句集を読む際に、まず私自身が共感した句に付箋をつけ、それらの句と作者の自選句を比較することが多い。
ここでは、句集の帯に記されている自選十句のうち八句を鑑賞したい。
血族の村しづかなり花胡瓜
あとがきによれば、作者は茨城県の小さな村で生まれ育ったそうである。「血族」という言葉は生々しい血の色を想起させる。一方で「花胡瓜」は鮮やかな黄色。色彩的な対比が一句の中で見事に決まっている。
狐火の目撃者みな老いにけり
「みな」という断定に驚かされた。詩的断定というべきか。
過去から現在への時間の流れが、一句に凝縮されている。狐火をみた時はみな青年、壮年だった。もしかしたら、その時はその人たちが暮らす土地が繁栄していたかもしれない。
だが、今は「みな老いにけり」。狐火の目撃者だけでなく、その土地の歴史を知る者も高齢になったのではないか。
東京の空を重しと鳥帰る
高村光太郎の詩の一節「智恵子は東京に空が無いという」を思い出した。(『智恵子抄』に収録されている「あどけない話」という詩の一節である)。
「東京の空を重し」は、大都会の東京の空を感覚的に把握している。「鳥帰る」の鳥がまるで人間のようだ。
栗虫を太らせ借家暮らしかな
栗虫をこのように愛らしく詠んだ句が、今まであっただろうか。
「借家暮らし」の生活感も「栗虫」によく合っている。現代版の虫めづる姫君といったところか。
筑波嶺の夏蚕ほのかに海の色
「夏蚕」を「海の色」と言い表したところが新鮮だ。「筑波嶺」と海とはかなり離れている。下五で「海の色」が出て来るとは誰が想像できようか。
黒葡萄ぶつかりながら生きてをり
ぶつかりながら生きているのは作者だろう。深読みかもしれないが、この言葉は黒葡萄の弾力をも表わしているようにも読める。つまり「黒葡萄」=「ぶつかりながら」と。
倭の國は葦の小舟や台風圏
まるで倭の國全体を俯瞰しているかのようだ。もしかすると天気図を見ている時に、このような発想を得たのかもしれない。
「葦の小舟」は揺れ動きやすく、漂いやすい。日本という国の現状を風刺しているようにも読める。
縄文のビーナスに臍山眠る
縄文のビーナスは、妊婦をかたどった土偶である。その土偶の小さな臍に、目をつけた所が面白い。
この縄文のビーナスに自己を投影して詠んだか、あるいは誰かに似ている部分を見つけたか。いずれにせよ、土偶に対する愛着が一句全体からにじみ出ている。
プロフィール
・涼野海音(すずのうみね)
・昭和五六年、香川生まれ。高松市在住。
・「晨」所属。
・第四回星野立子新人賞、第五回俳句四季新人賞、第三一回村上鬼城賞「正賞」などを受賞。
・句集『一番線』(文学の森)
・ブログ「涼野海音の俳句部屋」
http://suzunoumine.blog.fc2.com/
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