第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅲ 黒谷星音(くろたに せいおん)さんの場合
黒谷星音(くろたに せいおん)さんは、大正10年11月1日島根県簸川群知井宮村(現出雲市知井宮町)に生まれる。本名野尻(旧姓)秀利。昭和16年浜田第21連隊補充隊入隊(現役16年徴集)、第1期検閲後衛生部(一兵隊)17年夏中支派遣藤6865部隊に転属渡支。終戦直前、満州四平街を経て転進、敗戦。入院下番十数名と共に在満飛行場設営大隊に編入、同年入ソ。爾来バイカル湖周辺にて伐採、造船所、機関車工場雑役。23年8月ナホトカより舞鶴へ帰還(信洋丸)。
(『シベリヤ俘虜記』小田保編 双弓舎 昭和64年4月Ⅰ日)
以下*は、『シベリヤ俘虜記』の作者の随筆を参考にした筆者文。
『シベリヤ俘虜記』北旅・シベリヤ句抄から
敗戦武装解除二句
丸腰の身軽さ悲し秋風裡
銃捨てし身に朔北の風しみぬ
*銃を捨てた身の内に北国の風が一層しみ込んで来るのである。
武装解除を受けた時期は定かではないが、八月十五日を過ぎて秋風の吹く季節になり、終戦の報を受けた時の夏服に、北の大地の風がしみ込む。単に風がしみたばかりでなく、戦争の終わった安堵の中でこの先の運命への疑いや不安も入り混じっていたのであろう。
黒竜江、入ソ
アムールの氷上を行き獣めく
*アムール河(黒竜江)の氷るのを待ち国境を歩いて渡る。「氷上を行き獣めく」とは、ダモイ・トウキョウと騙されて、銃床で撃たれながら歩いている日本兵がまるで狩られた獣のようだ。凍ったアムール河は、果てしなく続いているのである。
大豆焚きて虜囚列車の北を指す
*日本兵には、行先は告げられず列車は北へ向かっているようだ。炊事車で大豆が焚かれているのか、匂いが漂っている。
『シベリヤ俘虜記』P.72、1921年1月シベリヤ鉄道でバイカル湖畔に到着、艀でアンガラ河上流の中州レスジャンカの収容所に入るとある。
バイカル収容所
わが入る柵作らむと氷土掘る
*一月の凍土に、自分たちを閉じ込める柵を作らなければならなかった。捕らわれの兵の殆どがそうであったように、
バイカルの一夜に凍てつ神話めく
*本格的な極寒の到来を知らせるように、一夜にして凍てついたバイカル湖を眺める。早朝の静寂と、アイスブルーに波まで凍り広がるバイカル湖はまさに神話の世界である。捕虜の境遇を一時忘れ、眼前の神々しい世界に魅了される。
極寒のバイカルの日輪(ひ)をむさぼりぬ
*日照時間の短い極寒、バイカル湖の天中に日輪をみた。神々しいい光を目に焼き付けるようにむさぼり見ている。このような境遇にあっても、お天道様は見守ってくれている。
死にし友の虱がわれを責むるかな
*抑留1年目の冬、作業大隊500人のうちの半数が亡くなり、残ったものは絶望の日々を送った。死期は、寄生する虱が一番良く知っている。死体からぞろぞろと虱が離れるからだ。生き残った者は、その虱に責め立てられているのである。
凍土掘れず
墓穴掘らむと半日焚火して泣けり
*凍てた大地を半日焚火して、掘り続けても浅い穴しか掘れない。戦友を葬りながら、死の影は明日の自分に重なって来るのである。
棒のごとき屍なりし凍土盛る
*やせ細って棒のように凍り付いた屍を掘り返した土で埋め戻してゆく、墓標一つも立ててやれぬ無力さを噛みしめて。
冬銀河凍パンと死と持ち歩く
*凍り付いたパンを持ってようやく繋ぎ止めている命と裏腹に死の影はいつも付きまとう。冬銀河はやがて来るシベリヤの過酷な生と死がせめぎあう冬の訪れを知らせる。黒谷さんの作品の中で、秀句であると筆者は思う。
汽関車工場
短日の炉火にひもじき槌振れり
*シベリア抑留というと、シベリア第2鉄道(バム鉄道)建設のための伐採作業が、頭に浮かぶ。工場で黒谷さんは、鉄道や汽関車部品を作る炉の火に照られながら、暑い鉄を叩く槌を振るう。槌の一振り一振りがひもじい腹に体に響くのである。
シベリヤの地に三度正月を迎ふ
シベリヤの遅き初日をおろがみぬ
*シベリヤの苦しい抑留生活も三年を迎えての初日の出に合掌し祈りをささげ、一日も早い帰還を願うのである。
凍てつきし工場街(まち)あけぼのの汽笛なる
〈シベリヤ句集『北旅』(昭和54年刊)から〉
*黒谷さんの49句の最後にあるこの句、一見すると冬の句とも思えるが、「凍てつきし工場街」は、抑留生活の象徴として、「凍てつきし」と詠ったと筆者は感じる。抑留生活を送った工場の町の夜明け、帰還の港のあるナホトカに向かうシベリヤ鉄道に乗られたのだろう。暁の空になる警笛に胸に迫る喜びを感じる句である。黒谷さんは、昭和23年8月ナホトカより舞鶴へ帰還されている。
黒谷星音さんの作品を読んで
*苦悩にみちたシベリヤでの俘虜生活。そこには全く人間を無視したソ連の非人道的な行為に加えて、極寒と飢餓に栄養失調と疾病、さらには強制労働とノルマの枷があった。
きびしい状況下にあって、日毎夜毎、たおれてゆく戦友を目前にしながら、遠い祖国の父母を想い。いつの日か判らない帰国の夢に、一縷の望みをつなぎながらも、現実に打ちのめされ、空しい歳月をおくった。
手記には、以下のように記されている。(シベリヤ俘虜記P.73)
このような境遇の中で、僅かに隠し持った新聞のこま切れや、ノートの切れ端に折を見ては書きつづった句は、泣き戦友への鎮魂と、私の俳句への執念のしからしむところであり、少なくともこのことが、数々の苦難を乗り越えて、遂に帰還の夢を果たした私の心の支えとなったのは確かである。〈夕焼けし樹海に深き秋の貌〉、所内の句会で天位となったこの句も、今はなつかしく思いだされる。 いまでも夜半、シベリヤの悪夢に目覚めて、床上に愕然とすることがある。この深い心の傷は、私の生命のある限り続くであろう。
黒谷さんの抑留生活を俳句が支えたことは、手記により明白である。
黒谷さんの手記で注目するところは、「シベリヤの悪夢に目覚めて、床上に愕然とすることがある。心の傷は命のある限り続くことであろう。」という最後の二行である。過酷な抑留生活を生き延びたが、心的外傷後ストレス障害が残ったことが示唆される。
シベリアの凍土に眠る戦友を慰霊し語り継ぐ営みの中で、黒谷さんの体験が昇華され、心癒されることを祈るのである。
『シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日