【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2018年2月23日金曜日

第84号

●更新スケジュール(2018年3月9日)

*発売中*
冊子「俳句新空間」No.8 
特集:世界名勝俳句選集
購入は邑書林まで

第4回攝津幸彦記念賞発表! 》詳細
※※※「豈」60号・「俳句新空間」No.8に速報掲載※※※

各賞発表プレスリリース
豈60号 第4回攝津幸彦記念賞発表 購入は邑書林まで



【巻頭急報】兜太逝く   筑紫磐井



平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
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平成二十九年 冬興帖

第七(2/23)岬光世・依光正樹・依光陽子・加藤知子・関悦史・小林かんな
第六(2/16)真矢ひろみ・川嶋健佑・仙田洋子・仲寒蟬・望月士郎・青木百舌鳥・下坂速穂
第五(2/9)ふけとしこ・花尻万博・田中葉月・渡邉美保・飯田冬眞・池田澄子
第四(2/2)中村猛虎・小野裕三・山本敏倖・椿屋実梛・水岩瞳・近江文代
第三(1/26)内村恭子・曾根毅・神谷波・渕上信子・大井恒行・前北かおる
第二(1/19)松下カロ・岸本尚毅・林雅樹・早瀬恵子・杉山久子・木村オサム
第一(1/12)小沢麻結・夏木久・辻村麻乃・堀本吟・網野月を・坂間恒子




【新連載】
前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
(1)子規の死   》読む
(2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
(3)いかに子規は子規となったか②   》読む
(4)いかに子規は子規となったか③   》読む
(5)いかに子規は子規となったか④   》読む
(6)いかに子規は子規となったか⑤   》読む
(7)いかに子規は子規となったか⑥   》読む
(8)いかに子規は子規となったか⑦   》読む
(9)俳句は三流文学である   》読む
(10)朝日新聞は害毒である   》読む
(11)東大は早稲田に勝てない   》読む
(12)子規別伝1・子規最大のライバルは落合直文   》読む



【新連載・西村麒麟特集2】
麒麟第2句集『鴨』を読みたい
0.序に変えて   筑紫磐井  》読む
.置いてけぼりの人  野住朋可  》読む


【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
西村麒麟・北斗賞受賞作を読む インデックス  》読む





【現代俳句を読む】
三橋敏雄『眞神』を誤読する
   109. 蝉の殻流れて山を離れゆく / 北川美美  
》読む





【平成俳壇アンケート】
間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画
【平成俳壇アンケート 回答1】 筑紫磐井 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答2・3】 島田牙城・北川美美 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答4・5】 大井恒行・小野裕三》読む
【平成俳壇アンケート 回答6・7・8】 花尻万博・松下カロ・仲寒蟬》読む
【平成俳壇アンケート 回答9・10・11】 高橋修宏・山本敏倖・中山奈々》読む
【平成俳壇アンケート 回答12】 堀本吟》読む
【平成俳壇アンケート 回答13】 五島高資》読む
【平成俳壇アンケート 回答14】 浅沼 璞》読む
【平成俳壇アンケート 回答15】 小沢麻結》読む
【平成俳壇アンケート 回答16】 西村麒麟》読む




●【読み切り】思いだす人々――坂巻純子(筑紫磐井)  


【抜粋】
<「俳句四季」3月号> 
俳壇観測182/福永耕二は永遠に――第一世代の回想・第二世代の論考
筑紫磐井 》読む


  • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる






<WEP俳句通信>




およそ日刊俳句空間  》読む
    …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
    • 2月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

      俳句空間」を読む  》読む   
      …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
       好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 






      冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
      No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
      桜色のNo.7


      筑紫磐井 新刊『季語は生きている』発売中!

      実業広報社






      題字 金子兜太

      • 存在者 金子兜太
      • 黒田杏子=編著
      • 特別CD付 
      • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
      第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
       青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
       兜太の社会性  筑紫磐井

      【巻頭急報】兜太逝く          筑紫磐井

       2月21日に金子兜太逝くの報が飛んだ、1月に入院して一時退院したと聞いたが、2月に誤嚥性肺炎で再び入院し、20日午後11時47分に亡くなったものである。
       熊谷市の病院では、改善が見られないことから親しい人々を呼ぶように指示したが、その時情報の行き違いから、一部の報道では兜太死亡の報道が流れたという。すぐ訂正の報道がなされたが、それからいくばくもなく本当に死亡してしまったのである。
          *
       兜太が公衆の目に姿を現した最後は、11月23日の現代俳句協会創立70周年記念全国俳句大会・記念式典・祝賀会であったろう。表彰を受け、秩父音頭をうたって退出したが、この時は終始車いすに座っていた。
       しかし私たちに限って言うと、12月13日に、熊谷にある兜太邸を訪問しインタビューをしている。自宅では車いすを使うこともなく、ソファーに座り、長い座談も疲れることなくこなしてくれた。恒例なのかもしれないが、最後のもてなしに、再び秩父音頭を歌ってくれた。我々がタクシーで帰るときは玄関まで見送ってくれたのだが、なかなかタクシーは来ず、かなりの長時間立って見送ってくれたのだ。
       「海程」の人々や雑誌社の人も年末年始の訪問は控えていたのではないかと想像されるから、本当に我々が普通の客として訪れた最後の人間であったかもしれない、ましてインタビューなどは最後のものといってもいいかもしれない。
       私の心づもりは、「海程」の終刊を決めて、その後は自由に生きるといっていたところから、虚子の姿に重なるものを感じた。虚子は晩年ホトトギスの選者を高浜年尾に譲った後、本拠を次女立子の「玉藻」に移し、「虚子俳話」や「立子へ」を連載したのだが、特に私の関心があるのが若いホトトギスの作家たちと「研究座談会」を開き、ホトトギスだけではない俳壇全体を展望した戦後俳句を語っていることである。
       新しい生活に入る兜太にはこうした余人にまねのできない仕事があるはずだと思い、会うたびに勧めていたが、なかなか決断は得られなかった。実はこの時第1回目としてわずかではあるが話を切り出してみた。師事した楸邨、親近しながらも格闘した草田男に比較して、同じ人間探求派の石田波郷についてはあまり語られていないが、どう感じていたのか、というのが私の関心としてあり、それなりの話を聞くことができた。いずれそれはどこかで発表されるのではないかと思う。
          *
       虚子と比較したのは別でもない、さすがに最近は大時代的は表現は見られなくなったが、たぶん兜太の死は昔なら「巨星墜つ」と評されるかもしれない。虚子に似ているからだ。あるいは新聞の見出しに倣えば、「戦後俳句が終わった」ということもできるかもしれない。もっとも兜太邸を一緒に訪れた人たちと話をすると、戦後俳句とは何であったのかまでさかのぼる話となってしまったが、どんな結論を出そうとも、兜太をぬきにはできないことは間違いないだろう。
       兜太が逝ったことによる「『戦後』のあと」を我々はどう見ていけばいいのだろうか。


      【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい 1.置いてけぼりの人 野住朋可

       麒麟さんの俳句は置いてけぼりの人の俳句だと思っていた。

      見えてゐて京都が遠し絵双六
      みんなはすでに京都でキャッキャウフフ。

      友達が滑つて行きぬスキー場
      きっと本人はまだスキーを履いているところ。

       計算ではなく、なぜだか当然のように置いて行かれる人なのだ。そして、少し遅れた位置から、みんなのことをいつも見ている。そのことをポジティブにもネガティブにも感じていなさそうなところに、好感が持てる。

      何の鮨あるか見てゐる生身魂
      岡山へ行きたし桃を五つ食べ


       一句目、賑やかにご飯の準備をする人たちを尻目に寿司を物色していると、なんだか自分が違う次元の存在になったような、生身魂にでもなったような気分になる。二句目、会いたい人でもいるのだろうか。「今頃岡山では…」と考えているとそわそわしてきて、それが治まるのには桃が五つも必要だったのだ。置いてけぼりの人の暮らしは、面白くて少しキュンとなる。

      少し寝る夏座布団を腹に当て
      秋風やここは手ぶらで過ごす場所
      冬の雲会社に行かず遠出せず


       みんなといるより、一人が好きな人だと思う。どう過ごしているかというと、とことん何もしない。起きない、持たない、出かけない。暇な時間は暇でいるためにある、と言わんばかりに過ごす。なので、「夕立が来さうで来たり走るなり」なんて句に出会うと、飛び上がってしまう。走るんだこの人…。

      少し待つ秋の日傘を預かりて
      妻留守の半日ほどや金魚玉


       妻と暮らしても暇だ。彼女があれこれ用事をしたり出かけたりする一方で、自分はぼんやり待っている。あるいはここでも、妻に置いてけぼりを食らっているとも言えるかもしれない。
       ところが、よくよく読んでみると置いて行かれてばかりではないことに気が付く。

      金沢の見るべきは見て燗熱し

       金沢には見るべき場所が山ほどあって、2~3日ではとても回り切れない。タイトな観光でへとへとの人達がようやく宿に帰ってくると、彼は「見るべきは見て」とっくに熱燗を始めている。置いてけぼりにされたのは、こちらの方だったのだ。

      朝食の筍掘りに付き合へよ
      踊り子の妻が流れて行きにけり


       誰よりも早起きして、筍掘りに行こうとみんなを起こして回る。ちゃんと散歩を兼ねた下見も終えて、早く案内したくてしょうがない。踊りの輪にも、入り損ねたのではないのだろう。彼自身はすでに2周3周と踊り進んでおり、その状態から妻を見ているのではないか。

       こういった観点から『鴨』を読み返すと、同じくらいの立ち位置から景を見ていたつもりだったのに、実はどの句も何周も先の地点から読まれているような気がしてくる。そんな時私は麒麟さんが「現代の隠者」や「仙人」と評されることを思い出し、改めて納得してしまうのである。

      【抜粋】〈「俳句四季」3月号〉俳壇観測182/福永耕二は永遠に――第一世代の回想・第二世代の論考 筑紫磐井

      耕二再発見
       仲栄司の『墓碑はるかなり』(平成三〇年一月邑書林刊)は福永耕二を論じた論考である。中村草田男や石田波郷のようなビッグネームではないが、懐かしい作品で記憶された夭折俳人として耕二は何年かおきに必ず回想される作家だが、これほどの大冊は初めてだ。
       福永耕二(昭和一三年~昭和五〇年)は、鹿児島県出身。昭和三〇年代に「馬酔木」に登場し、若くして注目を浴びた作家である。「馬酔木」の編集長を長く務めたが、秋桜子の病気による絶対安静の中で秋桜子の後継者堀口星眠から編集長を外され、その半年後に敗血症で急逝する。享年四二であった。二〇歳で馬酔木集の巻頭を獲得し、馬酔木賞や俳人協会新人賞を受けるなど賞賛を受け若々しい作風で今もファンが多い。特にその最後の悲劇的な終末が余計共感を呼ぶのだろう。次のような作品は、今も愛唱されている。

      萍の裏はりつめし水一枚    41
      陽炎につまづく母を遺しけり  47
      水打つやわが植ゑし樹も壮年に 48
      雲青嶺母あるかぎりわが故郷  48
      新宿ははるかなる墓碑鳥渡る  53


       『墓碑はるかなり』は四部から構成されている。「第一部 耕二の生涯」は、学生時代の秋桜子との出会いから速すぎた死までの正統的な伝記。「第二部 俳句への考察」は、耕二を巡るキーワード。「第三部 生きる姿勢」は、昭和三三年から五五年までの作品鑑賞。最後の「総論」が、第二部と重なりつつ耕二の生き方を語るまとめとなっている。
       福永耕二を語る俳人は多くいた。耕二から直接指導を受けた「馬酔木」や「沖」の若手、正木ゆう子、中原道夫、筑紫磐井、橋本栄治らが今まで熱っぽい回想を残して来たが、これらは第一世代による耕二論ということができるだろう。仲栄司はそうした関係はない、間接的にしか耕二を知らないという意味で第二世代の耕二論と言うことが出来る。しかし直接耕二を知らないという弱点を補って余りあるのが、万遍ない資料の博捜と、特に最新資料による発見である。
       秋桜子の病気→堀口星眠の後継指名→耕二の「馬酔木」編集長解任→耕二の死→その後の水原本家による星眠の主宰解任→星眠の「橡」の創刊主宰→新「馬酔木」の耕二特集による復権、というドラマチックな歴史を直接見てきた第一世代は、これらの事実の整理がつかないまま、耕二の悲運を悲しんできたが、『墓碑はるかなり』でうっすら浮かび上がる事実もある。
       例えば編集長交代、耕二の失意と死が不幸の顛末であったのかどうかよく分からない(新選者の星眠が自分の理想を実現するために編集長を交代させることは不当とまでは言えないし、編集長退任と耕二の死は直接の関係はないだろう)。仲の意図とは違うが、むしろいろいろな人の中傷があったにせよ、秋桜子は、一端は耕二を見限っていたと思われる。「君を編集長から解任する。水原先生も了解したから」という星眠のことばも、まんざら嘘ではなかったようである。だからこそ、真相を知って秋桜子は「耕二に済まないことをした」「俺も耕二と一緒に逝きたかった」と言ったのだろう。秋桜子がこうした激しやすい性格だったことはそれ以前の藤田湘子に対する態度でも伺える。
       その意味で、耕二の最大の不幸は、秋桜子を、星眠を、唯一調停できる相馬遷子が四年前になくなっていたことだ。遷子が生きていたらこのような不幸は起こらなかった。それは、遷子が馬酔木の良心だったからだ。私は遷子が生きていたら、耕二の編集長解任をさせなかったと思う。星眠も遷子の反対を押し切って編集長解任はできなかったはずだ。
      (以下略)

      ※詳しくは「俳句四季」3月号をお読み下さい。

      三橋敏雄『眞神』を誤読する  109. 蝉の殻流れて山を離れゆく / 北川美美

      《『眞神』を誤読する》を再開します。
      (雑誌<WEP俳句通信>では「『眞神』考」として引き続き連載中。)

      109. 蝉の殻流れて山を離れゆく


      「蝉の殻」は書いてある通りに蝉の抜け殻だが、俳句に関わると「空蝉(うつせみ)」という選択はなかったのかを考える。おそらく、うつしみ(=現世)を簡単に想像してほしくなかったのだろう。まさに「蝉の殻」が句を際立たせる。そして下五「山を離れゆく」が人の一生と重なり、読者を郷愁へと誘う。

       一連の流れによる『眞神』の舞台設定は、高度成長により住民が都市へと流れていった山々に囲まれた小さな村であるように思う。「蝉の殻」は「山を離れ」、もう二度と山に戻れないことをも示唆している。

       「流れる」という言葉が水だけでなく風、人、星、等々に使われる動詞だからこそ読む人の心を揺さぶるのだろう。

       敏雄が先生と慕い、敏雄とともに古俳句研究に励んだ阿部青鞋は掲句を下記のように絶賛する。

      山容水態全てこれ一個の蝉殻(せんかく)に従うに至る。集中の絶品と言えよう。
      (阿部青鞋 「俳句研究・三橋敏雄特集」昭和五十二年十一月号)


      「蝉の殻」が全ての風景を連れて移動できることを掲句は教えてくれる。




            以下は端渓社版 句集『眞神』の書影(酒巻英一郎氏所蔵)







      名作を文庫で。
      邑書林句集文庫

      【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい 0.序に変えて          筑紫磐井

       西村麒麟と知り合ったのはいつからだろう。御中虫が句集を上梓する前に連載を依頼したときに、彼女と相性のいい作家ということで紹介を受けたように思う[注]。もちろん御中虫は個性的な作家であったが、彼女の批評をした西村麒麟も負けず劣らず個性的であった。御中虫は賞賛と罵倒が実は境目がないということを文体として示したのだが、麒麟は嘘と真実が境目がないということを文体として示したのだ。実際私は御中虫と西村麒麟がこれほど親しげなやりとりをしているにもかかわらず会ったことも、見たこともないと言うことを知らなかった。御中虫の罵倒はともかく、西村麒麟の親しげな手紙は、実際、詐欺ではないかと思ったぐらいである。しかし、この時、俳句の世界にコペルニクス的転回が生まれたといって良いであろう。いまそれを覚えている人は少ないが、俳句とは上手に嘘をつくこと――それも徹底的に――だという古人の言葉を本当に実践したのは現代俳句においては麒麟が初めてではなかったかと思う。
      [注]右欄の【ピックアップ】の中の、「赤い新撰・御中虫と西村麒麟」参照。「俳句新空間」に先立つ「詩客」に載った「俳コレ」に対する御中虫のユニークな評、御中虫百句に対するこれまたユニークな西村麒麟の評が掲載されている。

       俳句新空間では、BLOGの特色を生かして、膨大な句集特集を行っている。しかしそのほとんどが、西村麒麟の句集(『鶉』『鴨』)、或いは受賞作品集である。なぜこの頼りない若者に膨大な句集鑑賞の機会を与え、また多くの人が句集鑑賞をするのかというのは社会問題として考えなければいけない。
       散文、詩、短歌・・・と言語空間が縮小してゆくときに、表現が不自由になったと見るのは常識的である。しかし、虚偽性という倫理から散文、詩、短歌がなかなか解放されないのに対して、俳句のような短詩(金子兜太は世界最短詩と言ったが)は逆にそうした倫理から解放されている。なぜなら俳句では真実は語れっこないからだ。真実の反対が嘘とすれば、俳句は嘘をつく宿命を負った詩型なのである。そして、そうした俳句の特色を生かして、実に罪悪感なく嘘をついているのが西村麒麟ではないかと思っている。

       だからこの句集特集は、いかに西村麒麟の嘘を多くの老若男女がいかに正当化しているかを知るための社会学的資料だと思っている。
       これは、何も西村麒麟を批判しているわけではない。もはや俳句は、こうした方法でしか新しい世界を獲得できない。現代俳句は、せいぜい、芭蕉の摸倣、草田男の摸倣、重信の摸倣、兜太の摸倣、虚子の摸倣に終始している。この摸倣の世界を破壊できるのは、生まれながらに嘘をつくことの出来る麒麟だと思っている。
       また、これは麒麟の俳句を鑑賞する論者を批判しているものでもない。これらの人はこうした麒麟の本質を十分弁えた上で、教唆犯や従犯でなく、共謀共同正犯として犯罪に荷担する勇気を持っているからだ。言っておくが、この犯罪に時効はない。一旦成立した犯罪は、古典として言語犯罪博物館に永久に陳列される。

      【新連載】前衛から見た子規の覚書(12)――子規別伝1・子規最大のライバルは落合直文/筑紫磐井

       「前衛から見た子規の覚書」では、すでに、8回にわたって、「いかに子規は子規となったか」を眺めてきたが、この標題・分析法はすべての文学者に当て嵌まるはずである。しかし、時代がずれてしまえば論理構成が全く異なってしまう。例えば1867年生まれの子規と同年の夏目漱石にこうした設問を設けてみることは興味深いはずである。「いかに漱石は漱石となったか」と問えば、ほとんどあらゆる分野に貪婪に挑戦した子規に比べ、漱石は、自分は他人が創ってくれたようなものだと語っているからその答は大方予想できる。にもかかわらず二人のおかれていた時代の空気は全く同じであり、むしろこの設問の中でこそ二人の個性が浮かび上がるのである。
      逆の意味では、子規と河東碧梧桐・高浜虚子では、師弟関係にあるのと、ほんの僅かな世代差で大きな構造の違いが生ずるので余りこうした比較は向いていないかもしれない。

       むしろ是非とも子規と是非対比してみたいのは、近代俳句の創設者と近代短歌の創設者として比較が可能な落合直文(1861年生まれ)である。直文が少しく、年かさであるが、近代短歌は、落合直文から始まっている。与謝野鉄幹からではないのである。鉄幹はむしろ碧梧桐・虚子に近い。
       こうした理由で今回は落合直文を取り上げてみる。といってもその内容は私の独創ではなくて、私の恩師である歌人の前田透氏の『落合直文』(明治書院刊)の引き写しである。前田透氏は明治30年代、明治自然主義歌人として併称された若山牧水・前田夕暮の夕暮の子息であるが、その出自から夕暮を溯り、さらに「明星」、なお溯ってその源流であり直文が創設した浅香社の研究で成果を挙げた。浅香社以前に近代短歌は存在しないと見てよいであろう。子規以前に近代俳句が存在しないのと同様である。ちなみに、前田氏の著作の副題は「近代短歌の黎明」である。近代俳句に改めれば、まさに正岡子規そのものではないか。

      俳人には歌人という存在には余り関心がないし、歌人にしてからが落合直文に興味のある人は現代では少ない。だから直文を語った本はほとんどない。ここでは前田氏の『落合直文』をほぼ抄録した形で紹介するにとどめるが、多分それでも驚くことは多いのではないかと思う。

      参考までに、直文・鉄幹の旧派批判に遅れて子規は、「歌詠みに与ふる書」を書く。これは旧派に対する戦闘であり、その意味では、子規・直文は共同戦線にあったと言うことが出来る。なぜなら鉄幹は子規に先立ち「亡国の音」で旧派歌人を否定していたからである。にもにもかかわらず、やがて子規は「子規・鉄幹並び立たず」といった。これは新派の中の主導権争いのように見える。しかし実際に行った批判は、鉄幹の師である直文批判であった。これに対して、直文は無視している。というよりはむしろ気をつかっていたようである。
      我々は子規の目からばかりこの論争を見ているが、子規の文脈から外れることにより、明治歌壇や俳壇の形成の姿が見えてくるのではないか。子規よりはるかに大きい政治的・文化的な胎動があり、それの渦中にあった直文を見ることにより、相対化された子規も見えてくるように思う。
       あえて言おう。正岡子規の最大のライバルは落合直文であった、と。

      取りあえず今回は、年譜をたどる作業をまずしてみよう。といっても長い年賦の中で、年譜の①であるが。

      [落合直文年譜①]誕生から大学・従軍、文学活動開始まで
      ○文久元年11月、仙台藩国老(1000石)鮎貝房盛の次男として誕生、幼名亀次郎。
      ○明治元年(7歳)、父が戊辰の役で官軍と戦い幽閉、貧窮する。
      [子規2歳]

      ○明治4年(11歳)仙台に出て漢学、習字を学ぶ。
      [子規4歳]

      ○明治7年(14歳)、神道仙台中教院に入学、同窓に(日本新聞社員となり、子規の先輩となる)国分青崖がいる。成績抜群であった亀次郎は、ここで見込まれて中教院統督落合直亮の養子となり長女松野と婚約、直文を名のる。ちなみに、直亮は赤報隊相良総三の同志であり、直文に多大の感化を与える。
      [子規7歳]知環小学校に入学。祖父大原観山に官学を学ぶ。

      ○明治10年(17歳)伊勢神宮教院入校。
      [子規10歳]

      ○明治15年(22歳)、創設したばかりの東京大学古典講習科に第1期生として入学。許嫁松野没。
      [子規15歳]このころから東京遊学を志す。

      ○明治16年(23歳)松野の妹竹路と結婚。
      [子規16歳]松山中学を退学、上京し、共立学校に入学。

      ○明治17年(24歳)、徴兵され、歩兵第1連隊に入隊、大学を中途退学する。
      [子規17歳]大学予備門(後の第一高等学校)に合格。

      ○明治21年(28歳)、除隊後、皇典講究所(國學院大學)教師。また言語取調所(後の東京帝国大学事業となる)を上田万年らと創設。「孝女白菊の歌」(阿蘇の山里秋更けて、眺めさびしき夕まぐれ)を発表し、一世を風靡する。
      [子規21歳]野球に熱中。

      2018年2月9日金曜日

      第83号

      ●更新スケジュール(2018年2月23日)

      *発売中*
      冊子「俳句新空間」No.8 
      特集:世界名勝俳句選集
      購入は邑書林まで

      第4回攝津幸彦記念賞発表! 》詳細
      ※※※「豈」60号・「俳句新空間」No.8に速報掲載※※※

      各賞発表プレスリリース
      豈60号 第4回攝津幸彦記念賞発表 購入は邑書林まで



      平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
      》読む

      平成二十九年 冬興帖

      第五(2/9)ふけとしこ・花尻万博・田中葉月・渡邉美保・飯田冬眞・池田澄子
      第四(2/2)中村猛虎・小野裕三・山本敏倖・椿屋実梛・水岩瞳・近江文代
      第三(1/26)内村恭子・曾根毅・神谷波・渕上信子・大井恒行・前北かおる
      第二(1/19)松下カロ・岸本尚毅・林雅樹・早瀬恵子・杉山久子・木村オサム
      第一(1/12)小沢麻結・夏木久・辻村麻乃・堀本吟・網野月を・坂間恒子


      平成二十九年 秋興帖

      補遺(1/12)早瀬恵子
      第十(12/29)中村猛虎・仲寒蟬・堀本吟・田中葉月・望月士郎・筑紫磐井・佐藤りえ
      第九(12/22)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・ふけとしこ・浅沼 璞
      第八(12/15)小野裕三・小沢麻結・渕上信子・水岩 瞳・青木百舌鳥
      第七(12/8)林雅樹・神谷 波・前北かおる・飯田冬眞・加藤知子
      第六(12/1)花尻万博・山本敏倖・内村恭子
      第五(11/24)大井恒行・小林かんな・網野月を
      第四(11/17)杉山久子・真矢ひろみ・木村オサム
      第三(11/10)松下カロ・坂間恒子・渡邉美保
      第二(11/3)岸本尚毅・辻村麻乃・夏木久
      第一(10/27)北川美美・仙田洋子・曾根 毅


      【新連載】
      前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
      (1)子規の死   》読む
      (2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
      (3)いかに子規は子規となったか②   》読む
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      (5)いかに子規は子規となったか④   》読む
      (6)いかに子規は子規となったか⑤   》読む
      (7)いかに子規は子規となったか⑥   》読む
      (8)いかに子規は子規となったか⑦   》読む
      (9)俳句は三流文学である   》読む
      (10)朝日新聞は害毒である   》読む
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      【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
      受賞作150句について多角的鑑賞を試みる企画
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      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む0】 序にかえて …筑紫磐井
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      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」…中西亮太
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】 麒麟の目 …久留島元
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む4】「屈折を求める」…宮﨑莉々香
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      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む6】きりん …松本てふこ
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      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む8】火花よりも柿の葉寿司を開きたし
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      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること …田島健一
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む10】天地併呑 …橋本直
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む11】西村麒麟を私は知らない …原英
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      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む13】「結び」及び「最強の1句」 …筑紫磐井  》読む


      【平成俳壇アンケート】
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      【平成俳壇アンケート 回答9・10・11】 高橋修宏・山本敏倖・中山奈々》読む
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      ●【読み切り】思いだす人々――坂巻純子(筑紫磐井)  


      【抜粋】
      <「俳句四季」1月号> 
      俳壇観測181/二つの大雑誌の終刊――高齢俳人の人生設計こそ俳壇の課題
      筑紫磐井 》読む


      • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる






      <WEP俳句通信>




      およそ日刊俳句空間  》読む
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          第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
           青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
           兜太の社会性  筑紫磐井

          【読み切り】 思いだす人々――坂巻純子  筑紫磐井

           先日、「馬酔木」・「沖」の新鋭であった故福永耕二に関する評論を送られて来ていたく感心したところである。近々、この本についての評を載せたいと思うが、この本を読みながら私もかつて能村登四郎の「沖」と言う雑誌で、何人かの友人や先輩の俳句を見ながら私なりの俳句観を形成していたことを思いだした。その中でも福永耕二始め何人かの作家には影響を受けたりしたものである。
           ここでまず思いだすのは、坂巻純子である。齋藤愼爾氏と語り合うと、「沖」の女流ではいつも話題にのぼる作家であるが、惜しくも平成8年になくなっている。そう、あれからもう20年もたっている。
           昭和11年千葉生まれ、能村登四郎の「沖」の前身の森句会から師事していたという。句集には、『新絹』『花呪文』『夕髪』『小鼓』があるが、『花呪文』で俳人協会新人賞を受賞している。
           純子について書いたことがあるような記憶があり、調べてみると、「豈ーWeekly」で簡単な紹介を書いている。もう読み直す人もいないだろうから少し手を入れて紹介する。
              *       *
           坂巻純子(昭和11年~平成8年)は「さかまきすみこ」と読む。周囲は「おすみ」さんと呼んでいた。柏の資産家の娘で生涯独身で暮らし、決して下品ではない、しかし姐御肌の女流であった。福永耕二と坂巻純子は、若手の多い「沖」にあって、一格上の兄貴・姐御のような存在であった。実際、「沖」で初めて俳人協会新人賞をとったのは福永耕二(受賞時には亡くなっていたが)であり、耕二の4年後に純子がとっているから、脚光を浴びている二人であった。純子には〈炎天をゆく胎内の闇浮かべ〉〈たらたらと螢火夢の継目かな〉の『新絹』(昭和51年 牧羊社)、〈朝寝してこの世しんかんたりしかな〉の『花呪文』(昭和59年 卯辰山文庫)という句集があり、特に後者で新人賞を受賞した。ただこの頃は遠くから眺めるだけの人であったのでこれ以上に言うべき言葉を持たない。
           次の『夕髪』(昭和63年 富士見書房)、『小鼓』(平成8年 本阿弥書店)時代に、句会の帰りに初めてお酒を飲んで忌憚のない話をしたり、毒舌を吐き、また毒舌を浴びたりもしていたので語るべき話題も多少は出てくる。

          一点の紅のうごきし雪間萌     『夕髪』
          夕髪や嬥唄の山の青しづく
          真似てみてやつぱり怖いをどり喰ひ
          梶の葉や姉と姿見かはりあひ
          離れにて足拭ひゐるいなびかり
          蟹せせる美しき額をつき合せ


           純子の特徴のよく分かる句である。純子の属性はこれらの句に端的に表れているといってよい。おそらく、杉田久女、三橋鷹女、橋本多佳子の系譜を継ぐものであることは容易に想像できよう。それは本人も意識していたらしく、〈夏痩の好き勝手してゐたるなり〉などという句を詠んでいるがこれは行き過ぎかもしれない。「いなびかり」の句は好きだ。

           ただ純子に影響を与えた先人と違って、日本趣味に止まらなかったことは〈純白のシルクの裾を露の世へ〉〈森番の蟇に裳裾をつかまれし〉のような句が見られることからも頷ける。一歩踏み出す向上欲にも燃えていたのだ。

           面白いのは、こんな華やかばかりではない句もこの句集からは見え始めていたことで、私には結構新境地に見えたものである。

          蛍まつもうひとり待つ盃伏せて
          ひだり足ときに浮かせて桃摘花
          ねんねこのあのふくらみは眠りゐる


           その次の『小鼓』は純子最後の句集となるわけだが、この句集に収められた作品こそ純子にとって最もドラマティックな時期の俳句であった。すでに純子は病気がちであり、私もほとんど会うこともなくなってしまっていた。

          みそはぎに水ふくませる衰微かな  『小鼓』
          ひたち野や御代がはりなる麦二寸
          裏山の硫黄濁りに春は遅々


           純子の基調は変わらないながら、表現の仕方が「沖」特有のダイレクトな譬喩から巧みな表現に変わってきている。純子のスタイルは純子独特とはいいながら誰かに真似できるものであったが、この句集ではちょっとうなりたくなるうまさとなってきた、技巧が生命力を超え始めたような印象さえ受けたものであった。

          酔ふ前のしーんとしたる冷酒かな
          何不自由なきアパートに闘魚飼ふ
          台風籠りとは滝裏にゐるごとし


           これが前句集で純子の新境地とよんだものの展開であり、純子がことさら拒否し続けた境涯性がどことなくほの見えてくるのは、遺句集に近い最後の句集だけに、後々になって考えると哀れである。

          師の如く痩せれば見ゆる狐火か
          初夢の鳴らぬ鼓に泣きてけり
          白薔薇や狂ひもせずにじつと居て


           圧巻はこのあたりであろう。「師の如く」は能村登四郎の相貌を知っていれば何となく納得できる作品だが、狐火が見えるというのは実は異常な境地なのである。とりわけ、それは登四郎ではなく純子に見え始めているのだから。師の如く痩せた純子を思うとぞっとする。
           「鳴らぬ鼓」とは、宝生流にある能「綾鼓」(世阿弥の「恋の重荷」の元曲。鳴らぬ綾の鼓を鳴らせば女御との恋が叶うとだまされ死んだ老人の霊が女御を責め苛むという凄い曲)のこと、というと私が常々嫌っている過剰鑑賞になりそうだが、実はこうした深読みは今回ばかりは適切なようである、純子はこの第四句集を『綾の鼓』と名付ける意志であったが、由来を知る登四郎が強いてその名前を避けさせたという。綾の鼓伝説を承知してそのコンテクストの上で師弟はこの句と題名をやり取りしていたのだ。
           「白薔薇」は純子の最後の燃えさかるような瞬間にふさわしく、〈夏痩の好き勝手〉の句とは比較にならない。

           その後の闘病期の句は淡々として、最後を待っているような気がしないでもない。〈問診に短く答へ汗したり〉〈お負けほどの目方増えたり夜の秋〉〈冷まじや二時間待つて名を呼ばる〉。不治の病気と言うだけではないだろうが傍観的な態度が生まれているようだ。このちょっと前には、純子は「月に一度がんセンターに通いですが、医師に恋してますので何よりの楽しみ。俳句にはもっと恋して居ります」というしゃれた手紙をくれたりしていたのだが。

           『小鼓』の感想を書いた手紙を平成8年7月28日に出したがさすがに今度は返事はなかった、じっさい、その時はもう純子は最後の入院をしていたはずだ。そしてその年の10月31日に亡くなっている、享年60。攝津幸彦の亡くなった二週間後であった。登四郎の追悼句は〈露の世のこよなき弟子を見送りし〉。同年同人の北村仁子も失い、〈双翼をもがれし年を逝かしむる〉と詠んだように、登四郎の晩年は最も忠実な弟子を相次いで失う失意の晩年であったのだ。

          【新連載】前衛から見た子規の覚書(11)東大は早稲田に勝てない 筑紫磐井

          子規は小説を持って文学を代表させているところがあるので、この項目で文学研究の問題に触れてみよう。子規自身文科大学に在学し文学の勉強をする一方、坪内逍遙を介して東京専門学校とは縁があった。そのため比較しやすかったこともあろうが、文科大学(現在の東京大学)と東京専門学校(現在の早稲田大学)文学部を対比して評価している。

          「前者は国文漢文英文仏文独文の数科あれども後者は混然たる一文科あるのみなればなり。然れどもその中もっとも重要なる国文学を取りてこれを比較し来たればその体裁上において大学はるかに専門学校に劣りたるを見る。専門学校の課程を見ればいやしくも文学に関する者は古今と雅俗とを問はずことごとくこれを網羅するの傾きあり。然るに文科大学の国文学なるものは古文学にのみ趨りて絶えて近世文学の科目あることなし。」(「学校」。以下同)

          しかし学生の質がよいと言っているのではない。子規自身は文科大学に在籍したのだから、自らを卑下するはずがない。

          「一般に学生の学識と品格とを評すれば専門学校ははるかに大学に下れり。」

          この結果改良すべきは文科大学なのだと主張している。

          「専門学校に向かって俄かに学生の地位を高尚ならしめよといふは実に卵を見て時夜を求むるが如く無理難題たるを免れず。・・・然れども大学に向かってその学課を改正せよと望むは前者に比してはなはだ容易なるものなれば余は先づこれよりして始めんとするなり。
          すなわち文科大学国文学中に近世文学の一科目を加ふることこれなり。而してこれを実行せんとするには近世文学の教員を聘し近世文学の書籍を備ふるの二事をなさざるべからざるなり。」


          まとめ
          以上のような文学各ジャンルに対する認識の下に、子規は文学意識から遅れていた俳句、和歌の改革に乗り出したと言ってよいだろう。ただし、小説や散文については難しいものがある。子規自身に、子規の俳句や和歌に匹敵する傑出した作品があったわけではないから、子規の写生文の提唱は俳句の「獺祭書屋俳話」や和歌の「歌詠みに与ふる書」とはずいぶん違ったものとならざるを得なかった。この点については後述しよう。
          こうした相違点を踏まえながら、子規の文学活動を総括すると次のようになる。

          ①子規は、文学意識を持たない前近代的な創作態度を厳しく批判した。そこには倫理的嫌悪感に近いものさえ感じる。
          ②こうして展開された改良運動は結局のところやがて近代的な写実(写生)的技法に収束されるが、一方でジャンルごとに特有の空想的技法を排除はしなかった。
          ③運動の展開に当たって、子規自身が意識したかどうかは別に戦略的な方針をとり、例えば俳句にあっては反芭蕉的(親蕪村的)な主張、短歌にあっては反古今集的(親万葉集的)な主張を取った(散文にあっては、親写実的(反文飾的)な主張となるがそれについては後述する)。
          ④にもかかわらず、俳句分類に代表されるように膨大な資料やデータを取り扱っている自信から、客観的批評性を維持することが出来た。
          このような子規の特徴を踏まえながら、子規の事業(ほとんどが著作となっている)を眺めてみることにしよう。