読書中から句のバリエーションの豊かさに驚かされた。
例えば、「五平餅の醤油の匂ひ町薄暑」のようにノスタルジーを掻き立てられる句があり、「柿むいて明日はちやんとするつもり」のようにのほほんとした気分になれる句がある。
「金色の指輪の沈む金魚鉢」のように、好奇心を刺激される句、「コップからまつすぐ伸びて葱の青」のような爽快な句……。句ごとに様々な感情を刺激された。
特に気になった句の感想を以下に書く。
喪の家に米研ぎゐたり凌霄花
一人がいなくなり、以前より静かな家。だから米を研ぐ音がよく響く。研ぎ音が、静かさと一人の不在をより実感させる。家の周囲に生命力を強く示す凌霄花。家の活気が花に吸い取られてそうで、怖い。
次の間に男雛女雛の気配かな
雛の濃厚な存在感が表現されている。音も姿もない。でも、雛が次の間にいることが実感できる気がしてしまうというのは大いに共感できる。
単なる雛ではなく「男雛女雛」であることで、二体が話をしているところまで想像できてしまう。男雛と女雛、恋人同士の二体は声を潜めて何を話しているのか。この句も怖い。
不機嫌な父に蹤きゆく青田波
不機嫌だからきっと父は無言で、主人公も無言だろう。青田波の音が、二人が無言であることをより強調している。行く先に何があるのか。懐かしく、また物語や事件を感じさせる句。
おなかまんまる生まれ来る子も柿好きに
大好きな句! まんまるなおなかにいる胎児が「柿好きに」なるというのだから、主人公は「胎児が無事生まれ、健やかに成長する」と信じているのだろう。「子供が成長した時の世の中は、柿が無事に食べられるほどに平和」だとも。あどけない言葉遣いの中に、胎児の未来への祈りと確信が感じられる。
虎落笛夜は裏山の迫りくる
裏山は移動しない。しないのだけれど、虎落笛の音が聞こえる夜の闇の中では、移動しても不思議ではない気がする。妄想なのだが、共感できてしまう。
そのころは六人家族西瓜切る
「そのころは」だから、今は六人家族ではないのだろう。六人よりも少ない家族である気がする。主人公の事情は分からないが、独立、結婚、出産、死別……様々な理由で家族の数が変わりうることを想い、少ししんみりした。
「西瓜切る」は、「そのころ」と「今」、両方に掛かっているのだろう。大人数で騒がしかったそのころ、主人公は西瓜を切った。そして六人家族ではなくなった今も、西瓜を切る。過去と現在が、西瓜を切る動作やその際の手応えで結びついている。
さて、この句集には見るたびに笑ってしまう句がいくつかある。その内三句を以下に取り上げる。
龍淵に潜む卵の特売日
龍淵に潜むは壮大な季語だ。季節に合わせ、龍は大きく世界を移動する。けれど、今の主人公にとって大事なのは卵の特売日。落差がおかしい。
円陣を組む九人と蟻二匹
野球だろうか。円陣を組み掛け声をあげ、士気を高めている九人。そこに蟻が入り込んでくる。「空気読めよ、いや、蟻だから無理か」……と思わず突っ込んでしまった。
「龍淵に~」の句は「自然の流れに関わらず、生活に奔走する人間のおかしさ」が詠まれていたが、この句は「人間の必死さに関わらず、自然が動いている」ことで、おかしみが生まれている。
九人のはずが十人ところてん
上五中七までは、恐ろしげな雰囲気と緊張感があるはずだが、下五「ところてん」のために、句全体におかしみを感じる。不条理なことも「ところてんだから仕方ないな」と笑って許してしまえそう。
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