第45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/
11月20日(土)ゆいの森あらかわ
(承前)前回と重複する話題もあり、ややくどいと思われるかもしれないが、補足して読んでいただければ、二人の意図もわかりやすくなると思う。
【赤羽根めぐみ氏】筑紫先生は「一月の川一月の谷の中」について、龍太の表現の特色
・句末の「〜の中」
・愛用の言葉「一月の〜」
・反復繰り返し「〜の〜の」
のトリプル効果で「内容以上に形式が重い句」、そして「内容から言えば、むしろ無内容」と述べられています。
【筑紫】私が、
・句末の「〜の中」
・愛用の言葉「一月の〜」
・反復繰り返し「〜の〜の」
と述べたのは、この句は構造分析をするのに向いていると考えたからですが、結局この句が構造的な俳句であることを述べたかったのかもしれません。龍太に構造的な俳句を作る意図があったとすれば、その流儀は兜太の造型俳句と全く異なっていたということはできないかもしれないと思うのです。
【赤羽根めぐみ氏】同時に、題詠から生まれたことも大事なポイントになっています。
【筑紫】一月の川の句が題詠でできたかどうかは、「箒木に」「滝落ちて」の句と違ってはっきりはしていないと思いますが、その発想形式から行って題詠に分類したものです。題詠行為そのものより、題詠構造を利用して俳句を作る、これも造型俳句の一種と言えるかもしれません。
同じ伝統派とされる能村登四郎(どちらかというと、草間時彦と並んで当時の伝統俳句の理論的主柱でしたが)が、兜太の造型俳句論のはるか以前に、龍太俳句に造型的手法を指摘していました。我ながらいい指摘だと納得したものです。
【赤羽根めぐみ氏】形式で考えるならば、取り合わせの一句なのかなと考えました。
【筑紫】繰り返しになりますが、取り合わせと考えるとこの句は「現代俳句」ではなくなってしまうように思われます。現代俳句作家で、作る際に取り合わせを考えている人はどれくらいいるのでしょうか。結果的に取り合わせになっているように見えるかもしれませんが、それは作者の動機とはなっていないのではないかと思います。
【赤羽根めぐみ氏】それではなぜ、「季語は生きている」という季語についてのご著書の中で(しかも第二章の最後の一行で)この一句が取り上げられているのか。
【筑紫】題詠では、季題の題詠が重要な要素をなしています。それは、歳時記・季寄せや季題別句集(江戸時代の句集は大半がこれでした)と密接に関係しているからで、季題が題詠の不可欠要素をなしていたと考えるからです。ホトトギス派(これも実は近・現代俳句派の一種です。徹底した季題題詠俳句を完成したのですから)もこの考え方に従っています。
ホトトギス以外の現代俳句派にあってはそうした桎梏はないはずなのですが、不思議なことに俳句入門書では相変わらず季題による俳句の詠み方が説かれる入門書が多いようです。現代俳句だから自由に詠めばよいわけなのですが、なぜか俳句の詠み方を説明するときに、季題や題詠に引きずられています。こと季題季語については現代俳句も、一部を除いてほとんどホトトギス派に帰順したように見えます。その意味では虚子は偉大であったのでしょう。
学校で詩を書く授業の時に先生は思ったことを自由に書きなさいと言います(実はこれがとんでもなく難しいのですが。実は生徒は何も思っていないからです。がそれはそれとして)。ただ俳句の授業になると、思ったことを自由に書きなさいと言いません。これって何かおかしいですよね。そこに俳句の秘密があるというのが私の発見です。
実はもともと俳句は思ったことを自由に詠んではいけない文学なのです。俳句は題詠でまず詠まなければなりません。これが第一歩です。しかし、題詠では変り映えしない、新しいものが読めないと感じた時に、俳人は桎梏の外側に出ます。しかし完全に詩の世界に入ってしまっては、俳句のアイデンティティが保たれません。何人かの作家は、ぎりぎりの線を行くことを選びました。だから「一月の川」の句は厳密には題詠の句ではありませんが、題詠の方法論を十分に使った現代俳句となるのでしょう。それで何なのかと言えば、実は未だかつて誰もやったことのない新しい俳句がここに生まれます。ですから、題詠が重要なのでもなく、取り合わせや一物仕立てが重要なのではなく、「未だかつて誰もやったことのない新しい俳句」であることが重要なのです。
[補足]題詠の本質や連作との差異については、次回赤野さんへの回答の中で触れたいと思います。
【赤羽根めぐみ氏】それを《本質的類想句》と筑紫先生は書かれていますが、例えば山本健吉のようにあえて言葉にしなくても、季語「一月」の一物仕立ての句として存分に味わい尽くされているからではないかとも考えました。
この句で季語「一月」を語るには、実際「川」と「谷」しか存在しません。しかし、作者の居住地とか経歴とか、もっと言えば作者名、それらが無くても、読む人の心に届く一句ではないかと私は考えます。
【筑紫】おっしゃる通りですが、何もなくても「読む人の心に届く一句」とするためには、実は「何が必要なのか」を深く考えてみる必要があるように思います。「川」と「谷」しか存在しないように見えますが、実はそこに構造(ないし構造を引き寄せる意識)が存在していると思います。逆説的になりますが、実は、「川」も「谷」もなくても構造(意識)さえあれば俳句は存在するのではないかと考えます。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」には花も紅葉もありませんが、それを許容する構造があります。
【赤羽根めぐみ氏】筑紫先生はご著書『飯田龍太の彼方へ』で、こう書かれています。
「龍太の俳句について言えば、もちろん龍太の世界を写していることも重要なのだけれど、それが読者の世界をも写せているかどうかが一流の作品かどうかを決める分かれ道だろうと思うのである。もし「一月の川」の句に読者の自然観、文学観が見えてきたとしたらーそれで初めて十分に現代を代表する名句と成り得てゆくわけである。」
一物仕立てか、あるいは取り合わせか、はあくまでもきっかけで、この二択で答えが出る句ではないと重々承知し、かつ支離滅裂で申し訳ありません。
「一月の川一月の谷の中」は私が最も尊敬する一句で、実作者としても読者としてもこの一句で磨かれたい思いがあります。
どうぞよろしくお願いいたします。
【筑紫】「一月の川」の句が名句であるのかどうかは、実は未だに私にもよくわからないのです。「名句」って何でしょうか。ただ、この句ほど俳句とは何かについて考えさせてくれる現代俳句はないと思います。少なくとも私に、『飯田龍太の彼方へ』をこの一句だけで書いてみる気にさせてくれた記念すべき句であります。この句について考えることは、現代俳句を間違いなく豊穣にしてくれると思います。
(多彩な質問をありがとうございました。私自身も頭を整理する事が出来ました。実はこの講演と質疑の直後、「俳句」1月号の新春対談に臨み、高柳氏から私の考え方に対する批判を受けております。新春対談なので余り突っ込んだ議論とはなっていませんが、赤羽根さんとの質疑を見ていただければ少し私の言いたかったことをご理解いただけるかもしれません。特に、将来を展望する座談会ではありましたが、「一月の川」の句が結構重要な話題となっております。現代俳句を論ずるにあたって最も重要な句であることが浮かび上がってくると思います)。