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2021年1月29日金曜日

【篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい】6 あるいは「時間の花」について  鈴木大輔

※『火の貌』はこの度俳人協会新人賞を受賞しました

   魚の皮残す家族よ秋の虹

 食というのは、その人が生まれ育った家庭環境やその家族の歴史や文化を色濃く反映しているものだと思う。毎日欠かすことなく繰り返される食事を通じて人間の心身は文字通り形作られていく。作者篠崎央子氏自身による句集のあとがきに、

 夫と一緒に暮らし始めて二年後に北海道で暮らしていた夫の父母を引き取り、在宅介護をすることとなった。フルタイムで働き、俳句の原稿を書きながらの介護は、苦しくも楽しかった。

と、ある。よって、この句で「家族よ」と、呼びかけている「家族」とは「夫の父母」を含めた、篠崎氏にとって新しい「家族」であることが推測される。「在宅介護」が必要な義両親の嚥下を助けるために、あえて「魚の皮」は「残」されたのか、それとも、元々「夫」の「家族」は「魚の皮」を残す食文化の中で生きてきたのか、そこはわからないが、一方の篠崎氏は「魚の皮」を「残」さない「家族」のなかで育ってきたのであろう。そういった差異がなければ詠まれることのない句である。親しい人との生活のなかで感じる小さな差異に、小さいからこそ埋めてはいけないような、小さいけれども到底埋められそうもなく感じるような、そんな他者との差異を知ってこそ、人はそこに自分自身だけが持つ色彩を見つけるのであろう。氏は「秋の虹」にいったいいくつの色彩を見出したのであろうか。

 実際、篠崎央子第一句集『火の貌』は絵画的な色彩感覚に満ちた句集である。

  血族の村しづかなり花胡瓜
  開墾の民の血を引く鶏頭花
  鮎跳ぬる血より濃き香を放ちては
  血の足らぬ日なり椿を見に行かむ
  血の通ふまで烏瓜持ち歩く
  火の貌のにはとりの鳴く淑気かな

 
 赤色は人間のいのちにとって、もっとも根源的な、それでいて、だからこそというべきか致命的なものにもなりかねない色だ。句集『火の貌』には、タイトルの「火の貌」も含めて、「血族」、「血」、「火」など根源的な赤色を連想させる言葉があまた散りばめられている。「花胡瓜」は黄色い花だが花弁はそう大きいものではなく、花自体は「胡瓜」の葉や茎の緑色に埋もれてそっと咲いている印象がある。「花胡瓜」の咲く「万緑」の季節に、「血族」という「血」の、赤色のメタファーを「しづか」に対比させることで、一句のなかに赤と緑という補色の関係にある二つのイメージが拮抗し、さながらフォービスムの絵画を前にしているようである。ここに〈さざなみや凍つる絵の具を絞り出す〉という句まで加わると、これはもうフォービストのアトリエにまで迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。そして、床に散らばっているマゼンタやヴァーミリオン、カドミウムレッドの「絞り出」された「絵の具」のチューブを幻視して気が付く。これはひとつのたたかいなのだ、と。
 句集『火の貌』は俳人篠崎央子氏の魂の色彩を写した画集であると同時に、現代という時代を生きる一人の人間の、たたかいの手記でもあるのだ。

 では、いったい氏は何とたたかっているのか。「血」が「足らぬ」という作者の叫びにも似た思いは、いかような「日」々のなかで発せられたものであったのだろうか。

  東京の空を重しと鳥帰る
  東京は玻璃の揺りかご花辛夷
  新社員昼餉の風に透けてゆく
  透明になれる街なり聖樹の灯

 モノトーンの、あるいは透明な、都市の描写は「血族の村」の「絞り出」されたままの「絵の具」の荒々しい原色の風景とは対極にあるような静かな都市の景である。ほとんど色彩を持たないこの都市の景に、作者は「血の通」わぬものというイメージを与えたかったのだろうか。「血より濃き香」を「放」つ故郷の「村」と「血の通」わぬ「透明」な「東京」。この鋭い対比に、作者は何を託そうとしたのだろうか。。
 「東京」の灰色の「空」は「重」く、それでいて、都市自体は「玻璃」のように「透明」で、そこにいる人々も「風に」「透けてゆく」ほど「透明」で、この「街」にいれば、クリスマスに「聖樹」のきらびやかなイルミネーションを見上げていれば、私自身も「透明になれ」てしまう。でも、私は本当に「透明にな」りたかったのだろうか。いや、「透明にな」りたいはずがない。私は「血より濃き香」を知っているのだ。それは、生活の為に削られるべきでない、本当の〈いのち〉の色彩とでも呼ぶべきものなのだ。
 新自由主義の時代の「東京」のようなメトロポリスでは、人々は自らが持っていた〈いのち〉の色彩を知らぬ間に失くしてしまっているのかもしれない。それは、ミヒャエル・エンデの『モモ』のなかで、人々が〈灰色の男たち〉に自分たちの〈時間〉をすっかり盗まれてしまっているのに、そのことに誰も気が付くものがいないのと同じように。篠崎央子氏のたたかいは、人々の盗まれた〈時間〉を取り戻すべくひとり〈灰色の男たち〉に立ち向かった〈モモ〉のそれとよく似ている。人間にとって〈時間〉と〈いのち〉とは同義の言葉なのだから。

  石のこゑ木のこゑ蝌蚪の生まるらむ
  あかときの夢の断片蝌蚪の紐


 〈モモ〉は不思議な亀〈カシオペイア〉に導かれて〈時間の国〉へ行った。どこに行くにも入り口は必要なのだ。篠崎氏は「石のこゑ」や「木のこゑ」に耳を澄ます。そこには無機物や植物の深い眠りが流れており、そのまどろみの浅瀬に「蝌蚪」の「生ま」れる場所がある。そして、その透き通った川底の、ずっと底のほうに、今とはちがう時代の「血族の村」が「しづか」に沈んでいるのを見つける。

  青胡桃決起せし日は遥かなる
  蜂起する民よ土筆は袴着て
  籠城の山へぶつかる青田風
  筑波嶺の夏蚕ほのかに海の色
  切腹の相して蟇の控へをり
  幕末の土蔵を喰らひ蔦紅葉
  脱藩をしさうな松を菰巻に

  
 あとがきによれば、篠崎氏は、〈茨城県つくば市の片隅にある小さな村で育った〉のだという。とすれば、「幕末」に「筑波嶺」にて「蜂起」し、その後、悲劇的な運命を辿らざるを得なかった水戸天狗党の乱の話も、幼い頃から繰り返し聞いて育ったことだろう。さかのぼれば篠崎氏の「血族」のなかにも天狗党の乱に関わった者が少なからずいたのかもしれない。これは「血族」の記憶であり、その土地に深く浸み込んだ土地の記憶なのであろう。日本が近代の夜明けを迎える、そのほんの少しだけ前の、夜明け前の群青の空気のなかを、夜明けを待ちきれなかった人々が躍動している。しかし、体制に反旗をひるがえした者たちは、ある者は「切腹」させられ、ある者は捕らえられ真っ暗な「土蔵」に閉じ込められてしまった。その人たちはとうに死んでしまっていて、一瞬の、その魂の光芒だけを残して歴史の古層へと吸い込まれていってしまったのだけれど、作者にはいまなお、その人たちの流している真っ赤な「血」が見えるのだろう。だからこそ手当てをするように「松」に優しく「菰」を「巻」いてやるのだ。遠い歴史の地層に、今も流れるおびただしい「血」を悼みながら。
 それにしても「血」とはいったいなんなのだろうか。句集全体に最初から最後まで通奏低音のように流れるこの鮮烈な赤さ。それは篠崎央子氏にとって、どういったものであるのか。「血」とは「詩」のことなのか。それとも「詩」を欲して止まないやはり「血」そのもののことなのか。

  有給休暇鴨の横顔流れゆく
  欠勤の背に増やしたる赤とんぼ
  時給得る足の踏みゆく雪の蒼


 「有給休暇」も「欠勤」も「時給」も普段何気なく使っているこれらの言葉たちはみな、その言葉を使うことによって、人間が本来自分のものとして持っていた〈時間〉を何の躊躇いもなく、自分でないものたちに明け渡してしまう言葉だ。それぞれの人の心のなかにあった〈時間〉は均され、切り刻まれて、最終的には必ずお金に換算されてしまう。お金に換算されない〈時間〉は無駄なものとされてしまう。篠崎央子氏は、この現代社会のイデオロギーとも言える、人間の〈いのち〉を均し「透明」にしていく言葉たちに生身の身体を包囲されながらも、その無機質な言葉にさえ俳句という「血を通」わせようとしている。これが、氏のたたかいの本質である。そして、戦線は今日も開かれているのだ。

  寒牡丹鬼となるまで生き抜かむ

鈴木大輔 
昭和五十八年  静岡県生まれ。
平成二十二年 「松の花」入会 
令和元年    松の花新人賞 

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