「先生、俳句で比喩を使ってもいいんですか?」
先日、英国俳句協会で開催されたあるオンラインイベントに参加した。英国各地や英国外の英語圏からも参加者が集まるZoomを使ってのイベントだ。その時の講師への質疑応答で出てきた参加者のある質問に、僕は不意を突かれた。
「俳句で暗喩を使ってもいいですか?」
実はこの質問を聞いて、僕は「なるほど、やっぱりhaikuの世界ではそういう質問が出るんだ」と妙に納得した。というのも、例えばネットでざっと調べるだけでも、haikuでは比喩(暗喩だけでなく直喩も)は使うべきでない、といった説明は英語圏では容易く見つかる。
一方、言うまでもなく、日本の俳句界で比喩を使うのはきわめて一般的だ。
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 兜太
去年今年貫く棒の如きもの 虚子
このように有名な直喩の句はいくつもあるし、暗喩の句も同様だろう。日本の俳句入門書には比喩の使い方が解説してあるし、俳句総合誌にもそのような特集記事はいくらもある。表題のような質問をする人が日本にいたら、諸先輩から一笑に付されるだろう。
そもそも英語詩の世界では、直喩・暗喩だけでなく、詩のどの技法を創作で使うのかをかなり意識的に取り組むように見える。比喩以外にも頭韻・脚韻・強勢の置き方、など日本語の詩より駆使される技法もはるかに多様な印象がある。
だが、さまざまのhaikuの入門解説を読むと、そのような英語詩に馴染みの諸技法とは違い、haikuとは一句内に二つの要素を並置するのが基本、とするものが多い。このイベントでの講師も、「haikuで暗喩を使ってもいいが、使い方には気をつけるべきだし、暗喩が効果的なのはより長い自由詩などだろう」との回答で、基本姿勢は似通っている。
haikuにあるそのような姿勢は、歴史を遡ればより明快だ。以前の連載で(第24回)、英語圏初のhaikuと目されるエズラ・パウンドの詩を紹介したが、それもまさに要素の単純な並置からなる。
The apparition of these faces in the crowd;
Petals on a wet, black bough.
群衆の中に現れるこれらの顔 / 濡れた黒い大枝の上に花びら
そしてパウンドは、単純な並置のみで詩を生み出すこの手法を、西洋詩にはなかったまったく新しい手法と評価し、「重置法(super-position)」と名づけた。
そしてこの点にこそ西洋詩から見て際立つ俳句の特異性があるとするなら、現在のhaikuもその視座を引き継いでいることは不思議ではないし、ひょっとすると、日本の俳句の古き良き本質を純粋な形で継承しようとしているのがhaikuである、とすらも言えなくもない。
※写真はKate Paulさん提供
(『海原』2023年11月号より転載)