はつなつや肺は小さな森であり
この句の魅力は、比喩の巧さ(だけ)ではない。たとえ比喩だとしても、「森」の文字を見れば我々は森を思う。初夏の静かな森にひとりたたずんでいる、そんな景が頭に浮かぶ。この景の美しさをまずは素直に、文字どおりに鑑賞することが大切だ。
そして次に、句が「であり」で終わっていることに我々は気付く。つまりこの句はなにかを言いかけている途中なのだ。「肺は小さな森であり……」この続きはなんだろうか? もちろん「森は大きな肺である」だ。森の中にぽつんと立っている自分の、呼吸している身体の中で肺は森となっている。そして同時に、いま自分のまわりに広がっている森が、その肺なのだ。
自分の体の中に森がある。その森の中に自分がいる。そんな無限の入れ子構造を内包している点こそがこの句の魅力である。
なつはづきの句集『ぴったりの箱』には、肉体の持つ官能性を繊細にすくいとる句が多く収録されている。これらはいっけん日常や、等身大のリアルを詠んでいるようにも感じられる。しかし句集をめくっていくと、収められている句たちは「日常」や「等身大」をときに逸脱し、超越している。
身体から風が離れて秋の蝶
この句では身体ではなく、身体から離れた風の方こそが重視されている。秋風も秋の蝶も身体の外にあり、残された身体はむしろ抜け殻のようだ。
蟻の群れわたしは羽を捥ぐ係
ここでも、自分(わたし)がどこにいるのかが曖昧になっている。蟻の群れを高みから観察していたはずの「わたし」が、いつの間にか蟻に混ざって蝶の屍体から羽を捥いでいる。ちょうど、自分の内部にあった肺がいつの間にか自分の外部(森)になっていたように。
これらの句において描かれている身体感覚は奇妙だ。共通しているのは、自分の肉体が自分でなくなっていくような疎外感である。
身体だけでなく心も同様だ。
ひょんの笛心入れ忘れた手紙
自分の心が、まるで一個の物体のようによそよそしく見えてくる。「心入れ忘れた」が文字どおり、物体としての心(臓)を封筒に入れ忘れたかのように感じられる。なぜだろうか。季語「ひょんの笛」があるからだ。ひょんの笛の形は心臓を彷彿とさせ、また「ひょん」という音は鼓動を思わせるからである。
自分から「自分」という意識が遠のいていく、そんな静かな実感を『ぴったりの箱』は描いている。自分の身体も心も不如意になり、他人のように感じられることがある。その瞬間を俳句で捉えている。
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