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2013年8月30日金曜日

【俳句時評】 「鷹」の8・9月号を読む/筑紫磐井

「鷹」の8月号、9月号で、竹岡一郎が「攝津幸彦の韜晦」を連載している。8月号では、攝津の「恥ずかしいことだけど、現代俳句は文学でありたい」という言葉を引いて、対照的な恥じらいのない俳句として、虚子・兜太の句をあげる。そして二人の、一見含羞のように見えながら、あまりの大上段で却って含羞のかけらもなくなってしまうという句も例に挙げている。これは笑える。しかし、具体的にどんな句かは「鷹」を見ていただくとしよう。

さらに9月号では、

かくれんぼうのたまごしぐるる暗殺や

の句を挙げて、「深読みをしたいと思わせるのは、この句に流れる憂いである」と言っている。憂愁というのは、人生で成功した実業家にはおよそ理解出来ないものであろうから、竹岡が虚子・兜太と対比したのはもっともなことである。しかしさらに、晩年の加藤郁乎とも対比したのは、俳句に対する信念と同様にある種のそれが間違っていないかの反省が常に片隅に兆している点が郁乎とも決定的に違うからだろう。郁乎は常に正しかったからだ。そうでなければあんなに虚子流、月並流の悪口雑言を言えるわけがない。

         *    *

攝津はその後半生において、常に伝統派の作家に脅かされておりそれをたびたび言明していた。しかし、それは伝統派の現実の作品に脅かされていたのではなくて―――現在見る限り伝統派は逆に攝津の作品に常に脅かされ続けている、それは竹岡がこの論を書いた理由でもあるのだろう―――、「何よりも粘り強く有季定型という約束の中で限られた言葉を駆使し夥しい類想や類型の作品を書き続けることに耐え続けながら表現行為に参加している同世代の俳人がいるだろうと推測するたびに不思議な重圧を感じていた」からなのである。そして、結局、攝津のいだいたこの脅迫心は常に裏切られ続けていたのであった。つまり、何ら恐怖するような作品が伝統派からは生まれなかったのである。龍太、澄雄、汀子を論じた挙げ句、「本当の伝統俳句って俺たちなんだよな」と冗談めかして言った本心はそんなところにあったような気がする。

しかし、そうした脅迫的心情が、ある種の攝津的心情となり、攝津の句に唯一の解を許さないことを保証しているのも間違いない。およそ攝津幸彦の自句自解というものを見たことがない。自句はあっても自解などないからだ(私は、今ちょうど兜太の『金子兜太自選自解99句』を読んだところだ)。攝津の自解なんて、攝津の主宰する結社があるというのと同じくらい滑稽な気がする。だから、こうした心情を憂いといえば、攝津の作品が永遠に深読みを許しているのも納得出来るだろう。

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