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2018年2月23日金曜日

【抜粋】〈「俳句四季」3月号〉俳壇観測182/福永耕二は永遠に――第一世代の回想・第二世代の論考 筑紫磐井

耕二再発見
 仲栄司の『墓碑はるかなり』(平成三〇年一月邑書林刊)は福永耕二を論じた論考である。中村草田男や石田波郷のようなビッグネームではないが、懐かしい作品で記憶された夭折俳人として耕二は何年かおきに必ず回想される作家だが、これほどの大冊は初めてだ。
 福永耕二(昭和一三年~昭和五〇年)は、鹿児島県出身。昭和三〇年代に「馬酔木」に登場し、若くして注目を浴びた作家である。「馬酔木」の編集長を長く務めたが、秋桜子の病気による絶対安静の中で秋桜子の後継者堀口星眠から編集長を外され、その半年後に敗血症で急逝する。享年四二であった。二〇歳で馬酔木集の巻頭を獲得し、馬酔木賞や俳人協会新人賞を受けるなど賞賛を受け若々しい作風で今もファンが多い。特にその最後の悲劇的な終末が余計共感を呼ぶのだろう。次のような作品は、今も愛唱されている。

萍の裏はりつめし水一枚    41
陽炎につまづく母を遺しけり  47
水打つやわが植ゑし樹も壮年に 48
雲青嶺母あるかぎりわが故郷  48
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る  53


 『墓碑はるかなり』は四部から構成されている。「第一部 耕二の生涯」は、学生時代の秋桜子との出会いから速すぎた死までの正統的な伝記。「第二部 俳句への考察」は、耕二を巡るキーワード。「第三部 生きる姿勢」は、昭和三三年から五五年までの作品鑑賞。最後の「総論」が、第二部と重なりつつ耕二の生き方を語るまとめとなっている。
 福永耕二を語る俳人は多くいた。耕二から直接指導を受けた「馬酔木」や「沖」の若手、正木ゆう子、中原道夫、筑紫磐井、橋本栄治らが今まで熱っぽい回想を残して来たが、これらは第一世代による耕二論ということができるだろう。仲栄司はそうした関係はない、間接的にしか耕二を知らないという意味で第二世代の耕二論と言うことが出来る。しかし直接耕二を知らないという弱点を補って余りあるのが、万遍ない資料の博捜と、特に最新資料による発見である。
 秋桜子の病気→堀口星眠の後継指名→耕二の「馬酔木」編集長解任→耕二の死→その後の水原本家による星眠の主宰解任→星眠の「橡」の創刊主宰→新「馬酔木」の耕二特集による復権、というドラマチックな歴史を直接見てきた第一世代は、これらの事実の整理がつかないまま、耕二の悲運を悲しんできたが、『墓碑はるかなり』でうっすら浮かび上がる事実もある。
 例えば編集長交代、耕二の失意と死が不幸の顛末であったのかどうかよく分からない(新選者の星眠が自分の理想を実現するために編集長を交代させることは不当とまでは言えないし、編集長退任と耕二の死は直接の関係はないだろう)。仲の意図とは違うが、むしろいろいろな人の中傷があったにせよ、秋桜子は、一端は耕二を見限っていたと思われる。「君を編集長から解任する。水原先生も了解したから」という星眠のことばも、まんざら嘘ではなかったようである。だからこそ、真相を知って秋桜子は「耕二に済まないことをした」「俺も耕二と一緒に逝きたかった」と言ったのだろう。秋桜子がこうした激しやすい性格だったことはそれ以前の藤田湘子に対する態度でも伺える。
 その意味で、耕二の最大の不幸は、秋桜子を、星眠を、唯一調停できる相馬遷子が四年前になくなっていたことだ。遷子が生きていたらこのような不幸は起こらなかった。それは、遷子が馬酔木の良心だったからだ。私は遷子が生きていたら、耕二の編集長解任をさせなかったと思う。星眠も遷子の反対を押し切って編集長解任はできなかったはずだ。
(以下略)

※詳しくは「俳句四季」3月号をお読み下さい。

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