【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2023年5月26日金曜日

第204号

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豈65号 発売中! 》刊行案内

救仁郷由美子追悼⑧  筑紫磐井 》読む

【募集】第8回攝津幸彦記念賞  》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和五年歳旦帖
第一(3/31)仙田洋子・仲寒蟬・杉山久子
第二(4/7)神谷波・竹岡一郎・堀本吟
第三(4/14)辻村麻乃・松下カロ
第四(4/21)山本敏倖・大井恒行・田中葉月・なつはづき
第五(4/28)中村猛虎・浅沼 璞・曾根 毅・望月士郎
第六(5/12)木村オサム
第七(5/19)ふけとしこ・岸本尚毅・渡邉美保・青木百舌鳥・眞矢ひろみ
第八(5/26)林雅樹・水岩 瞳・下坂速穂・岬光世


令和四年冬興帖
第一(3/24)仙田洋子・仲寒蟬・杉山久子
第二(3/31)神谷波・竹岡一郎・堀本吟・渕上信子
第三(4/7)辻村麻乃・松下カロ・前北かおる・男波弘志
第四(4/14)山本敏倖・大井恒行・田中葉月・小林かんな・なつはづき・中村猛虎
第五(4/21)浅沼 璞・曾根 毅・家登みろく・望月士郎
第六(4/28)木村オサム
第七(5/12)ふけとしこ・岸本尚毅・渡邉美保・青木百舌鳥・眞矢ひろみ・林雅樹
第八(5/19)水岩 瞳・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・佐藤りえ
補遺(5/26)筑紫磐井


■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第35回皐月句会(3月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第17号 発行※NEW!  》お求めは実業公報社まで 

■連載

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】④ 生真面目さで以って見つけ出す 上野犀行 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】② 豊里友行句集『母よ』書評 石原昌光 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(34) ふけとしこ 》読む

英国Haiku便り[in Japan](37) 小野裕三 》読む

【抜粋】〈俳句四季3月号〉俳壇観測243 前の十年と次の十年――「二十一世紀俳句時評」の続きは

筑紫磐井 》読む

北川美美俳句全集32 》読む

句集歌集逍遙 秦夕美句集『雲』/佐藤りえ 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む



■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
5月の執筆者(渡邉美保)

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】④ 生真面目さで以って見つけ出す  上野犀行

読初の文字なき本を絵解きせり

人日の赤子に手相らしきもの

 渡部有紀子さんの第一句集『山羊の乳』の冒頭の二句である。新年最初に手にする本は、ヒントもなく自分で絵解きして読み進めなければいけない。そして、赤子の小さな手にある皺だか筋だかは、手相なのか何だかわからない。答えらしきものがあるのかもしれないが、今現在はわからない。自ら見つけ出さないといけない。


 有紀子さんは大変真面目な方である。いや、生真面目という言葉の方が当てはまる。何事にも正面から勤勉に取り組む方だ。

 すると普通だと、取っつきにくい人だと思うかもしれない。しかしそれは大きな間違い。一度お会いしてみれば、生真面目だからこその面白さがある方であることがわかる。そして句座を共にすれば、こちらが恐縮してしまうほどの、大いに気遣いの方であることがわかる。

 この印象は、句集全体を貫いていた。

千代紙をきつちり畳み雛の帯

土のこと水のこと聞き苗を買ふ

千本の影を整へ針祀る

 雛人形の帯は、千代紙を折りまげて作り、しかと締める。文字通り、有紀子さんの「きつちり」とした性格が出ている。苗を買うときも、店にいろいろと尋ねる。もしかしたら、店員も深い関心に圧倒されているかもしれない。針供養の様子を目にすると、千本の針が整然と影を成していることに着目する。ひんやりとした空気が伝わって来る。

 そんな有紀子さんだからこそ、次のようなユニークな句も詠むことができる。

月蝕を蜜柑二つで説明す

星の砂呉るる銀行涼新た

軽軽と大蛇運ばれ里祭

 お子様に対してだろうか、月蝕の仕組みを丁寧に話している。それを蜜柑二つ並べてというところが、端から見ているといかにも変なものである。南の島で銀行に立ち寄ったら、星の砂を呉れた。こんなにありがたいサービスを、一般的には堅物のイメージである銀行員がしてくれている。秋の収穫を感謝する祭が里で執り行われている。厳かなものであろうかと思っていたら、大蛇を運んでいる。他所から来た人はびっくりだが、地元の人は何事もなく当たり前に眺めている。

 これらの句には何とも言えない俳諧味がある。「緊張と緩和」が効いており、その落差からおかしさがにじみ出ている。しかし、有紀子さんは読者を笑わせようなどとは毛頭思っていない。生真面目に物を見詰めていたら、自然とそうなったのだ。あざとさがないので、読み手は心地良く有紀子さんの世界に入り込める。


永き日の逆さに覗く児の奥歯

人形に絵本読む児や春ともし

二階より既に水着の子が来る

スケートの輪を抜けてより母探す

 吾子俳句においても、有紀子節は健在である。真剣に子育てに向き合っているからこその、そこはかとない違和がある。

 歯の生え具合を確かめるために、子の口の中を覗く。よく考えると、母子が顔を逆さまに向き合っているのは、異様である。子が人形に絵本を読んでやっているのも、かわいらしいが、冷静なれば不思議なことである。海水浴では、海岸にある海の家で着替えればよい。しかし、民宿を出る前にその二階で、すでに子は水着一枚になっている。子のたくましさが伝わって来るが、相当面白い光景である。スケートで一心に滑っていたら、いつの間にか母を見失っていた。そうした子を、母は傍らでそっと見守っている。すぐに声を掛けて子を安心させはしないところが、有紀子さんの生真面目さであり、一句をドラマチックなものにしている。〈入学の子に見えてゐて遠き母 福永耕ニ〉と同じように、成長過程にある子の不安や孤独を描き出すことに成功している。

 お子様がミッション系の学校に通っていらっしゃることからか、キリスト教に関する句も多い。しかし、聖書や教義の内容を大上段に振りかざしたものではない。あくまで写生に徹し物を描き、その結果として予期せぬ諧謔があふれ出すという手法は、一般の生活詠と変わらない。

水鳥の身動きもせず弥撒の朝

骨太き魚を取分け復活祭

真白なる藁を敷入れ降誕祭

降誕祭十指を立てて麵麭を割る

 水鳥が身動きひとつしないような神聖な朝に始まる弥撒がある。かと思えば、復活祭の弥撒が終わると、神父も信者も、うれしそうに大きな魚を一緒につついている。クリスマスでは、真っ白な藁を敷いて飾りつけをしている。清廉な精神を思わせる。一方で、どうしても人はパンを口にして、生きていかなければならない。クリスマスの夜も、指に力を入れパンを割って、自らの腹を満たす。

 復活祭やクリスマスの弥撒に神聖な気持で与っていたら、人間の業の深さを考えるに至った。有紀子さんは極めて真剣なのであるが、読み手は、やはりその真剣さと人間臭さの隔たりに、どこかくすぐられるのである。それでいて「人はパンのみにて生きるにあらず」という聖書の言葉の意味を、深く考えさせられたりもするのである。


夢に色なくて墨絵の宝船

毛糸編む膝にあふるる大河編む

朝焼や桶の底打つ山羊の乳

蟻塚の奥千万の蟻眠る

秋澄むや手毬の中の銀の鈴

 生真面目に物を読んで来た結果、有紀子さんの俳句は深化していった。右記の俳句は、それらの一つの到達点である。どの句にも真剣さを起源としたおかしみがあり、更にそこから発展してやさしさを醸し出している。そして、どこか世の中や人生の真理を衝いた作品を成すに至っている。

 夢がモノクロである人がいる。そして宝船も墨で描かれている。初夢も宝船も白黒であるからこそ、これからの未来も地に足のついたものであってほしいという想いが伝わって来る。ただ単に毛糸を編んでいるのではない。これから始まる大河のような物語を編み込んでいる。どんなドラマになるかは、膝の上にある毛糸だけが知っている。山羊の乳が力強く桶へ絞られる。先に紹介した句と同様、この句も人間が物を口にしていかなければならないことを詠んでいる。朝焼という季語が、そういう人間の逃れられない在り方を、明るく大きく受け止めている。地上に出ている元気なものはごくわずか。実は蟻塚の奥には、億千万の蟻が身体を休めている。人間社会を語っているかのようである。労働に疲れた者を見守る姿は、聖母マリアのようである。手毬の中の鈴は見えない。しかしその涼し気な音から、その銀の色を想像させてくれる。澄んだ秋空が読者の前に広がってゆく。


 ずっと生真面目に生き、ずっと物をじっと見つめて来た。その結果、作品からくっきりとした景が、かがやきを以って浮かび上がってくる。それは科学者が冷徹に物事を観察していった結果、世界に予め組み込まれていた答えの一端を見つけ出し、光を当てて人々に差し出していることと同じことのように思われる。


梟や手術の糸の溶くる夜も

 前書に「乳癌手術無事終る」とある。その時は、有紀子さんも気が気ではなかっただろう。それでも、有紀子さんは術前も、術後も変わらずに俳句を詠んでいる。どんなことがあっても、生真面目に人生に向き合い、俳句に向き合ってきた。

 そういう人を、俳句の神は必ず護ってくれる。有紀子さんの今現在の元気な姿、そして俳壇での多くの活躍と実績が、それを物語っている。これも、本当は予め決められていたことなのだろう。有紀子さんは、自身の無欲で生真面目な努力により、自然と天からいわば「ご褒美」を授かったのである。


鳥渡る櫂に祈りの飾紐

 この句のように、有紀子さんはこれからも浮足立つことなく、生真面目に、櫂を漕いでいくだろう。渡り鳥とともに、少しずつ着実に、俳句の大海を進んで行くだろう。櫂に付けられた飾紐が、これからの有紀子さんの道を静かに祈っている。


【執筆者プロフィール】
上野犀行(うえの・さいごう)
1972年静岡県生まれ、神奈川県横浜市育ち。2015年「田」入会。水田光雄主宰に師事。
2021年第一句集『イマジン』。俳人協会会員。

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】➁ 豊里友行句集『母よ』書評 石原昌光(沖縄歴史家)

 ・喜怒哀楽も刻んで苦瓜(ごーやー)ちゃんぷるー


 苦瓜を見ると、まさにうちなぁんちゅそのものだなと思う

 酷暑に耐え、低賃金で働いて働いて、子ども達を懸命に育て

 かつての紅顔の美少年も美少女も苦瓜のようにゴツゴツした顔になる。

 人生の喜怒哀楽が純真な心を否応なく擦れさせ、出てくる言葉は甘くない。

 だが、その言葉には何とも言えない滋味がある。

 あまりにも緑色をした苦瓜、その苦みを越えた先にある爽やかさ

 そんなわけで私は苦瓜が好きだし、うちなぁんちゅが好きである。


・帰るべき国を問う岬の燐寸擦る


 辺戸岬のすぐ先の与論島との間に引かれた北緯27度線は復帰前沖縄と大和を隔てる民族分断のラインだった。

 それでも沖縄県民は熱烈に祖国復帰を望み、沖縄を我々に返せと歌い篝火を焚き与論島の同胞と心を通わせた。

 こうして祖国復帰がなってから51年、しかし、今でも沖縄には異民族の基地が存在し沖縄は沖縄人に返されていない。

 あの熱烈な祖国復帰への渇望は、うちなぁんちゅの片思いだったのか?力強い篝火の火は燐寸の束の間の光だったのだろうか?

 それはヤマトンチュの裏切りなのか?うちなぁんちゅに悪い所があったのか?

 そも、そんな事を考える事すら、別れた恋人の思い出を数えるような虚しい事なのか?

 今、岬に立って燐寸を擦っても未来は見えない。ただ暗闇に海鳴りが吸い込まれるだけである。


・ひと言を悔い出す深夜チューリップ


 私は昨年、母親を亡くした。亡くなる2年前までは母親と同居し、足腰が弱くなった母の日常生活を助けていた。

 母親というのは、子どもを自分の血肉の一部だと思っているから、一切遠慮会釈のないものである。

 四十路を過ぎた私を子供のように扱い、上から目線であれこれ口を出し、たまらぬ事に行動を束縛する。

 そのうちに私もカチンと来て、最愛の母にキツイ言葉をぶつけてしまう。

 そして、母親の寂しそうな悲しそうな顔を見て、いつでも我に返り自己嫌悪する。

 私を慈しみ、無制限の愛を与えてくれた母は、そこにはもういないのだ。

 チューリップの花咲く花壇の傍を、幼き私の手を引いて歩いてくれた母はもういないのだ。

 今度は私が母を愛し慈しまないといけないのに、私はいつまでも母というチューリップの周りを飛び回る蝶だった。

 今は後生にいる母に、心の中でゴメンと詫びてみた。


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(34)  ふけとしこ

    タカラヅカ

余花の雨さらさら人を濡らしけり

タカラジェンヌ過ぎ木蓮に残る花

稽古日や雀隠れに雀ゐて

楠の花散る休演日の鉄扉

わが色と決めし牡丹も崩るるよ


     ・・・

 季節外れの話題。同名故に起きたこと。

 ホトケノザとホトケノザ。漢字でも仏の座と仏の座。でも、かたやキク科、かたやシソ科で二種は全く異なる植物である。当然、間違いが起きる。シソ科の草の方は宝蓋草と漢名で書かれることもあるが、そうすると今度は読める人が減る。


 最近、これはまずいのでは……と思ったことがある。

 知らない人から句集を頂いた。表紙に春の七草があしらってあった。優しい色合いの綺麗な絵である。いわゆる〈芹薺御形繁縷仏の座菘蘿蔔これぞ七草〉 なのである。可憐な絵であるが、何か違和感がある。ちょっと待って~となった。〈セリ・ナズナ…〉で始まる春の七草のホトケノザは黄色い花をつける。それが赤紫色の花に描かれている。仏の座がタビラコまたはコオニタビラコ(田平子・小鬼田平子)ではなく三階草(宝蓋草とも)になっていたのである。

 

 是ならば踏んでも来たり佛の座 梅室

という愉快な古句もあるが、タビラコは田面や畦道などに生えて、七草粥に摘まれるとき以外は踏まれているような野草なのである。

 同じ名前を持つ故の間違いではあろうが、それにしても、校正の手順を踏んで出来上がった句集であるだろうに、著者自身も編集担当者も見落としてしまったのだろうか。信じられないことである。その前にこの装画に関わったイラストレーターもこの草を知らなかったということになる。世に出すことの怖さを知ったことであった。

 私は偶々両方の草の名も姿も知っていたから、すぐに分かったのだが、あり得る間違いではある。

 そういえば、かつてこんなことがあった。七草粥用に「七草セット」なるものが正月七日に合わせてスーパー等で売られる。手に取ってみた。何か赤紫の物が見える。え? よく見るとシソ科のホトケノザが入っていた。パッケージには丁寧に七種の草の効能が書いてあり、出荷元の農場の名も書かれていた。

 手に取っただけで終わったし、クレームがあったかどうかも知らない。


 七草は庭にあるからとりに来よ 今瀬剛一

 「対岸」5月号に見かけた句である。

 こんな庭で摘ませて頂いた七草なら間違いはないだろう。羨ましくもある。

 かつて

  仏の座光の粒がきて泊まる としこ

  畦道は昔へ続く仏の座   同

を発表したことがあった。私が季語として使ったのは春の花、シソ科で赤紫の唇形の花を咲かせる方だったのだが、どっちの草を思われるだろう? という思いも少しはあった。俳誌等で鑑賞して下さった方もあったが、書き手により双方に受け取られていて苦笑した。こんな場合ならどちらでも構わないともいえるけれど、新年の季語「春の七草」ときちんと表す場合には黄色い花を咲かせるキク科のタビラコでなければ成立しないのではなかろうか。

        (2023・5)

救仁郷由美子追悼⑧  筑紫磐井

●豈 40号 2005年3月

  無音の河

目次では俳句作品となっているが、実際は詩作品。長文が同時掲載され、安井浩司論ともなっている。


●豈 44号 2007年3月

  ブナの森へ


あかつきの凍てる街路や修羅に会う

こわれゆくなと妻抱えしは銃後の街

夢見ふゆことば・言葉余白消す

鳴る鈴の鈴の音木立暮れはじむ

コーヒーと本と駅舎と桜道

青き海ちるさくら手にこころざし 心

白波と白き砂地の桜花

ひとひとり死んではならぬ死せる日々

満月光幾重幾重と死者の列

山河へと太鼓の太鼓の弔う日

離れよと柿の実ひとつ忘れよと

夜の冬名無しの森の記憶の河

師立ちて生死はコスモ修羅万象

河口は春古びた帽子風に舞う

ひとりふたりさんにんよにん桃の花

はじける種子よいのちへ祈る鳳仙花

日輪の旅も終わるとブナの森


●豈58号 2015年12月

  豈銘鑑10句選

月明りポロンと自刃転がせり

夏みかん食べ頃でした兄は逝き

雨音は透いた傘打ち問いは消ゆ

いらだちのかあさん僕は奇妙かい

妻ひとり救えぬなんぞ野菊原

百年の桃の老木乙女咲き

唐門前修羅の脇ゆくごんぎつね

飛龍とて未完の神ぞ弦の月

降る雪や眠ることなき山毛欅林

男鹿の海両手なるらん白雲よ


過去の作品からの抜粋と考えられる。

「豈」への掲載はこの号をもって終了。

2023年5月12日金曜日

第203号

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豈65号 発売中! 》刊行案内

\「麒麟」創刊記念/2014年3月21日改定版【西村麒麟『鶉』を読む14】西村麒麟句集『鶉』評/堀田季何  》読む

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】➀ 豊里友行句集『母よ』書評 伊波一志

  先日、友人・豊里友行から『母よ』の書評の依頼がありました。ただし、僕は俳人でもなく、批評家でもない、沖縄在住のただの写真家です。豊里友行のもうひとつの顔である写真家仲間の一感想文として、お手柔らかに読んでいただけると幸いです。形式も何もわからない門外漢なので、僕が好きな句を5つ選びそれぞれ僕が勝手に想像・解釈した内容になっていますので、あしからず。


1.「戦争は嫌っ これでもくらえ 春だ」

 この俳句は、明らかに豊里の一貫して戦争を憎み、それに対して強く反発する気持ちを表明した句です。冒頭の「戦争は嫌っ」という言葉は、豊里の強い主張が示唆されていると感じました。また。続く「これでもくらえ」という言葉は、戦争に対して反発するだけではなく、戦争という敵に対して絶対に屈しないぞ、という豊里の意思表明にも感じられます。最後の「春だ」という言葉は、戦争や破壊とは対極のフレーズですが、このフレーズのおかげで、戦争に対する嫌悪感だけではなく、平和や希望を求める気持ちも同時に抱いている豊里を表しているのだと感じました。この句は全体的に豊里が戦争に対する憎しみや反発を表現しつつ、それに対してみずからが立ち向かう意思を示す力強い作品です。僕は、豊里と知り合って15,6年になりますが、写真家としての豊里の一貫した思想を言葉にしたような俳句だと感じました。


2.「蛍烏賊の我らスマートフォンの海」

 この俳句は、自然界と現代の技術社会が対比された一節です。蛍烏賊が自然の海で生きる様子を描き、そこに「我らスマートフォンの海」というフレーズが挿入され、現代社会の便利なツールであるスマートフォンが自然界の海のように広がっていることを暗示しているのでしょう。現代社会に欠かせないツールと自然界の生き物とのギャップが表現された、おもしろい句だと思います。ちなみに、昨年『世界のウチナーンチュ大会』という那覇市の球場で開催されたイベントで写真撮影をする豊里を見かけたことがあります。その日世界中から沖縄に帰ってきたウチナーンチュたちが暗い客席でスマホのライトを振る無数の光の情景が深く心に刻まれたのですが、もしかしたら豊里も同じ情景から着想したのかもしれません。


3.「ういるす籠りをまたぐ夜の巨人」

 この俳句は、非常にイメージ力豊かな作品で、不思議な情景を想起させます。

冒頭の「ういるす籠りをまたぐ」という言葉は、現代社会が直面しているウィルスや病気といった課題に対して、人々がそれを乗り越え、立ち向かう姿勢を表現していると解釈しました。そして続く「夜の巨人」という言葉が何を指しているのかは明確には分かりませんが、何か巨大な存在感を暗示しているのでしょう。単純明快な絵が想起できないことで、俳句の世界に複数のレイヤーを感じさせる独特の空気感が生まれていると思います。また、「ういるす籠りをまたぐ夜の巨人」という言葉自体が非常にリズミカルで、言葉の響きが美しく、癖になる感覚が、いいと思います。音韻美が強調された作品といっていいのかもしれません。


4.「蹴る海の胎児はジュゴン寄せる波」

 この俳句は、基本的には海の美しさや、そこに生きる生物たちの姿を表現した作品だと思います。「蹴る海の胎児」という表現からは、海の波が胎児のように躍動している様子がイメージできました。また「胎児」という言葉からは、海が命を育む母なる存在であることが示唆されています。そのあと「ジュゴン寄せる波」という言葉が続きます。ジュゴンは絶滅危惧種の海洋哺乳類で、世界的にも貴重な存在とされていますが、その生息域の北限が沖縄だとされています。そして、僕らウチナーンチュが「ジュゴン」と聞いて、すぐに想起するのは、辺野古の海。辺野古の海は、新基地建設のために埋め立てが始まっていて、少し前まではジュゴンの親子が目撃された美しい海です。おそらく豊里は、この句で、ジュゴンのいるような美しい海を基地建設で埋め立てられる理不尽さ・怒り・せつなさ・むなしさ等複合的な感情を込めていると思います。


5.「修羅に成り逸れてひやしんす」

 この句は、句集の中でもっとも好きな句ですが、解釈がとてもむずかしいと感じました。

 まず、「修羅」という言葉の意味ですが、一般的な、果てしない争いや激しい怒りなどのたとえとして「修羅」を使うと、続く「成り逸れて」とつながりにくいと思いました。なんとなくですが、僕が直観的に思ったのは、豊里のいう「修羅」は宮沢賢治の「おれはひとりの修羅なのだ」の「修羅」なのではないかと。では、賢治がそんな「修羅」だと自分を意識するのは、どのような意味合いにおいてなのか。「仏教の教えによれば、世界は六道界からなっている。修羅の世界は餓鬼や地獄よりは上であるが、天上界はもとより人間界よりも下に位置する。だから修羅であることは、まだ人間にもなりきれない未熟な存在なのだ。」賢治は、「修羅」をこのような意味合いでとらえていたそう。もっと、具体的にいうと、賢治が捕らえていた「修羅」の姿とは、煩悩にさいなまれている姿であったようです。怒り、憎しみ、嫉妬といった感情から脱しきることが出来ずに、つねに焦燥感に駆られていた賢治は、自分の今の姿がそうだと感じていたとのこと。豊里は、賢治のいう、まだ人間にもなりきれない未熟な存在としての「修羅」にすら成れていない、と表現しているのではないでしょうか。そして続く「ひやしんす」。豊里がいうひやしんすは何色か分かりませんが、僕は紫色のひやしんすではないかと考えてみました。紫色のひやしんすの花言葉は、「悲しみ」「悲哀」でした。何かこの句は、俳人・写真家としての豊里の生きざまや志の高さを示すとてもいい句だと思います。

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伊波一志(いは・かずし)
1969年沖縄生まれ。写真家。
サイト:ihakazushi.com

英国Haiku便り [in Japan] (37)  小野裕三


対日戦勝記念日

日本では戦争の記憶と言えば八月のイメージと重なるが、英国では雰囲気が異なる。英国で実感したのは、第一次世界大戦が持つ存在感だ。十一月十一日がその終結記念日で、だから十月頃から街でもテレビでも、追悼のための赤いポピーの花飾りをつけた人をよく見かけ、そのポピーを配る募金活動もよく目にする。日本の八月の持つ重たい雰囲気は、英国ではむしろこの秋の時期の方が近しい。

 第二次大戦で言えば、五月にVE デイ、八月にVJデイがある。VEのEはヨーロッパの頭文字で、「欧州での戦勝日」つまり対独戦勝日を意味する。ロンドンはドイツ軍から激しい空襲を受け、その傷跡は市内各地に未だに保存される。一方でVJは「日本への戦勝日(Victory over Japan Day)」の略だ。

 ロンドンには、「帝国戦争博物館」という施設もある。日本であればこの類の戦争関連の施設には概ね「平和」の名称が冠せられる。少なくとも、「帝国」「戦争」という名称の施設は絶対に日本には建設されないだろう。その博物館には、日本関連の展示も多く、広島に投下された原爆「リトル・ボーイ」の展示もある(写真)。驚いたことにそれは単なるレプリカなどではなく、「1945年から1950年にかけて原子爆弾用に作られた外殻の5つ」の一つが実際に広島上空で爆発し、残ったうちの一つがアメリカ政府から英国に貸与されて展示されている、との説明だ。ひょっとすると日本に投下されたかも知れない実物だと思うと、ひしひしと迫るものがある。

 二〇二〇年は第二次大戦終結から七十五年という節目で、VJ デイに英国の国立墓地で催された追悼式典に皇太子や首相が列席するのをBBCテレビなどでも見た。その場所にシンボルとして置かれていたのは、戦車でも戦闘機でも廃墟でも銅像でもなく、鉄道線路の一部だった。

 なぜそれが戦争のシンボルなのか、と思ったが、説明を聞くと、それは日本人による捕虜虐待のシンボルだった。日本軍が戦時中に急造したタイとビルマを結ぶ鉄道は、英国とその同盟国の捕虜が過酷な条件で働かされて多数の死者を出し、悪名高き「死の鉄道」、と呼ばれる。虐待死した死者数は、戦死者数に匹敵するほどだとか。だから、英国のVJデイで語られる戦争の記憶は、日本でよくある空襲や戦闘の証言ではなく、日本人による虐待がいかに酷いものだったか、に焦点が当たる。

 日本人の中ではおそらく、第二次世界大戦は〝対米戦争〟という意識が強く、英国との戦争は決して多くは語られない。その英国から見ると、日本との戦争が「捕虜虐待」に象徴されるというのは決して心地よい事実ではないが、それも直視すべき一つの事実だろう。

(『海原』2022年9月号より転載)

\「麒麟」創刊記念/2014年3月21日改定版【西村麒麟『鶉』を読む14】西村麒麟句集『鶉』評 / 堀田季何

① 句集について

 句友・矢野玲奈によれば、西村麒麟は「受け取ったら喜んでもらえそうな番号を選んで、64番:御中虫 77番:中山奈々 99番:堀田季何(敬称略)に贈った」とのことである。64は「ムシ」、77は「ナナ」もしくは「ナナナナ」であってわかりやすい。99はもう少し凝っていて、九九「KuKu」と季何「KiKa」の「KK」合わせ、九九の掛け算と幾何学の算数・数学合せの両方成り立つ。なるほど、さすが風流と粋が売りの麒麟!

 でも、麒麟は風流と粋だけじゃない……。

 『鶉』を先刻から読んでいるが、あにゃっ、麒麟と麒麟句の作中主体が混然としてきて、眼鏡姿の麒麟が私の分身に見えてきた。だめだ、堀田季何、しっかりしろ、よく見るんだ! もう一度、麒麟らしき麒麟のドッペルゲンガーと向き合うと、ここでピンク色の霞がたなびいてきて、あれ、麒麟はどこだ、いや、どこだここは! 瓢箪やら仙人やらお連れ合いのA子さんやら佐保姫やら鶴亀やら闇汁やらに囲まれているぞ。夢なのかうつつなのか。童子にすすめられるがまま河豚をひと口、うん、うまい、ああ、なんかこの世界をよく知っている気がしてくる、うんうん。いやぁ、もう酔ってきたのかなぁ。さっきから飲んでいるのも酒か水かわからなくなってきた、よく見ると墨汁みたいだし。周りの山も川も墨色だし、あら、麒麟もいつのまに陶淵明のような服を着ていて、瓢箪から酒を呑みながら酔拳をしている。あれ!? 

 こんな句集を而立で出す麒麟は、風流や粋という狭苦しい枠では収まるはずもない。そう、彼こそまさに酔狂、頓狂、素っ頓狂! もちろん、最大級の賛辞のつもりである。


② 句集の十一句

 アブサンを飲みながら適当に11句選してみた。麒麟に敬意を表して、あくまでも「飲みながら」かつ「適当に」である。素面で大真面目に選句なんてしたら作者にも句集にも失礼になってしまう。もちろん、11は、KuKuとKiKaのKが11番目のアルファベット、それに11は99の素因数だから。

 そうそう、選句基準は、秀句でも、佳句でも、好きな句でもなく、堀田季何が突っ込みたくなった句、脱力した句、唖然とした句、おどろいた句☆

耐へ難き説教に耐へずわい蟹

 何度読んでも、説教される麒麟に感情移入してしまって、「耐へ難き説教に耐へ/ずわい蟹」と読めず、「耐へ難き説教に耐へず/わい蟹」と読んでしまう。玉音放送の「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」に涙した人たちは怒るだろうけど。

ことごとく平家を逃がす桜かな

 取合せの句として読めば、麒麟が故郷の瀬戸内海沿岸で平家の落武者狩りを行っているが、酒を飲み過ぎてしまったのか、A子さんに言われたからなのか、平家を「ことごとく逃が」してしまっている、といったような解釈が成り立つ(おい、成り立つのか、本当に!)。でも、私は敢えて一物の句として解釈したい。桜になってしまった麒麟が「ことごとく平家を逃が」している図である。こちらの方が面白い。

この国の風船をみな解き放て

 前句「春風や一本の旗高らかに」(p.56)の2句だけ読むと、戦時中の戦意高揚句にも読めてくる(もちろん風船は爆弾付き)。しかし、後句「朝寝してしかも長湯をするつもり」(p.57)を読めば、作者が軍国主義ではきっと淘汰されるであろう人物だと判る(賛辞のつもり)。

玉葱を疑つてゐる赤ん坊

 私の場合、蚕豆をエロティックだと思うようになった小澤實に師事しているせいか(「俳句」1月号参照)、つねづね玉葱をエロティックだと思っている。掲句、その私が詠んだ句なら官能的な句として解釈されかねない。でも、麒麟が詠んだ句なので、赤ん坊に酒を飲ませたんだろうか、泥酔の麒麟が赤ん坊のふりをしているんだろうか、という無難な解釈で済んでいる。フロイト信奉者に読ませなければ、だ。フロイト信奉者たちに読ませたいのはこちら-「美しきものを食べたし冬椿」(p.34)、「はねあげるところ楽しき吉書かな」(p.39)、「初湯から大きくなつて戻りけり」(p.39)、「たましひの時々鰻欲しけり」(p.62)、「貝の上に蟹の世界のいくさかな」(p.62)、「かたつむり大きくなつてゆく嘘よ」(p.63)、「かたつむり東京白き雨の中」(p.63)。麒麟の信用力と人望を再確認した次第。

働かぬ蟻のおろおろ来たりけり

 イソップ原作、筑紫磐井監督の長編映画『アリとキリギリス』が資金不足のため撮影の途中で頓挫。蟻たちにはギャラも出ず、そのままリストラ。食べるものにも事欠くようになり、「へうたんの中に無限の冷し酒」(p.72)と自慢していた麒麟のところに酒をタカるため、ぞろぞろ、おろろおろと来たりけり。勤勉な蟻が働いていないのはこういった事情のせいだが、「凍鶴のわりにぐらぐら動きよる」(p.33)の凍鶴がぐらぐら動いているのは、麒麟にすすめられて酒をすでに飲みすぎたせい。「人知れず冬の淡海を飲み干さん」(p.26)と豪語している麒麟と酒量を競うなんて鶴でも千年はやい。でも、麒麟も酔ってきたようで広島弁が出てしまったようだ(「動きよる」は広島弁)。そうか、麒麟自身も鶴を眺めながらぐらぐらと動いていたんだ。

涼しくていつしか横に並びけり

 麒麟はこうやってA子さんと夏を過ごしているのだろうか。あの笑顔で横に並ばれたら、私も惚れてしまうだろうなぁ。

端居して幽霊飴をまたもらふ

 黄泉竈食ひ(よもつへぐひ)の類か。麒麟は永遠に縁側で端居することになり、もはや家の中にも庭にも戻れまい。

こぼさずにこぼるるほどに冷し酒

 句集では縦書になっているが、初五中七のひらがなが高いところから注がれている酒、下五が杯に見えてくる不思議。

いつまでも死なぬ金魚と思ひしが

 「死なぬなら殺してしまへその金魚!」という一句が聞こえてきて(幽霊飴をくれた美人幽霊の声にそっくり!)、自然に右手が動き、あらら、金魚は死んじまったとさ。ちなみに、その前の夏は「かぶと虫死なせてしまひ終る夏」(p.67)だったそうな。

手を振つて裸の男の子が通る

 そのまま素通りさせてしまうのか!? 服を着せてあげないのか!? 待て、麒麟、きみが一緒に脱いだらだめだ(犯罪)!

どの部屋に行っても暇や夏休み

 夏休みだけじゃないだろう! そんな麒麟におすすめなのは、休日・夜間限定の自宅警備員(ネット情報では、今が旬の仕事らしいです)。もちろん、朝はよき伴侶、昼はまっとうな仕事人、夕は酔っ払い。ちなみに「どの島ものんびり浮かぶ二日かな」(p.39)とあるので、麒麟の無聊は周囲に伝染するらしい。

 ……ああ、アブサンに酔ってしまって、ひどい鑑賞文を付けてしまった。私にしては実にはしたない、少々下品なコメントまで混じっている。御免よ、麒麟。御免よ、A子さん。


③ 悪口雑言……無理

 筑紫磐井が「第59 号(2014.02.28.)あとがき」にて「もうちょっと批判や悪口がないと、世の中はこんなものだと甘く見てしまうことになりかねないので、これからは是非、批判・悪口を寄せていただければありがたい。獅子が千仭の谷に(手足を縛って)子を落とし、剩え岩石・土砂・携帯電話を落としまくるのに似ていよう」と書いていたので、何か悪口雑言を書いてみたくなったが、あまり浮かばない。これも麒麟の人徳であろう。余談だが、「(手足を縛って)」という提案は気に入った。合法的にやれば、麒麟は何かに目覚めるかもしれない。一見の価値はありそうだ。

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】③ 渡部有紀子『山羊の乳』鑑賞 杉原祐之

   渡部有紀子さんは「信念の人」だと思う。私は実は渡部さんと直接お会いしたのは、2回ほどしかない。渡部さんが数多くの賞を受賞されていてしっかりとした評論を書くことを存じ上げていたが、私があまり俳句の集まりに顔を出していないこともありお目にかかることはなく、俳人協会の若手部の早朝句会でZoom越しにご一緒するくらいだった。

 私が昨年4月に上梓した『十一月の橋』も読んでいただきたいと送ったが、宛所不在で返ってきてしまった。他に連絡する術を知らず、ご縁がないのかとあきらめていた時、角川書店から『俳句』の書評を誰に依頼するかの相談があった。私は天啓と思い渡部さんを紹介し、『俳句』に素晴らしい評論を書いていただいた。その渡部さんの評論は、出版元のふらんす堂・山岡さんも絶賛されていた。

 そんな形でご縁が出来ても暫くはメールやメッセージを交換する仲であったが、12月に渡部さんが『山羊の乳』を出版され、私がその感想をFacebookに載せたときに大きな変化があった。


>最後に

>「句友・澤田和弥氏を悼む 一句」

風五月手を振りやまぬ弥次郎兵衛


 この俳句は私と同年代、「早大俳研」出身の35歳で夭逝された澤田和弥さんを悼まれた俳句である。渡部さんは澤田さんと同じ「天為」に所属しており、彼の俳句と評論を愛していたのだ。ある日、渡部さんから澤田和弥さんの遺句文集を出したいと相談を受けた時は驚いた。なぜ渡部さんがそこまで義理があるのか分からなかったが、渡部さんに信念を感じた私は全面的に協力することを決めた。私の人脈で当たれる「早大俳研」や「慶大俳句」の仲間に相談、浜松で澤田さんと「のいず」を刊行していた面々にも連絡を取り、出版の準備を進めている。

 その中で、渡部さんは澤田さんの俳句、評論を集め、ご遺族への了解を取るための手紙、各出版社へ相見積依頼、クラウドファンディングの調整など、精力的に行っている。澤田和弥さんの作品を後世にまとめた形で残すことを、天から与えられた使命だと信じていらっしゃるのだと思う。

 私は4月からシンガポールへ単身赴任することになり、遠隔地からの協力しかできなくなってしまったが、渡部さんの熱意に応え是非澤田和弥さんの遺句文集出版まで漕ぎつけたいと思う。


 信念の人渡部有紀子さんの俳句として、私が好きな句は以下の通り。


「黒曜石」

手文庫のうちのくれなゐ鬼やらひ

 →中七の把握でハッとさせられる。節分が冬から春への切替えのイベントであることもうまく活用している。

霜降る夜紅き封蠟解くナイフ

 →この句も赤(紅)を効果的に使っている。真剣な眼差の渡部さんの様子が目に浮かぶ。

「神の名」

ミモザは黄洗濯船の若き画家

 →絵画を鑑賞しながらの吟行にも積極的に取り組んでいるようだが、上五の把握で生き生きと絵が輝いた。

月涼し手のひらほどの詩の絵本

 →道具立てが見事。詩情に溢れて隙のない感じ。

「ディアナの弓」

真白なる湯気を豊かに雑煮かな

 →正月のめでたさが率直に伝わり、福の多い一年が期待できる。

形代のなんとも薄し夏祓

 →観察の鋭さ、焦点が絞れている。

子が星を一つづつ塗り降誕祭

 →子どもの俳句も冷静な視点で詠まれている。甘すぎずそれでいて愛情が感じられる。

「師のなき椅子」

雛段の進むことなき牛車かな

→動きそうで動かない牛車。哀れがある。

朝焼や桶の底打つ山羊の乳

→句集の表題の一句。季題「朝焼」と「桶の底」の対比に高原の凛とした空気感が伝わってくる。

「王の木乃伊」

人日や木匙で掬ふ朝のジャム

→この句も道具立てが周到で表現に無駄がない。

立子忌の和風パスタをくるくると

→立子は女流俳人のある道を作った一人。和装のイメージがあるので和風パスタがぴったし。

夕焚火文字なき民の神謡ふ

→しばしば神話をモチーフとした俳句が出てくる。この句も硬質の表現だが冷たすぎず余韻がある。


【杉原祐之】
 1979年生まれ、東京都出身。1998年「慶大俳句」入会。本井英、三村純也に師事。
 2012年『先つぽへ』、2022年『十一月の橋』(共に、ふらんす堂)を上梓。「山茶花」飛天集同人、「夏潮」運営委員。
 2023年4月よりシンガポールへ単身赴任中。


第35回皐月句会(3月)[速報]

投句〆切3/11 (土) 

選句〆切3/21 (火) 


(5点句以上)

8点句

ぶらんこの少年すでに消えつつあり(松下カロ)

【評】 あり得る──渕上信子

【評】 中村苑子的な・・・。──仲寒蟬

【評】 情景は良く伝わるのだが、謎が深い。すでにの措辞が背後の物語性を誘う。ブランコに春に揺れながら、少年の存在への不安感を暗示し、詩趣豊か。──山本敏倖


語り終へ眠るロボット養花天(篠崎央子)

【評】 養花天とロボットの眠りが響くようです。その眠りが少し恐ろしく感じるのは何故でしょうか。──小沢麻結

【評】 學天則を思い浮かべましたがこれは喋らないのでした。口を閉ざしたロボットと曇天は響き合う気がします──佐藤りえ


竜天にホスピスの窓全開に(田中葉月)

【評】 緩和を目的とした終末医療、ターミナルケアには完治という目的がなく患者は死に向かっていく。その暗くなりがちな気持ちも青空に向かって窓を開ければ明るくなるのかもしれない。竜天にという季語がまるで魂を天の国に誘うような感覚にもなり、雨が降る前に早く気持ちを整えたいという看取る側の思いも彷彿とさせる。に、押韻も効いている。──辻村麻乃

【評】 爽やかな悲しさ──渕上信子

【評】 ホスピスから天に昇って行くものがいるのだろうか。──仲寒蟬


5点句

春満月地球黒ずんではゐぬか(仲寒蟬)

【評】 眼に見えているのは春の満月だが、作者の思惑は見えない地球に及ぶ。月食であれば月に地球の影が浮かぶが、満月だからそれさえ見えない。全く手掛かりがないのだが、あの満月の様に煌々と光っているわけではないだろうといぶかしむ。人間の頭の中が見えて来るような句だ。──筑紫磐井


蟻穴を出づ神木は花持たず(篠崎央子)



(選評若干)

ゼレンスキーの眉間の皺や春寒し 4点 渕上信子

【評】 毎日のようにメディアに登場するあの顔。だんだん眉間の皴が深くなってきたような。──仲寒蟬


野に出でて陽炎ふ座敷わらしかな 4点 真矢ひろみ

【評】 座敷童は本来外へ出てはいけないのです。──仲寒蟬


慎重に外す型枠涅槃西風 4点 内村恭子

【評】 型枠を扱ったことはないが慎重にしなければならないのだろうな。涅槃西風がうまい。──仲寒蟬

【評】 慎重に外す・・・、「慎重に外せ!」と丹下健三も安藤忠雄も言っている?涅槃西風の中で!日本建築は古代社寺、法隆寺・薬師寺・・・桂離宮・・・、現代の隈研吾まで、素晴らしい!木や石・セメント・ガラス・鉄まで、素材を活かす!言葉素材の俳句もそうでありたい??と思っているが??──夏木久


蝌蚪もゐる春鮒釣の杭の影 2点 岸本尚毅

【評】 季が重なるのは当然とばかりに春の池の賑わいをそのままに詠んで、耕衣翁の呟きを彷彿とさせる作品。──妹尾健太郎


べうべうと幼児ころがる猫柳 4点 佐藤りえ

【評】 「べうべう」というスケールの大きさに惹かれました。──渕上信子


首元に赤子吊るして梅見かな 2点 辻村麻乃

【評】 情景が見えます──渕上信子


夕桜旗亭に死すと年表に 3点 仲寒蟬

【評】 西行なら花の下ですがこちらは誰のことか、恰も唐山の詩人の趣です。羽化登仙というやつでしょう。──平野山斗士

【評】 文人は、楼閣や居酒屋で死すことがあります。夕桜が儚くも美しい。──篠崎央子


救仁郷由美子追悼⑦  筑紫磐井

34号(2001年11月)


  彩色は無彩色

段畑の北極星に屹立する

君は春うつむくままに風すぎる

異人さん四月に来るわと言いし姉

ててなしの誕生日朝摘みいちご

菜の花はいずこに咲けと赤さ大地

二百日夢も見ずに寝鳴くつぐみ

春からの苦悩つぐんで白桃よ

唯々一人君待つ椅子が回転せり

青を知る雑木林に尾長鳥

一度だけ途切れた夏に遺失物

返えす返えす挨拶長き眺める夜

もしも君と月見なければ十時です

赤茶けし風に吹かれて病む瞳

「G町」の月夜に飛石は夜鳴き鳥

骨董市の玻璃はまたもやまがいもの

風上を訪ねし途中黄色菊

訪ねるは二十年後のその私


35号(2002年10月)


  丘

風吹けりひまわり畑見えますか

気心が樹々にぶるさがる春の午後

春夏秋冬死体に降る雨国土あり

修羅と連れだちあなたとあえる萌木の地

民は民丘は私刑(リンチ)が正義です

丘へたつあなたを呼ぼうシオンの庭

初七日を過ぎて水仙刈り取りき

憑きゆくは苦しき事なり麦秋の地

今ここへおいでよここへ鬼あざみ

板塀のアリラン聞きし少女の首

仏に蓮死者の記憶に眠るイスラム

昼満月戦火団欒選びえぬ家族

ミサイル輝く闇夜の手の震え

白骨の憲兵韓紅(からくれない)を秘めている

どこまでも雲涌く丘や白き村

ちるさくら無の暗黒の脳髄よ


37号(2003年10月)


 首都東京と爆撃地点の眠り

かたすみのかたばみかみきひるさがり

月光やひとさしゆびは孤を描き

馬住む町と鬼住む町のおぼろ月

すべる夜々ねずみの散歩マンホール

九つの児を棄てる母の初がつお

かみさまがとおくむかしをよんでいる

誕生日の日が昇るままぼくすてないで

小さき頭背に寄り添いて眠る秋

告げられぬ名を持ち去りて死後五年

オリエントの春よ無色なイエスの血

悪魔だ剌せ愛のの家族の愛国や

出立の朝誰彼の血痕踏みしめ0

父ちゃんの言う通り落ちる首

四月空犬が赤子の指くわえてる

死んでるわ私は眠る月夜の彼

  『句篇』安井浩司句集讃

天心より汪がれし雨夏の花


38号(2004年2月)


  都市の雨

片隅なのか民暮らす国境の街

山起つ恐れ強がるばかり足裏よ

八つでも恐がらないよ赤満月

十三の少女の足骨花野行く

泣き抱きて泥土の沼の白き蓮

仰ぎ見る空の縁より蛇降りる

火柱の赤き熱きに呼び声が

直線に無言に走歩夕の雨

切り落とされて腕一本海の町

影ながき二つの手と手赤き月

春夜ふけさげすむ君は苦しがり

亡骸の眠る国土は虹の雨

戦場の闇に降り落つ声よ声

差別という事実の陰画焼き付けし

死ぬがため生まれて四年幼髪

赤色の落葉にもぐる捨子犬

死者守り身構える夜よ風を聞く

思い出してごらん青い空の青の色


39号(2004年7月)


  ラピスラズリ色の街

紫陽花へ手を延ばせば手は届く君

南風人知れずまま交信す

  ―歌人市原賤香―

亡夫の影眠り抱きし五月(さつき)の光

  ―大泉史世へー

好きということの離れる遠い鈴の音

紅葉黄葉深山人りせば漆椀

蒼白と姉に紅差す黄泉大路

白き腕宿る狂気の夏景色

青柿に友達じゃないという女(め)

ひとは歌うひとがひとでありしひとでなし

立穴の奪われし眠り人柱

裸身の内耳突き剌す太古の叫び

地底に星アフガニスタンイラクパレスチナ

梅雨晴れや声消えうせて群集哉

こぼれ落つ革命反核反戦日