帰りの鳴海なるみ英吉えいきち氏がいた。鳴海氏はソ連抑留者であり、抑留体験を一〇八篇の詩に綴った詩集『ナホトカ集結地にて』で壺井繁治賞を受賞した詩人で、日蓮宗不受不施派の研究者でもあり、そのソ連抑留体験や民衆の不屈の精神について亡くなる間際まで執筆し続けていた。鳴海氏は亡くなる二〇〇〇年まで十三年間も欠かさず寄稿し「コールサック」の文学運動を支援してくれ、私にとって父のような詩人であった。「コールサック」が出るたびに、自宅の千葉県酒々井しすい町まで出かけて作品を論じ合う交流を続けていた。その際には中国戦線での出来事や鳴海氏が抑留された「ツダゴウ収容所では零下三十度の冬に鉄道敷設作業などによって千人以上の戦友たちが五百人も病死・餓死をした」という、凄まじい体験談を聞かせてもらった。またその冬を越えるとロシア人との人間的な交流もあったことを知らされ、ノモンハン事件で孫を失くした老婆のことを記した名作も残している。私は鳴海英吉氏が二〇〇〇年に亡くなった後に『鳴海英吉全集』を企画・編集し、多くの鳴海氏を愛する人びとのご支援で刊行することができて少し役目を果たすことができた。大関氏と同様に私も父が六十歳半ばで亡くなり、中国戦線の戦争体験を聞く機会を逸してしまった。そのこともあり大関氏が父上から聞けなかったことを、まだ健在な抑留者・引揚げ者から取材し、その著書から学び一冊の書籍にまとめたいという志は、称賛に値する。実際に行動に移して本書の原稿を最後まで執筆し推敲をやり遂げたことは、敬愛する亡き父との無言の対話がなせる粘り強い意志力だったろう。
2
本書は序章「父の語り得ぬソ連(シベリア)抑留体験」、第一章「日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて」、第二章「ソ連(シベリア)抑留者の体験談」、第三章 「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」、第四章「戦後七十年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句」、第五章「満蒙引揚げの俳句を読む」、「全章のまとめとして」から構成されていている。全体を通して大関氏の父母の世代の苦難の経験をした体験者への深い畏敬の念が根底にあり、その想いが重たい口を開かせて貴重な証言を引き出していったと考えられる。また「ソ連抑留者・満州引揚げ者たちの極限状況を俳句で後世に伝えることは可能か」という大関氏の問い掛けが根底にある。戦争の悲劇が戦後も続き、元兵士たちを劣悪な環境で危険な労働に駆り出し死に至らしめ、幸運にも帰国した抑留者たちも生涯にわたって収容所体験がトラウマとなり心身を苦しめた。そんな大関氏の父のようなソ連抑留者や満州引揚げ者たちが身をもって示した平和の尊さを、本書にまとめたいと願ったのだろう。
序章「父の語り得ぬソ連(シベリア)抑留体験」は本の成立過程を率直に語っていて、その中で紹介されている左記の俳句は、大関氏が父という存在者の内面に次第に肉薄していく道筋を指し示しているかのようだ。
シベリアの父を語らぬ防寒帽
抑留兵の子である私鳳仙花
三尺寝父の背の傷ただ黙す
なぜ「防寒帽」を父は大切に保存していたのか。なぜ「抑留兵」と父は呼ばれたのか。どうして働き者の父の背に深い傷が刻まれているのか。その答えを大関氏は探求していく宿命を持っていると感じさせてくれる。
第一章「日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて」では、アジア・太平洋戦争の前に、日本が遅れた帝国主義国家になった日清戦争・日露戦争とは何であったのか、そのことが結果としてアジア・太平洋戦争を引き起こしてしまったのであり、その発端となった一八九四年の日清戦争からの歴史を問うている。その章立ては次のようになっている。「一 はじめに」、「二 日清戦争から日露戦争へ」、「三 日露戦争」、「四 日露戦争から満州事変へ」、「五 第一次世界大戦へ」、「六 ソ連(シベリア)への出兵―七年戦争への道」、「七 満州事変から満州建国まで」、「八 日本の国際連盟の脱退」、「九 満蒙開拓と昭和の防人」、「十 大陸の花嫁について」、「十一 日中戦争への道」、「十二 ノモンハン事件(戦争)から第二次世界大戦・太平洋戦争へ」、「十三 第一章のおわりに」。このように大関氏は、五十八頁を割いて世界史的な観点で日本とソ連・ロシアとの悲劇的な半世紀わたる歴史を辿っていく。その歴史観は特に加藤陽子氏の『それでも日本人は「戦争」を選んだ』を参考にしている。その加藤氏の世界史的歴史観である《「日清戦争」がイギリスとロシアという帝国主義国家の代理戦争になっていたと世界史的な解釈をする》こと、また《日露戦争がドイツ・フランスとイギリス・アメリカの帝国主義時代の代理戦争であったこと》だという解釈を大関氏は参考にして、清国の領土を奪い国家予算の何倍もの賠償金を課していく帝国主義戦争に日本が積極的に加担していく危うい存立基盤を浮き彫りにしている。そのことが結果として大きな禍根を残し、悲劇の結末を迎えていくことを暗示していくかのようだ。一部の保守政治家たちなどが日清・日露戦争は正しかったと主張する言説のレベルは、歴史とは多様な解釈が可能であることは許容できるが、今後の歴史を創り出していく観点からは、大きな過ちを繰り返す歴史を美化する危ういナショナリズムを絶対化する歴史認識だろう。それ故に大関氏は日清・日露戦争の他国の領土を奪い取るなどの勝利感覚が、その後のアジア・太平洋戦争に三百万人以上の日本人の戦死者とソ連抑留者・満州引揚げ者などを生み出した悲劇の要因であるという、痛切な歴史認識を再確認するためにこの第一章から始めたのだろう。
3
第二章「ソ連(シベリア)抑留者の体験談」では、山田治男やまだはるお、中島裕なかじまゆたかの二人から大関氏は直接取材をして、ソ連との戦闘、降伏後の経緯、シベリアの収容所での出来事、抑留者の尊厳などを記し、また日本兵を強制労働させるソ連の国際法違反を伝えている。
第三章 「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」では、小田保おだたもつ、石丸信義いしまるのぶよし、黒谷星音くろたにせいおん、庄子真青海しょうじまさみ、高木一郎たかぎいちろう、長谷川宇一はせがわういち、川島炬士かわしまきょし、鎌田翠山かまたすいざんの八名の経歴や俳句を紹介している。その中で八名が特に生存の危機に直面した壮絶な体験の中で心身に刻んだ俳句と、その句への大関氏の評言を引用する。
俘虜死んで置いた眼鏡に故国凍る 小田保
眠っている間に死んだのだろうか、枕元に置かれた眼鏡は霜で凍り付いている。それはまるで、夢に見る故郷まで凍らせてしまっているようである。同じ部隊で戦い、厳冬の夜は故郷の雑煮のこと、牡丹餅のことなどを語り合った仲間である。
秋夜覚むや吾が句脳裡に刻み溜む 石丸信義
ソ連側は、抑留中の真実を漏らすまいとしてか、抑留者の結束を恐れてか、全ての文書やメモさえも没収した。文書やメモを持っているのが見つかると、帰還が遅れるという噂もあった。句帳を没収されてからの秋の夜長、目が覚めるとひたすら自分の句を暗唱し、脳裡に刻み込んだのである。
死にし友の虱がわれを責むるかな 黒谷星音
抑留一年目の冬、作業大隊五〇〇名のうちの半数が亡くなり二〇〇名余となり、残った者は絶望の日々を送った。死期は、寄生する虱が一番良く知っている。死体からぞろぞろと虱が離れるからだ。生き残った者は、その虱に責め立てられているのである。
死もならぬ力がむしり塩にしん 庄子真青海
厳しいノルマと重労働に体力も消耗し、死を意識する毎日ではあるが、弱り切った肉体は生きたいと要求するように、塩にしんをむしり食うのである。
炎天を銃もて撲たれ追はれ行く 高木一郎
一九四六年七月一日、ダモイと騙され貨車に乗りキズネルで降ろされた。日本にもみた朝顔が遥か遠く離れたロシアの地キズネルにも咲いている。/ひとしきり朝顔に心安らいだのもつかの間、キズネルよりエラブカへ徒歩で三泊四日の移動をする。酷暑の中、水も飲めない行軍である。
汗の眼を据えて被告の席に耐ふ 長谷川宇一
《「冷然受刑」(昭和二十四年六月から八月)/八月になると私は予審に呼び出された。私の罪名は、「資本主義援助」というソ連国家反逆罪だそうだ。/(略)向かって右側の裁判官が立って読み上げた。(略)「第五十八条第四項の資本主義援助」で求刑二十五年というのである。(略)ソ連の将校が何か言うことはないかというから、「第三国人である私のソ連外でしたことで罪に問われるのは、徹頭徹尾不承知であったと記録をしておいて貰いたい。」と言った。》(長谷川宇一の手記より)
生くべきものは生くべきままに蓼の花 川島炬士
《ハバロフスクの監獄生活で毎日三十分くらい監房からひき出されて、檻の中の熊のように絶望の心を抱いて、とぼとぼと重い足どりで歩いた十坪に足らぬ板塀で取り囲まれた散歩場の片隅の日陰にひそやかに咲いていた蓼の花を見いだしたときの私の悟りでもあり、生への復帰の叫びでもありました。この句一つで私の俳句の道に入った報いは十分だと思っております。(略)暗黒のなかに一縷の光明こそは俳句であった。》(長谷川宇一の手記より)
母に逢うまでは死なず 夏の砂漠暮る 鎌田翠山
三日目に半病人になって、倒れているところをカザック人の猟師に救われ、三日間看病を受け、七日ぶりに収容所に帰り、皆の叱責と三日間の営倉と七日分のノルマの強要で済んだ。もしも猟師が見つけてくれなければ砂漠で死んでいたし、脱走とみなされても死が待っていた。(略)もうろうとする意識の中で、鎌田氏は生き抜いたのである。
これらの八名の俳句は、まさに「極限状況を刻む俳句」としか言うことができない、極度に緊迫し生死を賭けた場で生まれた俳句だろう。大関氏は抑留兵たちの重たい思いに対して、父もそれに近い思いを抱いたかもしれないと逆に親近感を抱いて、可能な限り聞き入ったのかも知れない。
4
第四章「戦後七十年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句」では、長野県塩尻市に暮らす百瀬ももせ石涛子せきとうしに取材し、そのシベリア抑留体験の証言や句集『俘虜語り』について詳しく紹介している。その中から二句と大関氏の評言を引用する。
逝く虜友ともを羨ましと垂氷齧りをり 百瀬石涛子
飢えは自分自身の心を苛み、抑鬱状態に追い込む、逝く友を羨ましいとさえ思い、その一方で垂氷を齧らせる。死を切望しながらも、体は生きようと懸命であった。
渡り鳥羨しと見つめ俘虜の列 百瀬石涛子
冬の近づく頃、鴨や白鳥、鶴などはシベリアの広大な空を自由に飛び、冬には日本に渡ってゆく。作業に出かける前の点呼の列で、作業の合間の給食を待つ列で空を見上げながら、自由に飛べる渡り鳥を羨ましく眺めるのだった。
第四章の百瀬石涛子氏について大関氏は、「八十歳を過ぎてようやく抑留体験は、俳句として結晶し姿を現し始めた」と言っている。それほど言語化するには膨大な時間を必要とした百瀬氏にとって俳句との出会いは素晴らしいものとなったのだ。
第五章「満蒙引揚げの俳句を読む」では、井筒紀久枝いづつきくえ『大陸の花嫁』と天川悦子あまかわえつこ句文集『遠きふるさと』を紹介している。その中から各一句と大関氏の評言をそれぞれ引用する。
酷寒や男装しても子を負ふて 井筒紀久枝
一九四五年八月二十五日に武装解除を受けて以来、ソ連兵と中国兵や地元の中国人による略奪が繰り返され、ソ連兵により女性は性的暴行受けた。髪を剪って顔に竈の煤を塗りたくり、若い娘にも赤ん坊を背負わせて偽装をした。凍てる冬の夜、母親たちは襲撃を警戒して男装をし、銃は持ち去られているので、わずかな農具を持って歩哨に立ったという。
子等埋めし丘べに精霊とんぼ飛ぶ 天川悦子
八月に避難指示が出て、足止めされた鎮南浦では、暴漢たちによる暴力もあり、収容所が港の倉庫に移った。九月になると、鎮南浦にもソ連軍が進駐した。ソ連軍の中でも、一番凶暴な「いれずみ部隊」だったという。難民はソ連軍による強奪や性的暴力にみまわれた。九月末にはソ連兵は引き上げて行ったが、入れ違いに飢餓が襲ってきたとあり、この時のことを悦子本人に電話で確かめると、「鎮南浦は十月になると雪が降り始め零下二〇度にもなるところなの」と教えてくれた。避難民は飢えと寒さに襲われたのである。
「日ソ中立条約」が破棄されてソ連が進攻する混乱の中で関東軍が武装解除された。大関氏はその後に満州に残された満州開拓民家族の井筒紀久枝氏、天川悦子氏などの女性が詠んだ俳句を紹介し読み取り、二人の人生を辿っていく。それはソ連抑留者の俳句を読み取る作業と同様に価値あることで、後世に残すべきことだと考えているのだ。その意味でサブタイトル「ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ」という姿勢によって、本書の構成が出来上がっていったのだろう。略奪と性的暴行などの壮絶な体験を俳句と散文で伝えた二人の言葉は、戦争が終わっても続いていく民衆の悲劇を語り掛けてくると大関氏は語ろうとしているのかも知れない。
最後に「全章のまとめとして」の中から大関氏が本書をまとめながら感じ取り考えていたことを記している箇所を引用したい。
極限状況の今ここを支える俳句の働きは、抑留詠(戦争詠)・引揚げ詠・震災詠など、特殊な境涯にあっても、病や介護の境遇にあっても、毎日の暮らしにおいても、現実の出来事の証言となり、遭遇した出来事の認知の書き換えやストレス緩衝効果や孤独の環境の中で承認されることにより、安心感や仲間との信頼関係を回復する、失われた命への鎮魂による自他救済などの働きがあった。
自他救済について、少し違う角度で考えると、本書で取り上げた方々は、危機的状況九死に一生を得た体験を持つ。この体験は思考の混乱を呼び、喪失感や自責の念を抱かせるが、一方で生かされた命の一瞬一瞬を、大切に使おうとする思いは、前向きに生きようとする力を生み、積極的な句作、平和の尊さを語り継ごうとする活動などの動機となる。俳句は悲しみや悔しさ、怒り、嘆き、優しさといった感情を伝える器であり、受け取った人に共感を呼び起こし心の癒しを与える。そして俳句を詠んだ人と読む人を、互いに支える杖(伴走者・燈火)となり、難局を切り開き、未来へつなげる働きをするのだと私は考えた。そして、これは特別な人のことでなく、俳句を支えとして境涯を生き抜く決意をした人に、共通にもたらされる働きであると思う。
大関氏は読み取ってきた「抑留詠(戦争詠)・引揚げ詠・震災詠など、特殊な境涯」である極限状況の俳句を創作し読解し共有することは、「ストレス緩衝効果や孤独の環境の中で承認されることにより、安心感や仲間との信頼関係を回復する、失われた命への鎮魂による自他救済などの働きがあった」とその効用を結論づけている。大関氏が看護師で他者を癒すことを職業としていることもあり、俳句・散文などの表現行為が、存在の危機を感ずる人びとにとって生きることの原点に立ち還る有力な方法であることを再認識したのだろう。きっと大関氏の父の存在もこれらの俳句・散文の中に立ち現れて、父との無言の対話は継続されてきたに違いない。
ところで、二〇二二年二月にロシアがウクライナを侵略し、同年の七月の時点で米国国務長官は六〇万~一六〇万人のウクライナ人がロシア国内に強制移住をさせられていると発表している。その数が正しいかどうかは定かではないが、そのような恐るべき「戦争犯罪」が拡大し現在も繰り返されてウクライナ人の苦悩が続いている。その強制移住や強奪という点では類似するソ連抑留者・満州引揚げの当事者たちの「極限状況」を、俳句・散文を通して伝える大関氏の試みを多くの人びとに読んでもらいたいと願っている。
(鈴木比佐雄氏はコールサック社代表、詩集、詩論集、評論集など多数。最新評論集は『沖縄・福島・東北の先駆的構想力 ―詩的反復力Ⅵ(2016―2022)』。)