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2016年7月8日金曜日

抜粋「俳誌要覧2016」(東京四季出版・2016.3刊)〈俳誌回顧2015〉より④  「ほんとうにわれわれは楽しいのか」(全文)

(鼎談: 中西夕紀×筑紫磐井×田島健一 )



――今回、事前の打合せで議論したいテーマをうかがったところ、磐井さんから「ほんとうにわれわれは楽しいか?いつが楽しかったか?」という問いが寄せられました。非常に興味深い設問だと思われますので、最後にこのテーマについてお話しいただこうと思います。

筑紫 俳句を今まで続けてきてるなかで、やる気になったり、抑えちゃったりすることもあるんですけど、有り体に言って、なんで今まで続けてこられたのかが気になったのです。俳壇なんか意識しないで自分たちだけでやってきて、それには動機があったんですが、私は自分についてはわかっているので、むしろお二人に訊いてみたいと思って設けた問いです。まあ単純に言えば、雑詠欄に出してて、やっばりなんのかんの言ったって一・五流の先生だってとられると嬉しいじゃないですか(笑)。

たぶんそういうなかでことばのトレーニングみたいなのを重ねていってそれがツボにはまると非常に気持ちいいというか、基本的にはそれが俳句の第一歩なんでしょう。私も今はわけのわかんない俳句はつくってるけど、最初はそういうことでスタートをした。ただ、お二人と違うのは俳句はほどほどになって、途中で評論書きはじめたら俳句よりはるかにおもしろいわけですよね(笑)。

「沖」という雑誌はページが余っててしょうがなかったんで若い人にいくらでも書かせてくれて、恵まれた環境にありました。その後は……今なにが楽しいかっていうと、それなりに企画して当たることがあるわけですよ、『新撰21』とかね。

新しい雑誌をたててみるとか。だからほんとに楽しいと思う内容は少しずつ変わってきてるんですが、お二人はどうなのかなあと。中西さんもいちばん最初は湘子選をうけてて、すっかり悦に入っちゃうというところは変わらないかなと思うんですけど。


中西 それは同じですね。

‥最初は藤田湘子選に入るのが嬉しかったわけですけども、一五年くらいやって――今から考えれば親離れですね、先生から離れて、今度は自分で好きなようにやりたいと思ったときに同人誌に入りました。「晨」という関西の同人誌なんですが、束京と関西と離れてるのでけっこう自由にできるかな、と。先生の眼から離れてるので(笑)。

それで今度は自分の俳句をもう一度見直して――私の場合は最初は藤田湘子選だったので「馬酔木」系から入ったわけだけれども、「鷹」をやめてから、今度は写生をやりたいと思ったんですね。それでなるべく写生をやってる先生を探しました。写生系というと「青」系がおもしろそうだなあと。でもぴんぴんの「青」じゃちょっときついので「晨」ににして、大峯あきら・宇佐美魚目という先生たらから写生を学はうと思って両方の先生の句会に通ったわけですね。

東京では写生系の人として岸本尚毅さんたち――ようするに「青」系の人たらといっしよに吟行会をやって。それで払がその人たらにつけたあだ名が「ド写生」の人たらで(笑)、

そういう人たちといっしょに写生句をつくっていくのはすごく楽しかったですね。やっぱり自分がやりたいと求めてるものに向かってつくってるときがいちばん楽しいですよ、それで今度自分で結社誌を作ったら反対に雑用が多くて、ぜんぜん自分の好きなことができないということがよくわかって(笑)。

俳壇的な仕事も増えてくるとますます自分の好きなことがやれない、そういうところで、いまはちょっと、おもしろくないかな(笑)。


筑紫 湘子の選をうけてたときの楽しさと、「ド写生」の先生の選をうけてたときの楽しさとはやっぱり違うんですか?


中西 それは違いますね。

俳壇的に華々しいのは湘子先生のところにいたときのほうが若手として俳壇に出て行けたので、その点では満足でした、それから自分の俳句を見つめるっていう段階で「晨」に行ったら、反対にまったく俳壇とは没交渉になってしまって、地下に潜っちゃった感じで。

作品を発表することもなくなってしまったんですけど……たぶんそのときは自分を耕してたんですね。自分を耕してるときがいちばん楽しかった。外に出られなかったのはかなしかったんですけど。かなしいんだけれども、やってることはいちばん充実してたかなあ。


筑紫 脱皮というか、自己変革みたいな。


中西 それはありますね。

俳句って、いちばん最初、俳句やりませんかなんて言われてるときは、どの先生につくかなんてのは決めてないですよね。私の場合は、松本でたまたま宮坂静生先生に会いました。

そこで俳句をはじめて、東京に転勤になって、宮坂先生の紹介で藤田湘子先生の弟子になりました。幸運な偶然のまま一五年きたけども、今度は自分で先生を探したところがあるので、そこから自分の俳句人生かもう一回はじまったのかなあと思います。

今思えば凄い先生四人に教えてもらったのは幸運でしたが、思い返すとそのいちばん苦労したときがいちばん楽しかったかなあと。いまはおかげさまでとっても幸せなんですけど、幸せと反対に自分の時間を提供してるところがあるかなと、でもそれはしょうがないことですよね。


筑紫 俳句をちゃんとやってるんですね(笑)。私みたいに俳句をちゃんとやらないで言うのとは違うから(笑)。


中西 俳句はちゃんとやってます(笑)。つくる方が大切だと私は思ってるので。評論よりも実作が勝負かなと私は思ってます。


筑紫 長い付き合いだけど、初めて聞きましたね(笑)。


中西 田島さんだって俳歴が長いですよね。


田島 ぽくは俳句ってそんなに楽しいのかなあ……っていつも思ってますね。


筑紫 われわれから外れた、田島さんから現在の若い人たちまで含めての世代は、俳句をどう楽しいと思ってるんだろうと。


田島 ぼくよりもずっと若い子たちはまた違うと思うんですけど。ぼくなんかほんとに狭間の世代かなと思うんですけど……はじめたのが早かったので。中学生くらいにはじめたんですね。

そうすると、同世代ぜんぜんいないし、今みたいにインターネットなんか発達してないんで、仲間ぜんぜんいないですから、句会に行くとおじさまおばさまばっかりだし。なにが楽しいんだろうっていう時間が長かったですよね。

苔いとちやほやされるから、まあ、って感じで続けてきましたけど。

大学卒業して就職したときに、さぽりさぽりやってる感じがあったんですよ。欠詠も多かったし。

そんなとき大石雄鬼さんに言われたんですよ。最近どうしてるの?って言われて、欠詠ぎみなんです、って話をしたら、若いころからやってて社会人になるとやめらやう人多いんだよねみたいな言われ方をしたんですよ。

それ聞いて、あっ、と思って。スイッチが入ったというか、なぜかちゃんとやんなきゃって思ったんです。

そこから「豆の木」に本格的に参加しはじめました。「豆の木」は若手のおもしろい人たちがたくさんいたので、それで仲間がいて楽しかったなっていうのはありますね。

最近は「オルガン」の仲間ができてきて、仲間に引っ張られてやってるって感じです。

ぼくはぜんぜん主体的じゃないです(笑)。完全受け身、ずうっと受け身です。。言われたらやるみたいな。

筑紫 だけど「オルガン」の座談会でいちばんえばってるじゃない(笑)。


中西 そう、発言力がつよい。


田島 おしゃべりなんです(笑)。おしゃべりなんでしゃべっちゃうんですけど、ほんとは受け身です(笑)。

 そのかたわらで、やっぱり仕事があるじゃないですか。社会人として、そこはもうなかなか苦労してるんで、そっちの問題の方が自分にはすごく深いんですよ。そっちも楽しくないんですけど(笑)。

でも、最近、俳句をやるってことと、自分のシリアスな問題とがだんだんリンクしてきて。

さっき現実現実って言いましたけど、なんで自分にとって俳句で現実みたいなものが問題になるのかとか、そういうことを考えるのはすごく楽しいんですよ。

評論書くまでは力がないんであまりやらないんですけど。


筑紫 いやいやいや。


田島 そういうことを「オルガン」でも、座談会でみんなで考えようと。そしたら鴇田さんなんかもすごく興味をもって、よしやろうって感じになっている。っていうところで引っ張られながらやっているというのが現状です。


筑紫 「オルガン」でしゃべってるまま書けば評論になるんだから(笑)。


中西 田島さんほんとにすごく話が上手。


筑紫 鴇田さんを叱りつけてるようなところもありますよね(笑)。



田島 そんなことないですよ(笑)。でも鴇田さんは世の中ではクールで、あまりしゃべらなくて、作品はよくてみたいなイメージがあって、ずるいんですよ(笑)。まあ、そこは楽しくやってますね。


筑紫 なんとなく感じたんですけど――われわれは能村登四郎、藤田湘子の選をうけてかなり幸福だと思った時期があったんだけれど、どうですか、田島さんやいまの若い世代はそういうのって。


田島 あんまり若い子はないんじゃないですか。


筑紫 ねえ。いまの聞いてでも友達の付き合いが主だから。あまり主宰の選とかで、有頂天になるとかね、そういうことが……。


田島 はやいうちに作品を認められたとかそういう経験があれば違ったかもしれませんけど、ぽくはそんなでもないので。賞に応募したりとかっていうのはありますけど……。


筑紫 賞っていうのはやっぱり客観的じゃないですか。主宰に認められるっていうのはかなり濃蜜な主観性がありますよね。


田島 うちの主宰の石寒太はすごい自由というか‘やっぱり加藤楸邨が結社をやるときに弟子たちのいろんな個性を認めた――認めたのか勝手にやらせたのかわかんないですけど、そういうやり力を結社にもちこんでやってらっしゃると思うんですね。だからそのなかでわれわれはかなり自由にやらせてもらっている。

さっきの宮本佳世乃とか近恵とか齊藤朝比古とか同し結社ですけどみんな考えも作風も全然ちがいます。ほんとに勝手にやってますね(笑)。

先生みたいな句はつくってないし、つくれないですね、


筑紫 ほとんど、マスターしましたよね、先生の句は。


中西 そうですね。


筑紫 書けと言われれば能村登四郎流の句はいくらでも書けるし、湘子流の句は――


中西 湘子流の句、もちろん書けます(笑)。


筑紫 だからもしそれがわからないとすると――田島さんが議論したいテーマとして挙げていた――俳壇とはなんなのかということが理解できないかもしれない。だって先生とも関係がないんだったら俳壇なんて付属物みたいなものですよね。


田島 思ったのは、俳句が楽しいか楽しくないかという話でいうと、そもそも俳句をやるということ自体がどういうことなのかというのを常々考えるんですね。

たとえば、「わたし俳句やってます」って言ったときに、小学生が学校の課題で俳句をつくったとしても別に小学生はわたし俳句やってますとは言わないじゃないですか。

逆にわれわれはたとえば一か月二か月俳句をつくれなかった期間があったとしても基本的には俳句をやっているという意識が切れないわけですね。

だから俳句をやるっていうのは、ただ俳句をつくってるかどうかではなくて、俳句のもってる見えない部分と繋がってるんじゃないか。

さっき作品主義っておっしゃったんですけど、現実的にはみんな、いろんな良さがある、いろんな作品があるという前提に立っていて、俳句をやるということが俳句の中心から離れていってると思います。

たとえば句会が楽しいとか、さっき言いましたけど、仲間といるのが楽しいとか、俳句を論じてるのが楽しいとか、いろんな楽しみ方が出てきているというのが今の俳句の現状で。

もっというと、その結田へ俳句作品そのもののよしあしっていうのはじゃあ一体どこにあるんだという議論は棚上げされてるかなと思います。

俳句は写生だって言いますけど、みんな自分の句は写生だと思ってる。

いろんな写生がある――こっちでホトトギスの写生かあれば、こっちは人問探求派なんだけど自分の句は写生ですっていう人がいる。

よくいえば多様化なんですけど、悪くいうとその辺がかなりゆるゆるになっていて、じゃあ作品つくろうというときになにをよりどころにするんですかと。

昔から結社でやってた人たちはある程度そこを経験的にわかってるんですけど、いま若い子たちが結社もあまり興味ないっていう話になると、句会が楽しいですとか、あるいはサブカルとかぜんぜん別のジャンルに価値を見出したりとか。そういう足元が覚束ない状態になってるだろうと感じますね。


筑紫 やっぱりなにかが違うんだろうというのは言いがたいけどあるような気がしてたんですけど――たとえばさきはどの図(「俳諧國」)【注1】でね、「等身大派」で石田郷子と中西夕紀、仙田洋子がいて、なにがおかしいのかと思ってたんですが…

…たとえば私が思うのは、金子兜太も夏石番矢も私もメロドラマ派かなと。

いい意味と悪い意味がありますけど、どんな傑作も世界で生まれた夊学の半分はメロドラマだと思えば、そういう意味でのメロドラマ派があって、たぶん中西さんも仙田さんもメロドラド派しゃないかと。

「分からないとダメ派」の櫂未知子もメロドラマ派のような気もする。

で、それを越えちゃった石田さんとかというのはメロドラマ派じゃない。

田島さんなんかはどららかというとメロドラマ派に足を踏み込んでそうな……そっちの図式のほうが俳句をわかりやすくしてくれるかもしれないなと。

やっぱり、中身があってそれにふさわしい表現があって――表現は大事だけど、それであるものを映し出したいという、そういう意識というのがもうひとつあるような気がするんですけどね、金子兜太と夏石番矢とは、ぜんぜん違うんだけど、どこかわかっちゃうというのはそういうところかなあと思います。


田島 磐井さんの『戦後俳句の探求』が今年出て、やっぱり戦後の俳句がきちっとわかるし、なるほどと思ったんですけど、ただ金子兜太までの歴史じゃないですか。

ここからさきというのが――まあ、昭和三〇年世代といわれるような、亡くなった田中裕明さんとか、長谷川櫂さん、小澤實さんとかがいるんですけど――金子兜太以降の歴史とはかなり断絶してるというか。

なのでいまの若い人たちは金子兜太とあんまり繋がってなくて――ようするに戦後俳句と繋がってなくて、むしろさきほどの昭和三○年代の人たちにシンパシーを感じていて、新古典主義というか、虚子へ回帰する世界を無意識に引きずっている印象を受けます。

そこに対ずる疑問はもってますね、


筑紫 たぶん、兜太を中心とした戦後派は自分たちでちゃんと歴史つくって、序列化もつくっちゃったから――きれいなもんですよ、昭和四五年くらいまでは、伝統派であれば龍太・澄雄だとかね。

登四郎は若干外れていたとか(笑)、きっちりと自分たちでつくっていたんだけど、よくないのは戦後生れ派ね。

われわれも含め小澤實も長谷川櫂もそういうきっちりした図式をつくらないじゃないですか。

おれがえらいとはみんな思ってるけど、相互にどういう関係になってるかっていうのはあまり考えてない。だからことによるとそれができないと、歴史が残らないかもしれない。

戦後派はちゃんと自分たちで図式つくったから、それで戦後史を書いてみろと言われれば――いろいろな書き方はあるにしろ――できるけど戦後生まれ派の歴史って書けないでしよ。


田島 そうですね、戦後派って呼ばれる人たちはすごく主体的に勤いてるなって感じはすごくあります。自分はこうだっていうかたちで。

いま言った昭和和三〇年代の人たらはいわゆるポストモダンの世代の人たちで、意味ってそんなに必要だっけみたいなスタンスに立ってる気がするんですね。


だから社会性俳句とか人間探求派とかは書くためのテーマについて、「なにを書くか」を考えていたんですが、ポストモダン世代の人たちは俳句を「どう書くか」のほうに興味があってそこを立脚点にしてるので、若い人たちもそっちにシンパシーを感じてるんじゃないかと思いますね


 俳句は意味がないのがいいんだっていう考え方をもってる人たちはいま多いんじゃないかと思いますが、じゃあそこで言ってる「意味」ってなんなのっていうラディカルな問いかけを語っていくのかがすごく大事だと思います。

ただそれをやりすぎると抽象化しすぎちゃって、じゃあ現実問題どうすんのみたいな(笑)、政治的な問題は浮き上がっちゃうよねという話しになるんで、この辺がいま境い目になってるかなと。

関悦史さんなんかはそこに一石を投じていると思います。


筑紫 ただ、これに答えはないね。


田島 ないですね。個々人の倫理観のなかでやってかないといけなくなってくるんで。

客観的に見ると、世の中がこんなに殺伐として、ヨーロッパではあんなことになってるのに、日本では桜がきれいだなみたいな俳句をつくってていいんですかっていうようなことが暗に問われている。だれも言わなくても、もうそこが問題になってきちゃっているという緊張感がありますよね。 



【注1】「クプラス」第2号別冊付録「平成二十六年俳諧國之概略」のこと。
抜粋「俳誌要覧2015」(東京四季出版・2016.3刊)〈俳誌回顧2015〉より① 「クプラス」評抄録
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※前後の記事は「俳誌要覧2016」をお読み下さい。  




      


東京四季出版 「俳句四季」  










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