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2021年1月29日金曜日

【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい 】10 書評 眞矢ひろみ句集『箱庭の夜』(前編)  堀本吟

 【Ⅰ】 プロローグ 「箱庭」とは何か 
 はじめて句集を開くときにはいつもそうなのだが、まず、最初の印象句を少し抜書きしておく。最初覚えた印象句は最後まで覚えているものだ。

鋭角に昏きをくぐる初燕        (第一章認知)P010
春宵の咆哮か我が心音か         (第一章認知)P012    
牡丹雪ほのぼの耄けてみたいもの (第一章認知)P014
箱庭に息吹き居れば初雪来     (第一章認知)P037 
浮き沈む豆腐のかけら冬銀河      (第二章決意)P072 
ゐることを禍津日としてかげろへる (第三章追求)P088   
端居して方形の世の恐ろしき    (第四章賛美)P138     

眞矢ひろみ句集『箱庭の夜』(2020年3月10日・ふらんす堂)

 ページ順不同。ゆったりした感慨や、独特な時間性、存在の不安、風景の美しさが、いろいろ。心地よくて入りやすいな、と思うときと、意味はシンプルなのにどうも拒絶されているとおもったり。壮大だが実は卑近、と、鍋の豆腐をつつきながら、換気のために窓をあけ、天の川を探しながら微笑みたくなる。
 たとえば、最初の句「ほのぼの」は身につまされる。
 次の句には立ち止まる。(この作中人物は、なぜこんな奇妙な動作をしているのだろう)。
 「箱庭」は、江戸時代からの遊びのもので夏の季語(季物)である。それを初冬までという短からぬ時間を眺めてる。「息吹く」主は作者であるか作中人物であるか。この息が初雪に変わるのだろうか?まるで雪女の息吹であるかのように。しかも作中の人物像や心理状態が見えてこない。ここに現れる風景の日常感はなくなり、非日常むしろ変異現象だ。
 私は、いつの間にか、「箱庭」それ自体と、「箱庭」にこだわる作者について、自分の思いを巡らせ始めている。集題に採られているキーワード、内容の句群に入り込む前に だが、そこに至る前に気になることがでてきた。

 句集の章には、英語と日本語で、たとえば《第一章Regognition 認知》と名付けられている。これは、現代ジャスの巨匠であるジョン・コルトレーンの「至上の愛」というアルバムの構成を参考にした、という。泥縄式だが、You Tubeでそのアルバムをしらべたところ、両面全33分の組曲だそうだ。私が目にしたものでは以下のよう。   
 パート1:承認(Acknowledgement)/ パート2:決意(Resolution)
 パート3:追求(Pursuance)/ パート4:賛美(Psalm)
 句集では、最初の第一章だけが違っていて(意味は大体同じ)、後は、おなじ語彙である。音楽の領域にはまったく無知である私にはこの構成にどういう意味があるのか、また、句集の中でこういう配列にこめた重要さがよく飲み込めない。ジャズやこの曲に耽溺してきたにちがいない作者の感興からみたら、すこし逸れたところで読んでしまうかも知れないが。私の関心はコルトレーンより「箱庭」から入ってゆく。
 
 文化的概念としての「箱庭」は、今の日本では、馴染み深い疑似庭園のみではなく、精神医学的意味付けも一般的になっている。作者の帯の文はまさにそのことに触れて、しかも句集のコンセプトにしている。いまの現状ではきっとまだ異色の「箱庭」観をもってそのことを主題にした一冊である。だから、ここにある句群はいかにも従来の俳句の観念を踏襲するかに見えて伝統を固守した典型のものではない。そういう作品もあるのだが、それも一度視点をずらすと、例えば、上記の「初雪来」では、一句が終わったときに、世界の虚実が反転しているのである。
 良くも悪くも、そのことがこの句集の最大の特長であり、ここで述べるべきことだろうと思うのである。

 ① 書物も箱
 喩えてみれば、書架(本箱)だって箱の変形である。かなりの数の句集がある。一冊の中には、それぞれ何百もの俳句が、それらもそれなりの文脈の必然性をもって一句となり、配列されている。ページが開かれ、あらためて誰かの視線を浴びるときにはそれらは読まれて新たな意味も加えられる。このような本箱や本の中身を一箇所にまとめると、まるで入れ子の箱である。各ページは、方形の箱の中の「庭」であり、山川草木や村落都邑、全てがおさまっている世界。
 脳内も頭蓋骨に仕切られた箱・庭である。そもそも知の源泉である意識世界は、混沌状態を出ようとして自分の居場所を探し、ふさわしい棚や箱や引き出しを見つけて収まる。箱庭に似た入れ物は、他にもあり、遊び心に沿いながら、人の精神に広い意味を与えている。日本人が、庭園や茶室に至る路次を愛し、それを真似て庭先に箱庭や盆景盆栽などミニ自然を創ってきた、この生活芸術(と言ってもいいだろう)を愛でてきた心情そのものの中に、息を吹きかけるとまではゆかなくても、ある内面的な思索を呼び起こす要素がある。箱庭は、外に現れ自然になぞらえた脳内風景だ、と考えたほうがいい。
 だから、いまさらユングや河合隼雄を持ち出さなくてもいいようなものだが、彼ははっきりと、ユングの「箱庭療法」のような意味あいに近い、と書いている。
 なぜか?伝統的な概念では盛り込めない内部の自然を彼はさらに求めたのであろう。
 しかり、自然との同化の方向でのみ考えれられがちな従来の伝統的な「箱庭」の呪縛を彼はとりのぞく必要があったはずだ。

 ② 箱庭文化―外界を収縮し、内界を拡げる    
 日本文化のなかで出来あがっている「箱庭」を視ていくと、自然界を縮小し変形して身近に置きたい願望からきているものらしい。同時に、庭園から戸外の自然の方向に広がってゆく地形の想像力とは別に、せまい頭の中の思いを外化して広げたり変形したりのあげく、しだいに可視化される精神の地形物にも転じられてゆく。
 ちいさく、箱庭や盆栽や、生花、風景画などの造形物となったばあい、我々は屋外や庭先で或いは縁側に端居してそこに向き合う。居ながらにして狭い場所に入り込む、そこで広い世界を想像する。縁側の端っことか広くない庭の一隅にそっと置かれているさらにコンパクトな「小さな庭」は、まさに異界であるが、自分を惹きつけてやまない。

 ③ 囲いー箱庭の条件として
 「箱庭」であることの重要な条件は、一つには「囲い」が要ることであろう。
 それら囲いの中に置かれるモノたち、山川草木、花鳥、岩石のような物質、そして人間も。それらが一定の条件やルールを与えられ、その囲いの中で違う異次元時空の存在物として新たに生きてくる。囲いが在ることで「箱庭」は、作っている人にも観ている人にも、知らぬ世界の自分を覗く開放してくれるのだ。
 映画やパソコンを持っていなかった時代でも、飛行機や新幹線がなかった時代でも、コロナがはやっていなくても、居ながらにして、私達は、箱庭で、眼の旅心の旅をしていたのである。この作り物の世界の秘めたる牽引力を、私は不思議に思い始める。

 ④ 歳時記では夏の季語「箱庭」 しかし・・
 「箱庭」がいつどのような経過で夏の季語となったのか、詳しくは知らない。が、人間にはゆっくり休んだり考えたりする時間帯が必要なものだ。夏は、閑居人が、疑似自然を楽しむ余裕が少しは持てた季節なのだろう。現代では、「箱庭」の文化的な役割が広くなってきていると、逆に、そこから、「箱庭」が伝統的用法を抜け出して、詩語としての応用も不自然ではなくなる。
 俳句も、まさに、そのように精神世界を表現するちいさな箱庭として機能しはじめる。
 眞矢ひろみは、ユングの箱庭療法を持ち出しても、それほど深い意味合いではないのだろうが、この語彙をつかって、精神世界の在る状態を表現しているのである。
 俳句のなかで機能する「箱庭」を、そのようにひろげて捉えることの賛否はそれぞれだろうけれど、眞矢ひろみの位置づけは、「箱庭」と言葉のパラダイムの転換にひとしい。私は、ひじょうに納得するところがあった。
 更に、彼は「極私」の世界とわざわざ言う。箱庭づくり(俳句づくり)の行為は、昼間の社会性から解き放された作者が真夜中に行うたった一人の行為でもある。 「自分だけ」の世界がありうるかどうかは別として、句のなかには、「われ」「わたくし」が閉じこもろうとしている意味の句がかなりある。自分に、あえて囲いを作っているのかも知れない。、「端居して方形の世の恐ろしき」は、句集全体の中で一句独立のはずの他の句に複雑な陰影を与えている。どうしてこのような俳句がなり立ったのだろうか?
 もちろん一句が別の一句に連動しているのではないが、たがいに照応し合うと言ったらいいだろうか、この句集の中の俳句達も、ひとつひとつが箱庭の景として光を浴び、ひとつひとつが閉ざされていながら、じつは、一句の内部深くにうずくまっている「私」の姿が照らし出される、しかも、それは、眞矢自身の姿ということでもない。じつに不思議な「方形」の世界である。
 外界の広さを縮小して表していると同時に内面の広い場もそこに啓いているのである。 

 ⑤ ユング心理学「箱庭療法」的造形物としての箱庭 
 そして、もうひとつ、余人の句集とは違う要素が在る。眞矢が主張していることは、それは、季語としての「箱庭」のイメージを離れて、ユング心理学の重要なツールである「箱庭療法」のあの「箱庭」の概念の方向へと傾いていること。これには著者自身の注釈がある。集題となっている「箱庭」は、作者自身が帯文で規定するところでは、以下のごとく。

「句集のタイトルとした〈箱庭〉は
 言葉 イメージ 音などの素材を配して 景や文脈などを構成 造形する場であり  
 極私的なものです
 場とは申しても 江戸後期に流行し夏の季語でもある〈箱庭〉のような仮想空間の類 
 ではなく
 むしろ現代 ユング派の心理療法に使われる〈箱庭〉の機能そのものに近いかも知れま 
 せん 
 勤め人として仕事を終えて帰宅し 遅い夕食をとり 家族も寝静まる夜更け過ぎ 
 箱庭にさまざまな素材が群がります」 
「日常の中でふと気付いたり 思い出す 些事ですがかけがえのないものです」
                   眞矢ひろみ(「箱庭の夜」に寄せて・帯・裏文)


 というようなことである。(cf.この帯に書かれた文には句読点がない。詩文のようなスタイルだ。)
 この説明を読んで、私にはいっそう興味が湧いてきた。作者眞矢ひろみが「箱庭」で句をつくる場合には、歳時記の中の季感濃厚な事物であり語彙であることよりも、それを、むしろ精神の情況を表す「キーワード」として捉えている。さらに、彼の俳句の作り方を説明するときも、「箱庭療法」をメタファーのように浸かっている。この作者の理屈で進むならば、彼の場合は、「箱庭」づくりは「俳句」づくりとおなじような行程をたどるはずだ。俳句を組みたてる言葉の場、と言う位置づけでもあるのだ。
 しかも、作者のこだわりからすれば、「極私」的な場所、すなわち人生経験や生活経験、あるいはその感覚的な記憶が発想の元だということである。ここでユングの「箱庭」づくりと我々日常人の「俳句」づくりが、かなり強くつながってくる。クライアントだけの極私のものである「箱庭」は、ただひとりの医者に見られてその判断や診断を仰ぐ。振り返って表現の場でも、作品のテキストをはさむ作者と読者の絶対的な「ワタクシ」対「ワタクシ」の関係が生まれているはずである。
このように、眞矢ひろみの考える「箱庭」は、一般的な意味での季語性に加えて現代的な認識を被せられている。
 歳時記の中にすでにある季語の単なる拡大解釈ではなく、大袈裟に言えば概念の転換をきたす、このような「箱庭」、俳句における季語とは何か、と言う古くて新しい議論のひとつの焦点にもなろう。
 現代俳句のなかで、いまもって、少数派、であり異端とされている無季俳句、キーワード俳句(と仮に呼ぶ)などの、方法の延命を考えている者にとっては、この視点は、非常に興味深い考え方である。
 句集のなかの俳句は、整然とカタチを守って端正な有季定型で作られている。ところが、「さまざまな素材が群がります」「日常の中でふと気付いたり 思い出す 些事ですがかけがえのないものです」というその「素材」は、じつにさまざまの「些事」である。身辺のことから百鬼夜行の世界にもおよぶなまなましいものである。

⑥ 閑話休題 日本語俳句の異文化性
 もうひとつ、これも大きな特徴であるのだが、眞矢ひろみは「英語俳句」から入ったと書いている。外国語で「俳句」を書く、これがどの程度広がっているのか、私は知らない。俳句の翻訳はかなり広がってきているが、日本人が英語などでそれを志す例も(知ってはいるが)、創る方はまだ少数であるはず。しかし、日本語の俳諧や俳句への注目は、明治期の「フランスハイカイ」からはじまって、いまや英語そのほかの外国語で書かれている。「俳句」と言う名の短詩への関心の広がりは、それに関わると否に関わらず、一種の根拠をもっている。
 ただし、私自身は、いまのところ日本語以外の俳句を、表現としてどう理解するのか、ということが詳しくは言えないのである。
 眞矢の創る(書く)日本語の俳句からは、生理や情感がつきまとう日本語俳句とはすこし違った印象を受ける。それは、出発点からして、私達がうたがうことなく使っている生得(?)の日本語ではなく、それ以外の言語圏から日本語を選び取っているからではないからだろうか?彼の俳句の日本語の正確さ(と言っていいだろうか?)が、なんとも不思議だ。外国語圏からみた日本語自体の異文化性(といってもいい)、そんなものをかすかにでも感じさせるところが、却って魅力になっているのである。
 
 で、そろそろこの不思議に端正なの日本語俳句の異端者、「眞矢ひろみ」と言う、ほとんど未知である俳人のつくった「箱庭=句集」そのものに入ってゆきたい。

【2】この世の端に居る気分。
 何回もあえて繰返しているが、この句集には、不思議な感じが漂う。「私」の位置が奇妙だ。作者の個人的な経験に根ざしているらしい素材でも虚構の手触りが強い。
 この句集のキーワードは、いったいなにか?手さぐりにでも触りたくなってくるのだ。
その「箱庭」の中身は、多様な素材を使いこなしたもので、端正で季語の使い方、五七五の収め方など正統派で奇をてらわない。意味内容も、まじめでありユーモアもあり、写生的でもあれば境涯的でもある。唐突にあの世の生き物も出てくる。ユング心理学、英語俳句から出発して日本の俳諧史を研究し始めた、と言うから英語の実力はおして知るべし。
 わざわざ「極私」と作者がいう措辞が、その心の振幅が、俳句にずいぶん集約されている。作者の予想外の効果、嘘っぽい諧謔を生んでいたりする。
 上に挙げた以外にも、「似て非なる赤富士のごと坐る人(P064)」「導尿のさきっぽ鬼火の蠢いて(P118)」など、かなり妖しく且つ面白い。
 
 ① 「箱庭」を詠み込んだ句
  句集中に、箱庭を詠んだ句例は以下の二句しかでてこない。

  イ) 箱庭に息吹き居れば初雪来  (第一章認知)P017
    ロ) 大袈裟なことばかり箱庭の夜 (第三章追跡)P138


 初めの「イ」句の方は、伝統的なイメージ遊びとしての「箱庭」でも通用する。夏の季語「箱庭」として読んでしまう。とは言うものの、中七で唐突にでてくるこの「息吹きおれば」という行動、これはいったいなんだろう?見つめている姿勢から身をかがめて息を吹く人の動作に移る。ホコリでも払っているのだろうか?いや、その息が、はじめての雪を呼んだのである。そのとき、突如風景は雪景色(冬)にかわる。まるで雪女の息のようなこの転換に妖しさが生じる。
 「箱庭に息吹き居れば」・・普通ならば、次の文節(中七)では冬の季節には飛ばない。
 むしろこの唐突な転換を拒否されるかも知れない。しかし、ここで、世界の時空が妖しい転換をきたす、これはとても衝撃的な幻想の景色だ。
 だいたい「箱庭」なる夏の「季語」自体が、季語体型の中で、どうしてこれが「夏の季語」になっているのかが、私には不思議なことの一つだ。
 夏と限定する根拠が希薄な気がする。昔ながらの「箱庭」を眺めているにしても、眞矢がことわつているような、例えば「ユング」的認知を投じて、そこから文学的な想像をひろげたほうがわかりやすい。 
 この句では、息吹く動作が、自分にしかわからない動機のものであるから、「極私」的であると言える。。しかし、最後の「初雪来」にであったとき、その前の息には、「白息」という意味が引き出されてきて、冬の季節感が横溢する。箱庭の在る生活やそれに伴う人情の気配が潜在してしまい、この句は、とても清冽な初頭の「初雪」の風景となっている。「季重なり」だから主題となる季節を決めねばならないが、ここでは、「箱庭」から「初雪」へパラレルに季節の推移が書かれる。書かれているのはむろん季節の推移だろう、しかし、季節の重なりだけではなく、「箱庭」の概念の重なりが重要である。境に立ち別の世を呼び寄せる役割をしている。
 これは、一般的に「季重なり」で片付けられる読み取りでは不十分である。「箱庭」の仮想空間から季語性が取り払われてもう少し強烈な魔法ランドになったと、読んだほうがいい。「箱庭」をキーワードにして、季感として「初雪」を添えているので、この句には二つが次元の違うキーワードの世界、が存在することになる。
 後の「ロ」の句は、夜中の一人遊びと言える「箱庭療法」に傾く心理が強い。この「箱庭療法」は「俳句づくり」の比喩として使われている。これを比喩として使うことが句集のコンセプトである。作者や作中人物は、かなり覚めた視線で「大袈裟だなあ」と思ってそれを観ている。
 だが、この視線の強さ。一体、誰が何のために「箱庭」をつくっているのだろうか?見え(視て、あるいは、観て)ている人と作った人は同じなのだろうか?それはともかくそこに生まれる「大袈裟なことばかり」という感慨に、切実さとおかしみがある。
 私の考えでは、この「箱庭」は従来の一般認識にある「季語」を超えているのだが、これがあるから、夏の風物詩として、読者にあまり抵抗感を與えることなく「箱庭」の句として受け止められるだろう。しかしながらこの場合も、むしろ俳句作者としては、「大袈裟なことばかり」という読者には理解し難い主観性の強い措辞があるので、「ロ」の「箱庭」は「イ」程は徹底していないが、無季に近いものとして使われている。
 
② 「箱庭」は、季語か?
 ところで、「箱庭」を詠んだ俳句作品は、眞矢ひろみだけではない。
 最近。こういう句をみた。箱庭の死角は上方にあった。 

ハ) 箱庭に箱庭の空なかりけり 滝川直広
         (『木耳』《Ⅲ箱庭の空》の章》P082・令和元年年七月 文學の森)

 
 それから、下記の川柳作家の最近作品に、囲いの縁取りについて、こんな句があった。

二) 輪郭の国から戻れないアリス 月波与生 
            (合同小句集『Picnic』No.1(2020/11・太郎冠者) 

 眞矢ひろみの執着は、「箱庭」ではない別の言葉でも言い換えられるかもしれない、と、「囲い」「輪郭」のその概念との連想関係も考えてみた。人間が社会的な規範(「囲い」)の呪縛から解放されたとき、個人となったときの「輪郭」はどう自覚されるのだろうか?そのような関心は、作者にも私達にも重要な精神的意味をもつだろう。この川柳句の「アリス」が、二つ世界の境界つまり「輪郭」のなかにもう入り込んでしまって、オウチに帰れないでいる、その窮屈さが俳人が持つ「箱庭」のこのような関心のあらわしかたに通じている。眞矢ひろみは、夜の(昼間ではなく)「箱庭」の世界へ赴く。
 滝川直広が発見した「箱庭」の頭上には「空」がないことを、その中のフィギュアたち は、いつ気がつくのだろう?
 「箱庭」は、俳人にとっては、すでに、歳時記世界以上(以外)の意味をここに含み、季感以上の象徴的なオブジェになっている。
 「箱庭」の俳句を作るときには、この生活文化の道具が、思念(主観)を揺さぶる場合があることを、この二つの句は示している。 

 ③ 「端に居る」ときの気分
 縁側の端、または窓辺で、屋内で外の涼気をあじわうこと。これが、夏の季語だということがわかるのであるが。しかし、これらの俳句をひと味ちがうものにしているのは、世界の端に居る、という危うい感覚が湧くからである。
 「端居」を取り合わせる俳句は、大正期から作られ始めた、と山本健吉編『基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫・1989年3月)には書かれてある。
 以下のような例句がある。この季語が、作る側にとっては、単なる夕涼みの意味を超えて、そうとう内面的な抽象的な世界を引き出しているのだ。

端居してただ居る父の恐ろしさ (素十)
端居の祈(いのり)夙(つと)に亡き友かも知れず (草田男)
端居して旅にさそはれゐたりけり (秋櫻子)


 眞矢は、このような先例の季語感覚を引きついでいる。
しかし、もっと「極私」的に書こうとするのだが、それはどういうふうに展開されているのだろうか?
 
  ホ)端居てふ窮屈や世を踏み外す   (第三章追求)P096
  へ)端居して方形の世の恐ろしき   (第四章賛美)P138
  ト)逃げきって間のおきどころ夕端居 ( 同 )   P145

 
 縁側は、狭い、今にも庭に転び落ちそうだ、しかし、煩雑な昼間から逃げ切ってしばしの「間」を縁側の端っこに坐っている。この「間」の出し方も面白い。「端」という線状の場所に、狭いけれどゾーン(地帯)の広さをあたえるものである。家屋(内)と庭(外)の境を、このように抽象的に言い換えたのは作者の機知でもある。逆に、このはざま(間)が廊下や縁側が、二つの世界の分岐になる。
 作者の心情の裡では、縁側に坐って向きあう世界はきっと箱庭、文字通り「方形」の世の際(キワ)に坐ってゐる、という想像である。
 現実の世と箱庭の方形の世の際、せり上がってくる「箱庭」と「端居」の句を集めると、まさしく大人のファンタジーの在りどころが、見えてくる。
 くつろぎのときではあるがおそろしい。窮屈だ、恐ろしいとは思うことも何と大袈裟な。(二の①-ロ)の含みは、「端居」の句などに具体的な姿を表している。
 一見くつろいでいる姿勢で居ながら、「窮屈」「恐ろしき」「逃げ切つて」という感情のつよい措辞に、個人的な私的な情感が生のまま吐露されている。「夕方」「端居」「間」、という時間や場所はマージナル(境界的)であり、それゆえ、人は昼間の「窮屈さ」から逃れて憩うことができるのである。先述引用した文章では、全く自分だけの思いに浸ることのできる時間帯「夜」にゆくために、こんな想像をしている。たしかに、箱庭遊びは昼間の労働の時間帯には不可能なことなのである。
 そして、夜への入り口、夕方、昼と夜が入れ替わるこの時間帯は、あの世とこの世、自分と他人の境がわからなくなり、人間ではないあやかしのモノの影も見える。ここがまさに「私」のやすらぐ「極地」なのだろう。ぼんやりと庭を見ているのが平凡なサラリーマンであろうが詩人であろうが、ともかくこの世の端で、箱庭を他界としか見据えることが出来ないものとして、語られる。
 日常生活者が別の世界を求める願望の揺曳がじつにうまく掬い挙げられている。それが句集の雰囲気を決めてゆくのである。けれども、それが客観写生でもなく日常詠でもない、まったくの観念劇でもない。強いて言えば、自分が今ここに居ることの不思議さの感覚の映像化と言えようか。
 この句集は、そういう自己探求のキワ(際、極)にあらわれている。奇異であり、稀有であるが、あり得るものだ、と思えてくるのであった。こうして、キーワード「箱庭」の意味やその形態からは、いくつかのイメージの転用や発展につながるのである。

【3】快活と恐怖
 作者の想像力の動きに、いくつかのパターンが在ると思い始め、作者も無意識にしろそれに従って、作句していることを感じ取った。目次の整序の仕方がユニークであることも気になったが、それは、締めくくりのあたりで後述するとして、私は、最初まず、印象付けられた記憶したのは、次のような、柔らかで抑制が効いている作品群であった。とてもナチュラルな感慨を與える。これらは、安心して読める例句だ。

 ① 昼間の俳句ー生活時間の書き方
 
 イ) 菜の花や汽笛は遠くぼうと鳴る  (第一章認知) P012
 ロ) 牡丹雪ほのぼの耄けてみたいもの (同)     P014 
 ハ) 浅春のオムライスの天破れゐる  (第二章決意) P046
 二) 浮き沈む豆腐のかけら冬銀河   (同)     P072

  
 なんとはない場面が、まさに、最初にでてきた「大袈裟」こととしてデフォルメで面白さを醸している。
 句柄はしずかだ。技法的も季語と内容が自然な感じで付いていて、俳句として破綻をみせない。人為的な関係はでてこないが、それをあまり出さないかたちで、「物」に託して心情の機微や人間の生活を掬いとっている。
 イ)。童謡ではみかんの花咲く丘で汽笛を聴くのだが、作者が住む愛媛県の瀬戸内海の小島か海辺の村だろうか?菜の花畑の広がりが目に浮かぶ。「汽笛が鳴る」ときの音「ぼお」には、自分のいま在る時間の流れがかむさる。既視感も計算済みだろうが、感情を汽笛が流れるとおさにダブらせるだけの、広い菜の花畑も必要だ。
 ロ)。どういう老い方、死に方をするのか?疾風怒涛の若い日を過ぎた年代が持つ思い。それが「ほのぼの」と言う副詞のなかに込められている。「認知症」などと無粋な言い方ではなく、昔はやった小説の「恍惚の人」である。微苦笑をさそうこの感興が、誰でもおちいる普遍的なものであるところが、この句の共通観念、ポイントである。
 ハ)。「浅春のオムライス」。これは取合せがいい。くわえてオムレツの形状から「天が破れる」と突拍子もないイメージの飛躍。句集にはおなじような機知が随所に発揮されるユーモラスであるとともに雄大。
 二)。この句もその宇宙規模の大袈裟な機知で成功している。銀河の冴える冬の夜に鍋を囲む地上の食卓がいつのまにかこの逆転劇。「冬銀河」との取り合わせは、遠近法を狂わせ、大小の比較も混乱する。鍋料理の「豆腐のかけら」は、「浮き沈み」している星のかけらを想像させた。銀河系の全貌は、誰も見たことがないのに、すべての星が、ホッカホカであるかも知れない。そうとうのユーモアセンス。このように、どこにでもある日常性そのものの素材であっても、突然別の世界に飛ぶ。この感覚の動きが幅広い、また、それを俳句に組み込むときの作者の気持ちが、日々生きてゆくかけがえのなさ、という温みの在る身近な動機から発している。

② 在ることの重さ 美しさ
 この作者は端正さが好きだ、抑制も見事だ。背景にあるはずのギトギトした俗事はここには出てこない。素材も詠み方も美しい。それは、存在の美しさへの発見とオマージュである。というような、絵画のような風景句。
 
 ホ) 秋の水光の粒を塗しけり    (第一章認知)P031
 へ) 瑠璃空を滲ませのぼる花辛夷  (第二章決意)P051
 ト) 在ることのはかなき重さ遠花火 (第三章追求)P101
 チ) あかつき闇の漆紅葉の気高さよ (第四章賛美)P150


 ホ)。水のかがやきを「光の粒に塗れる」と形容質感の表現。印象派の極点に生まれたシュールリアリズム絵のようでもある。「月蒼し質量生むといふ粒子・(第一章認知)P030」と言う句も、それ自体のカタチを持たない「月光」に物質の性格をあたえる。
 へ)。「花辛夷」が「瑠璃空」を「滲ませ」る。花と空の境の輪郭をぼやかせるのである。線の動きに目をつけて描いたところが非凡である。高々と木の先まで咲くさまを「のぼる」と形容したのは、風の動きが花を左右に揺らすさまに縦の動線を持ち込んだのである。空と花辛夷が一枚の平面上にならび、しかもそれが絵の中で動いている。辛夷の花に瑠璃色の空が接し、滲んで、それは花びらの端から滲んでくるのだろうか。高いところに風が吹いているから花びらが揺れて、その花の揺れかたを見つめていると、視線が上方に移動するのである。このうごき、境界が滲んでゆくありさまがうつくしい。じっと観ている作者の執心が(こうなるはずだという願望)が伝わる。「はくれんの碧空ずらす力かな」(P133)も同じところを見ているのだろう。
 ト)。これも興味深い。光の尾を引いてはかなく消えてゆく花火の火。その火自体に重さがある、と言う。大空で火花が消えるという現象にも、あるかなきかの「重さ」がある。遠い「花火」の光や音についても、それ自体が「重さ」を持ってる、という。その重さについて、どこか断定の強さがある。
 この句では、現象すること、「在ること」を突き詰めようとしている。しかしあるいは、「在ることのはかなき重さ」は、自分のことだろうか。存在をいかなる自覚のもとに、自分で納得するのか、この内省の句は句集には散見する、作者の実存的な自問につながるものとしても読める。
 チ)。「あかつき闇の漆紅葉の気高さよ」。私のイチオシの一句。この句でも「気高さよ」が唐突であるゆえに句が活きている。「あかつき闇」はまだ夜の色が濃い時刻、しかし、全くの闇ではなく、かすかに明けの光や色をまじえてはんなりしはじめた闇であるときに、ふと漆の木(大きなまっすぐした大木)の見事な紅葉が浮かんでくるのに眼を止めた。闇の中の赤い木に出会ったときに、彼は「気高さ」を感じた、これは絶対的な主観である、その紅葉の立つすがた全体の景色を「気高い」とおもってそう表現した。それは、自分だけの感動ではあるが、自然が自らを追い詰めて極点に達したときのすがたを、人間の感性が全身でうけとめて発された表現である。
 漆は、木も美しいが、漆器になるともっと美しい。「japan」と呼ばれていたこともある。日本の漆器の塗りの光沢には玄妙な「あかつき闇」の形容がぴったりかも知れない。
 この「漆紅葉」をえらんだことで、作者の他の俳句の「産土」や「まほろば」への憧れにかすかにつながってくる。仮の意見でるが、こういうところに「英語俳句」から出発した俳人の「日本発見」への模索を感じ取る。以上の例句。掲出の句は、どれも、感興の高まりを直接に形容することで詩的な存在に浄化されている。どれも、眼前の現象をその感動のままに書いてるようだが、喚起する世界が幅広い。いろんな方から視点を当てると、句が表す以上のものがなにかの境界を越えて現れる。使われる言葉の輪郭にそれが滲み出ているのであって、読者がなかなかそこに気が付かないのである。

③ 閑話休題ーここで一休み
 この句集は、私には最初に読んだときの感想がつぎつぎとひろがってきており、このようになぜ表現するのかとその動機をつぎつぎ尋ねたくなるような魅力的な句集である。私の手持ちの言葉では指摘し得ぬところにも、作者の触手がのびているような気がしてきた。 ◯父と母(妣)。◯他界の生き物(鬼)。◯われー在ること。◯うぶすなとまほろばの輪郭。◯音や声の登場、などにかかわる不安な魅力的な句がみられる。しかし、句例などを十分に整理してみるにはもう少し時間がほしい。本文も、すでに予定以上に長くなってしまったので、ここで一段落して、ひとまず筆を置きたい。(続く)2020年12月末日

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