【俳句作品】
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【戦後俳句を読む】
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- 『二十四節気論争』(追加)
元始祭(1月3日)
新年宴会(1月5日)
紀元節(2月11日)
神武天皇祭(4月3日)
天長節(4月29日)*
神嘗祭(10月17日)
明治節(11月3日)*
新嘗祭(11月23日)*
大正天皇祭(12月25日)
春季皇霊祭(春分日)*
秋季皇霊祭(秋分日)*
俵あむ子に成人の日の来り 石楠27・11 横尾永春※国民の祝日に関する法律によれば「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」こととされ、旧暦では1月15日は小正月に該当していた。
天皇誕生日紫陽花に草毟る 俳句 27・8 畦見喜太郎
田圃より見ゆ天皇誕生日の国旗 石楠 28・8 石塚蕗雄子
水底に微温天皇誕生日 青玄 29・9 蛯名豚花
子供の日子のさみしきに責を負ふ 暖流 24.7 大島龍子
ででむしが旭え角かざし子らの日だ 道標 27・12 古沢太穂※国民の祝日に関する法律によれば、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」こととされ、旧暦5月5日は端午の節句にあたり、男子の健やかな成長を願う行事が行われていた。
夜明けから薪割って勤労感謝の日 石楠25・3 安倍布秋
骨ぐるみ鮒食ふ勤労感謝の日 同 26・1 西村◆笛
雨に濡れ鉄打つ勤労感謝の日 氷原帯 27.2/3 福島真蒼海
円ら眼の嗣治の裸婦よ巴里祭 馬酔木年刊句集 岡田貞峰
巴里祭しのぶか森の家に楽 馬酔木 28・10 竹中春男
汝が旨の谷間の汗や巴里祭 青玄 28・9 楠本憲吉※当然のことながらフランスの革命記念日。ルネ・クレールの戦前の映画(原題Quatorze Juillet)で有名、命名は川喜多長政。あるいは楠本憲吉の句で有名か。
バードデー鴉に種藷盗られしのみ 寒雷 29・8 高坂白峰
婦人デー雪ふかく積み屋根屋根の灯 道標 27・12 富山青波※労働省(現在の厚生労働省)が1949年に「婦人の日」として制定。1998年に「女性の日」に改称。ちなみに国際婦人デーは3月8日。
農民祭土蔵ぬりかへられてゐる 石楠 26・1 堀川牧韻※不詳。秋から冬にかけての季語として用いられているようである。収穫祭の意味であろうか。
復興祭わびしや柿の皮をむく 太陽系 22・1 伊藤正齊
復興祭ネオンが吾をさびしくす 暖流 22・11 中村研治
おでんの灯文学祭は夜となりぬ 俳句 23・1 山口青邨※不詳。秋から冬にかけての季語として用いられているようである。
独立祭金魚は玻璃を占めて泳ぐ 俳句研究 21・9 大野林火※具体的場面が分からない。「独立祭」が海外のものなら、アメリカの独立記念日かフランスの革命記念日(巴里祭)となる。少なくとも詠まれた年から考えてサンフランシスコ講和条約発効の日ではないようだ。
ところで、還暦の祝賀とは、いったい何なのであろうか。今年は、この西東三鬼の他に永田耕衣もそれに当たった。そして、来年は、山口誓子、中村草田男、秋元不死男、滝春一などが、同じように還暦を迎えるわけであるが、この人生における一区切りは、何を意味しようとして殊更に意識され、かつ祝われるのであろうか。
おそらく、くせものは、この「祝う」という皮肉な儀式の中にひそんでいるのであろう。これは、夭折をまぬがれ得て生き延びてきたことの目出たさを単純に祝福する、いわば目出たずくめの儀式ではなさそうである。それは、一面において、長期にわたった権威の座からの引退のうながしを含んでおり、また他面においては、いよいよ伝説の人としての門出を意味するようでもある。それは、敬して遠ざけることによって、その老残の醜をさらすのをかばい、同時に、自らの進路を清掃するという、後進としての人間が古来つみかさねてきた残酷にして能率的な知恵の現われでもあろうか。ともあれ、一種の晴れがましさと、もの淋しさとが入り混じったような、この残酷な儀式は、そこに
何ごとかの痛烈な思い知らせを含んでいるかぎり、僕もまた、強い共感と支持を惜しまないのである。(高柳重信「還暦その他」『俳句評論』一九六〇・七)
かつて三浦展は、酒鬼薔薇事件の後に須磨ニュータウンを訪れた際、「よそ者が入り込む余地」を残さず、「自分がその街に関与する隙間」を排除したニュータウン郊外の風景を見て、それを「私有の空間」だと表現した。そして、そんな空間で「子供がいったん歯車を狂わせたらどうなるだろう」と問うた。が、まさに私が「歯車を狂わせた」子供だった。非人称の視線によって環境管理された「私有の空間」に、自分の居場所を、自分の隠れ場所を見つけ出すことのできなかった私は、次第に、だれも来ないニュータウンの外れにある小高い丘に行くようになっていた。私にとって、その丘の雑木林のなかだけが、学校や家や地域の視線が及ばない辛うじての「外部」だった。(略)
そして、ニュータウンを去ってから三年後、東京で芸術系の大学に進んだ私は、酒鬼薔薇事件を知ることになる。犯人の少年Aは、ヒトラーとダリとスメタナが好きだったという。かつてのわたしもダリとスメタナを好んでいた。私は、少年Aとの共通点を数えながら、ニュータウンの風景を思い出していた。(「郊外論/故郷論―「虚構の時代」の後に」)
かつてそこにあったものも、そこで起こり、生きられたことも“忘れゆく場所”であること。互いに互いを見ない場所や人びとの集まりや連なりであること。そこに郊外という場所と社会を限界づけるものがあると同時に、人びとをそこに引き寄せ、固有の神話と現実を紡ぎ出させてきた原動力もある。そんな忘却の歴史と希薄さの地理のなかにある神話と現実を生きることが、郊外を生きるということなのだ。(若林幹夫『郊外の社会学―現代を生きる形』ちくま新書、二〇〇七)
「病理としての郊外」「何もない郊外」という強烈なイメージによる刷り込み、先入観が、私たちの目を曇らせ、あるはずのものを見えなくしている可能性はじゅうぶんにある。もしかしたら、問題は郊外という場所にあるのではなく、そこから何も読み取ることのできない私たちの眼差しの精度にあるのではないか。(佐々木友輔「拡張された郊外におけるアート」『floating view 郊外から生まれるアート』トポフィル、二〇一一)
冬の夜のラヂオ密造酒をあばく 浜 26・3 渡辺つね子【粕取酒】
粕取の酔ひ昏々と梅雨めく夜 石楠 23・9 奈良木酋【カストリ】
濁酒を醸せる納屋やつばめの巣 浜 23・6 福田渦潮
きさらぎの上にどぶろく一壺秘む 石楠花 同 鹿山隆濤
カストリや面ざし高貴なる名残り 暖流 23・8 園部三吉
カストリ屋裏の芒を壜に挿す 俳句研究 24・7 瀧春一
どぶろくにとほき枯木の哭く夜なり 浜 26・2 矢尻遊子
どびろくをもてなされても湯ざめかな 春燈 28・2 中村二彩亭【焼酎】
焼酎を呑む秋風に耳吹かれ 天狼 24・11 高桑冬陽【メチール禍】
メチールの毒癒えず柚子噛んでみる 石楠 22・4/5 石川芒月※古くから酒粕を原料に蒸留して製造する「粕取焼酎」があるが、これと異なり、戦後の混乱期、粗悪な密造焼酎のことを「カストリ」と言った。有毒なメチルアルコールを水で薄めたものまでが売られ失明事故も頻発した。これらを総称して「カストリ」と言う。従って名称こそ違うものの、「カストリ」「粕取酒」「密造酒」「焼酎」「どぶろく」は同じものと言ってよいだろう、それから容易に「メチール禍」も連想されるのである。「カストリ」「粗悪な蒸留酒」というイメージから、エロ・グロを内容とする粗悪な印刷の安雑誌をカストリ誌と言った。多くは3号雑誌(3号で廃刊になる)で「3合飲むとつぶれる」と洒落たものである。カストリとヒロポンは戦後文学を語る上で不可欠だ。
ピース吸ふ心の奢り虹を見て 寒雷 24・10 一見青嶺子
腕時計に春光ひたとピース買ふ 俳句研究 26・3 鶴淡路
ピースの箱秋らしく陽色◆より 麦 27・10 高沢九雨【やみ煙草】
やみ煙草都心鷗の来ることあり 石楠 22・8 石原沙人【たばこを捲く】
たばこ巻く手かなしき稚妻 21・3 出雲正秋【光】
シャツ真白透けて見ゆるポケットの「光」 石楠 29・? 吹雪且蕾※「ピース」は昭和21年から現在まで販売されている両切りたばこ。「光」は戦前から昭和40年まで販売された。高級感がわかないので、ハイライトの販売された時期の1本当たり価格で並べてみよう。
自画像青い絵の具で蝶は塗りこめておく 昭和41年作 注①
<自画像>抜 コクトー 堀口大學訳
神秘の事故、天の誤算、
僕がそれを利用したのは事実だ。
それが僕の詩の全部だ、つまり僕は
不可視<君らにとっての不可視>を敷写するわけだ。
僕は言った、《声を立てても無駄だ、手をあげろー!》
非情な衣裳で仮装した犯罪に向って。
死の手管は裏切りが僕に知らせる。
僕の青インクを彼らに注ぎ込んで
幽霊どもを忽ち青い樹木に変えてみせた。
砲口に道化 地球は限りなく青くはない 昭和59年作 注①
島に寄る航路の女青い夕映えをもつ 昭和40年作 注①
A 湯の入っている容器に水を加え湯をうめる
B 麓の水(例えば川のような流れる水)に湯を運び、湯をまさしく埋める(埋め込む)
Aは手段としての「に」。Aは全うだが、Bは、無意味ともいえる行為だ。しかし『眞神』の世界観ともいえる彼の世とこの世の間を流れる視点を考えるならば、Bの水に湯を埋め込むという行為がふさわしいように思えるのだ。
Bは場所、作用の目的としての「に」。
家枯れて北へ傾ぐを如何にせむ
雪国に雪よみがへり急ぎ降る
玉霰ふたつならびにふゆるなり
蒼白き蝉の子を掘りあてにける
草刈に杉苗刈られ薫るなり
蛇捕の脇みちに入る頭かな
己が尾を見てもどる鯉寒に入る
日にいちど入る日は沈み信天翁
行雁や港港に天地ありき
共色の青山草に放(ひ)る子種
夕より白き捨蚕を飼ひにける
あまたたび絹繭あまた死にゆけり
さかしまにとまる蝉なし天動く
油屋にむかしの油買ひにゆく
水待ちの村のつぶては村に落ち
朝ぐもり昔は家に火種ひとつ
身のうちに水飯濁る旱かな
裏山に秋の黄の繭かかりそむ
みなかみに夜増しの氷そばだてる
半月(はにわり)や産み怺へ死に怺へつつ
父はひとり麓の水に湯をうめる
目かくしの木にまつさをな春の鳥
天地や揚羽に乗つていま荒男
山は雪手足をつかぬみどり児に
めし椀のふち嶮しけれ野辺にいくつ
ははそはの母に歯はなく桃の花
さし湯して永久(とは)に父なる肉醤
とこしへにあたまやさしく流るる子たち
少年老い諸手ざはりに夜の父
野に蒼き痺草あり擦りゆけり
喉長き夏や褌をともになし
霞まねば水に穴あく鯉の口
鈴に入る玉こそよけれ春のくれ
横浜の方に在る日や黄水仙
手を筒にして寂しければ海のほとり
水の江に催す水子逆映り
孤つ家に入るながむしのうしろすがた
腿高きグレコは女白き雷
いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし、たまゆらも心をやすむべき。
(結局、この世には、心休まるところはどこにもない。どんな仕事をして、どのように生きても、ほんの一瞬も、この社会では心安らかに暮らすことができない。 小林一彦訳)
81.冬日づたひ産れ髪して丘づたひ
土は土に隠れて深し冬日向 『しだらでん』冬日の捉え方は、どこか神を想像するようなありがたい光であることを想う。冬の日を光の線として考えれば、そのひかりの道筋に導かれて生きているような気になる。冬日とは、いい言葉だと思う。