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2022年1月14日金曜日

句集歌集逍遙 池田澄子『本当は逢いたし』/佐藤りえ

  池田澄子といえば多くのひとが思い当たるであろう一句、「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」は平成元年発行の句集『空の庭』におさめられている。30年以上前の作品が今日の読者たちにも、とりわけ若者たちにも人気を博しているのは、結句「生まれたの」の口語が持つやわらかさだけでなく、輪廻転生という普遍的な句材を、しょうがないわよね、とでもいうように受容してみせる、格式張らない軽やかさに秘密があるように思う。

 そんな俳人・池田澄子のエッセイ集がでた。2011年からの十年間、新聞、俳句総合誌、上野のれん会の発行する雑誌「うえの」などに発表された60余編がまとめられている。多岐に渡る内容のなか、通奏低音として流れているのは、生と死が渾然一体となった「此処」を見つめ続けている視点である。

 池田の父君は第二次世界大戦の従軍先で戦病死している。この『本当は逢いたし』には、亡き父がさまざまなかたちで登場する。「いくら書いても気が済まない」(「八月」)のだ。師・三橋敏雄もたびたび登場する。人が死んだ後は無だとわかっているけれど、先生は大気に拡がったかのように、作品を書く自分を見ているのだという。ほかにもたくさんの人びとが登場する。戦争未亡人となった母、弟妹、孫、句友…。生まれ育った新潟のことや戦時下の女たちのやりとりなど、思い出が色濃い。

 生死は人間のことばかりではない。蚊や螢や猫、目白や鴉や、みめぐりの植物たちにも思いが到る。それら人間以外の存在の命にも、等しく思いが致されている。こう書くと何やら説法めいた大仰な命のドラマが繰り広げられているような誤解が生まれそうだ。そのようなことはなく、2~5ページのそれぞれの文は、池田の俳句同様に、格式張らない軽やかさで編まれている。

秋の蚊はしぶとい。一度近付くとなかなか傍を離れない。飛ぶというより浮かんでいるようで、ふわりふわりとしながら、共に今、この世に生きているのですヨー、と彼女は囁く。(「生き合う」)

 軽やかでありつつ、此の世という場所が本来「生」と「死」がまじりあったものだということを、本書はさりげなく伝えている。人は死んだら無だと思う、でも「彼岸」はあるだろうか、そこで亡き人が、痛みや苦しみから解放されていたらいいな、と思う。でも、自分が死んだら、そこには行かれないということも、わかっている。こうした大人の屈託が、ウェットでなく届けられるのは見事なことだろう。

 さまざまな人の思い出、今ある思い、「思っている」ということそのものが綴られていく。亡き人は書いているかぎり此処にある、という強い思いが溢れていて、胸を打たれる。行く川の流れは絶えずして、ではないが、現在が過去と未来のグラデーションの中に流動的に位置していることを、作者は強く意識している。

 そして、そうした思考を支えているのが俳句、ひいては言葉への弛まざる思いだ。天候、気候、人事、諸事から季語、ことばへと関心はひろがり、ことばのあらわすものごとと体感の齟齬を考える。書くということが、無数の書かざることの上にある。俳人池田澄子の創作の秘密がぽろぽろとはさみこまれている。なにをしていてもことばに思いが到る。実はこの一冊は、俳人の日々の思考を辿る書でもある。

 あれこれ書いたその上で、ファンが池田澄子を好きになってしまうのは、きっとこんなところなのだろうと思う。

 しっかりしなければならない。でも、キーッとせず、ほわーっと生きていたいのだ。(「その気になれば」)

 ほわーっとしながら、小さな、些細なものから、遠く広いことまで思いを馳せる。通年で折々開きたい一冊である。

『本当は逢いたし』(日本経済新聞出版/2021)

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