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2024年5月31日金曜日

【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句 7.梅若忌  筑紫磐井

 今回は少し柔らかな視点から林翔の社会的一面を見てみたい。と同時に、少し長い時代スパンで日本人の心理の変化をたどってみることとする。


(1)林翔の梅若忌回想


梅若忌忘られをりて雨に暮れ

河にごり人もすさびぬ梅若忌


 昭和23年7月「野火」発表の五句より。秋櫻子が、連作は余程のことがないととらないと言ったため馬酔木へ投句するに到らなかった連作五句を、当時新人会の指導をしていた篠田悌二郎が自ら主宰する「野火」に第二席でのせた作品である。馬酔木で連作俳句を提唱した秋櫻子がこの時期連作に否定的だったことは興味深いが、それは今回の本題ではないので梅若忌の句に戻ることとする。

 この一連の作られた動機について、作者は「四月十五日梅若忌の日に当たって、隅田河畔の木母寺を訪ね、連作五句を得て『野火』に出したことがあります。謡曲『隅田川』は教室で講義したことが有るので、一しほ心を惹かれてゐたのかもしれませんが、この時ははからずも木母寺の荒廃したさまに感傷をそそられて、予期してゐたものとは又別な収獲を得たことでした。」(初学講座1)と述べられているか、作者の得た感慨がどんなものであったのか、これだけではいまひとつはっきりしていない。実はこの時の心境を綴ったこんな文章が別にあるので見てみることとしたい。

 「近頃まで梅若忌には『木毋寺大念仏』といふ事が行はれ、開帳もあって賑はったものである。伝説中の少年に過ぎない梅若丸の祭が長く続けられたのは、日本人の優しく床しい性情の表はれであらう。然し戦争は人の心をすっかり荒ばせてしまった。今はあの辺で木母寺を尋ねても知る人は殆ど無い。漸く探し当てて見ると、堂は破れ果てて仏さへも無く、塚の柳は流石に残ってゐるが老松などは薪にされてしまったのであらう。昔ながらの柳に、都鳥に、もし心が有らば何を懐ってゐるであらうか。梅若丸の話は古墳にまつはる伝説に過ぎぬかも知れない。然し我々の先祖が長い間真実と考へてまごころを傾けて来たものに対しては、もう少し深い愛情を示してもよささうに思ふ。」

 これは昭和26年3月に出版された「新編歳時記」(絶版)の中の一節である。歳時記の中の解説でありながらかなり厳しい戦後文化・世相批判を行っており、この歳時記一編中でも極めて異質な解説となっているが、実はこれが林翔の執筆した記事であったのである。林翔は「馬酔木」のなかでいち早く戦後の人事・生活を俳句に取り入れていっていたが、一方で古来の伝統を愛し、遠い祖先たちの伝統の世界を塵・あくだのように投げ捨ててかえりみない世間の風潮には大いなるいぎどおりを禁じ得ない心も持っていた。これは今日に到るまで、時折作者がかい間見せるヒューマンな態度とも通い合うものでもあったのである。

 このように作者を嘆かしめた木母寺の衰亡ぶりであったが、その後社会にも少しゆとりがもどるとともにこの古蹟の修復も行われ、梅若忌の行事も復活するようになったようである。昭和31年に改版された増補版「新編歳時記」では、前記の解説もようやく次のような穏やかなものに書き改められている。

「一時は梅若塚も荒廃に任せられ、たまたま忌日に訪れた人をして

  河にごり人もすさびぬ梅若忌

などと嘆かしめたのであった。幸ひ戦火を受けた堂も復興し、忌日には大念仏とはいかないまでも近所の老人衆が集まってささやかな念仏や御詠歌の供養も行はれるやうになったが、これも何時まで続くことであらうか。梅若丸の話は古墳にまつはる伝説に過ぎぬかも知れないが、我々の先祖が長い間真実と考へてまごころを傾けて来た此のやうな行事は廃絶させたくないものである。」


 作者はこの修復の終ったころ、再び木母寺を訪い、こんな句を詠んでいる。(注)


  垣に結ぶ青竹あはれ梅若忌


 作者の梅若忌への深い思いをうかがわせるものである。

 さて、こうして修復された木母寺であったが、今日逆に、コンクリート詰めの過剰な管理により再び昔日の風情を失う姿となって心ある人々を嘆かせる結果となっている(「梅若塚」能村登四郎沖61・5)のは、いかに日本の古い文化・伝統に対する戦後の考え方が貧しいかを示すものと言えるだろうか。


(2)江戸時代・戦前の梅若忌

 戦後の梅若忌をめぐる盛衰や人身の変化は林翔の以上の文章で明らかだが、「近頃まで梅若忌には『木毋寺大念仏』といふ事が行はれ、開帳もあって賑はったものである」とあったのはどのような状況であったろうか。


【江戸名所図会】

梅柳山木母寺 隅田村堤のもとにあり。隅田院と号す。

梅若丸の塚 木母寺の境内にあり。塚上に小祠あり。梅若丸の霊を祀りて山王権現とす。後に柳を殖ゑてこれを印の柳と号く。例年三月十五日忌日たる故に、大念仏興行あり。この日都下の貴賤群参せり。縁起に曰く、云々。


【俳諧歳時記栞草】 武蔵の國葛飾郡墨田川梅柳山隅田院木母寺の縁起に云、往昔吉田少将憔房卿の男七歳の時父におくれ、愁傷のあまり、遂に有爲の門に入らんことを願ひ、叡山月林寺に登りて修學す。十二歳にして野人の爲にあざむかれて、東海の旅におもむく。病にかかりて終に貞元元年丙子三月十五日、此の處に早世す。忠圓阿闍梨適々に會し、無上菩提の作業をなし、常行念佛を修す。それよりこのかた、今に至りて大念俤会あり。道路にまかせて塚を築き、柳を植ゑ、今日諸人群参す。

 

【東都歳亊記] 隅川川木母寺、梅若塚大念佛。今日(三月十五日)は梅若丸忌日によりて修行すとぃへり。柳樹の本梅若山王の社開扉ぁり。・・・梅若は十六日ぞぁはれなると古人のいひしも宜なり。翌日は詣でぬる人もなく、寂然として鳥の聲波の音のみといひしは、寛延のむかしにして、今は夫にまさり、四時繁昌の地となりて、殊更花のころは、貴賤雅俗となく日毎にこの地に游賞し、青葉にぃたりてもなほ往来たえやらず。


【改造社版『俳諧歳時記・春』季題解説】(虚子監修。後の虚子編『新歳時記』に採用)

 謠曲墨田川にぁる哀れな物語の主梅若丸の忌日である。明治二十三年頃まではその命日たる陰暦三月十五日に行はれたが、今は四月十五日に隅田川畔木母寺で梅若忌が修せられる。当日は一般法要の外に木母寺の大念佛がぁり、附近には植木市など立って参詣者が多い。この大念佛とぃふのは六ヶ敷ぃものださぅで、附近の人や新井薬師その他近郊から、その道のの念佛衆が十人ほど集り、午前十時頃から夕刻まで雙盤念佛を唱へるのである。雙盤とぃふのは鐘の名で臺に吊してある。それが四臺と大鼓が一つ、一度に五人づつ交替で鐘鼓を打ちながら、念佛に節をっけて和唱するのである。念佛衆とぃふのは、別に法衣を纏ふのではなく、普通のみなりをしてゐる。そ刀人々がかんかんかんかん鐘を叩いて唱名するのは哀感をそゝるものである。木母寺は元梅若寺と云って、梅若丸のために建ったお寺である。浅草から鐘ケ淵通ひの乗合自動車に乗り、梅若前とぃふところで降りると、道路から一段低い民家の中に一宇がある。それが木母寺である。御堂には赤緒の鐘が懸り、大提灯が吊され、木母寺、梅若丸、隅田川二十一ヶ所十番の御詠歌の額など懸って、千社札がべた一面に貼られてゐる。寺に向って左手の入口に、石の玉垣を繞した塚かおり、塚の頂に小祠がぁる。これが梅若塚で、その始め里人が塚の印に植ゑたと憾へられる柳はある筈もないが、若い柳が枝垂れて忌日の頃は大きな芽をはぐらせてゐる。塚には柳の外に葉の乏しい一本の老松と、紅白の八重椿、珊瑚樹などが茂ってゐる。梅若神社と云った頃は梅若祭と云ったであらうが、今は梅若忌と云ふと木母寺ではいってゐる。

 このように時代時代によって、繁盛ぶりは異なっていたらしい。


(3)能「隅田川」のあらすじ

 ここまで書いて、この伝説の元となった能「隅田川」に触れていないことに気づいた。概略を抽出しよう。梅若丸の母を主人公(シテ)とした狂女物である。参考にしてほしい。梅若伝説は「梅若丸の死」で漏れなく語られているが、探し求めていた梅若丸がすでに亡くなっていたことを知るシテとワキの緊迫した短いやり取りは「狂女の独白」のとおりである。作者観世十郎元雅の傑作というにはばからない。

●隅田川の渡への到着

ワキ これは武蔵の国隅田川の渡守にて候。今日は舟を急ぎ人々を渡さばやと存じ候。又此在所にさる子細有って。大念仏を申す事の候ふ間。僧俗を嫌はず人数を集め候。其由皆々心得候へ。

ワキツレ 急ぎ候ふ程に。これは早隅田川の渡にて候。又あれを見れば舟が出で候。急ぎ乗らばやと存じ候。如何に船頭殿舟に乗らうずるにて候。

●梅若丸の死

ワキツレ なうあの向の柳の本に。人のおほく集まりで候ふは何事にて候ふぞ。

ワキ さん候あれは大念仏にて候。それにつきてあはれなる物語の候。この舟の向へ着き候はん程に語つて聞かせ申さうずるにて候。さても去年三月十五目。しかも今日に相当て候。人商人の都より。年の程十二三ばかりなる幼き者を買ひとりて奥へ下り候ふが。此幼き者。いまだ習はぬ旅の疲にや。以ての外に遺例し。今は一足も引かれずとて。此川岸にひれふし候ふを。なんぼう世には情なき者の候ふぞ。此幼き者をば其まゝ路次に捨てゝ。 商人は奥へ下つて候。さる間此辺の人々。 此幼き者の姿を見候ふに。よし有りげに見え候ふ程に。さまさまに痛はりて候へ ども。前世の事にてもや候ひけん。たんだ弱りに弱り。既に末期と見えし時。おことはいづく如何なる人ぞと。父の名字をも国をも尋ねて候へば。我は都北白河に。 吉田の何某と申しゝ人の唯ひとり子にて候ふが。父には後れ母ばかりに添ひ参らせ候ひしを。人商人にかどはされて。かやうになり行き候。郡の人の足手影もな つかしう候へば。此道の辺に築き籠めて。しるしに柳を植ゑて賜はれとおとなしやかに申し。念仏四五返称へつひに事終つて候。なんぼうあはれなる物語にて候ふぞ。見申せば船中にも少々都の人も御座ありげに候。逆縁ながら念仏を御申し候ひて御弔ひ候へ。よしなき長物語に舟が着いて候。とうとう御上り候へ。

●狂女の独白

ワキ いかにこれなる狂女。何とて船よりは下りぬぞ急いで上り候へ。あらやさしや。今の物語を聞き候ひて落涙し候ふよ。なう急いで舟より上り候へ。

シテ なう舟人。今の物語はいつの事にて候ふぞ。

ワキ 去年三月今日の事にて候。

シテ さて其児の年は。

ワキ 十二歳。

シテ 主の名は

ワキ 梅若丸。

シテ 父の名字は。

ワキ 吉田の何某。

シテ さて其後は親とても尋ねず。

ワキ 親類とても尋ねこず。

シテ まして母とても尋ねぬよなう。

ワキ 思もよらぬこと。

シテ なう親類とても親とても。 尋ねぬこそ理なれ。其幼き者こそ。此物狂が尋ぬる子にては候へとよ。なうこれは夢かやあらあさましや候。

ワキ 言語道断の事にて候ふものかな。今まではよその事とこそ存じて候へ。さては御身の子にて候ひけるぞやあら痛はしや候。かの人の墓所を見せ申し候ふベし。こなたへ御出で候へ。

シテ 今まではさりとも逢はんを頼みにこそ。知らぬ東に下りたるに。今は此世になき跡の。しるしばかりを見る事よ。さても無慙や死の縁とて。生所を去って東のはての。道の辺の土となりて。春の草のみ生ひ茂りたる。此下にこそ有る らめや。

さりとては人々此土を。かへして今一度。此世の姿を母に見せさせ給へや。