句会亜流里結成時に俳句を始めて15年、常に俳句とともに亜流里代表中村猛虎と私はいた。私は、彼の一番のフアンと自負している。
今回は、彼の句集から、「父」の句に絞り、取り上げることにする。父母を一度も詠んだことがない俳人は希有であろう。「父母」は、現実世界と同じく俳句にとっても欠かせない存在である。それ自体詩性を帯びたタームである。しかし、困ったときの「父母」頼みにもなりがちで、類句類想・月並俳句に陥りやすい句材ともいえる。
本句集での使用例は、「父」の句が6句、「父母」の句が1句、「母」の句は1句である。
生物学上の父よ梟よ
句会で、この句に出逢ったとたん、彼の句だと思った。15年も一緒にやっているとそうなる。「やられた!クソッ!」と小さく叫ぶ。そしてシブシブ採る。なお、彼は私の句と分かると、好い句だと評価しても十中八九は採らない。あとでこっそり「あの句はよかった」と耳打ちしてくる。
検索したわけではないが、「生物学上の父」を用いた類例句は無いだろう。独特のフレーズだ。本来「父」は、生物学上の遺伝関係を指す言葉である。が、あえて「生物学上の父」と使われてみると新たな化学反応が生ずる。「養親」「名付け親」古くは「烏帽子親」などもあるにはある。しかし、ここでは、そうした意味的な説明を狙ってはいない。「父は父で、あるにはあるが」という父との距離感がグサリと心臓に届く。
上中を跨ぐ一挙12音の破調をどうまとめるかは難しいところだ。彼は「梟よ」と5音で見事合計17音で納めた。重い12音がここで軽く裏切られることになる。ただ、梟には知恵のイメージ、父のイメージを含んでいる。とすれば、近すぎか?それとも、冷たい父との距離感を冬の季語しかも「生物」である梟でバランスをとったのか?
言葉には、すべて質量と引力がある。付きすぎても離れすぎても、衝突するか、またはバラバラになる。この句は、地球と月のようにすくなくとも数億年の間、互いの引力で引き合うことだろう。技法的には、「よ」と連続した呼びかけで韻を踏んだのも好ましい。
父の日の父はひたすら螺子を巻く
アル中で死んだ親父の部屋に蟻
開戦日父は螺子売るセールスマン
父母俳句のほとんどは、郷愁、愛情、感謝に充ち満ちており、まして父母が亡くなると、哀しみ、喪失感を全面に共感を求める句になりがちである。世の中には、幸せな親子関係を築けた人々が圧倒的に多いのだろう。それは社会にとっても、当人にとっても好いことに違いない。しかし、古くはバット父親殺人事件に始まり、親子間の哀しい関係の報道も珍しくない。彼らは、大きな声で主張したり理解を求めないだけで、親子関係の闇に悩んでいる。現代社会では、決して少数とは言えないのかもしれない。
俳句は、詩である。詩は美しいものと決めつける人々がいる。しかし、私は、真実に根ざした共感、命の叫び、肉感や鼓動を表現するものもまた詩であると考える。俳句を通じて自らのこころの真実を捌く戦列に私も続きたい。
亡き父の碁盤の沈む冬畳
もちろん、彼は、物の情感に感情を移入させた正当な俳句も作る。新たな地平は、しっかりとしたデッサン力を基礎に開きうるのではないか。
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