【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2024年5月31日金曜日

第226号

             次回更新 6/14


【募集】現代俳句協会・評論教室開催のお知らせ 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年歳旦帖
第一(5/25)辻村麻乃・豊里友行・川崎果連・仲寒蟬・仙田洋子
第二(5/31)小野裕三・水岩瞳・神谷波

令和五年秋興帖
第一(2/16)竹岡一郎・山本敏倖・杉山久子・仲寒蟬・関根誠子
第二(2/23)瀬戸優理子・大井恒行・神谷波・ふけとしこ
第三(3/8)冨岡和秀・鷲津誠次・浅沼 璞・仙田洋子・水岩瞳
第四(3/16)曾根毅・小沢麻結・木村オサム
第五(3/22)岸本尚毅・前北かおる・豊里友行・辻村麻乃
第六(3/26)網野月を・渡邉美保・望月士郎・川崎果連
第七(4/12)花尻万博・眞矢ひろみ・なつはづき・五島高資
第八(5/17)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井
補遺(5/31)早瀬恵子・浜脇不如帰

令和五年冬興帖

第一(2/23)竹岡一郎・山本敏倖・杉山久子
第二(3/8)仲寒蟬・関根誠子・瀬戸優理子
第三(3/16)大井恒行・神谷 波・ふけとしこ・冨岡和秀・鷲津誠次
第四(3/22)浅沼 璞・仙田洋子・水岩瞳・曾根毅・松下カロ
第五(3/26)小沢麻結・木村オサム・岸本尚毅・前北かおる・豊里友行
第六(4/12)辻村麻乃・網野月を・渡邉美保・望月士郎
第七(4/26)川崎果連・花尻万博・眞矢ひろみ・なつはづき・五島高資
第八(5/17)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井

■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第46回皐月句会(2月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(46) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり8 杉山久子第四句集『栞』 》読む

【抜粋】〈俳句四季2月号〉俳壇観測253 昭和99年の視点で見た歴史 ――昭和俳句史・平成俳句史・令和俳句史をたどる(続)

筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

英国Haiku便り[in Japan](45) 小野裕三 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む
インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
5月の執筆者(渡邉美保)

■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

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麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

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前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句 7.梅若忌  筑紫磐井

 今回は少し柔らかな視点から林翔の社会的一面を見てみたい。と同時に、少し長い時代スパンで日本人の心理の変化をたどってみることとする。


(1)林翔の梅若忌回想


梅若忌忘られをりて雨に暮れ

河にごり人もすさびぬ梅若忌


 昭和23年7月「野火」発表の五句より。秋櫻子が、連作は余程のことがないととらないと言ったため馬酔木へ投句するに到らなかった連作五句を、当時新人会の指導をしていた篠田悌二郎が自ら主宰する「野火」に第二席でのせた作品である。馬酔木で連作俳句を提唱した秋櫻子がこの時期連作に否定的だったことは興味深いが、それは今回の本題ではないので梅若忌の句に戻ることとする。

 この一連の作られた動機について、作者は「四月十五日梅若忌の日に当たって、隅田河畔の木母寺を訪ね、連作五句を得て『野火』に出したことがあります。謡曲『隅田川』は教室で講義したことが有るので、一しほ心を惹かれてゐたのかもしれませんが、この時ははからずも木母寺の荒廃したさまに感傷をそそられて、予期してゐたものとは又別な収獲を得たことでした。」(初学講座1)と述べられているか、作者の得た感慨がどんなものであったのか、これだけではいまひとつはっきりしていない。実はこの時の心境を綴ったこんな文章が別にあるので見てみることとしたい。

 「近頃まで梅若忌には『木毋寺大念仏』といふ事が行はれ、開帳もあって賑はったものである。伝説中の少年に過ぎない梅若丸の祭が長く続けられたのは、日本人の優しく床しい性情の表はれであらう。然し戦争は人の心をすっかり荒ばせてしまった。今はあの辺で木母寺を尋ねても知る人は殆ど無い。漸く探し当てて見ると、堂は破れ果てて仏さへも無く、塚の柳は流石に残ってゐるが老松などは薪にされてしまったのであらう。昔ながらの柳に、都鳥に、もし心が有らば何を懐ってゐるであらうか。梅若丸の話は古墳にまつはる伝説に過ぎぬかも知れない。然し我々の先祖が長い間真実と考へてまごころを傾けて来たものに対しては、もう少し深い愛情を示してもよささうに思ふ。」

 これは昭和26年3月に出版された「新編歳時記」(絶版)の中の一節である。歳時記の中の解説でありながらかなり厳しい戦後文化・世相批判を行っており、この歳時記一編中でも極めて異質な解説となっているが、実はこれが林翔の執筆した記事であったのである。林翔は「馬酔木」のなかでいち早く戦後の人事・生活を俳句に取り入れていっていたが、一方で古来の伝統を愛し、遠い祖先たちの伝統の世界を塵・あくだのように投げ捨ててかえりみない世間の風潮には大いなるいぎどおりを禁じ得ない心も持っていた。これは今日に到るまで、時折作者がかい間見せるヒューマンな態度とも通い合うものでもあったのである。

 このように作者を嘆かしめた木母寺の衰亡ぶりであったが、その後社会にも少しゆとりがもどるとともにこの古蹟の修復も行われ、梅若忌の行事も復活するようになったようである。昭和31年に改版された増補版「新編歳時記」では、前記の解説もようやく次のような穏やかなものに書き改められている。

「一時は梅若塚も荒廃に任せられ、たまたま忌日に訪れた人をして

  河にごり人もすさびぬ梅若忌

などと嘆かしめたのであった。幸ひ戦火を受けた堂も復興し、忌日には大念仏とはいかないまでも近所の老人衆が集まってささやかな念仏や御詠歌の供養も行はれるやうになったが、これも何時まで続くことであらうか。梅若丸の話は古墳にまつはる伝説に過ぎぬかも知れないが、我々の先祖が長い間真実と考へてまごころを傾けて来た此のやうな行事は廃絶させたくないものである。」


 作者はこの修復の終ったころ、再び木母寺を訪い、こんな句を詠んでいる。(注)


  垣に結ぶ青竹あはれ梅若忌


 作者の梅若忌への深い思いをうかがわせるものである。

 さて、こうして修復された木母寺であったが、今日逆に、コンクリート詰めの過剰な管理により再び昔日の風情を失う姿となって心ある人々を嘆かせる結果となっている(「梅若塚」能村登四郎沖61・5)のは、いかに日本の古い文化・伝統に対する戦後の考え方が貧しいかを示すものと言えるだろうか。


(2)江戸時代・戦前の梅若忌

 戦後の梅若忌をめぐる盛衰や人身の変化は林翔の以上の文章で明らかだが、「近頃まで梅若忌には『木毋寺大念仏』といふ事が行はれ、開帳もあって賑はったものである」とあったのはどのような状況であったろうか。


【江戸名所図会】

梅柳山木母寺 隅田村堤のもとにあり。隅田院と号す。

梅若丸の塚 木母寺の境内にあり。塚上に小祠あり。梅若丸の霊を祀りて山王権現とす。後に柳を殖ゑてこれを印の柳と号く。例年三月十五日忌日たる故に、大念仏興行あり。この日都下の貴賤群参せり。縁起に曰く、云々。


【俳諧歳時記栞草】 武蔵の國葛飾郡墨田川梅柳山隅田院木母寺の縁起に云、往昔吉田少将憔房卿の男七歳の時父におくれ、愁傷のあまり、遂に有爲の門に入らんことを願ひ、叡山月林寺に登りて修學す。十二歳にして野人の爲にあざむかれて、東海の旅におもむく。病にかかりて終に貞元元年丙子三月十五日、此の處に早世す。忠圓阿闍梨適々に會し、無上菩提の作業をなし、常行念佛を修す。それよりこのかた、今に至りて大念俤会あり。道路にまかせて塚を築き、柳を植ゑ、今日諸人群参す。

 

【東都歳亊記] 隅川川木母寺、梅若塚大念佛。今日(三月十五日)は梅若丸忌日によりて修行すとぃへり。柳樹の本梅若山王の社開扉ぁり。・・・梅若は十六日ぞぁはれなると古人のいひしも宜なり。翌日は詣でぬる人もなく、寂然として鳥の聲波の音のみといひしは、寛延のむかしにして、今は夫にまさり、四時繁昌の地となりて、殊更花のころは、貴賤雅俗となく日毎にこの地に游賞し、青葉にぃたりてもなほ往来たえやらず。


【改造社版『俳諧歳時記・春』季題解説】(虚子監修。後の虚子編『新歳時記』に採用)

 謠曲墨田川にぁる哀れな物語の主梅若丸の忌日である。明治二十三年頃まではその命日たる陰暦三月十五日に行はれたが、今は四月十五日に隅田川畔木母寺で梅若忌が修せられる。当日は一般法要の外に木母寺の大念佛がぁり、附近には植木市など立って参詣者が多い。この大念佛とぃふのは六ヶ敷ぃものださぅで、附近の人や新井薬師その他近郊から、その道のの念佛衆が十人ほど集り、午前十時頃から夕刻まで雙盤念佛を唱へるのである。雙盤とぃふのは鐘の名で臺に吊してある。それが四臺と大鼓が一つ、一度に五人づつ交替で鐘鼓を打ちながら、念佛に節をっけて和唱するのである。念佛衆とぃふのは、別に法衣を纏ふのではなく、普通のみなりをしてゐる。そ刀人々がかんかんかんかん鐘を叩いて唱名するのは哀感をそゝるものである。木母寺は元梅若寺と云って、梅若丸のために建ったお寺である。浅草から鐘ケ淵通ひの乗合自動車に乗り、梅若前とぃふところで降りると、道路から一段低い民家の中に一宇がある。それが木母寺である。御堂には赤緒の鐘が懸り、大提灯が吊され、木母寺、梅若丸、隅田川二十一ヶ所十番の御詠歌の額など懸って、千社札がべた一面に貼られてゐる。寺に向って左手の入口に、石の玉垣を繞した塚かおり、塚の頂に小祠がぁる。これが梅若塚で、その始め里人が塚の印に植ゑたと憾へられる柳はある筈もないが、若い柳が枝垂れて忌日の頃は大きな芽をはぐらせてゐる。塚には柳の外に葉の乏しい一本の老松と、紅白の八重椿、珊瑚樹などが茂ってゐる。梅若神社と云った頃は梅若祭と云ったであらうが、今は梅若忌と云ふと木母寺ではいってゐる。

 このように時代時代によって、繁盛ぶりは異なっていたらしい。


(3)能「隅田川」のあらすじ

 ここまで書いて、この伝説の元となった能「隅田川」に触れていないことに気づいた。概略を抽出しよう。梅若丸の母を主人公(シテ)とした狂女物である。参考にしてほしい。梅若伝説は「梅若丸の死」で漏れなく語られているが、探し求めていた梅若丸がすでに亡くなっていたことを知るシテとワキの緊迫した短いやり取りは「狂女の独白」のとおりである。作者観世十郎元雅の傑作というにはばからない。

●隅田川の渡への到着

ワキ これは武蔵の国隅田川の渡守にて候。今日は舟を急ぎ人々を渡さばやと存じ候。又此在所にさる子細有って。大念仏を申す事の候ふ間。僧俗を嫌はず人数を集め候。其由皆々心得候へ。

ワキツレ 急ぎ候ふ程に。これは早隅田川の渡にて候。又あれを見れば舟が出で候。急ぎ乗らばやと存じ候。如何に船頭殿舟に乗らうずるにて候。

●梅若丸の死

ワキツレ なうあの向の柳の本に。人のおほく集まりで候ふは何事にて候ふぞ。

ワキ さん候あれは大念仏にて候。それにつきてあはれなる物語の候。この舟の向へ着き候はん程に語つて聞かせ申さうずるにて候。さても去年三月十五目。しかも今日に相当て候。人商人の都より。年の程十二三ばかりなる幼き者を買ひとりて奥へ下り候ふが。此幼き者。いまだ習はぬ旅の疲にや。以ての外に遺例し。今は一足も引かれずとて。此川岸にひれふし候ふを。なんぼう世には情なき者の候ふぞ。此幼き者をば其まゝ路次に捨てゝ。 商人は奥へ下つて候。さる間此辺の人々。 此幼き者の姿を見候ふに。よし有りげに見え候ふ程に。さまさまに痛はりて候へ ども。前世の事にてもや候ひけん。たんだ弱りに弱り。既に末期と見えし時。おことはいづく如何なる人ぞと。父の名字をも国をも尋ねて候へば。我は都北白河に。 吉田の何某と申しゝ人の唯ひとり子にて候ふが。父には後れ母ばかりに添ひ参らせ候ひしを。人商人にかどはされて。かやうになり行き候。郡の人の足手影もな つかしう候へば。此道の辺に築き籠めて。しるしに柳を植ゑて賜はれとおとなしやかに申し。念仏四五返称へつひに事終つて候。なんぼうあはれなる物語にて候ふぞ。見申せば船中にも少々都の人も御座ありげに候。逆縁ながら念仏を御申し候ひて御弔ひ候へ。よしなき長物語に舟が着いて候。とうとう御上り候へ。

●狂女の独白

ワキ いかにこれなる狂女。何とて船よりは下りぬぞ急いで上り候へ。あらやさしや。今の物語を聞き候ひて落涙し候ふよ。なう急いで舟より上り候へ。

シテ なう舟人。今の物語はいつの事にて候ふぞ。

ワキ 去年三月今日の事にて候。

シテ さて其児の年は。

ワキ 十二歳。

シテ 主の名は

ワキ 梅若丸。

シテ 父の名字は。

ワキ 吉田の何某。

シテ さて其後は親とても尋ねず。

ワキ 親類とても尋ねこず。

シテ まして母とても尋ねぬよなう。

ワキ 思もよらぬこと。

シテ なう親類とても親とても。 尋ねぬこそ理なれ。其幼き者こそ。此物狂が尋ぬる子にては候へとよ。なうこれは夢かやあらあさましや候。

ワキ 言語道断の事にて候ふものかな。今まではよその事とこそ存じて候へ。さては御身の子にて候ひけるぞやあら痛はしや候。かの人の墓所を見せ申し候ふベし。こなたへ御出で候へ。

シテ 今まではさりとも逢はんを頼みにこそ。知らぬ東に下りたるに。今は此世になき跡の。しるしばかりを見る事よ。さても無慙や死の縁とて。生所を去って東のはての。道の辺の土となりて。春の草のみ生ひ茂りたる。此下にこそ有る らめや。

さりとては人々此土を。かへして今一度。此世の姿を母に見せさせ給へや。


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり8 杉山久子第四句集『栞』(2023年9月刊、朔出版)  豊里友行

 タイトルの栞(しおり)については、帯文が真っ先に読者の眼を惹く。


過ぎてゆく日常に栞をはさむように

句を作っているのかもしれないと、

少し前から感じるようになった。

言葉にならないけれど言葉を取り巻くもの、

言葉と言葉のあわいにあるものの輝きも、

ともに受け取り、味わってゆきたい。

                        杉山久子


 本著のあとがきより抜粋された帯文だが、私がいつも「丁寧に生きる」ということを言うが言葉は違うのだが本質的には、通底しているように思える。


 杉山久子さんは、第3回藍生新人賞(1997年)、第12回藍生賞(2017年)を受賞されている。

 その外にも第2回芝不器男俳句新人賞(2006年)や句集『泉』により第1回姨捨俳句大賞を受賞されている。


あなたの眼ゆふべは鯨に似てゐたのに


 ここの貴方の眼は、恋人の眼だろう。

 その恋人に夕べは、鯨(くじら)のように魅せられていた。

 鯨は、私の生きる沖縄にも回遊してくる。

 慶良間諸島のあたりで春先に、鯨の見学ツアーがあるほど。

 海原に飛ぶように海面より飛び出して舞う様は、ある種の宇宙の惑星のようにさえ私は感じられる。

 その貴方は、わたくしを引き寄せる星のようで回遊鯨が地球をめぐるようにも俳句が広がる。

 そんな回遊鯨の求愛行動は、円を描くようにして泳いだり、体を回転させたりして、鯨の愛のシンフォニーへと誘(いざな)われていく。

 鯨に似ていたあなたは、言葉にするほど野暮でもなくその官能のあとを詠んでみせる。


 この俳人の現代語感も瞠目させられること多々ある。


保育器にかほを寄せ合ふ桃の昼

昼寝より覚め諾名のひしめく世

雁渡る白封筒に生活費

黒黴を殺す手立てを検索す

三日月を栞としたるこの世かな


 保育器とは、未熟児を保護して育てる医療機器のこと。そこに桃のような子がいて、その子を見つめる両親の顔がふたつ桃のように並んでいる。そこは、昼という日常の中に生命のいとちいさきかよわくも愛おしい愛が芽吹きだす。

 昼寝というか。転寝してしまった。そこには、諾名がひしめくこの世の中があると認識し直す。

 雁が渡るのにどのような空が広がっているか。白い封筒に描かれていくのは、せちがらくも生活費なのだろう。私は、生活費をこのように俳句に結晶化できるのを今迄お目にかかったことがない。

 黒い黴(かび)を殺す手立てをスマフォで検索するこの濁流のように押し寄せる現代社会でもある。

 この俳人は、三日月を栞とした俳人の覚悟の世なのかもしれない。

 この俳人の俳句は、この俳人自身にしか描くことのできない人生のページ。その人生のページに挟まれた栞のような俳句たちは、やはり杉山久子俳句の輝ける人生を噛みしめている。

 名句を作るためでもなくただただ人生をより良く生きるための俳句の栞なのだ。

 どの俳句にも豊かな杉山久子俳句の人生の川底へときらきらと星のように輝いている。

 どの俳句にもひとつひとつ弛むことのない俳句の弦がしっかりと虹の根を下ろして楽を奏でている。

 どの俳句にも人生の栞が、俳人としての確かな生きた証を刻み込む。

 だからこそ俳句の栞は、杉山久子自身だけでなく多くの人々へ俳句の共感を呼ぶのだろう。


台風の来さうな夜のうなぎパイ

白靴の駆け入るミナトベーカリー

雪だるま泣きだしさうな笑顔なり

腹割つて話すつもりの蜜柑かな


 上記の俳句は、特に咀嚼することもないくらいに簡単平明な表現ではあるが、俳句1句1句に確かな詩の弦が奏でられている。

 鯨の宇宙が舞うように思い描けるほど、しなやかな俳人としての開眼が芽吹く。その明るい杉山久子俳句の境地を特筆して筆を置きたい。


 共鳴句をいただきます。


冬星につなぎとめたき小舟あり

傷痕を見せられダリアいよよダリア

欠番のハマヒルガオとして揺るる

灯火親しむ犯人役の長台詞

ががんぼのせまる洛中洛外図

こほろぎや分析室のほのあかり

イワシショー果てて秋思のごときもの

新体操のリボンただよひつつ春へ

さて次は何に取り付く葛かずら

春暁やわが消化管さくらいろ

夏帯の軽さの道に迷ひけり

じゃがいもに小鬼の角のごとくに芽

花冷の手に食ひ込める紙の紐

月面農場春を育ててをるらしい

泣く母を包みてとほき桜かな

軋みつつ世界は翳る黒揚羽

新小豆買うて日帰り旅終はる


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(46)  ふけとしこ

   州浜

はつなつの州浜鴉の影点々

会いたくもなるしえごの花散るし

藻の花を見るか去り行く水追ふか

お返しにしよう竹の皮十枚

雨止めばナガサキアゲハと出奔す


・・・

 以前『陰陽師』(夢枕獏・文春文庫)を読んでいた時にちょっと驚いたことがあった。いや、題材が題材ゆえ、驚くことばかりの内容ではあるのだが。

 主人公である安倍晴明が友人の源博雅と繰り広げる話である。

 ある時、清明が博雅に妖から逃れる術を教える場面。

 「実は先日来私は辛気を病んでおりまして、よく効く薬はないかと知人にたずねておりましたところ、本日、辛気の虫によく効くという薬草をその知人からいただきました」「それがハシリドコロという草を干したもので、それを煎じて、これほどの碗に三杯ほどいただきました。その後は、何やら、心がどうにかなってしまったようで、ここでぼうっとしております」と、こう答えるのだな、と告げる。

 これほどの碗というだけで、その大きさは分からないのだが……。

 ちょっと待って! と言いたくなった。ハシリドコロとは、猛毒の草ではないか。若芽はとても柔らかそうで、美味しそうに見えるが、うっかり食べてしまったら、狂ったように喚きながら走り回る、故に「ハシリ」との名があるというあの草。

 毒と薬は紙一重などと昔から言われているし、ジキタリス(狐の手袋)なども毒草であると同時に、心臓病には特効薬になるともいうからハシリドコロも同様なのだろうか。

 晴明なら薬草、毒草の扱いは心得ているはずだから、このような会話も成り立つということなのだろうが、考えていたらだんだん怖ろしくなってきた。

 鮮やかな緑色の柔らかそうな葉、臙脂色の釣鐘形の花を下向きに付ける草。

 ちょっと変わった雰囲気があって、手を出したくもなるのだが、止めておく方が賢明。

私は一度だけ見たことがある。

 神社の名も祭神の名も憶えていないが、裸足参りで知られた神社だとのことで、まずは石段の下で履物を脱いでから登るようにとの木札が立っていた。

 不信心な私は下から見上げただけだったが、その木札の側に生えていたのがこのハシリドコロだった。図鑑では何度も見ていたからすぐに分かった。こんな所に生えるのか~と思ったことであった。もちろん、手を出すことはしなかった。

 ハシリドコロは走野老と書かれる、ナス科の草。

 それにしても、この様な記録があるということは、この毒にやられた人があり、それを見ていた人があるということ。毒草として認識されるまでには、多くの犠牲が払われたことであろう。

 『陰陽師』もう一度読んでみようか。

 (2024・5)


■ 第46回皐月句会(2月)[速報]

投句〆切2/11 (日) 

選句〆切2/21 (水) 


(5点句以上)

8点句

風花や名画座を出てすぐ埠頭(妹尾健太郎)

【評】 やや昭和っぽさが目立ちますが、私も昭和人ですので、いただきました。──仙田洋子

【評】 名画座で観たのは ジャンギャバン「望郷」か「霧の波止場」に違いない──真矢ひろみ

【評】 斎藤真一の絵で海沿いだか川沿いの映画館を見た、あんな感じかな。──仲寒蟬


7点句

寒林の指と指との遠さかな(松下カロ)

【評】 眼前の光景の遠近を指で測りつつ見ている気もするのだが、その遠さ(距離)の方につよい思い入れを感じる作品。傍に居る人や、途方もなく遠い国に居る人々の指との隔たり、背景はあくまでも寒林。──妹尾健太郎

【評】 つながらない心と心の遠さ。──仙田洋子

【評】 寒林の裸木が指に?読んで自分の手で「むすんでひらいて…」していた!そしたら親指と小指の遠いこと!180°逆…切なく遠い!本当に・・・―今回、4句選にして2句選評しました、申し訳ない―──夏木久


能面の裏もおそろし雪催(仙田洋子)

【評】 おそらく鬼神の面、怨霊の面、女面のどれかだろう。表と同じ裏の表情の凹凸が、今にも雪が降り出しそうな雪催の季語により、鮮やかな触感が伝播される。──山本敏倖


6点句

掬ふ掌の諸子は遠き目をしたり(真矢ひろみ)

【評】 絶滅危惧であるとか何とか、人間の側からの意味を勝手に読み取ってしまうのはおそらく失当なのでしょう。小さな命を愛でている(そして喰っちまう)、その気心がこの句の魅力と思われます。──平野山斗士


5点句

敷布団にんげん毛布掛蒲団(望月士郎)

【評】 毛布は人間の下に敷いたほうが暖かいという意見もあるそうですよ…。戯画化というより図解っぽい。生あるものだけが仮名書きなんでしょうか。──佐藤りえ


(選評若干)

とつおいつ父の黙なる春の闇 1点 松代忠博

【評】 無口な父親が思い悩んで結果無口というのを「とおといつ」で上手く表現されている。春の闇が一見動くようにも「黙」と付くようにも思えるが、春に家族の変化から何かしらの決定権を与えられた父親像と読み解けば更に双方が響き合う──辻村麻乃


節分の鬼にも好かれたきこころ 3点 水岩瞳

【評】 一読、浜田廣介の「泣いた赤鬼」が、仲良くなって優しいと思われても、節分には鬼の役を…?日頃は優しいお父さんんも顔が遠藤憲一に似、素顔で鬼に!平仮名の「こころ」が…中にある色々な、複雑なところが、春に向けて色変えてゆく雰囲気!──夏木久

【評】 大丈夫、他のどんな鬼より節分の鬼は好かれてるヒーロー──千寿関屋


折紙の角の合ひたる睦月かな 2点 渡部有紀子

【評】 睦月だからおめでたい鶴や亀を折って、正月だから折り目正しく生活する気持ちが伝わります。──千寿関屋


死の土を堆く盛り囀れる 4点 依光陽子

【評】 大地には死が、その上では生を謳歌する鳥たちの暮しが。ウクライナの春か。──仲寒蟬


見るともなく人の白髪を見る二月 2点 松下カロ

【評】 逃げる二月、目についた他人の白髪に己の生先を思い浮かべてしまう、先のことを考えても仕方のないことは重々承知しているが時の流れは速いもの。さて、これからどうなる?どうにもならないか。──千寿関屋


マタイ受難曲底冷のホールより 3点 内村恭子

【評】 ちょっと付き過ぎとも思ったがバッハが、マタイが、好きなので。──仲寒蟬


春雷や武者震ひするトラクター 4点 仲寒蟬

【評】 春雷が農作業のなにかのきっかけになるのか、トラクターの主も作業着を揃え道具の手入れを始めたようで──千寿関屋


紙飛行機炊き出し鍋に着陸す 4点 中村猛虎

【評】 能登の人たち、大変な毎日を送っているが、報道を見てると子供たちの無邪気が大人たちの気力を取り戻すきっかけになっているようで、炊き出しのおばちゃんの「そっちでやりな」とか「お椀持ってきな」とか聴こえてくる。──千寿関屋


ドニエプロペトロフスクの長き冬 3点 内村恭子

【評】 ドニエプロペトロフスクはウクライナのドニプロのロシア語名に基づいた表記。これを書いている数日前、ロシア軍の攻撃でドニプロの発電所が被害を受け、一部で水の供給が断たれたとのニュースがあった。2020年から始まったロシアによる侵攻による被害は想像を絶する。まさに長き冬。この表記の一文字一文字を口にしながら今この地に起きていることを忘れてはならないと強く思う。どうか一日も早くウクライナに本当の春が来てほしいと祈らずにはいられない。──依光陽子

【評】 最近のニュースでは「ドニプロ」の名でよく出てくる。地名の喚起するイメージがこの句のいのち。──仲寒蟬


吾に反骨されど蛙の目借時 4点 水岩瞳

【評】 私も反骨を自任しているのでよく分かる。自嘲か、韜晦か。──仲寒蟬


春を待つ我と達磨と招き猫 2点 岸本尚毅

【評】 良いことが待っていそうな春、と思える組み合わせに惹かれます。誰もに良いことが、まず春が訪れますように──小沢麻結


テロリスト一人は消えて手毬唄 3点 近江文代

【評】 我々の活動の時間範囲は通常1~2か月であろう。怒ったり泣いたり、喜んだりの感情もこの時間尺の中で起こることだ。1年以上たつと記憶ですらあやふやになってくる。事実だけではなくて、自分がどんな感情を持っていたかもあやふやになる。まして50年近く前になればそれは歴史であって、私の感情は埋もれてしまうことになる。生々しさは消えて、どす黒い記憶だか残ることになるのだろう。

テロリストが死んだと聞いても、今まで隠されていた扉が開かれたようなもので、とんでもない風が吹き出してくる、当惑が生まれる。最近こんな事件が多いようだ。──筑紫磐井


2024年5月17日金曜日

第225号

            次回更新 5/31




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■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和五年秋興帖
第一(2/16)竹岡一郎・山本敏倖・杉山久子・仲寒蟬・関根誠子
第二(2/23)瀬戸優理子・大井恒行・神谷波・ふけとしこ
第三(3/8)冨岡和秀・鷲津誠次・浅沼 璞・仙田洋子・水岩瞳
第四(3/16)曾根毅・小沢麻結・木村オサム
第五(3/22)岸本尚毅・前北かおる・豊里友行・辻村麻乃
第六(3/26)網野月を・渡邉美保・望月士郎・川崎果連
第七(4/12)花尻万博・眞矢ひろみ・なつはづき・五島高資
第八(5/17)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井

令和五年冬興帖

第一(2/23)竹岡一郎・山本敏倖・杉山久子
第二(3/8)仲寒蟬・関根誠子・瀬戸優理子
第三(3/16)大井恒行・神谷 波・ふけとしこ・冨岡和秀・鷲津誠次
第四(3/22)浅沼 璞・仙田洋子・水岩瞳・曾根毅・松下カロ
第五(3/26)小沢麻結・木村オサム・岸本尚毅・前北かおる・豊里友行
第六(4/12)辻村麻乃・網野月を・渡邉美保・望月士郎
第七(4/26)川崎果連・花尻万博・眞矢ひろみ・なつはづき・五島高資
第八(5/17)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井

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俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

英国Haiku便り[in Japan](45) 小野裕三 》読む

【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 6.林翔の言葉 筑紫磐井 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり7 加藤知子句集『たかざれき』 》読む

【抜粋】〈俳句四季2月号〉俳壇観測253 昭和99年の視点で見た歴史 ――昭和俳句史・平成俳句史・令和俳句史をたどる(続)

筑紫磐井 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(45) ふけとしこ 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む
インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
4月の執筆者(渡邉美保)

■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

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前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【新連載】伝統の風景——林翔を通してみる戦後伝統俳句 6 林翔の言葉  筑紫磐井

 『林翔全句集』を上梓するに当たりその共同編集人でもあり、発行元であるコールサック社の鈴木比佐雄氏と林翔の生前の活動についてしばしば話をする機会があった。特にその評論活動については『林翔全句集』にもその一部を載せたが、全貌をうかがい知るものではなかったのでお互い心残りであった。鈴木氏の勧めもあって、BLOG「俳句新空間」で林翔の記事を連載しているが、準備がなかったため少し中断していた。俳句作品だけでなくて評論活動やエッセイも掲載してみたいと思っていたが、連休中に少しまとめたものが出来たので掲載することにする。

 林翔の評論活動では、特に一巻にまとめた『新しきもの・伝統/ 林翔評論集』は長大な評論が載せられていた林翔を理解する手掛かりとなるが、むしろ短い時評に面白い記事が多かった。特にこうした時評を読んでいると今と少し違う伝統俳句の論壇があり、それに対して林翔が批評しているのが伺えて時代の変化を感じる事が出来た。

 出来るだけ林翔の生の言葉を引用しながら昭和50年代の伝統俳壇を伺ってみることにしよう。

 

イメージ論

 ――沖俳句のありようについては、初期から一貫して明確な指針が示されていた。「沖」の編集長時代の「イメージを考える」企画もそうした現れの一つであった。


 「われわれは何故イメージで俳句を作るか? それは既にわれわれが現実だけでは満たされなくなっているからでしょう。

 ロマンティシズムは、現実に満足しないでそれ以上の美を求め、空想の世界に遊ぶというような傾向がありますが、俳句の世界においてロマンティシズムと名付けうるほどのものはありませんでした。それは、俳句はその属性として、どうしても現実の「もの」に関らざるを得なかったからだと思います。短歌では、与謝野晶子によって代表される明星派の短歌が浪漫主義と称されていること、皆さんご存じのとおりですが。しかし、俳人にも「あこがれる」心はあります。古来の有名な俳人の中では、蕪村が最も浪漫的傾向の強い俳人であったと思いますが、蕪村の有名な句は、ほとんどがイメージで作られているように思われます。写実だったら、あんなに美しくはならないでしょう。」


 ――こうして蕪村、秋櫻子に触れた後、当面の課題を摘出する。


 「今、俳壇は、進むべき道を求めて模索しています。進むためには、先ず原点に立ち返って方角を見定めなければなりません。原点の取り方によって、進む方角もそれぞれ違ってくるわけです。たとえば森澄雄は、原点を芭蕉晩年の「軽み」に置いているように見受けられます。一方、鏖羽狩行は、更に遡って俳諧の理知的なおかしみに原点を求め、その理知の面を推し進めているように見受けられます。

 では、わが『沖』俳句の原点は何でしょうか。それが『あこがれ』であると私は言いたいのです。」(「『あこがれ』について」 54年3月)


 ――これは取りも直さず、「(能村登四郎の)『ぼくは俳句という形の詩を書きたい』という言葉ね。これはとてもいい言葉だと思うんですよ。」(「現代俳句と「沖」」54年1月)にも通ずると思われる。伝統俳句が志向した「心象俳句の探求」(拙著『戦後俳句史』で述べたとっころである)から、この頃になるとイメージへの志向になる。これは金子兜太と似ていなくもない。


軽み論批判

 ――では、逆に批判されるべき対象は何であったか。それは「軽み」論の議論が盛んに行われたとき、旗幟鮮明に現れている。当時山本健吉が盛んに芭蕉の晩年の軽みを尊重し、現代の軽み派として、龍太、澄雄、時彦を高く評価していたのだ。これに対して中村草田男が激しく批判をした。

 ――まず、有名な「去来不玉宛論書の」「鴻雁の羮を捨てて芳草の汁をすすれ」の一節を引いて言う。


  「去来が不玉に宛だ論書の一部をくだいて書いたのであるが、ここには重要な示唆が含まれている。軽みは、重い俳句を達成した人が、新しい境地を求めてそれに転ずるのだ。まだ重い俳句も作り得ない初心者が軽みの意義を知り得るはずがないというのである。」


 ――次に、中村草田男にすらこのような意味での軽みはみられるとして、


  「俳句の思想性を重んずるその重くれた作風が、しかし、若い俳句作者たちの憧れであった。食べ物でもそうだが、若い時は脂こいしつこいものを好み、老いてから淡白なものを好むようになるのである。若い時から鴻雁の羮よりも芳草の汁がよいという人は、病弱な人か何かで、まともではない。

  「軽み」が作家個々の内面における流行である間はよいが、もしこれが全俳壇に瀰漫するということになると、これは問題である。それは現代の俳句そのものが病体になったということであり、俳句の滅亡さえ予測されるからである。」


 ――ひっきょう、軽みというのは作家の弱さではないのか、と問う。響くべき切字を使えない者が軽みに迎合するのではないか。


  「それでも切字を使おうと努力する人はまだいい。切字を使うことを面倒がり、意味さえ通じればいいではないかと、およそ詩性を放棄した言葉の遊戯に堕しかかっている。こういった、切字の重みを嫌う傾向か、軽みへの迎合となっている風潮も見逃せない。」

  「切字の無い句は発句の体をなさず、連句における付句の体であるから、発句から発展した純正な俳句とは認めがたいのだが、仮に百歩を譲って、十七字で季語も入っているから俳句であるという言い分を目をつぶって聞くにしても、切字のないだらだら句は、めりはりも利かず弱い。その弱さを「軽み」と誤解し、軽みの俳句に親近感を抱いてしまうのである。」(「軽みの真義―」「壺」53年7月)



俳句芸能説批判

 ――同じ議論は「俳句芸能説」が現れたときにも、激しく主張されている。俳句芸能説は俳文学者の桜井武次郎が唱え、坪内稔典が賛同していたように記憶している。


  「有季定型ということも一種の型には違いないか、芸能における型とは大分性質が違う。芸能においては型を学ぶことがすべてだと言ってもよいほどで、初学者などはそれだけで精いっぱい、型の中で自己の創意工夫を生かせるような人は、名人上手と言われる少数の人だけであろう。これに反して、五七五の定型などは一分間で頭に入ってしまう。小学生でも指を折りながら定型俳句を作れるのである。型そのものに価値があるとは言えない。季語にしても、生活の中で日常経験しているものが多く、特殊なものだけを歳時記で調べればすむので、「型」として師匠から叩き込まれるといった筋合のものではない。……

 俳句は決して、型を学ぶ芸能ではなく、学ばずともわかる簡易な型の中でいかに自己をーー生活や自然を通しての自己をーー表現するかという文芸なのである。」


 ――やがて論を転じて、俳句芸能説を主張する人自身についてシニカルな矢を放つ。


  「俳句が芸能だと言われれば腹が立つが、実は『お俳句』が芸能なのだと言い直されれば別に腹も立たぬ。『お俳句』には確かに芸能性が強い。稽古事に過ぎないからである。

  『お俳句』作者が師に甘やかされて喜んでいる間は、いかに素質に恵まれた人であっても絶対に『真の俳人』になれるものではない。彼が真の俳人になるとすれば、それは、型にはまった句ばかりをほめて個性を閑却しているような師に断固反撥した時、その時こそが、真の俳人になる機会であろう。」(「俳句は芸能か」 57年7月)


 ――こうした俳句の伝統については、俳句芸能説が出る以前から主張されていた。一貫した明晰なロジックだったのである。


  「芸能における伝統と俳句における伝統と、これは全然違うと思うんですよ、ぽくはね。つまり芸能は昔のままで伝えていくのが伝統でし。うけれども、俳句は文学ですから、これはどうしても創造していかなくちやならない。ですから昔のままだったら、これは伝統とはいえないんですよね。」(「現代俳句と『沖』」 54年1月)


 ――ではこうして一般に言われる俳の固有性の否定を重ねていった上で、俳句の独自性をどこに見いだそうとするのか。

 膨大な論文を整理すると、俳句の特殊性を①切字、即ち二句一章で構成される詩型による内的往還性と②付句を要求する発句としての外的往還性(二律背反性)に分かち、「子規が連句を排したにも拘らず、子規の句には外的往還性があ」ったが、「秋櫻子・誓子以後、俳句は名実共に俳句となり、発句における二律背反性はその一翼を失ってしまった」として、「せめて内的往還性を強固に保つことが、現代俳句に残された道だが、そのためにはモノをしっかり掴まなくてはいけない。モノは外に実在するものでも、イメージでもよいが、現実体験を根底に置くイメージでなければ、読者の心中にもイメージを喚起する力をもち得ない」と結論を引き出す。

 まさしく、冒頭のイメージ論につながって行くのである。(「二律背反の文学-」 「俳句」 50年7月、「俳句の特性について」 51年1月)


秋櫻子とイメージ論

 ―――翔においてその俳句論の多くは秋櫻子を抜きにして考えられない。秋櫻于を語ることが現代俳句を語ることになり、未来を予言することになるのだ。

 ――まず虚子と秋櫻子の相克性がある。


 「きょうは美意識がテーマになったけれども、ほかの結社ではあまりこういうことを問題にしていませんね。やっぱり秋櫻子門の登四郎俳句というのが話の中心にすわっているから、自然そうなったんでしょうけれども、いまどういうわけか虚子ばやりでね、何かにつけて虚子の話が出ますけれども、歴史は繰り返すから、いずれまた秋櫻子的な美意識、美学というものが取り上げられる時代がくるとは思いますがね。」(「虚実の美意識」 60年10月)


 ――今読み返してみると、虚子の復活という現象はこの時期からあらわになり始めたのだと感じられる。秋櫻子の弟子であった藤田湘子がこの前後に虚子を称揚したことに始まるのではないかと思っている。林翔がこう言わざるを得ない俳壇の風景が出来上がっていったのだ。

 しかし繰り返しになるが、近代俳句は秋櫻子なくしては生まれ得なかったのである。


 「俳句の近代化は子規に端を発するが、前述の如く、子規は『発句』という名称を排しながらも、その作品は発句的であった。絶対に発句的ではない俳句、それは、俳句の近代化を歴然となし遂げた秋櫻子・誓子を俟って創り出されたのであった。つまり秋櫻子・誓子の句は、十七字それだけで構築された新しい世界を生み出し、十四字の脇を添える余地を許さない俳句、絶対に発句ではない俳句だったのである。これは、発句を作ろうとしながら言い了せてしまったために芭蕉に難じられた荷今や巴風とは本質的に異り、発句であることを否定する基盤に立っているのである。」(「謂ひおほせて何か有る」 59年7月)


 ――秋櫻子の美しい伝説の一つに「十二橋の紫陽花」がある。

  濯ぎ場に紫陽花うつり十二橋   秋櫻子

 潮来で詠まれた句のモデルを皆で捜したがついに徒労に終わり、秋櫻子の空想の産物ということになったのである。秋櫻子は後に〈私は、自分の見た紫陽花が幻影であったとしてもそれで少しも差し支へはない〉と断言する。不思議にも同じ経験が林翔に見られた。


  「二三日が過ぎた。あの藤の美しさは目に焼きついているのだが、あれ以来一度もその家の前を通っていない。不思議であった。急いで通り過ぎてしまっているのだろう。……日曜日に煙草を買いに出た序でに学校への道をゆっくり歩いてみた。無い。その家が無いのである。しかし住宅街を通る通勤の道はもう一本あるので、そちらにまわってみた。やはり無い。ではあの藤は何だったのだろう。夢にしてはあまりにも鮮やかだったのだが。帰る途々思った。実在していてもいなくてもいいではないか、その美に感動したことは真実なのだからーーと。」(「幻の藤」 49年6月)


 ――イメージの作家秋櫻子と林翔の美しい黙契であった。

 そして、こうしたことが、一見不思議と思われる前衛作家高柳重信の評価・共感へとつながる。恐らく、伝統俳人の中で高柳重信を悼む気持のもっとも深かったのは林翔ではなかったか。


  「高柳重信氏が七月八日に逝去された。つい先日、還暦を記念して『高柳重信を励ます会』が挙行されたばかりだというのに、何ということであろう。・・・・水原秋櫻子は純粋一途な人であるだけに、人に対する好悪の念も極端にはっきりしていて、前衛作家高柳重信はもちろん嫌われる方の側であった。高柳氏がいつか『俳句研究で水原秋櫻子特集を計画したんだが肝腎の水原先生がウンと言わないので流れちやった』と嘆いていたことを憶えている。そんなに嫌われていた高柳氏が秋椰子文学の最大の理解者だったことは皮肉である。秋櫻子没後間もない頃、或る会で偶然高柳氏の隣席になったが、秋櫻子の死を心から、しかも、〃理〃を以って惜しんでいた。」(「高柳重信の死」 58年9月)


エピゴーネンを排す

 ――林翔という指導者の厳しさは俳句指導の全般にわたって現れている。有季、純正定型、切字の意識的使用、抒情性、語法の正確性など俳壇有数の厳格な姿勢は、それがまた自在な心と相俟って、明るくしかしまた一面厳しかったといわれる秋櫻子の正統的な継承者の俤を彷彿とさせている。数ある中で、特にここでは、実作者に向けて放たれた模倣を排する語録を上げることにする。最初期の評論から一貫して流れる林翔俳句理論の特質を明らかにする思想だからである。


  「すぐれた作家が自分の表現意欲を十二分に満たそうとすると、古来の型には納まりきれなくなる。そこで型をはみだすことは作家としては当然あってよいのだが、俳壇では作家が同時に指導者なので、芭蕉が心配したようなこと(編者注――三冊子「能書のもの書けるやうに行かむとすれば、初心の道を損なふ所有り」)は、現代では枚挙に暇ないほど見られるのだ。例えば草田男が句中に鍵括弧を多用すると『万緑』には鍵括弧付きの句が無暗にふえ、楸邨が下五の字余りを多用すると『寒雷』に同じ型の句が多くなり、龍太が句跨りの破調句を多く作ると、『雲母』に俄然破調句が増えると言ったような時期がそれぞれあった。開拓者がやむにやまれずして編み出した型を、追随者はいとも簡単にその型だけを真似てしまう。」(「能書のもの書けるやうに」 60年3月)

  「冬耕の兄がうしろの山通る    龍太

 事情を知らない人がみれば、事実そのままの句と思われそうですが、この句は今から十年ぐらい前の作で、そして龍太の兄である人は、とうの昔になくなっているのです……。

 龍太は自分でイメージを呼び出したのですが、龍太の真似をして亡き父や亡き母や亡き夫、亡き妻を歩き廻らせることが俳壇に流行ってきました。どこの句会へいっても亡者がぞろぞろと歩いている。これは困りますね。イメージは自分で創るものです。他人のイメージを借用して自分のイメージらしく見せかけるようでは、本物の俳人になれないでしょう。」

(「イメージを詠む」 52年1月)


 ――厳しくても必ず笑いがあるのが特徴である。

 そして、これを裏返せばこんな言葉こそいかにもふさわしい結論と思う。


  「芭蕉の言う通り、名人は危き所に遊ぶというのは、俳諧に限らず絵画その他あらゆる芸術に共通することである。・・・・読者の中には「自分は名人ではないから関係ない」と言い出す人が現れそうである。しかし待ってもらいたい。名人が危きに遊ぶのなら、名人たらんと志す人も、危きに遊ぶの気慨が必要なのではないか。」(「名人はあやふき所に遊ぶ」 59年12月)


おわりに

 以上短い時評をつなぎ合わせたところからまとまらない林翔論となってしまったが、書いた後で強く感じたのは、俳人協会分裂以後、伝統と前衛が対立し、それぞれ自分の陣地に閉じこもり、伝統は伝統、前衛は前衛の中だけで通じる批評しかしないようになったと言ったことがある。それが現在の俳壇無風につながっているのだと。しかしここに掲げた時評を読むと、この時期未だ辛うじて論争の種は残り、その火種を燃やそうとしていた人たちがいたのである。

 (※出典は、特に示した者以外「沖」である)


英国Haiku便り[in Japan](45) 小野裕三


パンクロックとhaiku

 初めて出会った外国人に、俳句を知っているかと訊くと、けっこうな確率で「haikuなら知ってるよ」と答えが返ってくる。それが詩や文学の繋がりで出会った人でなくても、だ。ただし、その時に言及される人名は芭蕉や虚子などではなく、思いもよらない人名であることが多い。

 先日、オンラインで南アフリカ共和国に住む人(今回は白人男性)と初対面で話した。僕が俳句のことに触れると、彼が挙げたのが、ジョン・クーパー・クラークという人名だった。

 そこでその人物のことを調べてみた。英国生まれで、しばしば「パンク詩人」の肩書きで呼ばれ、七〇年代のパンク・シーンで有名になり、ある世代にはカルト・ヒーロー的存在で、今では彼の詩は英国政府が定める教育教材にも掲載されるという。「詩はエンターテインメントだ」と信じる彼の活動は多彩で、BBCのある番組では、詩人、ロックスター、コメディアン、社会評論家、ファッションアイコン、と多様な肩書きで紹介される。

 そんな彼のもっとも有名なhaikuがこれらしい。

 To freeze the moment

 In seventeen syllables

 Is very diffic

 十七音に / 瞬間を閉じ込める / のはとてもむず

 英語で五七五の音節を数えたところであえて途切れる。最後の「難しい(difficult)」が途中で切れて、「ほら、だから難しいって言ったろ」という意図だろう。ユーモアたっぷりの句だ。彼はhaikuを多作したわけではなく、掲句も詩集『The Luckiest Guy Alive』に他の詩とともに六句収録されたうちの一句だが、その後も彼はこの句を再三紹介してきた。

 ともあれ、パンクロックと俳句とは日本人の感覚なら水と油の関係とも思えるが、彼の中では違和感なく繋がっているようで驚く。背景の一つとして、彼も含めて詩を舞台で朗読することが西洋では一般的であるため、詩作が音楽演奏へと繋がりやすかったのかも知れない。

 また、彼の詩への見方も背景にある。BBCラジオの番組(*1)で彼はこう言う。

「詩っていうのは、何かすごく大きなものを伝える一番短いやり方なんだ」

 その上で彼は、ジョン・ライドン(パンクロックの象徴的存在であったセックス・ピストルズのボーカル)などの歌詞にもそのことを感じたと語る。詩の本質がそうなら、最短の詩型であるhaikuに彼が魅力を感じたのは頷けるし、そしてパンクロックもその性質を共有するなら、結果としてhaikuとパンクは違和感なく繋がりうる。そのようなパンクロックを巡ってのhaikuと俳句の違いは、日英の文化全体におけるhaikuと俳句の位置づけの差を端的に示すようで面白い。

*1 BBC Radio 4「Desert Island Discs」

(『海原』2023年6月号より転載)


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり7 加藤知子句集『たかざれき』(2020年刊、弦書房)  豊里友行

音楽じかけのあなたを燃やす菜種梅雨

青嵐跳ねる鷲鳥小母さんの赤ん坊

よく眠る骨はこどもとカシオペア

魂魄を飛ばして赤い実青い実


 「音楽仕掛けのあなたを燃やす」のポエジーと菜種梅雨の季語の組み合わせも絶妙な物語性を構築している。

 青嵐の季語と鷲鳥小母さんの赤ん坊。

 よく眠る骨が子どもとカシオペア座にも。

 魂魄(こんぱく)の死者が自然界の赤い実や青い実の弾けて飛ぶことに物語性を生み出すのも絶妙。

 これらは、1句1句に童話のような物語が読み手の萌芽を持って俳句文学の深淵なる宇宙の扉への誘いがある。

 かというと俳句の持つ鷲掴みな物語も加藤知子俳句の面白味のひとつ。


蝶の翅表裏あるさびしさよ


 蝶の翅にある表と裏。真実の表裏から見出すさびしさへと誘う真骨頂がある。


すみれほど濡れて令和とひびきけり


 夏目漱石の俳句に「菫ほどな小さき人に生まれたし」があるが、加藤知子俳句は、いと小さき菫ほどに濡れた現代の元号「令和」を見出し、打ち鳴らす。


もの書きの肺に生まれる金魚かな


 モノやコトを書き綴る人の肺の闇に花火のような艶やかな金魚を咲かせて見せる加藤知子俳句の文学性が艶やかに句集に織り込まれている。


触れ合えば一指の先の芽吹くなり

ゆうべからかなかな無痛分娩中

夜をみがくわたくしだけの百合の部屋

わたくしへ伸びる雄蕊や梅全開

咳き込んで裸のゆらぎ岸浸し


 かと思えば、私性の中から女性の萌芽ともいえる多様な物語も見出されている。

触れ合うことでひとつになる指先の芽吹き。

 夕べからかなかなの身体の疼きのような無痛分娩中にある。

 夜を磨く私の中だけにある特別な百合の部屋も私という鍵をポエジーの宇宙の扉を開ける。

 そこに俳句独特な季語を内蔵することで俳句文学のあらたな地平を切り拓く。

 咳き込むことの存在のゆらぎに裸の私を震わすように焔の岸辺を創造している。

 俳句文学の地平の鍵盤を連弾のように打ち鳴らす魂の加藤知子俳句もさることながら巻末の評論【高漂浪(たかざれき)する常少女性 石牟礼道子の詩の原点へ】は、水俣病に関心を抱き、患者の魂の訴えをまとめた『苦海浄土ーわが水俣病』(1969年)などを発表し続けた石牟礼道子(いしむれ みちこ、1927年- 2018年)論も大変貴重な数珠玉だ。


【広告】加藤哲也『俳句の地底Ⅴ』(2024年5月15日 日本プリメックス社)

 加藤哲也『俳句の地底Ⅴ』が刊行され、豈・俳句新空間の関係者の著書が批評されているので紹介したい。著作の冒頭、及び各編のむすびを紹介する。


はじめに

私は、二〇一九年から二〇二〇年にかけて、[俳句の地底]と題して、I~Ⅳまでを一応シリーズ的に出版したことがある。その当時は、いったい俳句とは何かという思いが常にあって、それに思いを馳せての著作であって、山本健吉の著作を持ち出したりしながら、俳句への洞察を深めていこうとしたものだった。だが、その後はしばらくは俳句作家の方に興味が移ったこともあって、ここ数年はその方面の著作からは遠ざかっていた。

 だが、ここしばらく眺めていると、時折だが、俳句に関する興味深い著書が見られるようになってきた。そんなこともあって、今回は、シリーズの第五弾として、俳句に関する最近の著書に対する批評的な鑑賞を行ったものである。

 今回取り上げた本は三冊。

『切字と切れ』(二〇一九年刊・高山れおな著)、『渾沌の恋人』(二〇二二年刊・恩田侑布子著)、『戦後俳句史-三協会統合論』(二〇二三年刊・筑紫磐井著)である。恩田の著作は日本文化論ではあるが、やはり恩田が俳人であることから、俳句論もふんだんに盛り込まれていて興味深い。

 これらの書を見ながら、それなりに批判も加えながら、俳句について様々な考えを思い巡らせたものであって、それが少しでも俳句というものの理解に繋がればいいと思っている。


『切字と切れ』むすび

  確かに、れおなの最後の一文は重い。切字も含めた、その意味合いがそこまで否定的かどうかはやはり気になるところであるが、これからの進むべき道はここに示されているというべきだ。俳句の「主題や主体の問題」というのが、今後の一番の課題かどうかは別にして、あたらなる俳句の局面を切り開いていかなければならないという、れおなの決意めいた指摘は、なるほどと言わざるを得ないのである。

 だが、それでもくどいようだが、本当に「切れ」に期待してはいけないものなのだろうか。「切字」そのものは連歌時代からの歴史もあってある意味「俳句」の伝統であるとすれば、そこから派生したと言うこともできる「切れ」という言葉もあながち伝統からまったく無縁とは言えないのではないか。そしてまた、いま特に「切れ」に拘っても、れおなの言うように大きな問題があるわけではないのだから、そこに何某かの希望を抱くのがそんなに。悪yことなのか。れおなが言うことはまったく否定はできないのだが、「切れ」に一縷の望みを抱いたことをあながち責めることはできないし、否定することもできないのではないか。最後に私か感じたのはやはりそういうことであった。


『戦後俳句史-三協会統合論』むすび

 最後のこのあたりの文章には、感動すら覚える。そこは間違いないであろう。俳句が世界で最高の詩型でありたいと願う気持ちは誰しも同じだろう。そしてまた、新興俳句史観と戦後俳句史観の論争もまたそれはたしかに重要であるに違いない。

 いままでの磐井の論説のすべてをそのまま鵜呑みにすることは出来ないとしても、確かにこれからの俳壇のためにも、三協会の統一というのは成されてもいいように思える。実際、その対立軸を見ても、いまではほとんど問題にならないとすればである。そこは磐井の言うとおりであろう。ただ、実際に統合するとなると、理屈や原理を超えた煩雑さ、建前論が出てくることは間違いない。だからこそ、磐井のように三協会のすべてに所属し、一石の協会の幹事でもある人物によって、いまこそそういう活動に入ることが出來ればと思うのは私だけではないだろう。

 と言うことになれば、俳人協会、現代俳句協会の両協会における重要幹事であり、日本伝統俳句協会の会員でもある筑紫磐井こそが、それを成しえる最大の人物であるに違いなく、これから先において、必ずやそれを成し遂げてくれると信じてやまないのである。




第45回皐月句会(1月)[速報]

投句〆切1/11 (木) 

選句〆切1/21 (日) 


(5点句以上)

9点句

ぴんと立つソフトクリーム初山河(渡部有紀子)

【評】 意外な取り合わせ。ソフトクリームがはっきりと見える。──仙田洋子

【評】 「ぴんと立つ」が元気よくていい。如何にも初山河に相応しい。正月とソフトクリームの取合せが意外過ぎて面白い。──仲寒蟬


7点句

若菜摘む大地しずもれしずもれと(小林かんな)

【評】 今回は時期柄震災俳句も多かったが、この句も震災俳句に属するとみてもよいだろう。しかし一風異なるのは、震災の悲惨さを詠んだものではなく、若菜摘みの句であること。若菜摘みは万葉集の巻初にも取り上げられた上代の重要な行事で、それにより息災を祈るもの。その後神社などでも引き続き行われた。「大地しずもれしずもれ」は祝詞のように心に響く。──筑紫磐井


6点句

ふくろふに漆黒といふ柔らかさ(飯田冬眞)

【評】 梟のあの羽のしなやかさは闇から来るものだったか。──仲寒蟬


ご自由にどうぞ聖夜のパンの耳(中村猛虎)

【評】 さり気なく置かれたメモとパンの耳。日常が季題と出合い詩が生まれました。新鮮な「聖夜」句と存じます。──小沢麻結


初夢に見知らぬ橋の掛かりけり(松下カロ)

【評】こわいですねえ。その橋、夢の中でも渡ってはいけません。──仲寒蟬


5点句

八百万神の寝息か冬の霧(田中葉月)


暦なき部屋に暮らして松七日(佐藤りえ)


破魔矢のみ持ちたる人の通りけり(岸本尚毅)


(選評若干)

天命を待つ寒鯉の尾の捌き 3点 真矢ひろみ

【評】 そうか、寒鯉はじっとして天命を持っているのか。尾の捌きがいいですね。──仲寒蟬


眼前に白鳥遥かにオスプレイ 3点 松下カロ

【評】 近景と遠景、どちらも空飛ぶもの。さりげなくオスプレイを入れているのがいい。表立った批判よりずっと効果的。──仲寒蟬


着ぐるみを新しくしてお正月 4点 望月士郎

【評】 今年も代わり映えのない己を着ていくか…よいしょ、という声が聞こえてきそうです。──佐藤りえ


小春日のそれはとってもオムライス 4点 夏木久

【評】 むむむ、どれどれ、然し、成る程オムライス。小春日和の丘のようなスタジアムのようなケチャップかけたくなるやつに僕は異存ないです。いや、とっても食べたいです。──妹尾健太郎

【評】 小春日のそれは何かかは書いてない。然しそれはとってもオムライスである。中七の連辞に謎と詩情があり、小春日とオムライスの取り合わせが、色彩感と共に次のイメージを誘う。──山本敏倖


美女の鼻梁ぺらぺらとして福笑 2点 渡部有紀子

【評】 「美女」と来れば、鼻梁スッキリと高い女性を思い浮かべがちだが、「福笑い」の顔の出来上がりは、そううまくはゆかない。目隠しをして、白紙の顔に目鼻を付けてゆく。おカメお多福なら、まだまし。ぺらぺらとしなうその紙にぺらぺらとしなう鼻が妙な位置に貼られてしまうと、かえってふっくらした笑顔になったりする。日本の正月遊びは笑いで始まる。このしあわせなきもち。──堀本吟


大いなる初日あふりか大陸へ 1点 仙田洋子

【評】 阿弗利加への初旅を詠まれたものでしょうか。ひらがな表記が、「ふらんすへ行きたしと思へども」を彷彿させるなどして妙趣を醸していると感受します。──平野山斗士