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2016年7月22日金曜日

【抜粋「WEP俳句通信」90号】 連載 <三橋敏雄「眞神」考 3>より抜粋  / 北川美美

今朝の朝日新聞<文化・文芸>に大橋巨泉さんへの追悼と一句が掲載されていた。

大橋巨泉さんの原点は、太平洋戦争敗戦の経験だった。
国民学校6年生、11歳だった終戦の年の8月15日まで「天皇陛下のために敵と戦って死ぬ」と考え「必ず神風が吹き、日本が戦争に勝つ」と信じる軍国少年だった。だが敗戦で頭の中が真っ白になり「翌年まで混乱し記憶がなかった」。「価値観が百八十度変わる体験は二度としたくない」。そんな思いで自由や個人、平和民主主義を貴んだ。

(中略)

浴衣着て戦争(いくさ)の記憶うするるか  

大学時代の一句を、だいじに胸に秘めた半生であった。
(朝日新聞 平出義明)

今も戦後である。けれども、あの8月15日を知っている人によって、戦後の日本が築かれてきたことを思う。

***

前号の92号抜粋から逆戻りになるが90号(眞神考3)の抜粋を掲載する。

俳句は書いてあることが全てである。しかしながら、書いてある言葉から、書かれていない敗戦、戦後を思わせる気がしてならなかったのが、この「眞神考3」での鑑賞だった。敗戦、戦後と思うことで句の解釈が私の中では解決したのだ。これは個人的なある鑑賞である。他の鑑賞を呈示していただくことができれば、私の鑑賞もある意味役に立つかもしれない。

いろいろな論議を経て誰が何を言ったのかがわからなくなるくらいの月日が過ぎて名句入りすると敏雄は言っている。(「名句の条件」楠本憲吉との対談・アサヒグラフ増刊号昭和六十三年七月)

「眞神考3」で鑑賞した、<⒃ 著たきりの死装束や汗は急き><⒄ 眉間みな霞のごとし夏の空>においては、その情景は、敗戦日のことではないかと思え、そのように思うことにより、眉間がどうして霞のごとしなのかが解決した。白泉の<玉音を理解せし者前に出よ>を思えば、句意がみえてきた。 作者が生れた世代、作品の制年は大いに考慮すべき点である。 (敏雄はそれを敢えて外した、と句集後記に書いている。作品の制作にはその時代背景は敢えて詠う必要が無いというのが敏雄の信念でもある。)


また、解釈が難解と言われている <⑹ 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ>についても書いた。

ネットでは三橋敏雄信望者である村井康司さんの「真神を読む」が64句まで見られるので、村井氏の鑑賞もご参照いただければと思う。恐らく、村井さんが最後まで鑑賞を掲載しなかったのは、「眞神」を鑑賞することのある無意味さ、鑑賞の敗北感(不可解という意味でなく)があったのではないか。作品が全てである。私の鑑賞も無意味である。敗北の連続。それだけ「眞神」の鑑賞難易度傾斜は絶壁に近い。 それが俳句であるとしかいいようがない句であることは確かだ。だからこそ、一句としての鑑賞を行っていくことに意味はあると信じている。


以下は抜粋であるので、詳しくは、90号をお読みいただきたい。



眞神考 3  動き出す言葉 

<前書>

『眞神』は読者の観念により言葉が動き出す。具体的には、読者の中にある言葉による観念が連鎖していき俳句形式の中であるドラマを創り出す。それぞれの読者の脳内へ浮かぶ映像イメージに賭けているのである。

<鑑賞>

⑷ 母ぐるみ胎児多しや擬砲音

無季句。冒頭一句目の「馬の音」(昭和衰え馬の音する夕かな)に次ぎ「擬砲」とした音が読み手の脳裏に向けて発射されてくる。

(中略)

胎児自らは知りえない母体という小宇宙の闇の先にマクロな大宇宙の暗黒が暗喩され、その闇を伝わる心臓の拍動がスローモーションのように「擬砲」として人体という宇宙に鳴り響いていると私は読む。昭和四十年代の高度成長期において、この闇の中を詠む創作の視線は、戦争とは何か、戦後を生きる人々への問いでもある。そして究極には「俳句とは何か」という問いが内包される「砲」が発射されていると解析する。
前句「鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中」のミクロな世界とも関連している配列である。

⑸ ぶらんこを昔下り立ち冬の園

季語あり(ぶらんこ/冬の園)。ぶらんこを過去に降り立ったところが「冬の園」であるというところから冬の歳時記に所収されるのだろう。

(中略)

いつの昔かわからない「昔」を曖昧な過去とし、「冬の園」という別世界を思わせる。それまでの俳句概念から別の場所へ下りたった敏雄の境遇、具体的には「冬の園」を新興俳句が辿った荒野として考えることもできる。自己の俳句に於ける境遇を受け入れ現在まで時が過ぎた感慨の句と読める。「冬の園」へいくための「ぶらんこ」が規則的な時を刻む振り子の役目を果たしている。
参考までに、「昔(むかし)」という曖昧な言葉を用いた句は当時の朋友に作がある。実際に山本紫黄、大高弘達、そして高柳重信の次の句である。

むかしより蕎麦湯は濁り花柘榴  山本紫黄
軽石の昔ながらに軽き夏   大高弘達
われら皆むかし十九や秋の暮  高柳重信

昔という尺度は作者、読者により捉え方が異なる。紫黄、弘達の「今に通じる昔」であるのに対し、重信・敏雄の「昔」は「もう戻れない昔」というニュアンスだろうか。

(後略)


⑹ 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ

後半の「父なる杭ひとつ」を主格とし、杭が「晩鴉を撒き散らす」という倒置法による読みにより景が浮かび上がる。サイコサスペンスのような景であるが、父なる杭が、大地の男根、あるいは人柱だったかもしれない男たちの碑というように読め、その杭があるからこそ晩鴉が撒き散らされているように見える。

(中略)

敏雄は句意を排除するように「言葉」と「言葉」による喚起力、言葉がもたらす響き、陰影、情念により句を推し進め、言葉が立ち上がり動きだすようだ。

「父への祝祭」と意識するその理由は、五十五句目の『眞神』のタイトルともなる次の句と飛び交う鴉たちの光景が重なりあうからである。句集中で対になっていると分析する。
草荒す真神の祭絶えてなし (55) 

後に収録される『現代俳句全集四』(立風書房)中では、この〈晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ〉の句が冒頭になっている。『現代俳句全集四』にて掲句を冒頭にした理由を考えるに、父なる杭となった新興俳句先師たちの供養として鴉が撒き散らされ、その祭がこれからはじまるという読みの可能性がさらに確信を得る。

「杭ひとつ」としているのは、昭和四十五年に急逝した渡辺白泉への追悼という見方もできる。掲句に込める新興俳句の先師への敏雄の思いが推察できるといえよう。


⒃ 著たきりの死装束や汗は急き

まず「死装束」は、死が確認された後に御遺体に着せる衣であり、それが「着たきり」であるということは通常外のことだ。さらに「汗は急き」がその死装束を着ている御遺体の汗なのか、それとも御遺体をみている作者がかいている汗なのか鑑賞の着地点が定め難い。

戦時下を経験した敏雄の目に映ったものを想像するならば、太平洋戦争での兵士の戦場での死ではないだろうか。そして書かれていないことから推察するに「汗は急き」は八月十五日の敗戦の日の暑さからの汗だろう。敗戦を知らず戦場で軍服を着たまま息絶えた兵士たちの姿が浮かんでくる。

前回引用した『名句の条件』を再度みてみよう。

(前略)内容から早く喚起力が薄れる。「終戦」や「敗戦」もそうですよ。「八月十五日」というのはそのうち何の日かわからなくなる。そういうふうに風化していく速度が速い気がするんです。(中略)これは時代性とか時事性とかにかかわって詠んだ全部の句についてもいえる。いわゆる社会性俳句もそうだ。なんとなく現象の方が先にいっちゃうんですね。だから批判なり反発しようと思った対象がかわっちゃうでしょう。(中略)相対的な関係だと思いますが、時代とか社会現象というのは移りやすい。(「名句の条件」楠本憲吉との対談・アサヒグラフ増刊号昭和六十三年七月)

敏雄の言葉の通り、確かに掲句は、敗戦日とわかることは書いていない。連載の第一回にて述べた通り、戦火想望俳句の実作について敏雄は後悔の念を持っていたに違いないと考察した。かの大戦を詠み続け、かの大戦が何であったのか、敗戦という日本をどう生きていくべきなのかの問いが敏雄の戦火想望俳句からの脱却だったのだろう。

更にこの句から思うことは、御遺体に「死に水をとる」儀式が済まされていないことである。死者を生き返らせたいと願う最後の儀式である。この死装束を着た兵士かもしれない御遺体の死に水ととるのは、わたしたち読者なのかもしれないということだ。

(後略)

⒄ 眉間みな霞のごとし夏の空

季語あり(夏の空)。「眉間」は表情がでるところである。その眉間が霞のごとく見えるというのは、恐らく人の表情がはっきりと見えないということだろう。
この「夏の空」もまた敗戦日の空のことだろう。あの八月十五日を境に逆様になった世の中の様々なこと、それに困惑する人々の表情を「霞」としていると読める。
それは戦後をどう生きてゆくのか、生きて行くべきなのかという問いでもある。民意を暗喩して「みな」が効く。



▼言葉の働き

敏雄は「俳句とは何か」の問いに俳句で答えていった。一求道者として作品至上主義であり続け、作品をもって語らせるにとどめたからだろう。敏雄の俳論が多く残っていない理由でもある。残された鼎談の発言記録から一句の中の言葉の働きについてどう考えていたのかをみてみたい。

「俳句」(昭和五十三年四月号)での上田五千石・山田みづえ・三橋敏雄の鼎談「新しき流れをさぐる」は二十七頁に渡る長い座談会記録である。その中の「初めに言葉ありき」の箇所にて敏雄は、ものをみる場合、まずは日本語で考える、詞、文字が必要になり、「書く」行為へと繋がる過程を言う。そして芭蕉の「心の作はよし、詞の作好むべからず」を説いていく。

三橋:(前略)妄想の場合も妄想を意識した瞬間には断片的にしろ日本語によるイメージになっていませんかね。(中略)自分がいくら虚心になってなにを見るにつけてもその対象物を必ず日本語で考えているわけですね。俳句のかたちにするときは、勿論そこからの詞、さらに文字でね。(後略)

三橋:(前略)「詞の作」とは技巧的なてらった言葉だとか大げさな言葉だとか落ち着かぬ言葉だとか、いずれにしろ、あしき言葉の作はいけんのであって、「心の作はよし」というときの、結果的には、すべて、よき言葉の作でなければならぬことになります。(後略)

三橋:(前略)一句に書かれて表現を完了した所から、それ以前の段階で社会的背景、個人的条件、その他、いろいろと関わり合っているにちがいないけれどもそういう事実に対して、書かれた俳句作品は一個の存在としてフィクション性を帯びます。対象としての事実は事実であっても、これに対置する作品は言葉の世界としてあるに過ぎませんから―。その言葉を介して窺い知ることが可能な世界は、言葉の働きの如何に尽きる。(後略)

言葉は、書かれる以前に様々な事象背景と相対関係にありながら、言葉となりそして一句となる。しかし俳句形式として書かれた時点で、言葉は別の世界を創り、そして動き出す。敏雄は「言葉の働きの如何につきる。」と言い切り、言葉(詞)の重要性を説く。

三橋:(前略)気配を察知する感覚、いわゆる五感を挙げて感覚するところに、ありきたりのものでない世界を覗き、これに近づくためには、それこそ微妙な気温の差だとか、風の流れだとかありとあらゆるものの手を借りて、なにかに助けてもらわないと見えてこないところがある。


▼「風雅」の追求

言葉を動かすには、言葉に関わる気配を察知する感覚、五感の力を借りる必要がある。それこそが、蕉風の追及した「風流・風雅」の世界だろう。敏雄は新興俳句が求めた新しさをさらに蕉風俳諧に遡り「俳句とは何か」「新しさとは何か」ということを追及していく。反伝統を旗印にした新興俳句運動から敏雄は俳句に目覚めたにも関わらず、蕉風理念の「風雅」を追及していくのだ。 

蕉門が伝える俳論『三冊子』において、俳諧詠作の根底にあるべき純粋な詩情を「風雅の誠」という言葉が出て来る(「赤さうし」冒頭)。自己胸中の詩情を宇宙の根源的事実に通ずるものとするとらえ方のことである(俳文学大辞典/尾形功解説)。言葉の働きは一句が創り出す宇宙を覗くための部品にしか過ぎないが、その部品が無ければ、先の世界を覗くことも出来ない。言葉は極めて重要な働きをする。

敏雄に俳論が少ないことを、芭蕉の姿勢に重ねることにより、その理由を多少なりとも理解することができる。敏雄は自分の思想が師伝とされ後世を縛るものとなることを恐れたのではないか。そして一句の読解が固定化されることを嫌ったことも考えられる。ならば、敏雄の俳句を残すには、読み継ぎ、ひとつの読みを書き遺すしか方法がないことになる。

言葉が句となり、さらにその一句一句が動き出し、問いかけ映像を創り出す。『眞神』における、句の先に見える宇宙には、戦後日本の精神性を問い直す暗喩が多く含まれていると私は読む。それは敏雄自身への問いであり、そして読者への問いでもある。



※詳しくは、WEP俳句通信90号をご覧ください。




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