【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2016年7月22日金曜日

第47号

平成28年熊本地震の影響により被災された皆さまに、お見舞い申し上げます。
被災地の一日も早い復興を、お祈り申し上げます。
*****
-豈創刊35周年記念-  第3回攝津幸彦記念賞発表
各賞発表プレスリリース  募集詳細
※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含め発表予定
●更新スケジュール第48号8月12日・第49号8月26日


平成二十八年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
》読む

(8/5更新)花鳥篇 第九もてきまり・堀本 吟
浅沼 璞・林雅樹


(7/29更新) 第八坂間恒子・下坂速穂・岬光世
依光正樹・依光陽子

(7/22更新) 第七堺谷真人・中西夕紀・仙田洋子
五島高資・渡邉美保
(7/15更新) 第六望月士郎・内村恭子・木村オサム
ふけとしこ・仲寒蟬
(7/8更新) 第五小野裕三・小沢麻結・網野月を
青木百舌鳥・山本敏倖
(6/30更新) 第四陽 美保子・曾根 毅・前北かおる
(6/24更新)第三とこうわらび・ななかまど・川嶋健佑
(6/17更新)第二杉山久子・神谷波
(6/10更新)第一石童庵・夏木久・中村猛虎

卒業帖 …坂間恒子
            【抜粋広告・対談・書簡・エッセイ】


            <抜粋「俳句四季」>

            8月号

            【俳壇観測 連載163回】

            社会性をめぐる若い世代(続)
            ――北大路翼と椿屋実梛を対比して                             …筑紫磐井 》読む

            「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる



            <抜粋「WEP俳句通信」>


            90号

          • 連載 「眞神」考(3 - 動き出す言葉ー より抜粋



          • 「WEP俳句通信」 抜粋記事 》見てみる








            • (継続掲載)エッセイ 「文学」・文学部がなくなったあと …筑紫磐井 》読む
            • (継続掲載) 「里」2月号 島田牙城「波多野爽波の矜持」を読んで・・・筑紫磐井 》読む

            • 【書簡】 評論、批評、時評とは何か?/字余論/芸術から俳句へ   》こちらから


            およそ日刊俳句空間  》読む
              …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
              •  7月の執筆者 (柳本々々、…and more. ) 
               

                俳句空間」を読む  》読む   
                ・・・(主な執筆者) 小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる
                 【俳句新空間No.3】 中西夕紀初春帖(二十句詠)鑑賞/前北かおる
                 好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




                【鑑賞・時評・エッセイ】

                【短詩時評 23枚目】 
                絵と短歌の国のアリス 
                -描くこと・読むこと・歌うことのあわいで-  
                … ながや宏高×柳本々々    》読む

                ■ 日常へ掌をかざしてみる 
                びーぐる31号俳句時評(平成28年4月20日発売)より転載 
                竹岡一郎 》読む

                  朝日俳壇鑑賞】 ~登頂回望~ (百十六一~百十八)
                …網野月を  》読む  




                  【アーカイブコーナー】


                  週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                      あとがき  読む


                      【PR】


                      • 第1回姨捨俳句大賞発足

                      ――俳句新空間の筑紫磐井、仲寒蟬が選考委員に 》詳細




                      冊子「俳句新空間」第6号 2016.09 発行予定‼

                      俳誌要覧




                      特集:「金子兜太という表現者」
                      執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
                      、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
                      連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


                      特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                      執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
                        


                      特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                      執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                      筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                      <辞の詩学と詞の詩学>

                      お求めは(株)ウエップ あるいはAmazonにて。

                      第47号 あとがき

                      (2016.07.27 更新)

                      あとがき更新遅延をお詫びします。

                      7月も終わるこの早さ…時間泥棒が本当にいるように思うこの頃であります。

                      そうこういっている間に大井さんはどんどんとブログ更新をしてくださっていて、毎回愛ある写真とコメントが心に沁みます。編集者というのはこのように愛が溢れていないとならない、書物、人と人とのつながりに感心して拝見しています。

                      ここ数か月、抜粋記事を掲載していますが、今号に掲載の筑紫氏執筆「俳壇観測」に登場の椿屋実椰さんの句集は、告知させていただいた【第一回姨捨俳句大賞】(明日の俳句を切り開く気鋭の俳人の句集を顕彰する賞)の候補になっているようです。9月17日(土)に千曲市総合観光会館にて公開審査が行われます。

                      【第一回姨捨俳句大賞】
                      《候補者および句集》 敬称略
                       久保純夫 『日本文化私観』
                       杉山久子 『泉』
                       椿屋実梛 『ワンルーム白書』
                       矢野玲奈 『森を離れて』

                      姨捨俳句大賞のイベント告知は 》こちら



                      さて、明日梅雨明けという予報ですが、これから夏の俳句イベントの季節となります
                      7月29日(金)・7月30日(土)・31日(日)の、3日間は小諸・日盛俳句祭が行われます。 

                      小諸・日盛俳句祭 》告知はこちら



                      皆さまよい夏をお過ごしくださいませ。



                      【抜粋「俳句四季」8月号】俳壇観測 連載163回/社会性をめぐる若い世代(続)――北大路翼と椿屋実梛を対比して  /筑紫磐井



                      (前略)

                      ●椿屋実梛『ワンルーム白書』(二〇一五年九月邑書林刊)

                      昭和五四年生まれの三七歳、北大路と一歳違いだ。一二歳から俳句をはじめ、平成一七年に「河」に入会、「河」の賞をいくつも受賞して、平成二七年退会、無所属。掲出の句集を刊行したというが詳細は分からない。
                      東京で一人暮らしをする女性の詠んだ俳句ということだが、どこまで本当でどこまでフィクションかはわからない。明らかにナルシズムの香りが強く、全部が本当と信ずる必要はない。心象が特徴的で、作者の行動はほとんど現われない。

                      東京に失語のやうに生きて冬
                      冬薔薇腐食してゆく思想あり
                      ヤクルトレディ祖国を少し語る秋
                      ふらここや私はわたしの遺失物
                      秋葉原連続通り魔事件
                      青年の蛇がナイフとなり叫ぶ
                      天高しわたしが神を喪くした日
                      原子炉にダリの時計のかぎろへる
                      死す魚の上にしづかに斑雪降る
                      花夕焼ひとは記憶の影であり
                      3・11忌ホースより水溢れけり
                      すごろくやおのれの未来おそろしき
                      ハロウィンや宗教セミナーに誘はるる
                      美しき明日も語れず卒業す
                      冬銀河ここに私といふ荷物
                      綿虫や膨張しゆく宇宙あり

                      むしろそこからは、作者が暮らしている東京のワンルームマンションの生活が匂えばよいのだ。作者自身の生活と、それを超えた大きな社会の事件(地震や、殺人事件など)、そしてそれらをさらに包含する著者の思想や情緒というものが浮かび上がってくる。

                       その意味では椿屋は北大路と対極の位置にあるようだ――腐臭漂う危険な歌舞伎町と安全・清潔な(杉並あたりの)高級ワンルームマンション。それぞれエロティシズムとナルシズム、必要以上の露悪と過剰な演技を媒介とし、彼ら・彼女らが生きている社会と向き合っていることになるのである。

                       それらを考えると、私は、前回紹介した関悦史、今回の北大路翼、椿屋実梛を「新しい社会性俳句」とみなしてもよいのではないかと思う。ただその社会性とは、かつての社会性俳句と違って、イデオロギー的であることも、政治闘争的であることも、理論的であることも必要ない。作者が社会と紛れることができない――表に現れるか、潜在化するかを問わず、社会を離れてありえない存在だということが「新しい社会性俳句」の存在根拠である。我々がとりまかれている、災害、戦争、テロ、高齢化、貧困、詐欺、公約違反、情報流出、人格分裂、DV、性犯罪などの薄められた毒のような不安が21世紀には始まっている。

                       (一言付言すれば、同世代であることもあり、例えば異性に対する感覚が〈B型の男くぢらのごと怒る〉〈蛞蝓のやうな男に好かれをり〉のように屈折している点で二人は似ていなくはないが、やはり〈そのむかし人魚でありし裸身かな〉〈麦とろやわたくしサイズの日々がある〉の自己陶酔は、北大路には決してなく椿屋の本質だと思う。)



                      【抜粋「WEP俳句通信」90号】 連載 <三橋敏雄「眞神」考 3>より抜粋  / 北川美美

                      今朝の朝日新聞<文化・文芸>に大橋巨泉さんへの追悼と一句が掲載されていた。

                      大橋巨泉さんの原点は、太平洋戦争敗戦の経験だった。
                      国民学校6年生、11歳だった終戦の年の8月15日まで「天皇陛下のために敵と戦って死ぬ」と考え「必ず神風が吹き、日本が戦争に勝つ」と信じる軍国少年だった。だが敗戦で頭の中が真っ白になり「翌年まで混乱し記憶がなかった」。「価値観が百八十度変わる体験は二度としたくない」。そんな思いで自由や個人、平和民主主義を貴んだ。

                      (中略)

                      浴衣着て戦争(いくさ)の記憶うするるか  

                      大学時代の一句を、だいじに胸に秘めた半生であった。
                      (朝日新聞 平出義明)

                      今も戦後である。けれども、あの8月15日を知っている人によって、戦後の日本が築かれてきたことを思う。

                      ***

                      前号の92号抜粋から逆戻りになるが90号(眞神考3)の抜粋を掲載する。

                      俳句は書いてあることが全てである。しかしながら、書いてある言葉から、書かれていない敗戦、戦後を思わせる気がしてならなかったのが、この「眞神考3」での鑑賞だった。敗戦、戦後と思うことで句の解釈が私の中では解決したのだ。これは個人的なある鑑賞である。他の鑑賞を呈示していただくことができれば、私の鑑賞もある意味役に立つかもしれない。

                      いろいろな論議を経て誰が何を言ったのかがわからなくなるくらいの月日が過ぎて名句入りすると敏雄は言っている。(「名句の条件」楠本憲吉との対談・アサヒグラフ増刊号昭和六十三年七月)

                      「眞神考3」で鑑賞した、<⒃ 著たきりの死装束や汗は急き><⒄ 眉間みな霞のごとし夏の空>においては、その情景は、敗戦日のことではないかと思え、そのように思うことにより、眉間がどうして霞のごとしなのかが解決した。白泉の<玉音を理解せし者前に出よ>を思えば、句意がみえてきた。 作者が生れた世代、作品の制年は大いに考慮すべき点である。 (敏雄はそれを敢えて外した、と句集後記に書いている。作品の制作にはその時代背景は敢えて詠う必要が無いというのが敏雄の信念でもある。)


                      また、解釈が難解と言われている <⑹ 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ>についても書いた。

                      ネットでは三橋敏雄信望者である村井康司さんの「真神を読む」が64句まで見られるので、村井氏の鑑賞もご参照いただければと思う。恐らく、村井さんが最後まで鑑賞を掲載しなかったのは、「眞神」を鑑賞することのある無意味さ、鑑賞の敗北感(不可解という意味でなく)があったのではないか。作品が全てである。私の鑑賞も無意味である。敗北の連続。それだけ「眞神」の鑑賞難易度傾斜は絶壁に近い。 それが俳句であるとしかいいようがない句であることは確かだ。だからこそ、一句としての鑑賞を行っていくことに意味はあると信じている。


                      以下は抜粋であるので、詳しくは、90号をお読みいただきたい。



                      眞神考 3  動き出す言葉 

                      <前書>

                      『眞神』は読者の観念により言葉が動き出す。具体的には、読者の中にある言葉による観念が連鎖していき俳句形式の中であるドラマを創り出す。それぞれの読者の脳内へ浮かぶ映像イメージに賭けているのである。

                      <鑑賞>

                      ⑷ 母ぐるみ胎児多しや擬砲音

                      無季句。冒頭一句目の「馬の音」(昭和衰え馬の音する夕かな)に次ぎ「擬砲」とした音が読み手の脳裏に向けて発射されてくる。

                      (中略)

                      胎児自らは知りえない母体という小宇宙の闇の先にマクロな大宇宙の暗黒が暗喩され、その闇を伝わる心臓の拍動がスローモーションのように「擬砲」として人体という宇宙に鳴り響いていると私は読む。昭和四十年代の高度成長期において、この闇の中を詠む創作の視線は、戦争とは何か、戦後を生きる人々への問いでもある。そして究極には「俳句とは何か」という問いが内包される「砲」が発射されていると解析する。
                      前句「鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中」のミクロな世界とも関連している配列である。

                      ⑸ ぶらんこを昔下り立ち冬の園

                      季語あり(ぶらんこ/冬の園)。ぶらんこを過去に降り立ったところが「冬の園」であるというところから冬の歳時記に所収されるのだろう。

                      (中略)

                      いつの昔かわからない「昔」を曖昧な過去とし、「冬の園」という別世界を思わせる。それまでの俳句概念から別の場所へ下りたった敏雄の境遇、具体的には「冬の園」を新興俳句が辿った荒野として考えることもできる。自己の俳句に於ける境遇を受け入れ現在まで時が過ぎた感慨の句と読める。「冬の園」へいくための「ぶらんこ」が規則的な時を刻む振り子の役目を果たしている。
                      参考までに、「昔(むかし)」という曖昧な言葉を用いた句は当時の朋友に作がある。実際に山本紫黄、大高弘達、そして高柳重信の次の句である。

                      むかしより蕎麦湯は濁り花柘榴  山本紫黄
                      軽石の昔ながらに軽き夏   大高弘達
                      われら皆むかし十九や秋の暮  高柳重信

                      昔という尺度は作者、読者により捉え方が異なる。紫黄、弘達の「今に通じる昔」であるのに対し、重信・敏雄の「昔」は「もう戻れない昔」というニュアンスだろうか。

                      (後略)


                      ⑹ 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ

                      後半の「父なる杭ひとつ」を主格とし、杭が「晩鴉を撒き散らす」という倒置法による読みにより景が浮かび上がる。サイコサスペンスのような景であるが、父なる杭が、大地の男根、あるいは人柱だったかもしれない男たちの碑というように読め、その杭があるからこそ晩鴉が撒き散らされているように見える。

                      (中略)

                      敏雄は句意を排除するように「言葉」と「言葉」による喚起力、言葉がもたらす響き、陰影、情念により句を推し進め、言葉が立ち上がり動きだすようだ。

                      「父への祝祭」と意識するその理由は、五十五句目の『眞神』のタイトルともなる次の句と飛び交う鴉たちの光景が重なりあうからである。句集中で対になっていると分析する。
                      草荒す真神の祭絶えてなし (55) 

                      後に収録される『現代俳句全集四』(立風書房)中では、この〈晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ〉の句が冒頭になっている。『現代俳句全集四』にて掲句を冒頭にした理由を考えるに、父なる杭となった新興俳句先師たちの供養として鴉が撒き散らされ、その祭がこれからはじまるという読みの可能性がさらに確信を得る。

                      「杭ひとつ」としているのは、昭和四十五年に急逝した渡辺白泉への追悼という見方もできる。掲句に込める新興俳句の先師への敏雄の思いが推察できるといえよう。


                      ⒃ 著たきりの死装束や汗は急き

                      まず「死装束」は、死が確認された後に御遺体に着せる衣であり、それが「着たきり」であるということは通常外のことだ。さらに「汗は急き」がその死装束を着ている御遺体の汗なのか、それとも御遺体をみている作者がかいている汗なのか鑑賞の着地点が定め難い。

                      戦時下を経験した敏雄の目に映ったものを想像するならば、太平洋戦争での兵士の戦場での死ではないだろうか。そして書かれていないことから推察するに「汗は急き」は八月十五日の敗戦の日の暑さからの汗だろう。敗戦を知らず戦場で軍服を着たまま息絶えた兵士たちの姿が浮かんでくる。

                      前回引用した『名句の条件』を再度みてみよう。

                      (前略)内容から早く喚起力が薄れる。「終戦」や「敗戦」もそうですよ。「八月十五日」というのはそのうち何の日かわからなくなる。そういうふうに風化していく速度が速い気がするんです。(中略)これは時代性とか時事性とかにかかわって詠んだ全部の句についてもいえる。いわゆる社会性俳句もそうだ。なんとなく現象の方が先にいっちゃうんですね。だから批判なり反発しようと思った対象がかわっちゃうでしょう。(中略)相対的な関係だと思いますが、時代とか社会現象というのは移りやすい。(「名句の条件」楠本憲吉との対談・アサヒグラフ増刊号昭和六十三年七月)

                      敏雄の言葉の通り、確かに掲句は、敗戦日とわかることは書いていない。連載の第一回にて述べた通り、戦火想望俳句の実作について敏雄は後悔の念を持っていたに違いないと考察した。かの大戦を詠み続け、かの大戦が何であったのか、敗戦という日本をどう生きていくべきなのかの問いが敏雄の戦火想望俳句からの脱却だったのだろう。

                      更にこの句から思うことは、御遺体に「死に水をとる」儀式が済まされていないことである。死者を生き返らせたいと願う最後の儀式である。この死装束を着た兵士かもしれない御遺体の死に水ととるのは、わたしたち読者なのかもしれないということだ。

                      (後略)

                      ⒄ 眉間みな霞のごとし夏の空

                      季語あり(夏の空)。「眉間」は表情がでるところである。その眉間が霞のごとく見えるというのは、恐らく人の表情がはっきりと見えないということだろう。
                      この「夏の空」もまた敗戦日の空のことだろう。あの八月十五日を境に逆様になった世の中の様々なこと、それに困惑する人々の表情を「霞」としていると読める。
                      それは戦後をどう生きてゆくのか、生きて行くべきなのかという問いでもある。民意を暗喩して「みな」が効く。



                      ▼言葉の働き

                      敏雄は「俳句とは何か」の問いに俳句で答えていった。一求道者として作品至上主義であり続け、作品をもって語らせるにとどめたからだろう。敏雄の俳論が多く残っていない理由でもある。残された鼎談の発言記録から一句の中の言葉の働きについてどう考えていたのかをみてみたい。

                      「俳句」(昭和五十三年四月号)での上田五千石・山田みづえ・三橋敏雄の鼎談「新しき流れをさぐる」は二十七頁に渡る長い座談会記録である。その中の「初めに言葉ありき」の箇所にて敏雄は、ものをみる場合、まずは日本語で考える、詞、文字が必要になり、「書く」行為へと繋がる過程を言う。そして芭蕉の「心の作はよし、詞の作好むべからず」を説いていく。

                      三橋:(前略)妄想の場合も妄想を意識した瞬間には断片的にしろ日本語によるイメージになっていませんかね。(中略)自分がいくら虚心になってなにを見るにつけてもその対象物を必ず日本語で考えているわけですね。俳句のかたちにするときは、勿論そこからの詞、さらに文字でね。(後略)

                      三橋:(前略)「詞の作」とは技巧的なてらった言葉だとか大げさな言葉だとか落ち着かぬ言葉だとか、いずれにしろ、あしき言葉の作はいけんのであって、「心の作はよし」というときの、結果的には、すべて、よき言葉の作でなければならぬことになります。(後略)

                      三橋:(前略)一句に書かれて表現を完了した所から、それ以前の段階で社会的背景、個人的条件、その他、いろいろと関わり合っているにちがいないけれどもそういう事実に対して、書かれた俳句作品は一個の存在としてフィクション性を帯びます。対象としての事実は事実であっても、これに対置する作品は言葉の世界としてあるに過ぎませんから―。その言葉を介して窺い知ることが可能な世界は、言葉の働きの如何に尽きる。(後略)

                      言葉は、書かれる以前に様々な事象背景と相対関係にありながら、言葉となりそして一句となる。しかし俳句形式として書かれた時点で、言葉は別の世界を創り、そして動き出す。敏雄は「言葉の働きの如何につきる。」と言い切り、言葉(詞)の重要性を説く。

                      三橋:(前略)気配を察知する感覚、いわゆる五感を挙げて感覚するところに、ありきたりのものでない世界を覗き、これに近づくためには、それこそ微妙な気温の差だとか、風の流れだとかありとあらゆるものの手を借りて、なにかに助けてもらわないと見えてこないところがある。


                      ▼「風雅」の追求

                      言葉を動かすには、言葉に関わる気配を察知する感覚、五感の力を借りる必要がある。それこそが、蕉風の追及した「風流・風雅」の世界だろう。敏雄は新興俳句が求めた新しさをさらに蕉風俳諧に遡り「俳句とは何か」「新しさとは何か」ということを追及していく。反伝統を旗印にした新興俳句運動から敏雄は俳句に目覚めたにも関わらず、蕉風理念の「風雅」を追及していくのだ。 

                      蕉門が伝える俳論『三冊子』において、俳諧詠作の根底にあるべき純粋な詩情を「風雅の誠」という言葉が出て来る(「赤さうし」冒頭)。自己胸中の詩情を宇宙の根源的事実に通ずるものとするとらえ方のことである(俳文学大辞典/尾形功解説)。言葉の働きは一句が創り出す宇宙を覗くための部品にしか過ぎないが、その部品が無ければ、先の世界を覗くことも出来ない。言葉は極めて重要な働きをする。

                      敏雄に俳論が少ないことを、芭蕉の姿勢に重ねることにより、その理由を多少なりとも理解することができる。敏雄は自分の思想が師伝とされ後世を縛るものとなることを恐れたのではないか。そして一句の読解が固定化されることを嫌ったことも考えられる。ならば、敏雄の俳句を残すには、読み継ぎ、ひとつの読みを書き遺すしか方法がないことになる。

                      言葉が句となり、さらにその一句一句が動き出し、問いかけ映像を創り出す。『眞神』における、句の先に見える宇宙には、戦後日本の精神性を問い直す暗喩が多く含まれていると私は読む。それは敏雄自身への問いであり、そして読者への問いでもある。



                      ※詳しくは、WEP俳句通信90号をご覧ください。




                      抜粋「WEP俳句通信」


                      <95号>
                      • 新しい詩学のはじまり(6) 社会性俳句の形成①/伝統俳句の開始  
                      …筑紫磐井  》読む


                      <94号>

                      • 中村草田男の現代性・社会性 
                      …筑紫磐井  》(1)   》(2)

                      <93号>

                      •  新しい詩学のはじまり(5)――金子兜太と栗山理一④ 
                      …筑紫磐井  》読む


                      <92号>


                      • 社会性諷詠――花鳥諷詠の深化として」(30句)より抜粋
                      …筑紫磐井 》読む
                      • 連載「新しい詩学のはじまり(四)――金子兜太と栗山理一③」より抜粋 
                      …筑紫磐井 》読む





                      *****


                      • 神考9  (戦火想望俳句と敏雄)  … 北川美美 》読む 
                      • 眞神考8  (秋色や母のみならず前を解く)鑑賞全文  … 北川美美 》読む 
                      • 眞神考7~絶滅のかの狼を連れ歩くには~ より抜粋…北川美美 》読む

                      •  眞神考(5) - 時空を旅するー より抜粋…北川美美 》読む
                      • 眞神考(3 - 動き出す言葉ー より抜粋  …北川美美 》読む

                      【短詩時評 23枚目】絵と短歌の国のアリス ながや宏高×柳本々々-描くこと・読むこと・歌うことのあわいで-



                      大喜利的現代短歌というか、平成狂歌とでも呼べる作風が今とみに目立ってきている。…岡野大嗣の第一歌集『サイレンと犀』は、その代表格に数えられるだろう。…
                      機知に富んでいて、とても面白い。鋭い社会風刺にもなっている。その一方で、作風はきわめて匿名的であり、くっきりした作者像を感じにくい。おそらくは、意図的にそういうものを殺している。
                      ……
                      (木下龍也、伊舎堂仁の)こうした歌も、あるいは同じ括りとして論じられることがあるだろう。
                      少なくともこの二〇一〇年代においては、権力への風刺の役割を果たせる「大喜利的短歌」の方がずっと社会的に有効だし、人々に求められているリアルな言葉だといえる。そして、今、真実を叫ぶときは匿名的文体でなければ危険だという状況が、現代短歌にも確かに反映されている現実を、直視したいと思う。
                       

                      (山田航「短歌月評 匿名の大喜利」『東京新聞』2016年1月17日夕刊)

                      【絵は気づいている】


                      柳本々々(以下、) こんにちは、やぎもともともとです。きょうは、現在『かばん』の編集人であり歌人のながや宏高さんをゲストにお招きして〈絵と短歌〉をめぐるテーマについて少しお話してみようと思います。ながやさん、よろしくお願いします。

                      ながや宏高(以下、) よろしくお願いします。

                       まずどうしてこの〈絵と短歌〉というテーマを取り上げたいかというと、去年安福望さんの短歌と絵のアンソロジー『食器と食パンとペン』(キノブックス、2015年)が出版されました。ネットでも「短歌版深夜のお絵描き」と題して定期的に短歌に絵をつけるイベントが行われています。また歌誌『かばん』においても表紙絵を去年は東直子さんがずっと担当されていて、今年は少女幻想共同体さんが担当されています。今年の少女幻想共同体さんは杉崎恒夫さんの歌集『パン屋のパンセ』の中の歌から幻想的な絵を描かれている。

                      これらの歌につけられた絵をみていて私が思うのは、歌が絵に出会うことによってそれまでにはなかった短歌のイメージや、解釈の発想源を引きずり出すことがあるということです。〈絵と短歌〉という照応関係はそれまでなかった歌の位相を引きずりだすように思うんですね。

                       今年度のかばんの表紙を担当してくださっている花さん(少女幻想共同体)と打ち合わせのメールをしていた時に、『パン屋のパンセ』の短歌はけっこう暗くて鬱っぽい、という話になりました。

                      杉崎さんの短歌は文体の温かさやユーモアの効果で全体的に明るめな印象、読後感を与えていますが、言葉の意味だけを単純に取り出すとたしかに暗くて鬱っぽいところがあります。それを絵にしようとすると表紙絵も暗くなってしまう恐れがありました。死や終わりを歌にすることが多いので、言われてみればその通りです。絵に描こうする人の「気づき」ってすごく面白いなと、花さんとやりとりしながら思いました。

                       絵を描くひとだけが短歌に対して気づくポイントがあるって興味深いですね。またその気づいたポイントから絵を描いていくことによって短歌の言葉の磁場が変わることもあるってことですよね。

                      基本的に短歌を読むという行為は、〈言葉で言葉を説明する〉という意味に回収させてしまう行為なんですが、短歌に絵を描く行為は、〈言葉に絵を添加する〉という行為なので、言葉や意味が決定されるわけではなく、もうひとつの新しい空間をつくりだしますよね。言葉と絵をいったりきたりするという。その往復関係が空間になっていく。ながやさんのお話でいえば、杉崎さんの明るさでも暗さでもない、そのどちらも行き来するような空間をつくりだす行為というか。だから短歌に絵を描くって、解釈や説明とも言い切れない不思議な行為だと思うんですよね。

                       短歌を絵にしようと思ったときに、身もふたもないかもしれませんが、おそらく言語外の表現をどう描くかで苦労して、そこをどう描くかが「短歌の解釈」になる。どう描いたのか、どう描こうとしたのか探っていけばおのずとそれは短歌評にもなるはずです。でも、かといって読み方とか答えを提示するためだけに絵を描いてるわけではないでしょうし、短歌が読者に解釈を委ねる領域があるのと同じだけ、絵の方にも見た人に委ねられる領域がありますよね。

                       そうですね。そういう〈外〉の空間、外部からいろんなひとがやってこられる空間が生まれていくのも絵の強みかもしれませんね。

                      「絵を描く」って行為は〈言語外の表現〉ともおのずと向き合うって行為なんですね。それはときにそのまま「短歌評」にもなるし、また「短歌評」に帰着しないかたちでもうひとつの新しい〈場所〉や〈空間〉をイメージとして提出することもある。今お話していて〈短歌と絵〉のキーワードとして〈場〉や〈空間〉というものが出てくるのかなと思ったのですが。


                      【安福望さんとワンダーランド】

                       たとえば、安福さんにとっての短歌、というか安福さんの好きな短歌ってワンダーランドなんじゃないかっていうことをよく思うんです。安福さんの絵は人間と動物が一緒にいたり、人間と食べ物や風景のサイズが逆転していたりすることが多いですよね。

                       ああ、そうですね。食べ物が巨大で、食べ物そのものが家だったりとか、巨大なケーキの上に男の子やクマがいたりだとかそういう安福さんが描くワンダーな〈空間〉や〈場〉がありますよね。

                       選ばれている短歌も夢の中だったり、不思議で幻想的な世界観を持っています。「不思議の国のアリス」とか「注文の多い料理店」のような、というとざっくりしすぎかもしれませんが、短歌からワンダーランドを感じ取って、安福さんなりのワンダーを絵で表現しているのが『食器と食パンとペン』なのかなと。

                       今お話をきいていて思ったんですが、安福さんの著書『食器と食パンとペン』というタイトルも、「食器(場所)」と「食パン(食べること)」と「ペン(描くこと)」なんですよね。そういう〈場所〉と〈食べ物〉と〈描線〉がひとつの〈絵〉として昇華されているのが安福さんの絵なんじゃないかという見方もできるのかもしれませんね。そういうアクロバティックでワンダーな複合の仕方は、絵のダイナミズムそのもののような気もします。

                       逆に、作者像が見えすぎる歌というか近代短歌は絵にしづらいのでは、という気がします。もし斎藤茂吉とか与謝野晶子の歌を絵にしようと思ったら苦労なさるんじゃないかと勝手に思っています。強すぎる個(一人の人間が背負うものが大きすぎる)はワンダーランドではなくて、地に足の着いた、今を生きる現実世界になってしまう気がしますし、淡い色づかいとも相性が悪いと思います。

                       なるほど。それは絵と近代短歌をめぐる全般的な問題なのかもしれませんね。近代短歌は〈個〉の強度が強いから、〈場所〉として描こうとすると相性がどうしても悪くなるのかもしれません。あと、近代短歌を絵に描いてももしかしたら逐語訳のような〈そのまま〉になってしまうので絵として面白くないというのもあるかもしれない。〈わたしはこうなんだよ!〉っていう歌の意味の強度がはっきりしてるから。

                      近代短歌は〈個〉への求心力が働くので〈場〉というむしろ力が放射状に拡散していくような〈空間〉としての絵を描こうとするとどうしてもベクトルの相性が悪くなっていく。たとえば水彩の淡い色使いも拡散し浸透し放射状的な空間をつくりあげていくものなので、これが〈わたし〉だ! これこそが〈わたし〉なのだ! っていうコアを前面に押し出すような近代的な〈個〉とは相性がわるくなる。近代短歌自体が構造として絵や空間をあえて排斥していくようなところがあるのかもしれない。だからもし近代短歌を〈近代短歌的〉に絵にしようとすると近代絵画のようながっしりした油絵のような絵になってくるのかな。

                       なので、安福さんの絵が世に広まっていったことと、岡野大嗣さん、木下龍也さんたちを中心とした、「匿名の大喜利的な短歌」が増えてきたことって密接な関係にあるのかなと。

                       「匿名な大喜利的な短歌」というのは今回冒頭に引用した山田航さんの短歌月評による言葉ですね。「匿名」と「大喜利」というとネガティブな印象をもちそうですが、山田さんは必ずしもそれを否定的にとらえるのではなく、むしろ時代の趨勢として、「匿名」と「大喜利」の批評性をとらえています。

                       短歌としては特定の人間の人生を背負わない匿名の歌の方が、不思議で幻想的な世界にしやすいと思いますし。安福化するときにもきっと表現の自由度が高いのだと思われます。


                      【みんなのうた】

                       今までのながやさんとのお話の流れでちょっと私が思ったのは〈匿名〉ってある意味で〈みんな〉と言い換えることもできると思うんですね。〈わたし〉でもあり〈あなた〉でもあり〈みんな〉でもある。

                      安福さんの絵の男の子や動物の眼の〈点=●〉というのは大事な〈眼〉だと思っていて、この眼が〈わたしの表情〉というよりは、〈匿名=みんなの表情〉と結びついているようにも思うんですね。この男の子は〈わたし〉ではなく〈あなた〉かもしれないし〈みんな〉かもしれない。〈個〉ではなく〈場〉における〈瞳〉のありかたです。たとえばあえて図式的に言うと〈少女マンガ〉では瞳が緻密に描かれるけれどそれは〈内面〉をその緻密さに比例して描きこむからですよね。だから〈個=あたし〉が重視される。〈あたし〉の気持ちはこうだ! っていうことです。けれど、安福さんの瞳は〈空間〉や〈みんな〉を志向した瞳のようにも思うんです。もちろんそれは安福さんの絵のモチーフでもある〈反復〉ともつながっていくはずです。反復っていうのは〈個〉が〈みんな〉化することですから。

                       安福さんの絵に登場する人間と動物の表情は喜怒哀楽がはっきりわかることがほとんどありませんよね。取り上げられている短歌の作中主体の表情とはまた別のレベルで独自に、安福さんの絵の中の人物たちは無表情になっています。

                      状況の有り様が淡々と描き出されていて、その〈空間〉にいるのが誰で、何を思っているのかわかりません。でもその分いろいろな感情を想像して当てはめることができるし、鑑賞する人の数だけ表情があるとも言えます。確かに〈みんなの表情〉と捉えるほうが本質的ですね。

                      もしかしたらあらゆる顔の表情を足して、それを足した数で割ったら無表情になるのかもしれないな、なんて気がしてきます。

                       なるほど。無表情という表情の方が現在では〈豊かな表情〉かもしれないなともちょっと思いました。安福さんの絵から、現在の〈表情のドラマ〉のありかたを文化に接続して考えてみると面白いかもしれませんね。〈みんなの表情〉はどこのあたりに定点を持っているのだろうか、とか。2011年以降、〈笑う表情〉や〈泣く表情〉といった〈感情的な表情〉をわたしたちはある意味でずっと問われてきているような気もします。

                      ところで〈場〉につなげながら話してみると、わたしは「大喜利」というのも〈みんなのうた〉と言い換えることができるような気がするんです。「大喜利」としての〈みんな〉という〈場〉の志向。テレビ番組の『笑点』をみているとわかるんだけれども「大喜利」って〈座の芸〉だと思うんですね。お題がでて答えてさぶとんをもらったり取られたり隣の人間をいじったりいじり返したり〈座〉の丁々発止のなかで〈わたし〉が光っていく。そうすると「大喜利」って実は〈みんな〉とも通じているように思うんです。みんなの中でわたしを考えることっていう。

                       「場」があって、そこにあつまる「みんな」の共同作業としての大喜利は、おもしろいことを言った人だけのものではないというか、お題をふる人、答える人、つっこむ人、それを見て笑う周りの人がいて成立しているんですね。

                       『かばん』2016年6月号に「酵母と桜」という高柳蕗子さんや山田航さんの特集が組まれましたよね。読んでいて思ったのですが、お二方とも基本的に〈個〉ではなく、〈場〉から短歌を読まれる立場の方だと思うんです。そういう評論がきちんとしたかたちで出始めている。〈みんな〉という名称もちょっといろいろ使用するのにまずいところはあるんですが、〈わたし〉から歌を読んでいくというよりは、〈みんな〉の枠組みのなかにおける〈わたし〉の差異みたいなものへの感受性が出てきていると思うんです。〈場=みんな〉を常に意識する。

                       高柳さんは、歌語が複数の歌人によって詠み重ねられることで成長していくということを『短歌の酵母』の中で書かれていています。また、「闇鍋」という短歌と俳句と川柳のデータベースを作成し、参照しながら評論を展開していますし、視点が〈場=みんな〉に向いていると思います。
                      山田さんも状況に敏感な方で、統計データを用いた評論の潮流に対して「批評ニューウェーブ」という捉え方をしていましたね。

                       そういう〈場の力学〉のなかで短歌を考える評論が出ているということですよね。で、それは同時に〈そう考えさせる短歌〉が時代の趨勢として出てきているってことでもあるのかなと思うんです。
                      木下さんや岡野さんの歌集を読んでいておもうのは、〈わたし〉を詠むというよりは、〈みんな〉のことを詠んでいるきがしたんですね。木下さんは〈みんなのネガ〉を、岡野さんは〈みんなのポジ〉を。山田さんが『桜前線開架宣言』で木下さんの短歌における〈死〉、岡野さんの短歌における〈システム〉を指摘されていたけれど、たぶんそれって〈みんな〉というテーマでもあると思うんですね。死は葬式をみてもわかるけれど共同的なものだし、システムもみんながそこに埋め込まれているものですよね。

                       決して〈わたし〉がないわけではないけれど、たくさんの人たちがいる共同体の中の〈わたし〉、システムの中の〈わたし〉というふうになっていて、〈場〉を中心に世界が回っているように思えますね。


                      【ふたたび、ワンダーランドへ】

                       そうですね、〈わたし〉が不在なわけではなく、〈わたし〉を詠むと必然的に〈場〉を詠み込まざるをえないというか。

                      さいきん〈BL短歌〉にイラストをつけたものもよくみるんですが、BLっていう枠組みだってある意味では〈みんな〉のなかの〈わたし〉ですよね。関係性の枠組みだから。誰と誰が関係を組むかが大事であって、〈わたし〉ひとりでは成立しない。

                      ながやさんが先ほどワンダーランドを描くっておっしゃったのも、〈場〉の重視であって、〈わたし〉の放棄だと思うんです。先日たまたまティムバートンの映画『アリス・イン・ワンダーランド』を観ていたんですが、不思議の国のアリスの主題って〈場〉のルールの特権化であって、いかに〈わたし〉がないがしろにされていくかってところにおもしろさがあると思うんですね。不思議の国の住人が言語文法に忠実すぎていて狂っているようにみえたり、アリスのからだが大きくなったり小さくなったりする。あの国には〈わたし〉がいない。


                       不思議の国に迷い込むと現実世界を生きていた〈わたし〉が薄くなっていくのかもしれませんね、『千と千尋の神隠し』も同様のテーマがあったように思います。名前を奪われるとか、豚になっちゃうとか。

                       基本的に宮崎駿アニメーションはいかに〈わたし〉を放棄するかみたいなテーマがあるのかもしれませんね。ナウシカの人身御供的ラストシーンなんかまさにそんな気がします。〈わたし〉に固執するとムスカみたいに瓦礫ごと落下していくしかないというか。

                       確かに、そういえば魔女のキキが空を飛べなくなっていたときって〈わたし〉の現状について悩んで苦しんでいたときで、再び飛べるようになるのは利他的になれたときでしたね。
                      アリスのからだのサイズが変ってしまうのも、世界から〈わたし〉が外されてしまう感じがゾクゾクする興味深いシーンです。

                      詠む側と読む側、どちらも歌の世界(ワンダーランド)に入り込んで、そのなかで想像と創造を繰り広げていくのだとしたら、高柳さんの「歌の外を見ない」評論はあたりまえになっていくし、BL読みも当然できるようになっていくわけですよね。

                       自分自身にとって〈外〉をどうとらえるかが各人大事な問題になってくるっていうことですね。詠むときも、読むときも。


                       その歌をつくった人がどんな人かっていうこととか、短歌史の文脈よりも、歌の世界をみんなで楽しむっていうことのほうにエネルギーが向かって、そこに場が生まれる。安福さんの絵もこうした流れの延長線上にあるのだと思いました。

                       短歌というジャンルが不規則的にあちこちの領域にアクセスできる形態になってきているのかもしれませんね。今までは非接続的だったのが、どこかの地点で接続的になっていて。岡野さんや木下さんの歌集の帯文を長谷川健一さんや尾崎世界観さんという短歌ではなく音楽の世界の方が書かれているのも象徴的だと思いました。山田航さんの『桜前線開架宣言』の帯文に社会学的な文化記号が羅列されてあったのも象徴的だと思いましたし、なによりあのピンク色の表紙が短歌の〈外部〉に向けられたものでもあるのかなと感じました。あのピンクを眼にしたときにふっとなぜか岡崎京子の『pink』を思い浮かべたりもしたんですが。

                       木下さんや岡野さんたちが前線にいる今の短歌(が持っている世界)って、「あるある」とか、「共感」とか、「大喜利」というよりは、〈みんな〉がアクセスしやすいオープンワールドなのかなと、柳本さんとお話しながら思いました。作品のなかの〈わたし〉が強いと、読者と作品、もしくは作者との対峙になります。もちろんそれはそれで楽しめるし自由な解釈だって可能ではあるんですが、オープンワールドならより自由に、より好きにできます。


                       ああ、接続性って「オープンワールド」的ということなのかもしれない。


                      N 安福さんの「わたしの好きな短歌」っていうのはオープンワールド的な自由さがありつつ、安福さん自身がその世界にアクセスしやすい短歌、なのではないかと思いました。さきほど「安福さんの好きな短歌ってワンダーランドなんじゃないか」と言いましたが、改めて言い直すなら「オープンワールド型のワンダーランド」と言えるかもしれません。


                       そもそも今回の話は〈絵と短歌〉というジャンルをまたぐテーマだったんですが、ながやさんがおっしゃた「オープンワールド」という言葉のように〈短歌〉というジャンル自体がすでにさまざまな隣接ジャンル、いや隣接していないようなジャンルとさえ混淆しているのかもしれませんね。そういうジャンルの越境を考える視点も〈絵と短歌〉という主題は与えてくれるように今回ながやさんとお話させていただいて思いました。ながやさん、きょうはありがとうございました。


                       ありがとうございました。機会があったらまたお話しさせてください。


                      【ながや宏高さんの自選歌五首】

                      公園の砂場の砂にでもなっていつか遊んでもらうのが夢 
                      玄関に靴を浮かべて沈まないように祈ってから乗りこんだ 
                      思い出は魚群のように集まって大気の中を泳いでめぐる 
                      自販機の前は明るい ドッペルゲンガーのひとりとして笑おう 
                      すれ違うだけで十分うれしいよひとり乗り用のUFOだし 

                      【ながや宏高さんのプロフィール】


                      2016年度短歌誌「かばん」編集人




                      2016年7月8日金曜日

                      第46号 

                      平成28年熊本地震の影響により被災された皆さまに、お見舞い申し上げます。
                      被災地の一日も早い復興を、お祈り申し上げます。
                      *****
                      -豈創刊35周年記念-  第3回攝津幸彦記念賞発表
                      各賞発表プレスリリース  募集詳細
                      ※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含め発表予定
                      ●更新スケジュール第46号7月8日・第47号7月22日


                      平成二十八年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
                      》読む

                      (7/15更新)花鳥篇 第六望月士郎・内村恭子・木村オサム
                      ふけとしこ・仲寒蟬

                      (7/8更新) 第五小野裕三・小沢麻結・網野月を
                      青木百舌鳥・山本敏倖
                      (6/30更新) 第四陽 美保子・曾根 毅・前北かおる
                      (6/24更新)第三とこうわらび・ななかまど・川嶋健佑
                      (6/17更新)第二杉山久子・神谷波
                      (6/10更新)第一石童庵・夏木久・中村猛虎
                                【抜粋広告・対談・書簡・エッセイ】

                                <抜粋「俳句四季」>

                                 抜粋「俳誌要覧2016」(東京四季出版・2016.3刊)〈俳誌回顧2015〉より ④

                                「ほんとうにわれわれは楽しいのか」(全文)  》読む



                                「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる



                                <抜粋「WEP俳句通信」92号>
                                • 連載「新しい詩学のはじまり(四)――金子兜太と栗山理一③」より抜粋 
                                筑紫磐井 》読む
                                • 社会性諷詠――花鳥諷詠の深化として」(30句)より抜粋
                                筑紫磐井 》読む
                                • 連載 「眞神」考(5) - 時空を旅するー より抜粋
                                北川美美 》読む







                                • (継続掲載)エッセイ 「文学」・文学部がなくなったあと …筑紫磐井 》読む
                                • (継続掲載) 「里」2月号 島田牙城「波多野爽波の矜持」を読んで・・・筑紫磐井 》読む

                                • 【書簡】 評論、批評、時評とは何か?/字余論/芸術から俳句へ   》こちらから


                                およそ日刊俳句空間  》読む
                                  …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
                                  •  7月の執筆者 (柳本々々、…and more. ) 
                                   

                                    俳句空間」を読む  》読む   
                                    ・・・(主な執筆者) 小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる
                                     【俳句新空間No.3】 中西夕紀初春帖(二十句詠)鑑賞/前北かおる
                                     好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




                                    【鑑賞・時評・エッセイ】

                                    【短詩時評 二十二鬼夜行】 
                                    現代妖怪川柳の宴-鬼、河童、巨眼、コロボックル、妖精、悪魔一家、その他妖怪の皆さん-  
                                    … 柳本々々   》読む

                                    ■ 日常へ掌をかざしてみる 
                                    びーぐる31号俳句時評(平成28年4月20日発売)より転載 
                                    竹岡一郎 》読む

                                      朝日俳壇鑑賞】 ~登頂回望~ (百十六一~百十八)
                                    …網野月を  》読む  




                                      【アーカイブコーナー】


                                      週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                                          あとがき  》読む


                                          【PR】


                                          • 第1回姨捨俳句大賞発足

                                          ――俳句新空間の筑紫磐井、仲寒蟬が選考委員に 》詳細




                                          冊子「俳句新空間」第6号 2016.09 発行予定‼

                                          俳誌要覧


                                          特集:「金子兜太という表現者」
                                          執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
                                          、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
                                          連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


                                          特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                                          執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
                                            


                                          特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                                          執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                                          筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                                          <辞の詩学と詞の詩学>

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                                          【川名大論争】 アーカイブversion1 まとめ


                                          「問題ある表現史」(ウエップ刊『戦後俳句の探求』より転載)

                                          「八月の記憶」(「俳句新空間」第4号より転載)      
                                           ①②の記事    》読む 

                                          岡崎万寿「川名大論文への一つの疑問」
                                          (文学の森刊『転換の時代の俳句力』より転載)

                                          ③の記事  》読む












                                          【短詩時評 二十二鬼夜行】現代妖怪川柳の宴-鬼、河童、巨眼、コロボックル、妖精、悪魔一家、その他妖怪の皆さん-  柳本々々


                                            妖怪は個人の歴史を共同体の歴史に転換し共有する装置なんです。普遍化するのではなく地域化するというか。妖怪は生活圏で共有することによって安心するために作られた。

                                              (京極夏彦「妖怪たちのいるところ 水木しげる以降の文化のゆくえ」『ユリイカ』2016年7月)

                                             では私のシツポを振つてごらんにいれる  中村富山人 
                                           (『川柳新書』第三集、川柳新書刊行会、1955年)



                                          2016年7月号の『ユリイカ』で「ニッポンの妖怪文化」と題して妖怪特集が組まれました。


                                          この『ユリイカ』ではまず民俗学者の小松和彦さんと小説家の京極夏彦さんの〈妖怪〉の定義と誤用をめぐる対談があったのちに、 ライトノベルやマンガ、文学、美術、歌舞伎などさまざまなジャンルを横断する〈妖怪〉へのアプローチが試みられているんですが、それでは短詩における〈妖 怪〉はどうなっているのでしょうか(ちなみに今回の時評では〈妖怪〉の定義をかなり幅広くとりますが、今回の『ユリイカ』を読むと〈妖怪〉はまずなにより も〈定義〉をめぐる存在であることがわかると思います。妖怪をどう〈定義〉してきたかにひとつの〈妖怪史〉が浮かび上がってくるのが〈妖怪〉です)。


                                          大きなくくりで短詩と〈妖怪(的なもの)〉をめぐる関わり合いについて考えてみると、たとえば短歌では、東直子さん・佐藤弓生 さん・石川美南さんによる『怪談短歌入門 怖いお話、うたいましょう』(メディアファクトリー、2013年)が、俳句では、倉坂鬼一郎さんの『怖い俳句』 (幻冬舎新書、2012年)や、石原ユキオさんの「妖怪俳句アンテナ」『別腹』(VOL.8、2015年5月)、佐藤りえさんの連載「人外句境」『およそ 日刊「俳句新空間」』があります。

                                          ちなみに石原ユキオさんの「妖怪俳句アンテナ」が掲載されている飯田有子さん発行の『文芸すきま誌 別腹 VOL.8』は「人外」特集になっており、松本てふこさんの「わたしの雪女」、佐藤りえさんの「人外歌境」、イイダアリコさんの「for Beautiful Nonhuman Life」、佐藤弓生さんの「生きもの図鑑」など〈人外〉と短詩をめぐるコンテンツが充実しています。川田宇一郎さんの「人外考-一般論の王国へ」も忘却 された〈人外〉の定義から出発する興味深い論考になっています。

                                          そもそも現代の視点から〈妖怪〉を考えるときにどのような視座が有効なのでしょうか。批評家の石岡良治さんは、「妖怪」とは何よりも〈メディア的存在〉であると指摘しています。

                                            妖怪は、単一メディアに決して閉じえない。むしろ自身のイメージ化を通じてさまざまな媒体に取り憑いていく、もう一つのメディアなのだ。 
                                           (石岡良治「水木しげるの新しい学」『「超」批評 視覚文化×マンガ』青土社、2015年) 


                                          これは水木しげるのゲゲゲの鬼太郎が漫画、アニメ、グッズ、歌、イヴェント、実写、映画、ゲーム、フィギュア、食玩、図鑑、パ ロディー、シーズンごとの更新(声優やキャラクターの入れ替え)などさまざまなメディアミックスのもと多重的に(どれもが〈本篇〉=真実ではないかたち で)生産されていったことを思えば想像しやすいのではないかと思います。

                                          妖怪は、メディアを渡り歩きながら、メディアそのものに取り憑きながら、生きていく。実は妖怪がいる現場とは〈闇〉ではなく、〈ホットなメディア〉そのものなのです。

                                          そしてこのメディア的存在としての妖怪をもっとも旺盛に展開したのが水木しげるでした。

                                          たとえば水木しげるはいったんもめんを「白色」設定ではなく、容易に「赤色」設定にしてしまうときがありました。私は一反もめ んが好きだったので真っ赤、というか〈どピンク〉の一反もめんをみたときは子ども心にかなり衝撃を受けました。いったいなにを信じればよいのかと。もちろ んそうしたキャラ設定の曖昧さは水木しげるの他の妖怪にもあって、たとえば塗り壁が一つ目バージョンのものもありました。

                                          でも石岡さんの指摘をふまえて今考えてみると、それは〈異種〉としてあったのではなく、妖怪が〈メディア的存在〉であるからこ そ、そのメディアによって容易に形態を変える視野を水木しげる自身が持っていたからではないかと思うんですね。〈ほんとうの一反もめん〉はなくて、各メ ディアに応じた〈一反もめん〉がそのつど語られる。そのつどメディアに応じてキャラ設定されている。

                                          かつてNHKBS2で放送された『BSマンガ夜話』の「悪魔くん千年王国/水木しげる」を取り上げた回(1998年8月27 日)で興味深い指摘がなされていたんですが、それは、水木しげるは〈作者〉ではなく、〈語り部〉なのではないかということでした。つまり、〈作品〉をつく る〈作者〉ではなく、各メディアに応じて、即興的にそのつど変奏しながら妖怪を語る〈メディア〉のような〈語り部〉というわけです。

                                          そこには一反もめんは「白」くなければならない、塗り壁は二つ目でなくてはならない、といった作品観がありません。だからたと えばアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』にしても『ドラゴンボール』のように孫悟空は野沢雅子さんが声をあてなければいけないといった近代的な〈作品観〉がそこに はない(今は水田わさびさんの声が定着していますが、不思議なのは『ドラえもん』の声も一時期〈こう〉でなければならないという〈作品観〉がみられたこと です。鬼太郎はそれに比べて声優が交代しても受容されやすい。その違いはなんなのかは興味深いテーマのように思います)。

                                          鬼太郎は野沢雅子さんが声をあてることもあれば戸田恵子さんがあてることもあるし、ねずみ男は富山敬さんがあてることもあれ ば、千葉繁さんが、野沢那智さんが、大塚周夫さんが、高木渉さんがあてることもある。それは〈鬼太郎〉がなによりも〈メディア的存在〉である妖怪だからだ と思うんですね。作られる鬼太郎ではなく、メディアを通して語られるさまざまな異本(バージョン/ヴァリアント)が存在する鬼太郎です。

                                          ところで妖怪がこうした〈メディア的存在〉としてそのつどその取り憑くメディアに応じた〈変態〉をみせる以上、〈定型〉や〈川柳〉というメディアにもその特有さをもって取り憑き、渡り歩いているはずです。

                                          〈現代川柳〉と〈妖怪〉のかかわり合いは今どうなっているのか。前置きが長くなってしまいましたが、今回はこの一点から少し考えてみたいと思います。

                                          それでは具体的に現代川柳の〈妖怪〉たちをみてみましょう。任意でカテゴリーに分けてみました。先ほども述べましたが、〈妖怪〉として扱う範囲を〈人外〉も含めてあえてかなり広く取ってあります。

                                          【出会ってしまった系(切断)】

                                             コロボックルを縛ったりしてどうするの  小池正博
                                               (『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア、2016年)

                                             コンビニの冷蔵棚の奥の巨眼  飯島章友
                                               (『恐句』2016年)

                                             水掻きのある手がふっと春の空  石部明
                                               (『セレクション柳人3 石部明集』邑書林、2006年)

                                             たちあがると 鬼である  中村冨二
                                               (『中村冨二集』八幡船社、1974年)

                                             それも百体 人形が目をひらく  時実新子
                                               (『Senryu So 時実新子2013』2013早春』)

                                             ぬりかべに閉じ込められた水木しげる  本多洋子
                                               (『川柳北田辺』64号・2016年1月)


                                          【思いを馳せる系(叙述)】


                                             河童月へ肢より長い手で踊り  川上三太郎
                                               (『孤独地蔵』1963年)

                                             走りたい逢いたい痛い人体図  きゅういち
                                               (『ほぼむほん』川柳カード、2014年)

                                             妖精は酢豚に似ている絶対似ている  石田柊馬
                                               (『セレクション柳人2 石田柊馬集』邑書林、2005年)

                                             悪魔一家の洗濯物がひるがえる  広瀬ちえみ
                                               (『セレクション柳人14 広瀬ちえみ集』2005年)

                                             五月晴れ小鬼が屋根をとび跳ねる  熊谷冬鼓
                                               (『雨の日は』東奥日報社、2016年)

                                             白昼快晴喉もとに棲むフランケンシュタイン  普川素床
                                               (『現代川柳の精鋭たち』北宋社、2000年)

                                             人吐いて家ふわふわと野に遊ぶ  倉本朝世
                                               (前掲)

                                             妖精はいつもあさって!!と叫ぶ  松永千秋
                                              (『セレクション柳人18 松永千秋集』邑書林、2006年)

                                             空からはきっとUFOしか来ない  くんじろう
                                               (『川柳北田辺』62号・2015年11月)

                                             ひるも夜も天人なれば空をゆく  所ゆきら
                                              (『川柳新書』第四十集、川柳新書刊行会、1958年)

                                             かまいたちというブランド鉄橋の向こう  酒井かがり
                                              (『川柳北田辺』65号、2016年2月)


                                          【対処する系(能動)】

                                             たましいが這い出しそうで爪を剪る  樋口由紀子
                                               (『容顔』詩遊社、1999年)

                                             叶えたいことなくなって魔女になる  泉紅実
                                               (『シンデレラの斜面』詩遊社、2003年)

                                             妖精が書いた記事だと思います  竹井紫乙
                                               (『白百合亭日常』あざみエージェント、2015年)

                                             似てるんじゃ無くてネズミ男なの  一帆
                                               (『はじめの一歩2016』2016年)

                                             そういう訳で化物に進化した  筒井祥文
                                               (『セレクション柳人9 筒井祥文集』邑書林、2006年)

                                             たましいにときどき塩をふっている  赤松ますみ
                                               (『セレクション柳人1 赤松ますみ集』邑書林、2006年)


                                          【言語システム系(形式)】

                                             追っ掛け 朧夜 鬼 嗚咽  渡辺隆夫
                                               (『亀れおん』北宋社、2002年)

                                             狼尾男の触る∞  兵頭全郎
                                               (『n=0』私家本工房、2016年)

                                             …早送り…二人は……豚になり終  川合大祐
                                               (『川柳カード』7号、2014年11月)

                                             背後霊の部屋にハイルヒットラー  飯田良祐
                                              (『実朝の首』川柳カード、2015年)


                                          【人外さん系(混沌)】

                                             ひし形の人が電車を降りてくる  久保田紺
                                              (『大阪のかたち』川柳カード、2015年)

                                             首のない背中が人をかかえこむ  佐藤みさ子
                                              (『呼びにゆく』あざみエージェント、2007年)

                                             人間に戻ってしまう急がねば  弘津秋の子
                                              (『アリア』あざみエージェント、2008年)

                                             ともだちがつぎつぎ緑になる焦る  なかはられいこ
                                              (『川柳ねじまき』第2号、2015年12月)

                                             泣いている自然界にはない声で  丸山進
                                              (前掲)

                                             少し狂って少し毀れてラジオ体操  加藤久子
                                              (『矩形の沼』かもしか川柳社、1992年)

                                             からだからぽろぽろこぼれおちる種  守田啓子
                                              (『おかじょうき』2015年12月)

                                             リカちゃんのすじにかみつくリカちゃんのパパ  榊陽子
                                              (『川柳北田辺』65号、2016年2月)

                                             生っぽい話だ血がしたたり落ちている  岩田多佳子
                                              (『川柳北田辺』63号、2015年12月)

                                             かもしれない人がひゅんっと通過する  瀧村小奈生
                                              (『川柳ねじまき』第1号、2014年7月)

                                             鰓呼吸のころから膝を抱いていた  八上桐子
                                              (『くねる』Vol.3、2009年秋)

                                             1ミリの時空のズレを掴むチャコ  山田ゆみ葉
                                              (『川柳カード』4号、2013年11月)


                                          【人外さん系(交遊)】   

                                             飛び跳ねて人を消す毬「ありがとう」  倉本朝世
                                              (『あざみ通信』第4号・1996年7月)

                                             夜はよろこんで窓から出ていった  徳永政二
                                              (『くりかえす』あざみエージェント、2014年)

                                             眼は泥の中にある 呼んでゐる  松本芳味
                                              (『川柳新書』第六集、川柳新書刊行会、1956年)

                                             UFOキャッチャーで掴んで持ち上げられた  大川博幸
                                              (『川柳の仲間 旬』205号、2016年5月)

                                             ゴジラの鼻をダブルクリックしてしまう  むさし
                                              (『おかじょうき』2015年5月)



                                          もちろんこれはほんの一握りの句で、これ以外にも現代川柳にはほんとうにたくさん妖怪(的な)句があります。また〈解釈〉によって〈そう〉なるものもあります。

                                          今回あえて多少〈暴力的〉にカテゴリーにわけてみたのですが、たとえばこうして暫定的に妖怪川柳マッピングをしていくことで、大きくいくつかわかってくることがあるようにおもうんです。

                                          まず一つ目として、妖怪と〈出会ってしまったこと〉そのものを〈出会ってしまったそのもの〉として《だけ》描くという視点があ ります。その《だけ》が効果的な不気味さをうんでいる。つまり川柳における妖怪はなにが〈怪奇〉なのかといえば、川柳定型に生じる〈切断〉なのです。

                                          川柳定型は17音で容赦なく切断されますが、その〈切断〉がそのまま出会ってしまったことの〈説明不可能性〉につながっていくわけです。「コロボックルを 縛った」あとどうするのか。「冷蔵棚の奥」に「巨眼」を見ちゃったけれどどうしたらいいのか。それは誰にも、語り手にも、読者にも、定型自身にもわからな いわけです。だから川柳にとって怪奇なことは〈怪奇なもの〉が現れていることではなく、怪奇なものが現れた《にもかかわらず》、17 音で《終わってしまう》ことなのです。それが現代川柳の《妖怪性》のひとつです。

                                          二つ目の現代川柳の《妖怪性》は妖怪に主体を与えることです。現代川柳は事物の組成を組み替えることを得意としますが、それを 妖怪に適合する。たとえば「人体図」に「走りたい逢いたい痛い」という〈内面〉を与えることで「人体図」自身に主体を与え、組成を組み替えていく。これも ひとつの現代川柳の〈妖怪性〉だと思います。実はそもそもが事物(水や椅子やバス停)に主体性を与えようとするアニミズム的な世界観を得意とする(世界の 事物すべてが発話する世界の)現代川柳はこうした〈妖怪〉に〈内面〉を与えることが得意なようにも思うんです。

                                          三つ目に《積極性》をあげることができるでしょう。筒井さんの「そういう訳で」という因果を語る語り口や樋口さんの「爪をき る」という対処の仕方は妖怪/怪異に対する語り手の《積極的かかわり合い》を見いだすことができます。「魔女になる」や「ネズミ男なの」と妖怪や怪奇なこ とにみずから積極的に関わっていき、その積極性を定型におさめていく。

                                          四つ目に定型詩においては大事な点だと思いますが、渡辺隆夫さんの句の「鬼」のように〈お〉の頭韻だけで共通性をもった言語存 在の「鬼」も出てきます。これは頭の音が「お」だけで共通している言葉のなかに埋め込まれた「鬼」ですが、しかしそのことによって「鬼」の概念を言語の側 面から払拭=相対化しているわけです。そういう言語のシステム/カオス=坩堝から新しい〈鬼〉がうまれだす。また全郎さんの句では「狼男」に言語アレンジ が加わり、「狼尾男(オオカミオオトコ)」という言語存在になっています。そういう〈くちびる〉から妖怪をとらえていく。

                                          五つ目に、現代川柳は〈人外〉としての〈名づけえぬもの〉や〈名づけえぬこと〉を描くことが非常に得意です。これはもしかした ら川柳が季語という楔を打たないことから生じているのかもしれません。季語という〈いま、ここ〉が測位可能な装置が17音定型のなかに不在である川柳は、 逆に測位不可能なものを積極的に描くことを得手とすることになった。〈名づけえぬモノ・コト〉を17音で積極的に描く。なかはられいこさんの「ともだちが つぎつぎ緑になる焦る」という〈どこにもない場所〉の〈なんともいえない出来事〉を描く(ちなみに同じなかはらさんの句に「非常口の緑の人と森へゆく」と いう〈緑〉が共振しているような句があります)。 

                                          以上まとめてみるとわたしが考える現代川柳における〈妖怪性〉は少なくとも五つあります。

                                          ひとつめは、定型による〈切断性〉。

                                          ふたつめは、川柳的世界観における〈アニミズム性〉。

                                          みっつめは、川柳の主体的語り手による怪異への積極的介入。

                                          よっつめは、言語システムからの妖怪の形式的生成。

                                          いつつめは、名づけえぬもの・ことへの接近と親近。

                                          これらを総じてあえて言ってみるなら、現代川柳は〈妖怪〉を語る〈文法〉を生成しているのではないかと思うんです。

                                          〈妖怪〉の内実を検討・吟味するのではなく、〈妖怪〉のタームを埋め込んだ構文や文法をいろんなかたちでつくりつづける。それ は妖怪と短詩をめぐる関わり合い自体にも通底していると思うんですね。詩のなかの、短歌のなかの、俳句のなかの文法的妖怪にも。文法の冒険としての妖怪、 です。それが短詩が妖怪を引き受けるときの特徴なのではないか。

                                          『ねずみ男の冒険妖怪ワンダーランド』でねずみ男がこんなことを言っていました。

                                            人生はそれでいいんだ……………この世の中にこれは価値だと声を大にして叫ぶに値することがあるかね。すべてがまやかしじゃないか 
                                              (水木しげる『ねずみ男の冒険 妖怪ワンダーランド1』ちくま文庫、1995年)
                                          「すべてがまやかし」をふまえた言語世界で、妖怪に向けて文法からの形式的冒険を繰り返すこと。それは内実を与えられない〈妖 怪〉的な語彙に文法の組み替えという側面からつねに向き合いつづけることだと思うんです。語彙の境界で。そもそも〈妖怪〉とはつねにその定義が、境界が、 問われる〈境界的存在〉なのですから。

                                          「これが価値だ」という〈価値〉そのものを相対化しつつ、ねずみ男のようにつねに事物を境界化し、その境界にいつづけることを 耐え抜くこと。もちろん「ねずみ/男」だけではない。「鬼/太郎」や「目玉/親父」も半妖怪/半人間的な境界的存在であるはずです。そしてそのたえず境界 化する事物と言語の往還にこそ、現代妖怪川柳の行列が続いているようにも思うのです。

                                             電球の中へお葬式の行列  我妻俊樹
                                              (「ストロボ」『SH3』2016年5月)
                                            それで、わたしは妖怪千体説を唱えたんですよ。同じようなものがいて、結局、その時代にはっきりと顕在化しているのは三百 位で、陰にかくれているのを入れるとだいたい千体ぐらいいるんだろう。そのことをわたしは実証しようと思って、いろいろと像を集めているんですがね。
                                            (水木しげる『水木しげるのカランコロン』作品社、1995年)

                                          抜粋「俳誌要覧2016」(東京四季出版・2016.3刊)〈俳誌回顧2015〉より④  「ほんとうにわれわれは楽しいのか」(全文)

                                          (鼎談: 中西夕紀×筑紫磐井×田島健一 )



                                          ――今回、事前の打合せで議論したいテーマをうかがったところ、磐井さんから「ほんとうにわれわれは楽しいか?いつが楽しかったか?」という問いが寄せられました。非常に興味深い設問だと思われますので、最後にこのテーマについてお話しいただこうと思います。

                                          筑紫 俳句を今まで続けてきてるなかで、やる気になったり、抑えちゃったりすることもあるんですけど、有り体に言って、なんで今まで続けてこられたのかが気になったのです。俳壇なんか意識しないで自分たちだけでやってきて、それには動機があったんですが、私は自分についてはわかっているので、むしろお二人に訊いてみたいと思って設けた問いです。まあ単純に言えば、雑詠欄に出してて、やっばりなんのかんの言ったって一・五流の先生だってとられると嬉しいじゃないですか(笑)。

                                          たぶんそういうなかでことばのトレーニングみたいなのを重ねていってそれがツボにはまると非常に気持ちいいというか、基本的にはそれが俳句の第一歩なんでしょう。私も今はわけのわかんない俳句はつくってるけど、最初はそういうことでスタートをした。ただ、お二人と違うのは俳句はほどほどになって、途中で評論書きはじめたら俳句よりはるかにおもしろいわけですよね(笑)。

                                          「沖」という雑誌はページが余っててしょうがなかったんで若い人にいくらでも書かせてくれて、恵まれた環境にありました。その後は……今なにが楽しいかっていうと、それなりに企画して当たることがあるわけですよ、『新撰21』とかね。

                                          新しい雑誌をたててみるとか。だからほんとに楽しいと思う内容は少しずつ変わってきてるんですが、お二人はどうなのかなあと。中西さんもいちばん最初は湘子選をうけてて、すっかり悦に入っちゃうというところは変わらないかなと思うんですけど。


                                          中西 それは同じですね。

                                          ‥最初は藤田湘子選に入るのが嬉しかったわけですけども、一五年くらいやって――今から考えれば親離れですね、先生から離れて、今度は自分で好きなようにやりたいと思ったときに同人誌に入りました。「晨」という関西の同人誌なんですが、束京と関西と離れてるのでけっこう自由にできるかな、と。先生の眼から離れてるので(笑)。

                                          それで今度は自分の俳句をもう一度見直して――私の場合は最初は藤田湘子選だったので「馬酔木」系から入ったわけだけれども、「鷹」をやめてから、今度は写生をやりたいと思ったんですね。それでなるべく写生をやってる先生を探しました。写生系というと「青」系がおもしろそうだなあと。でもぴんぴんの「青」じゃちょっときついので「晨」ににして、大峯あきら・宇佐美魚目という先生たらから写生を学はうと思って両方の先生の句会に通ったわけですね。

                                          東京では写生系の人として岸本尚毅さんたち――ようするに「青」系の人たらといっしよに吟行会をやって。それで払がその人たらにつけたあだ名が「ド写生」の人たらで(笑)、

                                          そういう人たちといっしょに写生句をつくっていくのはすごく楽しかったですね。やっぱり自分がやりたいと求めてるものに向かってつくってるときがいちばん楽しいですよ、それで今度自分で結社誌を作ったら反対に雑用が多くて、ぜんぜん自分の好きなことができないということがよくわかって(笑)。

                                          俳壇的な仕事も増えてくるとますます自分の好きなことがやれない、そういうところで、いまはちょっと、おもしろくないかな(笑)。


                                          筑紫 湘子の選をうけてたときの楽しさと、「ド写生」の先生の選をうけてたときの楽しさとはやっぱり違うんですか?


                                          中西 それは違いますね。

                                          俳壇的に華々しいのは湘子先生のところにいたときのほうが若手として俳壇に出て行けたので、その点では満足でした、それから自分の俳句を見つめるっていう段階で「晨」に行ったら、反対にまったく俳壇とは没交渉になってしまって、地下に潜っちゃった感じで。

                                          作品を発表することもなくなってしまったんですけど……たぶんそのときは自分を耕してたんですね。自分を耕してるときがいちばん楽しかった。外に出られなかったのはかなしかったんですけど。かなしいんだけれども、やってることはいちばん充実してたかなあ。


                                          筑紫 脱皮というか、自己変革みたいな。


                                          中西 それはありますね。

                                          俳句って、いちばん最初、俳句やりませんかなんて言われてるときは、どの先生につくかなんてのは決めてないですよね。私の場合は、松本でたまたま宮坂静生先生に会いました。

                                          そこで俳句をはじめて、東京に転勤になって、宮坂先生の紹介で藤田湘子先生の弟子になりました。幸運な偶然のまま一五年きたけども、今度は自分で先生を探したところがあるので、そこから自分の俳句人生かもう一回はじまったのかなあと思います。

                                          今思えば凄い先生四人に教えてもらったのは幸運でしたが、思い返すとそのいちばん苦労したときがいちばん楽しかったかなあと。いまはおかげさまでとっても幸せなんですけど、幸せと反対に自分の時間を提供してるところがあるかなと、でもそれはしょうがないことですよね。


                                          筑紫 俳句をちゃんとやってるんですね(笑)。私みたいに俳句をちゃんとやらないで言うのとは違うから(笑)。


                                          中西 俳句はちゃんとやってます(笑)。つくる方が大切だと私は思ってるので。評論よりも実作が勝負かなと私は思ってます。


                                          筑紫 長い付き合いだけど、初めて聞きましたね(笑)。


                                          中西 田島さんだって俳歴が長いですよね。


                                          田島 ぽくは俳句ってそんなに楽しいのかなあ……っていつも思ってますね。


                                          筑紫 われわれから外れた、田島さんから現在の若い人たちまで含めての世代は、俳句をどう楽しいと思ってるんだろうと。


                                          田島 ぼくよりもずっと若い子たちはまた違うと思うんですけど。ぼくなんかほんとに狭間の世代かなと思うんですけど……はじめたのが早かったので。中学生くらいにはじめたんですね。

                                          そうすると、同世代ぜんぜんいないし、今みたいにインターネットなんか発達してないんで、仲間ぜんぜんいないですから、句会に行くとおじさまおばさまばっかりだし。なにが楽しいんだろうっていう時間が長かったですよね。

                                          苔いとちやほやされるから、まあ、って感じで続けてきましたけど。

                                          大学卒業して就職したときに、さぽりさぽりやってる感じがあったんですよ。欠詠も多かったし。

                                          そんなとき大石雄鬼さんに言われたんですよ。最近どうしてるの?って言われて、欠詠ぎみなんです、って話をしたら、若いころからやってて社会人になるとやめらやう人多いんだよねみたいな言われ方をしたんですよ。

                                          それ聞いて、あっ、と思って。スイッチが入ったというか、なぜかちゃんとやんなきゃって思ったんです。

                                          そこから「豆の木」に本格的に参加しはじめました。「豆の木」は若手のおもしろい人たちがたくさんいたので、それで仲間がいて楽しかったなっていうのはありますね。

                                          最近は「オルガン」の仲間ができてきて、仲間に引っ張られてやってるって感じです。

                                          ぼくはぜんぜん主体的じゃないです(笑)。完全受け身、ずうっと受け身です。。言われたらやるみたいな。

                                          筑紫 だけど「オルガン」の座談会でいちばんえばってるじゃない(笑)。


                                          中西 そう、発言力がつよい。


                                          田島 おしゃべりなんです(笑)。おしゃべりなんでしゃべっちゃうんですけど、ほんとは受け身です(笑)。

                                           そのかたわらで、やっぱり仕事があるじゃないですか。社会人として、そこはもうなかなか苦労してるんで、そっちの問題の方が自分にはすごく深いんですよ。そっちも楽しくないんですけど(笑)。

                                          でも、最近、俳句をやるってことと、自分のシリアスな問題とがだんだんリンクしてきて。

                                          さっき現実現実って言いましたけど、なんで自分にとって俳句で現実みたいなものが問題になるのかとか、そういうことを考えるのはすごく楽しいんですよ。

                                          評論書くまでは力がないんであまりやらないんですけど。


                                          筑紫 いやいやいや。


                                          田島 そういうことを「オルガン」でも、座談会でみんなで考えようと。そしたら鴇田さんなんかもすごく興味をもって、よしやろうって感じになっている。っていうところで引っ張られながらやっているというのが現状です。


                                          筑紫 「オルガン」でしゃべってるまま書けば評論になるんだから(笑)。


                                          中西 田島さんほんとにすごく話が上手。


                                          筑紫 鴇田さんを叱りつけてるようなところもありますよね(笑)。



                                          田島 そんなことないですよ(笑)。でも鴇田さんは世の中ではクールで、あまりしゃべらなくて、作品はよくてみたいなイメージがあって、ずるいんですよ(笑)。まあ、そこは楽しくやってますね。


                                          筑紫 なんとなく感じたんですけど――われわれは能村登四郎、藤田湘子の選をうけてかなり幸福だと思った時期があったんだけれど、どうですか、田島さんやいまの若い世代はそういうのって。


                                          田島 あんまり若い子はないんじゃないですか。


                                          筑紫 ねえ。いまの聞いてでも友達の付き合いが主だから。あまり主宰の選とかで、有頂天になるとかね、そういうことが……。


                                          田島 はやいうちに作品を認められたとかそういう経験があれば違ったかもしれませんけど、ぽくはそんなでもないので。賞に応募したりとかっていうのはありますけど……。


                                          筑紫 賞っていうのはやっぱり客観的じゃないですか。主宰に認められるっていうのはかなり濃蜜な主観性がありますよね。


                                          田島 うちの主宰の石寒太はすごい自由というか‘やっぱり加藤楸邨が結社をやるときに弟子たちのいろんな個性を認めた――認めたのか勝手にやらせたのかわかんないですけど、そういうやり力を結社にもちこんでやってらっしゃると思うんですね。だからそのなかでわれわれはかなり自由にやらせてもらっている。

                                          さっきの宮本佳世乃とか近恵とか齊藤朝比古とか同し結社ですけどみんな考えも作風も全然ちがいます。ほんとに勝手にやってますね(笑)。

                                          先生みたいな句はつくってないし、つくれないですね、


                                          筑紫 ほとんど、マスターしましたよね、先生の句は。


                                          中西 そうですね。


                                          筑紫 書けと言われれば能村登四郎流の句はいくらでも書けるし、湘子流の句は――


                                          中西 湘子流の句、もちろん書けます(笑)。


                                          筑紫 だからもしそれがわからないとすると――田島さんが議論したいテーマとして挙げていた――俳壇とはなんなのかということが理解できないかもしれない。だって先生とも関係がないんだったら俳壇なんて付属物みたいなものですよね。


                                          田島 思ったのは、俳句が楽しいか楽しくないかという話でいうと、そもそも俳句をやるということ自体がどういうことなのかというのを常々考えるんですね。

                                          たとえば、「わたし俳句やってます」って言ったときに、小学生が学校の課題で俳句をつくったとしても別に小学生はわたし俳句やってますとは言わないじゃないですか。

                                          逆にわれわれはたとえば一か月二か月俳句をつくれなかった期間があったとしても基本的には俳句をやっているという意識が切れないわけですね。

                                          だから俳句をやるっていうのは、ただ俳句をつくってるかどうかではなくて、俳句のもってる見えない部分と繋がってるんじゃないか。

                                          さっき作品主義っておっしゃったんですけど、現実的にはみんな、いろんな良さがある、いろんな作品があるという前提に立っていて、俳句をやるということが俳句の中心から離れていってると思います。

                                          たとえば句会が楽しいとか、さっき言いましたけど、仲間といるのが楽しいとか、俳句を論じてるのが楽しいとか、いろんな楽しみ方が出てきているというのが今の俳句の現状で。

                                          もっというと、その結田へ俳句作品そのもののよしあしっていうのはじゃあ一体どこにあるんだという議論は棚上げされてるかなと思います。

                                          俳句は写生だって言いますけど、みんな自分の句は写生だと思ってる。

                                          いろんな写生がある――こっちでホトトギスの写生かあれば、こっちは人問探求派なんだけど自分の句は写生ですっていう人がいる。

                                          よくいえば多様化なんですけど、悪くいうとその辺がかなりゆるゆるになっていて、じゃあ作品つくろうというときになにをよりどころにするんですかと。

                                          昔から結社でやってた人たちはある程度そこを経験的にわかってるんですけど、いま若い子たちが結社もあまり興味ないっていう話になると、句会が楽しいですとか、あるいはサブカルとかぜんぜん別のジャンルに価値を見出したりとか。そういう足元が覚束ない状態になってるだろうと感じますね。


                                          筑紫 やっぱりなにかが違うんだろうというのは言いがたいけどあるような気がしてたんですけど――たとえばさきはどの図(「俳諧國」)【注1】でね、「等身大派」で石田郷子と中西夕紀、仙田洋子がいて、なにがおかしいのかと思ってたんですが…

                                          …たとえば私が思うのは、金子兜太も夏石番矢も私もメロドラマ派かなと。

                                          いい意味と悪い意味がありますけど、どんな傑作も世界で生まれた夊学の半分はメロドラマだと思えば、そういう意味でのメロドラマ派があって、たぶん中西さんも仙田さんもメロドラド派しゃないかと。

                                          「分からないとダメ派」の櫂未知子もメロドラマ派のような気もする。

                                          で、それを越えちゃった石田さんとかというのはメロドラマ派じゃない。

                                          田島さんなんかはどららかというとメロドラマ派に足を踏み込んでそうな……そっちの図式のほうが俳句をわかりやすくしてくれるかもしれないなと。

                                          やっぱり、中身があってそれにふさわしい表現があって――表現は大事だけど、それであるものを映し出したいという、そういう意識というのがもうひとつあるような気がするんですけどね、金子兜太と夏石番矢とは、ぜんぜん違うんだけど、どこかわかっちゃうというのはそういうところかなあと思います。


                                          田島 磐井さんの『戦後俳句の探求』が今年出て、やっぱり戦後の俳句がきちっとわかるし、なるほどと思ったんですけど、ただ金子兜太までの歴史じゃないですか。

                                          ここからさきというのが――まあ、昭和三〇年世代といわれるような、亡くなった田中裕明さんとか、長谷川櫂さん、小澤實さんとかがいるんですけど――金子兜太以降の歴史とはかなり断絶してるというか。

                                          なのでいまの若い人たちは金子兜太とあんまり繋がってなくて――ようするに戦後俳句と繋がってなくて、むしろさきほどの昭和三○年代の人たちにシンパシーを感じていて、新古典主義というか、虚子へ回帰する世界を無意識に引きずっている印象を受けます。

                                          そこに対ずる疑問はもってますね、


                                          筑紫 たぶん、兜太を中心とした戦後派は自分たちでちゃんと歴史つくって、序列化もつくっちゃったから――きれいなもんですよ、昭和四五年くらいまでは、伝統派であれば龍太・澄雄だとかね。

                                          登四郎は若干外れていたとか(笑)、きっちりと自分たちでつくっていたんだけど、よくないのは戦後生れ派ね。

                                          われわれも含め小澤實も長谷川櫂もそういうきっちりした図式をつくらないじゃないですか。

                                          おれがえらいとはみんな思ってるけど、相互にどういう関係になってるかっていうのはあまり考えてない。だからことによるとそれができないと、歴史が残らないかもしれない。

                                          戦後派はちゃんと自分たちで図式つくったから、それで戦後史を書いてみろと言われれば――いろいろな書き方はあるにしろ――できるけど戦後生まれ派の歴史って書けないでしよ。


                                          田島 そうですね、戦後派って呼ばれる人たちはすごく主体的に勤いてるなって感じはすごくあります。自分はこうだっていうかたちで。

                                          いま言った昭和和三〇年代の人たらはいわゆるポストモダンの世代の人たちで、意味ってそんなに必要だっけみたいなスタンスに立ってる気がするんですね。


                                          だから社会性俳句とか人間探求派とかは書くためのテーマについて、「なにを書くか」を考えていたんですが、ポストモダン世代の人たちは俳句を「どう書くか」のほうに興味があってそこを立脚点にしてるので、若い人たちもそっちにシンパシーを感じてるんじゃないかと思いますね


                                           俳句は意味がないのがいいんだっていう考え方をもってる人たちはいま多いんじゃないかと思いますが、じゃあそこで言ってる「意味」ってなんなのっていうラディカルな問いかけを語っていくのかがすごく大事だと思います。

                                          ただそれをやりすぎると抽象化しすぎちゃって、じゃあ現実問題どうすんのみたいな(笑)、政治的な問題は浮き上がっちゃうよねという話しになるんで、この辺がいま境い目になってるかなと。

                                          関悦史さんなんかはそこに一石を投じていると思います。


                                          筑紫 ただ、これに答えはないね。


                                          田島 ないですね。個々人の倫理観のなかでやってかないといけなくなってくるんで。

                                          客観的に見ると、世の中がこんなに殺伐として、ヨーロッパではあんなことになってるのに、日本では桜がきれいだなみたいな俳句をつくってていいんですかっていうようなことが暗に問われている。だれも言わなくても、もうそこが問題になってきちゃっているという緊張感がありますよね。 



                                          【注1】「クプラス」第2号別冊付録「平成二十六年俳諧國之概略」のこと。
                                          抜粋「俳誌要覧2015」(東京四季出版・2016.3刊)〈俳誌回顧2015〉より① 「クプラス」評抄録
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                                          ※前後の記事は「俳誌要覧2016」をお読み下さい。  




                                                


                                          東京四季出版 「俳句四季」