〈わたしがすっぽり入る「ぴったりの箱」を見つけた気がします〉と作者はあとがきで言っている。ふと思う。読者にとってはどうなのだろう。読者にとってのぴったり感について思いを巡らせながら、『ぴったりの箱』を鑑賞してみたい。
カリフラワーいつもの猫がきて休日
ふきのとう同じところにつく寝癖
鍵探す指あちこちに触れ桜
少女たち横一線に夏兆す
夏空やぐいと上腕二頭筋
ぴったりの箱が見つかる麦の秋
例えば上のような句については、季語と一連なりのエピソードから構成されていて、筆者にも同じような経験があるからすっと光景が浮かび、季語のイメージとあいまって心地よい。ミラクルでもロマンでもないけれども、少しだけ気持ちの動いた日常の断片に季語が付け合わされて、十七音の箱にぴったりと収められている。作者の素敵なセンスオブワンダーを感じる。一句に、作者と読者の世界が重なり響きあい、気持ちがふわりとするところに俳句の悦びがあるのだと改めて気づかされる。
もちろん、中には一読して響かない、ぴったり感を感じない句もある。そりゃそうだ。作者と読者とは違う人生を生きており、経験も記憶も違うのだから、全部重なり響きあうはずがない。
その町の匂いで暮れて雪女
町それぞれの匂いがある。暮れ方の夕餉の匂いやストーブの匂い、繁華街の埃っぽい匂いかもしれない。ここまでは筆者の記憶が揺さぶられて、ちょっとノスタルジックな気分。ところが、雪女とくる。雪の女ではなく雪女。雪女のイメージは、筆者にとっては冬の妖怪であり、上五中七と響かない。筆者が感じていたリアルな気分がとたんに嘘っぽい戯れの漫画に変貌してしまう。でも、作者やほかの読者にとっては好ましく響き、ぴたっとくるのかもしれない。そういうものだと思う。それでいい。ちなみに〈雪女笑い転げたあと頭痛〉はあらかじめ戯画的に面白がればいいと思った。
からすうり鍵かからなくなった胸
月白や鏡の中で待つ返事
筆者の胸に鍵はついてないし、鏡の中で返事を待ったこともないけれども、それぞれの言葉が喚起するイメージは繋がりあい、たとえフィクションであろうともリアルな気持ち、生生しい質感を筆者の中に作り出す。烏瓜の鮮やかで丸くつややかな密封感が、鍵がかからず誰でも入ってきてしまう、潜めておきたい気持ちに侵入されてしまうやるせなさを際立てている。鏡の中にいるもうひとりの自分の期待感を客観視する気持ちには、月白の醒めた美しさと共に明暗のあわいにある一抹の不安が漂う。
身体から風が離れて秋の蝶
水草生う身体に風をためる旅
離れたり溜まったりする風。句意はファンタジーであっても、筆者にとってはリアルだ。日頃から五感で感じとっている=身体が覚えている風の記憶が、秋蝶や水草の質感と交わり、軽やかな浮遊感と天人合一の安心感をつくりだす。
一句の中の言葉の一つ一つが読者の記憶を呼び覚まし繋がりあってリアルな気分を作り出した時には、その句を好ましく思い、ぴったり感を感じる。そうでなければ、それまでのことだ。作者と読者のぴったり感。お互いの世界が重なり響きあうリアリティ。それはこの句集のいたるところにちりばめられた恋の成就かもしれない。
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