- 平成二十五年 夏興帖 番外篇
【現代俳句を読む】
- 【俳句時評】僕たちのもう怖くない「加藤郁乎」について
- 【俳句時評】 「鷹」の8・9月号を読む
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- 【俳句時評】「かつて難解いま題詠のホークス遊び」(渡辺隆夫)
【編集後記】
黒雲の生れてあめんぼ荒々し アベモエコ(御名前漢字表記不明)
夏の夜や崩れて明けし冷し物 芭蕉
短夜や胃の腑に飯の残りたる 正岡子規
水無月の魚に塩を効かせけり 鈴木真砂女
暮れなずむ夏至ビフテキの血を流す 松崎鉄之助
オン・ザ・ロック白夜てふ刻(とき)ゆるやか いとうゆふ
砂かぶる松ぼっくりや蟻地獄 岸本尚毅
ウエルテルは早足ならん蟻地獄 高柳克弘
涼しさや鳴きゐる鳥の名を知らず 中田尚子
細く濃きこの片蔭をひとりずつ 岸本尚毅
虚子翁に八人の子や扇風機 岸本尚毅
谷底へ下る径あり葛の花 藺草慶子
青林檎高原村の読書会 本井英
空蝉のごとくスナックの看板 高柳克弘
滝になるまへ水重く集ふなり 佐藤文香
かくれんぼうのたまごしぐるる暗殺や
母の日の花つけられて農婦羞づ 馬酔木年刊句集 菊池明石
母の日の花つけ(ら脱カ)るる妻を待つ 馬酔木年刊句集 河野柳泉※母の日のカーネーションは、上の由来からしても白が本来の色である。それがいつの間にか、色のついたカーネーションを生きている母に贈ることになった。
母の日の母なく小さき善をなす 石楠 27・7 井上◆子
母の日の母無き者等寮へ帰る 俳句 29・8 真那智富助※母の有無でカーネーションの色が変わる風習は残酷なところもあると我々は思うが、これこそが本来の母の日なのである。我々の日常ではそれが逆転しているから残酷に見えるのだ、奇妙なことだ。そして一度逆転すると、日本独特の常識がまとわりつき日本的、小芝居的なドラマを作るようだ。
母の日の母にして厨出でずあり 俳句研究 25・8 軽部烏頭子
母の日子を負ふ紐が乳房を十文字 風 25・8 何村馬酔木
母の日の母に買ひきし蝿たたき ホトトギス 26・10 植村抱芽
母の日の妻の昼寝や唇ゆるび 馬酔木 27・7 中村金鈴
母の日のやはり馴れたる厨下駄 曲水 28・7 渡辺晃城
母の日の母のこまかき柄を選る 青玄 28・9 桂信子
母の日やなにしても母よろこべり 青玄 28・11 富山よしお
寝息しづけき母の日の灯を消しにけり 俳句 29・8 宮村美代
母の日は家に居らむと今日出づる 馬酔木年刊句集 児玉典子
母の日の母に来し子の耳朶の垢 明日 富永寒四郎
朝顔や百たび訪はば母死なむ 永田耕衣母の日を作るくらいなら母の句を作るべきではないか。そうして日本的本意を多少脱却した、――多少足掻いている、母の日の句を眺めてみよう。
母の日の母のほくろよ悪い子です 氷原帯 28・7 浜田陽子※前の2つの季語(文化の日、赤い羽根共同募金)のように発展する中で次第に詠まれていった露悪的な句というものは「母の日」では少ない。妙な倫理感が働いてしまうからである、そうした句としては上の句ぐらいが限度であろうか。
母の日の来ておとろへし牡丹かな 曲水 21・12 飯塚杏里
母の日は薔薇の匂ひに明けにけり 曲水 24・9 三宅一正
ぼんじやりと酒しみわたる蝸牛の忌
色里は色かくしてやひとしぐれ
さはやかに程よく勃ちてめいりやす
しぐるゝや銀座に古書肆あるべかり
松に月こゝろないぞへ月の松
俳諧は十六むさし父の恩
巻を措くわたしは俳句けふの月
加藤郁乎は遊び過ぎて、俳句の何も信じていないのである。昔江戸に遊び呆けた俳人がいて、その俳人が愚直に遊びの日々を信じてものにした句集が『江戸櫻』であると、加藤郁乎は偽書をでっちあげてみたのである。(中上健次「文芸時評」『ダ・カーポ』一九八九・七)
「滑稽の初心を終生わすれずにいた点、鬼貫は芭蕉をこえている」(滑稽の初心)と看破した加藤郁乎の第11句集『初昔』は現代俳句の異風にして正統である。前句集『江戸櫻』において「当たり前を吐くのが江戸前の俳味である」と俳諧風流の本筋、無用の用、無楽の楽を語ったイクヤワールドの展開を矜持して余すところがない。(大井恒行『図書新聞』一九九八・九)
郁乎には、彼を前衛俳句の一員のごとく見なす誤解が永らくつきまとっていまして、それが誤解であることをこれから説明しますが、でもその誤解のおかげで彼は俳句界に着地できたともいえる。(前掲「俳句の近代は汲み尽くされたか」)
俳句の生みの親とでもいうべき俳諧、その俳諧の根本義である滑稽の風をさしおいて俳句を云々するなど、じつに、いや、実は滑稽というものだろう。極言するまでもなく、どこかがおかしいからこそ「俳」の趣があり、従ってどこもおかしくないような俳句なんか成り立つわけがない。(加藤郁乎「自作ノート」『現代俳句全集』第一巻、立風書房、一九七七)
新興俳句運動そのものは、はなはだ雑多な性格を有していたものではあったが、富沢赤黄男を代表とする優れた幾人かの俳人における新興俳句運動に対する認識の中には、俳諧連句の発句の概念(遺制)をもって俳句を規定しようとする、それまで流布されていた俳句観を根本から問い直し、発句とは直結しない新たな俳句への創造と言う方向が、はっきり見据えられていた。高柳重信の戦後の多行表記への試行も、言えば、富沢赤黄男らとのこの試みを、さらに拡大・実践したものということができる。ところが、こと加藤郁乎は、富沢赤黄男・高柳重信が紡ぎ出し、事実、戦前から戦後への俳句を代表するに足る仕事として定立したこの方向に、必ずしも沿ったものとして自らの句業を位置づけてはいないのである。位置づけないというより、それは、むしろ逆の方向と言うべきところから、富沢赤黄男・高柳重信に遭遇する結果になっているのである。(沢好摩「句集『球体感覚』と加藤郁乎」『俳句研究』一九八〇・四)
僕は、ひとり加藤郁乎の「俳諧」「発句」という言葉を畏怖する。(略)
加藤が「俳諧」と言い「発句すなわち俳句」と言うとき、それは従来の俳句享受史を経てきていないものであり、加藤の内部で俳句原初の可能性を把握し得た故のものである。芭蕉を経た従来の俳句享受史ではなく、加藤郁乎を経ることによって始まる享受史を、「滑稽」の中に加藤は見据えようとしているのではなかろうか。(林桂「加藤郁乎掌論」『俳句研究』一九七九・七)
俳句が俳句として成立するためには、いわゆる反俳句的なものとの葛藤をエネルギーとするような地平に立たねばならない。(略)そういう葛藤を持続している時だけ、俳句は新たに更新され、輝く。そのような葛藤が沈潜したあとには、いわゆる俳句的熟成が進み、また、そのぶんだけ俳句の危機がつのってゆく。(略)その作品の熟成ぶりと安定性において、三橋敏雄は結果的に俳諧的技法を内に呼び込んでいる。(「昭和40年代と三橋敏雄Ⅰ」『俳句研究』一九八一・九)
九十五歳のパブロ・カザルスがゆっくりと生涯をふりかえって語る中に、古いバッハの曲を、毎日毎日、日課のように弾き続けたということばのあと、シェーンベルクのように新しい音楽運動にはあまり多くを語りたくないといい、「二十年も経てばあとかたもない」といったのが、きわめて心象的であった。
昭和の半世紀には、じつにいろいろの多くのことが起こり、そして、その大半はあとかたもなく消えていった。ぼくば、むかし、残るのが立派だと思ったことがあった。しかし、いま、一方では、残らないものを愛する心を持っている。夥しい昭和俳句の数の中で、消えるために書かれた作品も沢山あったはずだ。それは、カザルスには忘れ去られるものであっただろう。
-昭和俳句十句撰‐『俳人想望』和田悟朗
落穂拾ひ愛の募金の補ひに 石楠 25・2 大沢芳禾
台風の募金病者ら鳴る金を 浜 29・1 渡辺白桃子
赤い羽根コートに挿しぬ秋の雨 春燈 26・1 藤巻志津
赤い羽根挿せる子のパンの餡が見ゆ 俳句 27・12 下村槐太
赤い羽けふ着おろせし袷かな 春燈 28・2 長谷川湖代
胸に赤い羽根秋刀魚のおくび空へ抜く 俳句研究 28・4 山口六兵
愛の羽根透視を了へて失へる 馬酔木年刊句集 児玉典子
愛の羽根胸に四隣も共に貧し 馬酔木年刊句集 副島花愁
吾子の胸に誰ぞさしくれし愛の羽根 馬酔木年刊句集 田尻稚稔
愛の羽根朝の銀座の動きそめ 馬酔木年刊句集 秋元草日居
愛の羽根胸に受けゐて秋暑し 慶大俳句作品集 槫沼 けい一
つつましく立つ故愛の羽根もとむ 馬酔木年刊句集 大網信行
ビルを背に募金の生徒らにも雪 石楠 25・3 西田紅外
春塵はげし募金の子等のかすれ声 氷原帯 26・7 山木比呂志
群衆は背高し赤羽根募金の子ら 天狼 27・1 堀内小花
共同募金青年大股に素通りす 道標 27・1 三好奈津緒
五月の街ゆきて募金に取りまかる 石楠 28・7 大場思草花※それにもまして、児童たちが学校の活動の一環として、学外に出て募金活動をする独特の風物としてとらえられている。おまけにそれらをシニカルに眺めている句が詠まれるようになっている。このように季語は発展することにより、普遍的な季語になってゆくのであろう。
峠路や秋を瑞葉の肥後大根
炉の秋や魚もけものも山の幸
坂鳥やけぢめつけそむ山と空『草枕』は夏目漱石の小説で、1906年に『新小説』に発表された。熊本県玉名市小天温泉を舞台にした作品で、「山路を登りながら、こう考えた」という一文に始まる。著者のいう「非人情」の世界を描いていて、漱石初期の名作と評される。
この詩は、詩に出会いたての中学生の理解力で「こなせる」ほど手軽な詩ではないのである。それどころか、詩の初心者である。それどころか、詩の初心者であるこどもにあたえるのにもっとも向かないタイプの詩だと思う。
その理由は、ヨハン=シュトラウスやピカソに代表されるような「おとなの一般常識」をあてにしなければ、この詩は読む人には、この詩は読む人に伝わらないからである。
[・・・」
ピカソが二十世紀の美術にどんなインパクトをあたえたか、ヨハン=シュトラウスの作曲したワルツやポルカが現代のわれわれの暮らしのなかにどれくらい響いているものか。つまり彼らが人類にとって魅力的な、すてきな存在だということの了解が(たとえぼんやりとでも)なければ、この詩のなかの「ピカソ」「ヨハン=シュトラウス」ということばは「読めない」のである。
また、おとなならば誰でも思い浮かべられる「産声があがる」ことや「兵士が傷つく」ことの映像的イメージ(から出発し、人類共通の、ぼんやりした感情的リアリティーに行きつくもの)にも、この詩はかなりの部分をたよっている。体験がとぼしく教養もないこどもに、このイメージをいますぐに共有しろと言っても無理である。
つまり13歳のわたしは、この「生きる」という詩にこめられたリアリティーをまったく感じることができなかったため、わたしにとってこの詩はうすっぺらなことばの羅列にしか見えなかった、というのが真相だと思う。(26ー27)
でも、この詩[「生きる」]は違っていた。こころがふるえなかった。危険ではなかった。危険ではないということは、魅了されないということである。なぜそうなのか、13歳のわたしには見当もつかなかった。(26)
要するにこの「生きる」という詩は、「知的世界の一般常識」を作者谷川俊太郎とわかちあえる読者だけに供された「おとな向けのおしゃれな小品」なのである。ああしゃれているな、スマートだな感心するためのものだ。正面きって批評や鑑賞をすべきタイプの「本格派の詩」でもないし、ましてこどもの国語科の教材にするようなものではない。(30)
空はとかげの色に原爆を落とす日 中村安伸
マンゴーを紙の力士は縛りけり 岡村知昭
昼顔やあれ神経家のおはよう 九堂夜想
真楽寺 |